10.婚約者からの誘い
美しい、理知的な灰色の瞳と視線が絡み合う。
フェリクス様と婚約を交わしたのは四年前。
そして三年前からフェリクス様の態度が変わり、よそよそしい態度になった彼と関係を築くことは、もう不可能なのだと思っていた。
だから嫌いではないけれど、お互いのために婚約を解消しようと提案した。
お互いに望んだ婚約じゃない。そう思っていた。だけど――今のフェリクス様なら、これまでと違う時間を過ごすことができるのかもしれない。
「…………」
淡い期待を抱いてしまう。でも、それは画家としての活動を諦めることを示していて、簡単に了承することできない。
生半可な気持ちで婚約を解消したいと申し出たのではない。お姉様はもちろん、両親にも既に話しているのだから。
「……わ、たしは」
言葉が止まる。……どうしたらいいのだろう。
色んな気持ちが入り混じって何も言えないでいると、入室してから殆ど話さなかった母が口を開く。
「それじゃあ、今しばらく婚約は続行しましょうか」
「! お母様……?」
母の発言に目を丸めて凝視する。
じっと母を見つめていると、こちらを一瞥して、貴族の夫人らしい笑みを浮かべながら続ける。
「ハイデマリーは貴方に委ねると?」
「……はい。自分が起こした問題だから自分で対処しろ、と」
「ふふ、ハイデマリーらしいわ」
母が小さく笑う。ハイデマリーというのはローギウス侯爵夫人の名前だ。つまり、フェリクス様のお母様で、私たちの婚約させた張本人だ。
「そう、フェリクス君のお気持ちは分かったわ。エリーゼとの婚約は継続したい、その認識でいいかしら?」
「──はい」
母の問いにフェリクス様が今よりもさらに背筋を伸ばし、力強く頷く。
そしてフェリクス様が力強く頷くと、母が弧を描いて笑みを深める。
「ならひとまずはこのまま婚約を維持しましょう。その間に貴方なりの誠意を見せる。どうかしら? 不満はある?」
「……いいえ、ありません。機会をいただき、感謝いたします」
深々と礼をし、私を置いて母とフェリクス様の間で話が進む。返答に困ってはいたけど、二人の間であっという間に話が纏まって口を挟むことができない。
「顔を上げてちょうだい。もう遅いわ、フェリクス君は明日も竜騎士のお仕事でしょう? エリーゼ、フェリクス君を正門まで見送ってあげなさい」
「え。……わ、分かりました」
母に命じられ、戸惑いながらもフェリクス様を見送るために立ち上がる。
立ち上がるとフェリクス様も母に帰りの挨拶を交わし、私の隣を歩く。
「…………」
「…………」
お互い、無言で正門に向かって歩く。……気まずい。早く正門に到着してほしい。
婚約解消すると思っていたから、予想外の展開になって気まずくて下を向いて歩いていると、フェリクス様が声を上げる。
「エリーゼ。……早速だけど、来週一緒に出かけないかな」
「……お出かけですか?」
「ああ。たまたまある画家の個展のチケットを入手したんだ。君は絵が好きだろう? どうかな」
硬い声で突然そんな提案をされて目を丸める。……お出かけ。
冷え切ってからフェリクス様と出かけたのは片手で数える程度だから、随分久しぶりだ。
フェリクス様を見上げる。……口角は上がっているけど、口許がほんの少し震えていて、緊張しているのが窺える。こんな姿、初めて見る。
「……私でいいのですか? 他の方じゃなくて」
興味はある。だけど、その行く相手が本当に私でいいのだろうか。
今まで殆ど一緒に外出することなかったから、本当に一緒に出かけていいのか不安になる。
「ああ、エリーゼと行きたいんだ」
内心でそう思いながら尋ねると、見上げた灰色の瞳がまっすぐと私を見つめて告げる。その言葉に、不安が消えていく。
「……はい、お待ちしていますね」
提案するフェリクス様に頷く。私も近々個展が始まるけど、現在、個展を開いている画家は他にもいる。
他の優れた画家の絵を見て勉強するのもいいだろう。
「本当? ありがとう、エリーゼ」
「────」
了承するとフェリクス様が目を細めて微笑み、思わず息を呑んでしまう。
ただ外出の誘いに頷いただけ。それなのに、まるで幸せそうに微笑むフェリクス様の姿に心が乱される。……おかしい、静まれ、私の心臓。
騒ぐ心臓にそう念じながら立ち止まる。正門に到着したからだ。
「……どうか、お気を付けくださいね」
「うん。──ありがとう」
そして騒ぐ心臓をどうにか落ち着かせて紡ぐと、フェリクス様も同じく言葉を紡いで見送る。
見送りを終えると呼吸を整える。……屋敷へ戻ろう。
屋敷の中へ入ると応接室にいた母がエントランスホールにいて、近付いて母に尋ねる。
「お母様、どうしてあのようなことを言ったのですか?」
「あら、返答に悩んでいるように見えたからひとまず保留にしたのだけど、迷惑だった?」
エントランスホールから回廊へと母と一緒に歩く。確かにどう悩んでいたから、それは助かった。
だけど──。
「それはありがとうございます。でも、お父様とお姉様にはどう伝えるのですか?」
「大丈夫よ、二人には私が責任を持って上手く伝えるわ」
私の質問にさらりと答える母。確かに、父は母に弱いので母に任せておけば問題ないだろうけど……。
問題はお姉様だ。最近また宮廷魔術師の仕事が忙しくて屋敷に帰ってきていないお姉様について考える。お姉様はどうだろう。
「それにしてもまったく、貴女もいきなり婚約解消を提案するんじゃなくてもう少し段階を踏んだらいいのに」
「段階って……伝えても無理だと思っていたんです」
呆れる声で呟く母に言葉を返す。
フェリクス様との会話はいつも話が長く続かなかった。そんな彼に大事な話はしにくい。
だから、婚約の解消の話をするまで大事な話はできなかった。
告げると母が溜め息を吐く。
「はぁ、成人しているとはいえ、どちらもまだまだ子どもね。まぁ、まだ十代だものね」
「フェリクス様は、お姉様と同じ二十歳ですよ」
「この間まで十代だったのだから変わりないわよ」
なんという主張だと思う。でも母は基本穏やかな性格だけど口喧嘩に滅法強いので黙り込む。リストン伯爵家の序列は当主の父が一位ではなく、母が一位なのだ。
口を閉じて歩いていると、母が話す。
「フェリクス君は口数は少ないけど聡明だから同じ失敗を繰り返さないわ。とりあえず、彼の反省を見たら? それでもやっぱりダメなら婚約解消をしたらどう? 何も一年以内に結婚するわけじゃないのだから」
「……分かりました」
母の意見にこくりと頷く。……出かける約束をしてしまったし、話題を考えないと。
フェリクス様と話す話題について悩ませる。沈黙は苦手だから少しでも探さないと。
──だから、母のひとりごとに耳に入らなかった。
「私はやることはやったわ。最後の機会よ。──どうなるかは二人次第、ね」




