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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

白薔薇王女のために、闇の魔道士は暗躍する

作者: 遊井そわ香
掲載日:2026/03/07

「あんたって子は! なにをやっているんだいっ!」


 エミリーの怒声が飛ぶ。

 アニエスが段差でつまずき、洗濯カゴを落としてしまったのだ。洗い終わったばかりのシーツがカゴからこぼれ、土がつく。


「すみません!! 私が洗いますから!」

「あんたの細腕じゃ、時間がかかってしょうがない! 寄越しな!」


 アニエスはシーツを拾おうとした。だがそれより早く、エミリーがシーツを拾いあげた。

 エミリーは洗濯桶の中に戻すと、肉付きの良い手を腰に当てた。


「記憶を失くしたあんたに、こんなこと言いたかないけれど。ここまでなにもできない人間に、初めて会ったよ。シーツも絞れなければ、洗濯干しもできない。カマドに火をつけることも、料理の手伝いも、ベッドメイキングもできない。うちの孫のほうが、まだ使える」

「……すみません」

「あんた、やっぱりどこかのお嬢様じゃないのかい? 手が綺麗だし、動きがゆっくりしている」


 アニエスはうつむいた。お腹の前で組んだ、指の長いなめらかな手が目に入る。


「なにも、覚えていないんです。自分の名前さえ、わからない……。森に倒れていた私を、エミリーが助けてくれた。感謝しています。頑張りますから、どうか追い出さないでください」

「行くところがないあんたを、追い出しゃしないよ。ただ、あんたは働くのに向いていない。どうしたらいいんだろうね」


 エミリーは桶の前にしゃがむと、シーツについた土をこすり洗う。


「ここはいいから、台所を手伝っておくれ」

「はい」


 アニエスは軽く頭を下げると、小走りに台所へと向かう。

 エミリーはアニエスの姿が消えてから、ぼそっとつぶやく。


「まさか、リエール姫じゃないだろうね?」


 ブリシオン国で起こった、軍事クーデター。恐怖政治を行っていた国王と、それに加担していた権力者らが捕えられた。

 田舎にまで詳しい情報は届いていないが、噂によると、リエール王女は外国に逃げたらしい。

 エミリーは首を横に振ると、止まっていた手を動かす。


「いや。噂によると、リエール姫は白い髪をしているから、白薔薇の王女と呼ばれていたらしい。アニエスは茶髪。別人だ」


 エミリーは、アニエスの茶髪を頭に思い浮かべる。染めたものではない。


「あれは天然だ」


 エミリーは安堵の吐息をつくと、洗濯を続けた。



 ◇◆



 台所に行ったアニエスに、料理人はベリーを摘んでくるよう頼んだ。

 アニエスは笑顔で引き受けると、森に入った。


「この森で、私は倒れていたのよね」


 アニエスは崖から落ちて、頭を打っていた。そのせいで自分の名前も、どこから来たのかも覚えていなかった。

 そんなアニエスを助けてくれたのは、きのこ採りに山に入っていたエミリー。

 エミリーは、職場であるグレン領主の屋敷に連れて行った。

 グレン男爵は記憶を失くした彼女にアニエスという名前を与えると、使用人として雇った。

 アニエスは懸命に働くことで、恩を返したいと思っている。しかし、自分でも呆れるほどに不器用。


「私、本当にどこかのお嬢様なのかしら? そうだったら、素敵ね」


 十代の少女が夢見るように、アニエスも貴族の両親が迎えに来るのではないかと夢想する。


 アニエスが夢中になってベリーを摘んでいる間に、灰色の雲が空を覆う。

 ざわざわと鳴った葉擦れに、アニエスはベリーを摘むのをやめた。ようやく気づく。湿気を含んだ、生暖かい風が吹いている。


「雨が降ってくる。急いで帰らないと!」

 

 アニエスはカゴいっぱいになったベリーを抱えると、急ぎ足で来た道を戻る。

 ポツンと落ちた一雫が、アニエスの頬を濡らす。

 ずぶ濡れになる前に屋敷に帰りたいとアニエスが懸命に走っていると、男の叫び声が響いた。


「危ないっ!!」


 振り返ったアニエスの視界に入ったのは、一頭の馬。

 アニエスは道の端に避けた。

 通り抜けるのかと思いきや、馬上している人物は手綱を引いた。馬が止まる。


「ミアンナ様!」

「えっ……」


 男は、馬から降りた。


「ミアンナ様、こちらにいらっしゃったのですね。良かった。ようやく会えた」

「あの……私、ミアンナという名前なの?」


 アニエスは、目の前の人物をまじまじと見つめた。

 黒髪に、琥珀色の瞳。雫が毛先から垂れて顔にかかる様が、色っぽい。

 人目を引く美しい容貌ではあるが、近寄り難い冷淡な雰囲気がある。

 凍える冬空をモチーフに人物画を描いたら、目の前の人物になるのではないかと、アニエスは思った。

 だが意外なことに、男は柔らかな笑顔を浮かべた。


「ご自身の名前が、わからない?」

「……はい」


 アニエスは今までのことを話そうとした。

 しかし、雨脚が強くなっている。男は「失礼」と一言かけると、アニエスを横抱きにした。


「きゃっ!?」

「木の下に避難しましょう」

 

 男は葉が生い茂った大木の下にアニエスを下ろすと、馬に駆け寄った。そばの木に馬の手綱を括りつけると、アニエスをお姫様抱っこした際に落としてしまったベリーを拾った。

 無言でベリーをカゴに入れた男に、アニエスは笑顔を向ける。


「ありがとう」


 男の薄い唇が、嬉しそうな弧を描く。


「貴女を探している間、生きた心地がしなかった。元気そうで良かった」

「私を探していたの?」

「そうです。名前がわからないというのは……」

「その前に、あなたのことを教えて。名前は?」

「ロベルト・ダールノン。王家に仕えていた魔道士です」

「ロベルト・ダールノン……」


 名前を聞いても、記憶が戻ってこない。

 ロベルトが敵か味方か判断できないので、お世話になっている人たち──エミリーや、グレン領主の屋敷にいる人々の名前は出さないことにした。

 木に生い茂っている葉から雨がポタポタと垂れるのを見ながら、アニエスは自分の身に起こったことを話した。

 崖から落ちて、頭を打ったこと。そのせいで、記憶がないこと。日常生活を送ることに問題はないが、仕事がさっぱりできないこと。


「今日も、失敗してしまいました。洗濯カゴを落としてしまい、洗ったばかりのシーツを汚してしまった。もう一度洗う羽目になって、迷惑をかけてしまいました」

「貴女は、洗濯する必要などないのです」


 不可解な目を向けたアニエスに、ロベルトは熱のこもった眼差しを返した。

 

「貴女は、聖女様です。この度、我が国でクーデターが起こった。ミアンナ様は避難したが、運悪く、国王擁護派に見つかってしまった。私どもはミアンナ様を守り抜くことができず、森に逃げるよう指示した。すぐに追いかけたのですが……崖から落ちてしまわれたのですね。すべては私の責任です。申し訳ありません」


 ロベルトは胸に片手を置くと、恭しく頭を下げた。


(私を探しに来てくれた人に会えたのに、どうして喜べないの?)


 アニエスは、胸の前で手を組んだ。心臓がドキドキと嫌な音を立てている。


「ごめんなさい。思い出せない」

「ご無事であれば、それでいいのです」


 雨が止むまでの間、アニエスは質問をした。それに対して、ロベルトは穏やかな口調で答えた。

 財政危機にもかかわらず、国王一家は浪費をやめようとしなかったこと。国の未来を憂うがゆえに苦言を呈した者たちを、国王と擁護派たちが死に追いやったこと。度重なる重税に、市民と農民の間から不満が噴出していたこと。

 隣国との関係悪化から、戦争の危機に発展した。軍が反旗を翻して国王一家を捕らえたことで、戦争を回避したこと。


「国王と王妃、それと五人いる子供たちが捕られました。リエール王女は国外逃亡を試みた結果、死体で発見されたそうです」

「死体?」

「はい。リエール王女が逃亡したことを知った青年将校らが、すぐさま追いかけた。生きたまま捕まえる予定でしたが、王女は毒を飲んで自害していたそうです」

「そう……」


 ──リエール王女……。


 アニエスは首を傾げる。ミアンナという名前よりも、リエールという名前のほうが気になる。

 アニエスは胸騒ぎを覚えたものの、記憶の扉は頑丈。自分がミアンナという聖女であることも、ロベルトという魔道士と避難しようとして国王擁護派に見つかったことも、思い出せない。



 ◇◆


 

 雨が止み、アニエスは屋敷へと戻った。

 ロベルトに対する不信感は消えていない。だが、ロベルトが滞在先に挨拶をしたいとしつこく頼むものだから、仕方なく連れてきた。

 自分の判断が正しいのかわからず、アニエスは緊張して声が掠れる。


「旦那様。私を探しに来た者と、会うことができました」


 グレン男爵に、ロベルトを引き合わせる。

 グレン男爵の反応は、アニエスの予想外だった。


「魔道士ロベルトじゃないか! あなたのおかげで、クーデターが成功したとの噂を聞いているぞ!」

「滅相もない。私はただ、国民にとっての幸福が何かを考えて動いたまでです」

「謙虚な人だ。市民を巻き添えにしないよう結界を張ったり、自白魔法で真偽を確かめたりと、大活躍をしたそうじゃないか。無駄な血が流れずに済んだのは、魔道士団のおかげだ」

「実行役は軍。私たち魔道士団は、その手伝いをしただけです」

「魔道士団は、王家直属。王家の血を守ることよりも、国民の幸福のために動いた。この意味は大きい。魔道士団の指揮官は、あなただ。私どもを助けてくれたことに感謝する」


 グレン男爵の賞賛と尊敬の眼差しから、ロベルトが凄腕の魔道士であることをアニエスは知った。さらには、手柄を誇らない謙虚な人柄であることも好感につながる。

 アニエスは、ロベルトを疑っていたことを恥じた。


 グレン男爵は「ここだけの話だが、リエール王女は……」と身を乗り出した。

 だが、書斎の隅に控えているアニエスに気づいて口を閉ざす。

 書斎を出て行こうとしたアニエスを、ロベルトが止める。


「あなたにも、聞いていただきたい。グレン男爵、よろしいですか?」

「大丈夫な内容であれば……」

「亡くなったのは、リエール王女本人で間違いありません。王女に仕えていた者たちが確認しました」

「そうか。お可哀想に」


 グレン男爵はソファにもたれると、深々と息を吐きだした。


「国王と侍女の間に生まれた、不遇の王女。白薔薇のような美しい容姿をしているが、人前に出ることは決してない。日の当たらない部屋に閉じ込められていた。国王の命令によってリエール王女は敵国に嫁ぐ予定だったことも、我々の同情を誘う。リエール王女なら、恩赦され、環境の良い修道院に送られただろう。それなのに、毒を飲んで自害など……。最期まで、不幸な人だった」


 アニエスは胸を押さえた。動悸が激しい。

 記憶がない自分を、リエール王女だと言うつもりはない。鏡を見れば、一目瞭然。いかにも人の良さような、無害な顔。そばかすの多い丸顔に、癖のある茶髪。

 白薔薇にたとえられるような美しさではない。


(私は、リエール王女ではない。それなのにどうして、胸が騒ぐの?)



 ◇◆



 その晩。アニエスは夢を見た。

 日の当たらない、じめじめとした部屋。食事は、固いパンとスープ。

 息を殺して、生きていた。

 ある日、夕食の席に呼ばれた。またいじめられるのだと、気が重かった。

 しかし、家族はニコニコと愛想が良かった。


「リエール、喜べ。結婚が決まった。アルヌス国の第三王子だ」

「ハゲでデブでチビで、そのくせ女ったらし。お姉様、可哀想」

「いいえ、可哀想じゃないわ。身分の低い女が産んだ子供のくせに、王子と結婚できるんですもの。幸せだわ。あなたには、敵国の動きを探ってもらいます」

「それって、スパイじゃん! 殺されるの確定!」

「わからないわよ。顔が良いもの。リエールが死ぬか生きるかは、自分次第。王子を虜にして、生き延びなさい」

「一日でも長く生きて、我が国に情報を寄越すんだぞ!」

「お姉様、たくさん食べて! お胸が小さいもの。それじゃ、ハゲチビを誘惑できないわよ」

 

 夕食が終わり、リエールは廊下に出た。

 部屋に戻る途中。涙をこぼしていると、声をかけられた。


「どうしました?」


 胸におさめておくことができず、リエールは敵国に嫁ぐことを魔道士ロベルトに話した。

 ロベルトは、不穏な怒りを瞳に宿らせた。


「私に任せてください。貴女を地獄から救い出してみせましょう」



 ◇◆



 アニエスは夢から覚めると、震える手で顔を触った。


「私は、リエール王女なの? でも、顔も髪の色も違う……」

 

 天高く、満月が浮かんでいる。

 アニエスは月光に導かれるようにして、窓辺へと歩いた。視界に入ったのは、円塔の屋上。

 人がいる。最初は、見張り番だと思った。

 しかし風になびいて揺れている黒いマントは、魔道士ロベルトを連想させる。

 ロベルトは王宮魔道士の制服の上に、黒いマントを羽織っていた。


 塔の上に人がいるのは見えても、顔まではわからない。

 アニエスは使用人部屋を出ると、音を立てないように気をつけながら、廊下を歩く。

 塔に入る扉を開け、階段を登る。

 四角い小窓からこぼれ落ちる月光と、円塔の壁に沿ってぐるぐると円を描いている階段。

 転ばないよう慎重に歩いていると、上から靴音が響いてきた。

 塔の上にいた者が、階段を降りてきたのだ。


(どうしよう!)


 ロベルトに会うために部屋を出てきたというのに、いざとなったら怖気づいてしまう。

 逃げたい気持ちと、自分がリエール王女なのか知りたい気持ちとの間で揺れる。


「ミアンナ様? どうしてここに?」

 

 螺旋階段を降りてきたロベルトが、アニエスを見つけて瞠目する。

 ロベルトは、『ミアンナ様』と呼ぶ。それが答えなのだ。

 リエール王女は、自害している。王女に仕えていた者が、本人であることを確認している。

 

(不遇の王女様が毒を飲んで自害したと聞いて、可哀想だと思った。だから、王女様の夢を見たんだわ。平凡な容姿の私が、白薔薇の王女であるはずがない)


 おかしな思い込みをしていた自分が、恥ずかしくなる。

 アニエスは階段を見つめながら、嘘をつく。


「眠れなくて。夜風に当たろうと思い、来ました。失礼します」


 アニエスはうつむいたまま、階段を上がる。

 狭い螺旋階段。

 ロベルトの脇を通り過ぎようとして──……彼の手に、触れた。


 茹っている鍋に触れてしまったかのように、アニエスはパッと手を引いた。胸の前で手を握りしめる。


「す、すみません……」

「謝らないでください。貴女に触れたくて、わざと手を伸ばした」


 驚いて顔を上げると、思っていたより近くにロベルトの顔がある。

 ロベルトの冴え冴えとした容貌は、他者を寄せつけないものがある。それなのに、アニエスを見つめる表情は優しく、眼差しには熱がある。

 アニエスは狼狽え、火照っている頬に手を当てた。


「わざとだなんて、どうして……」

「私の心は、リエール様にある。王家を裏切ってまでクーデターに協力したのは、リエール様を地獄から救い出すため」


 ロベルトは三段降りると、背中を向けたまま言った。


「明日、同じ時間にここに来てください。真実をお話しします」


 戸惑うアニエスを残したまま、ロベルトは階段を降りていった。

 アニエスは冷たい石壁に背中をつけると、ぼんやりと宙を眺めた。


「私は、ミナンナという聖女なのよね? それなのにどうしてロベルト様は、リエール王女の話をするの? 手を伸ばして私に触れたのは、どうして?」


 ロベルトの考えていることが、わからない。



 ◇◆



 翌日。アニエスが同じ時間に塔に登ると、すでにロベルトがいた。昨夜すれ違った場所に座っている。


「こんばんは」

「こんばんは。遅かったかしら?」

「いいえ。私が早く来たのです。貴女に会いたくて、待ちきれなかった。……今日一日、貴女の視線を感じた」

「真実を話すっていうから! どのような話なのか、気になって……」

 

 ロベルトは立ち上がると、頬を染めているアニエスを愛おしそうに見つめた。


「ずっと、貴女を見ていた。けれど貴女はいつもうつむいていて、私を見てくれなかった。だがある日、初めて貴女の瞳に私が映った。貴女は涙を流しながら、アルヌス国の第三王子に嫁ぐことになったと話した」

「えっ……」


 ロベルトは右手を伸ばすと、アニエスの頬に触れた。

 アニエスの体を光が包み、体温が上がる。


「なにを……?」


 アニエスはなにが起こったのかわからず、呆然と立ち尽くす。

 ロベルトは感極まったような吐息をつくと、アニエスの頬に当てていた手を滑らせて、髪を一房すくった。

 その髪を、アニエスの眼前に運ぶ。


「私は魔道士。貴女の姿を変えていた。これが、本当の姿です」

「っ!?」


 アニエスの目に映ったのは、純白の髪。

 顔に手を当てて、あちこち触る。なめらかな肌、高い鼻、唇の厚み。

 自分の顔では、ない。


「私は……リエール王女なの……?」

「そうです。清楚で美しい容姿と白い髪から、白薔薇の王女と呼ばれていた。そして、私が愛するただひとりの人」


 にわかには信じられず、リエールは瞼を閉じた。


「あなたが、私を助けてくれたの……?」

「はい。王家の呪縛から、解放してあげたかった。そのために、死んだことにした。申し訳なく思っています。でも、リエール様を自由にしてあげたかった」


 自由という言葉に胸が詰まり、涙がこぼれる。

 ロベルトはリエールを抱きしめると、甘い囁きを耳に吹き込んだ。


「そのまま、目を閉じていて」


 言われたとおりに目を閉じていると、熱くて柔らかなものが目の縁を舐めた。

 ロベルトの唇が、涙を吸ったのだ。


「ロベルト様!?」

「一人で泣かせたくない。涙を分かち合いたい」

「涙が止まりましたので、大丈夫です!」


 ロベルトは逃げようとするリエールの両手首を掴むと、壁に押しつけた。

 ロベルトと壁の間に挟まってしまったリエールに、逃げ場はない。それでもじっとしていられずに身をよじると、階段から足を踏み外しそうになった。

 

「おっと、危ない」

「離して!」

「やっと捕まえたんだ。離せるわけがない」


 ロベルトは、リエールの腰を抱き寄せた。ロベルトのもう片方の手は、リエールの両手首を頭上で拘束している。

 

「涙を拭って差し上げます」

「もう泣いていないわ!」

「頬が濡れている」

 

 涙で濡れてしまった頬に、ロベルトの舌が当てられる。

 恥ずかしさのあまり、リエールは横を向いた。今度は首筋に、ロベルトの舌が這われる。

 塔の中の狭い階段に、二人の息遣いが響く。



 ◇◆



 アニエスの正体は、聖女ミアンナ。

 グレン男爵一家と屋敷に勤める者たちは、納得の反応を示した。

 エミリーは豪快に笑った。


「良いところのお嬢さんだと思っていたよ! 聖女様なら、洗濯も台所仕事もできないのはしょうがないさね。怒鳴って悪かった。許しておくれ」

「許すもなにも、エミリーさんには良くしてもらいました。この御恩は一生忘れません。離れていても、みんなの幸せと健康を祈っています」 

 

 リエールが森で倒れているのを発見されてから、今日で一週間。

 不遇な王女時代の十六年と比べたら、七日というのはあまりにも短い。

 それでも王女の十六年にはなかっただろう、優しさと穏やかさに満ちた時間を過ごすことができた。さらには、エミリーという年上の友人を得ることができた。

 リエールは遊びに来ることを約束して、グレン男爵邸を後にした。



 ロベルトが手綱を握る馬に揺られながら、リエールは疑問を口にする。


「本当に、教会に戻らなくてもいいのですか?」

「はい。聖女ミナンナは、リエール様の正体を隠すために作り上げた架空の人物。全国の修道院のどこにも、ミアンナという名の聖女は存在していない。リエール王女は亡くなった。これから先は、身分を持たないリエールというひとりの人間として、自分の人生を生きてください」

「自分の人生……どう生きたらいいのか、わからないわ。おかしいわよね」

「いいえ、おかしなことではない。リエール様は選べる立場になかった。戸惑うのも無理はない。ですから、私が用意してもいいですか?」


 振り返ったリエールと、ロベルトの視線が合う。ロベルトは優しく微笑んだ。


「隠れ家を用意してあります。私と一緒に暮らしませんか?」


 リエールはすぐさま前を向くと、火照った頬を落ち着かせるために深呼吸をした。

 

「グレン男爵のお屋敷で働いてみてわかったのですが、私にはできる仕事があまりにも少ない。これでは職に就くのが難しいでしょうし、帰る家もありません。ですから、その……ご迷惑をかけないようにしますから、お願いしてもいいでしょうか?」


 リエールの頬に、熱が触れる。ロベルトが体を密着させ、頬をつけてきたのだ。

 まるで恋人のような距離感に、リエールの鼓動が早まる。


「なにをお願いしたいのか、教えて」

「……わかっているくせに、意地悪です」

「貴女の口から、聞きたいのです」

「その……ロベルト様と、一緒にいてもいいですか?」

「どれくらい? 一日? それとも、三日?」


 リエールは、自分の腰に回してあるロベルトの腕をつねった。


「意地悪なことを言うなら、エミリーのところに戻ります!」

「貴女といられることがあまりにも嬉しくて、余計なことを言ってしてしまった。すみません。……死が分つそのときまで、一緒にいたい」

「……はい」


 まるで結婚式の誓いのようだと、リエールは顔を真っ赤にした。



 ◇◆



 ロベルトの別荘は、都から離れた山の中にあった。隠れ家と呼ぶにふさわしく、周囲に人家はない。

 リエールとロベルトの他にこの家に住んでいるのは、言葉を話せない使用人二人。

 他の者がリエールの生活を覗き見たら、なんて単調で退屈で、静かな生活だと同情するかもしれない。

 けれど、リエールに後悔はない。この生活から離れて、都に戻りたいとも思わない。

 リエールは永遠に、王女として人前に出ることはない。死ぬまで、この隠れ家でひっそりと生きていくしかない。

 それでもいいと、リエールは思う。


(私、ロベルトに恋をしている。この人がいれば、他にはなにもいらない)


 ロベルトは、とびきりに優しい。そしてロベルトと過ごす時間は、とろけてしまいそうなほどに濃厚で甘い。


 幸せである。それなのに、ふとした瞬間に漠然とした不安に襲われる。


「大事なことを忘れている?」


 ロベルトは思い出す必要はないと言い、リエールの頭に手を置く。

 すると不安が消え、過去のことなどどうでもよくなる。

 大切なのは──今。



 ある晩。リエールは夢を見た。


「私は、ミアンナ。修道院に勤めている聖女です。リエール王女をお助けするべく、参りました」

「私のことは放っておいてください。処刑になってもかまいません。覚悟しています」

「処刑など、いけません! 絶対に駄目です! 是非とも、私のいる修道院に来てください」

「いけないわ! あなたに迷惑をかけてしまう」

「独自の判断で動いているのではありません。リエール王女をお守りしたいという、院長の意向なのです。それに王宮魔道士のロベルトがいるので、守ってくれます」


 リエールは夢の中で、(これは夢だわ。だって、ミアンナは架空の人だもの)と、思った。


 ミアンナはリエールの侍女たちのポケットに、金貨を十枚ずつ入れた。

 侍女たちは首尾よく、リエールを城の外に連れて行った。

 人目につかない場所に待機していた馬車に乗ると、男が乗り込んできた。


「王宮魔道士のロベルトです。リエール様の護衛を務めます」

「私の恋人なのよ」

「聖女様でも、恋人を作れるのですか?」


 ミアンナは笑っただけで、答えない。

 馬車の中にいるのは、リエールとミアンナと、ミアンナの恋人のロベルト。

 

 二日めの早朝。葡萄酒を飲んだミアンナが苦しみだした。口から血が流れる。

 ロベルトは馬車を止めると、御者を殺した。その間に、ミアンナは目を見開いたまま生き絶えた。

 ロベルトが、ミアンナに手をかざす。すると、姿が変わった。


「私になった……?」

「ミアンナには、リエール王女の代わりになってもらう。王女は、毒をあおって死んだ。これで、リエール様は自由です」


 ロベルトは、リエールに向かって手をかざした。リエールを光が包み、体温が上がる。

 リエールは恐怖のあまり、口元に手をやった。その手が、自分のものではない。顔を触ると、違和感がある。ざらりとした乾燥した肌と、横に広がった鼻。


「どうしてこんなことを!?」

「安全な場所に着くまで、リエール様にはミアンナになってもらいます」

「こんなこと望んでいない!! 私は死を覚悟していた。最期のときまで、王家の人間としての誇りを胸に、責任を全うしようと決めていた。私を助けなくてよかったのです。誰かを犠牲にしてまで、生きたいとは思わない!」

「さすがは白薔薇の王女様。潔白なお考えですね。でもそれでは、私が困るのです」


 ロベルトは瞳に狂気を宿らせたまま、うっすらと笑った。


「貴女がいなくなることに、耐えられない」

「ミアンナの恋人では……」

「違います。リエール王女の死体役になってもらうために、娼館にいた女に声をかけた。ただそれだけです」

「あなたには、人の心がないの!?」


 ミアンナは「私の恋人なのよ」と、笑って教えてくれた。

 ミアンナは、ロベルトに惚れていた。けれど、ロベルトは利用しただけだった。


 ロベルトはミアンナと御者を殺すことに、躊躇いを見せなかった。御者の胸をナイフで突き刺した手つきが慣れていた。

 リエールは恐怖に駆られて、森の中に逃げた。動転していたせいで、崖から落ちた。

 すぐそばに人の気配を感じたが、リエールは目を開けることができなかった。頭を打ったらしく、後頭部がジンジンと痛む。


「俺は王家を守るために、人の心を持たない人間として育てられた。感情を持っていなかった。それなのに、初めて貴女を見た瞬間。貴女の瞳に映りたいと思った。俺のような血に染まった人間が、清らかな貴女を欲しがるのはおかしいとわかっている。それでもやっぱり、貴女が欲しい。貴女に会えなくなるのは、嫌なんです。……記憶を消します。次に会ったときは、精一杯やさしくしますから。だからどうか、俺を好きになってください」


 ロベルトの声が泣いている。告白に心が動かされる。

 リエールは意識を手放す直前──出会いが違ったものであったなら、この人を好きになれたかもしれないと思った。



 

 


 

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御者の身体に変えれば、わざわざ聖女調達必要なかったんじゃ……
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