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春待つ包み、重なる呼吸  作者: ジェミラン


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アフターストーリー:はじまりの湯気

あれから、ちょうど一年が経った。


窓の外では、去年の今頃と同じように、早咲きの桜が薄紅色の蕾を膨らませ、都会の冷たいアスファルトの上に春の影を落とし始めている。

けれど、航太が今立っているのは、あの狭いワンルームのキッチンではない。二人で選んだ、少しだけ天井の高い、新しいマンションの台所だ。


「……ん、いい匂い」


背後から、ふわりと温かな気配が近づいてくる。

凛だ。彼女は、かつて航太が貸したあのグレーのスウェットではなく、今は自分のお気に入りの、柔らかなベージュのカーディガンを羽織っている。


その指先には、一年前の朝、食卓の上で光を放っていたあの婚約指輪(エンゲージリング)が、すっかり彼女の一部になったような顔をして馴染んでいた。


「まだ味見には早いよ。ほら、向こうで座ってて」

「えー、だって航太くんの作る真鯛のソテー、香ばしくて我慢できないんだもん」


凛はそう言って、航太の腕にちょこんと顎を乗せた。


一年前の今夜、航太はガチガチに緊張しながら、中身の見えない「包み」の中に言葉を隠していた。けれど今の彼は、蓋のないフライパンで堂々と、旬の魚を焼き上げている。

ジューッ、という威勢のいい音とともに、皮目がパリッと黄金色に染まっていく。その脇には、去年の象徴でもあった菜の花が、鮮やかな緑を添えて踊っていた。


「はい、一口だけだよ」


航太が小さく切り分けた身を差し出すと、凛は「あーん」と口を開けて、幸せそうにそれを受け止めた。


「……美味しい。やっぱり航太くんは、夜の天才だね」


その言葉に、航太は思わず苦笑した。


「天才、か。相変わらず朝は、凛に叩き起こしてもらわないと動けないけどな」


そう。航太の朝の弱さは、一年経っても一向に改善されていなかった。

むしろ、凛と一緒に暮らすようになってからは、彼女の淹れるコーヒーの香りと、「あと五分だけ」という甘えを受け止めてくれる彼女の存在に、ますます拍車がかかっている。


けれど、今の航太に、かつてのような負い目はない。

自分が起きられない時間は、凛がキッチンで今日という一日を丁寧に耕してくれている。

その代わりに、凛が仕事の締め切りで疲れ果て、玄関で力尽きそうになって帰ってくる夜には、航太が最高の「熱」を用意して彼女を迎える。

それが、二人が見つけた適材適所の形だった。


「ねえ、航太くん。来月の引っ越し記念日、どこか予約する?」


凛がワイングラスを並べながら尋ねる。

航太はフライパンの火を止め、皿に盛り付けながら首を振った。


「ううん。家でやろう。……一年前のあの包み蒸し、もっと進化させたやつを作りたいんだ。今度は隠し味に、もう少し良い白ワインを使ってさ」

「ふふ、いいね。リベンジというか、アンコールだね」


テーブルに並んだ料理を囲み、二人は椅子に座る。

かつては「責任」という言葉が、重い漬物石のように航太の胸を押さえつけていた。凛の人生を背負いきれるのか、彼女の飛躍を邪魔しないか。そんなことばかりを考えていた。


けれど、実際に生活を共にしてみれば、人生は「背負うもの」ではなく、「分かち合うもの」なのだと身に染みてわかった。


凛は、あの時話していた地方創生プロジェクトで、今やチームのリーダー格として全国を飛び回っている。

出張が多く、家を空けることも少なくない。

以前の航太なら、そんな彼女の活躍を「自分から遠ざかっていく」と不安に感じていただろう。

けれど今の彼は、彼女が居ない夜には、彼女が帰ってきた時に驚かせるような新しいレシピを研究し、彼女が持ち帰る地方の珍しい食材を楽しみに待つことができる。


「航太くん。私ね、最近気づいたの」


凛が、琥珀色のワインを揺らしながら言った。


「一年前、航太くんがプロポーズしてくれたあの時。私、航太くんに守ってもらうんだって思ってた。でも、違うんだよね。私たちは、お互いに『自分の居場所』を守り合ってるんだなって」

「……居場所?」

「うん。私が外でどんなに戦ってきても、このキッチンの湯気の向こうには航太くんがいる。航太くんが仕事で失敗して落ち込んで帰ってきても、明日の朝には私がフレンチトーストを焼いて待ってる。……それが、私にとっての本当の結婚だったみたい」


凛の言葉に、航太は胸の奥が熱くなるのを感じた。

かつて自分が必死に守ろうとしていたのは、「完璧な自分」という名のプライドだったのかもしれない。

けれど、凛が求めていたのは、そんな虚飾ではない。

情けない姿も、眠りこける不細工な顔も、すべてを含めた「航太という存在」との日常だったのだ。


「……そうだね。俺も、凛に教わったよ。一人の二十四時間は限界があるけど、二人で分け合えば、それは四十八時間じゃなくて、もっと別の、深くて温かい時間になるんだって」


航太は凛の手の上に、自分の手を重ねた。

かつてスーパーのレジ袋が食い込んでいた手のひらは、今では彼女の温もりを、より深く、より確かに感じ取ることができる。


窓の外では、夜の風が春の匂いを運んできている。

去年の今頃は、まだ不透明で怖かった未来が、今は湯気の向こう側に、はっきりとした輪郭を持って広がっている。

「適材適所」という魔法の言葉があれば、どんな困難も、二人で調理できる「食材」に変えていける。


「航太くん。明日の朝は、何が食べたい?」


凛が少しだけ悪戯っぽい目で微笑む。

航太は少しだけ考えてから、凛の耳元で囁いた。


「パンケーキ。……たっぷりのバターと、それから、君の淹れてくれる一番濃いコーヒー」

「了解。じゃあ、明日は八時には起きてよね?」

「努力するよ」


二人の笑い声が、新しいキッチンの天井へと吸い込まれていく。

食卓から立ち上る湯気は、一年前よりもずっと濃く、そして優しく、二人を包み込んでいた。

春の夜は更けていく。


けれど、彼らの物語は、まだ始まったばかりだ。

毎朝のコーヒーの香りと、毎晩の料理の音。

その「当たり前」の繰り返しの中にこそ、名前のない、けれど何よりも尊い幸せが、確かに息づいていた。

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