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春待つ包み、重なる呼吸  作者: ジェミラン


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2/4

中編

フライパンの蓋の隙間から、白く細い蒸気が勢いよく吹き出している。


「カタカタ」と小さく震えるガラス蓋の音を聞きながら、航太はタイマーの数字を見つめていた。設定した十分間という時間は、一人でいるときには酷く長く感じられるのに、凛が隣にいる今は、まるで瞬きをする間に削り取られていく砂時計の砂のように思えた。


「ねえ、航太くん。本当にいい匂い。バターと、それから……日本酒かな?」


キッチンのカウンター越しに、凛が身を乗り出して鼻をくすぐらせている。


彼女が持ち込んだ春の花のような香水の匂いと、調理中の芳醇な香りが混ざり合い、狭いキッチンはこれ以上ないほど濃密な「生活の熱」で満たされていた。


「そう、隠し味にさっきの日本酒を少しね。鱈の旨みを引き立ててくれるはずだから」

「贅沢だね。楽しみ。……あ、お箸、並べておくね」


凛が迷いのない足取りで食器棚へ向かう。

半年に一度、あるいは数ヶ月に一度の頻度でしか訪れないはずのこの部屋で、彼女は自分の居場所を完璧に把握していた。どこに何があるかを知り、いつものように二膳の箸を並べ、小皿を用意する。その淀みのない動作を見るたび、航太の胸の奥には、温かな充足感と、正体不明の焦燥が同時に湧き上がってくる。


この光景を、永遠のものにしたい。

けれど、永遠を誓うということは、今のこの「非日常的な、きらきらとした再会」を、平凡で、時に退屈な「日常」へと引きずり下ろすことでもある。その変化に耐えられるほど、自分たちは成熟しているだろうか。


「ピピピピ」


タイマーが鳴った。

航太は慎重に火を止め、ミトンをはめてフライパンの蓋を取った。

一気に溢れ出した真っ白な湯気が、航太の視界を覆い隠す。

湯気の向こう側で、クッキングシートの包みが、中身の熱気に耐えるようにパンパンに膨らんでいる。


「わあ、すごい……!」


凛の歓声に背中を押されるようにして、航太は二つの包みを丁寧に平皿へと移した。


食卓へ運び、椅子に腰を下ろす。

テーブルの中央には、先ほど凛が注いでくれた「春待ち」の日本酒が、ガラスの徳利の中で澄んだ光を湛えていた。


「よし。開けるよ」


航太は、自分の前にあるシートの端に指をかけた。

「じゅわっ」という湿った音とともに、閉ざされていた包みが開かれる。

中から現れたのは、ふっくらと蒸し上げられた(たら)の白身と、その熱を吸って鮮やかさを増した菜の花の緑だった。バターが黄金色のソースとなって底に溜まり、赤パプリカが春の陽光のような彩りを添えている。


「……完璧だ」


凛が、自分の包みも同じように開きながら、感嘆の息を漏らした。


「いただきます」


二人の声が重なる。

凛がまず、菜の花を一口運んだ。蕾の隙間にバターと鱈のエキスをたっぷり抱え込んだそれを咀嚼し、彼女はふっと目を細めた。


「美味しい……。この、独特のほろ苦さがたまらないね。春が来たんだなって、身体がびっくりしてるみたい」

「よかった。鱈の方も食べてみて。身が解けやすいように、隠し包丁を入れておいたから」


凛が箸を差し込むと、雪のように白い鱈の身が、抵抗なくハラリと崩れた。


彼女の幸せそうな表情を見ていると、スーパーのレジ袋が手のひらに食い込んでいたあの痛みも、一週間分の泥のような疲れも、すべてが報われるような気がした。


「航太くんも、飲んで。はい」


凛が、航太のお猪口に「春待ち」を注ぐ。

透明な液体が注がれる音さえも、今の航太には贅沢な音楽のように聞こえた。


一口、含む。

フルーティーな香りが鼻に抜け、その後に柔らかな米の甘みが追いかけてくる。

包み蒸しの、菜の花のほろ苦さと、日本酒の華やかさ。

それらが口の中で混ざり合い、複雑で、けれど調和のとれた「大人の味」を形作っていた。


「……凛」

「ん?」


鱈を頬張っていた凛が、不思議そうに首を傾げた。


今だ。

今、この包みを開けた瞬間の熱気が冷めないうちに。

この春の香りに紛れ込ませて、ずっと懐で温めてきた、あの重い箱のことを切り出すべきだ。

四年という歳月を。遠距離という距離を。

これからはもう、乗り越えなければならない障害としてではなく、分かち合う生活の一部にしようと、そう告げるべきなのだ。


航太は、テーブルの下で膝の上に置いた右手を、ぎゅっと握りしめた。


指先が微かに震えている。

仕事のプレゼンでも、大きなプロジェクトの決断でも、これほどまでに心臓がうるさく鳴ったことはない。

けれど、凛の瞳が真っ直ぐに自分に向けられた瞬間、航太の喉は、冷たい鉄の塊を飲み込んだように動かなくなった。

彼女の瞳に映っているのは、優しくて、頼り甲斐があって、いつも美味しい料理を作ってくれる、理想的な恋人としての自分の姿だ。

もし、結婚という言葉を口にして、彼女が少しでも戸惑いを見せたら。

もし、「まだ早いんじゃないかな」という空気が流れてしまったら。

この、鱈と菜の花が繋いでくれた完璧な多幸感が、一瞬にして壊れてしまうのではないか。


「……ううん。なんでもない。このお酒、やっぱり正解だったね、って言おうとして」


航太は、情けないほど自然な笑顔を浮かべて、お猪口を口に運んだ。


逃げた。

自分でも分かるほど、明確な逃避。

けれど、お猪口から伝わるアルコールの熱が、その弱さを優しく麻痺させていく。


「本当に。航太くんの選ぶものは、いつも外れがないもんね」


凛は、少しも疑うことなく笑い、再び菜の花へと箸を伸ばした。

その屈託のない仕草が、航太には眩しすぎた。

包み蒸しの中身は、もうほとんど残っていない。

熱気は次第に薄れ、皿の底に残ったソースが、ゆっくりと温度を失い始めていた。


「航太くん。明日、何時に起きる?」


凛が、ふとした拍子に尋ねた。


「えっ……ああ。三連休だし、ゆっくりでいいかなって思ってたけど」

「ふふ、また寝坊するつもりでしょ。いいよ。明日の朝は、私が作るから」


彼女の言葉に、航太は微かな罪悪感を覚えた。

自分はいつも、夜にだけ良い顔をしている。

手間暇かけた料理を作り、雰囲気を作り、言葉を尽くそうとする。

けれど、朝が来れば、自分は光に弱い夜行性動物のように、布団の中で縮こまってしまうのだ。


「悪いな。いつも甘えちゃって」

「いいの。それが、私たちの『適材適所』でしょ?」


凛がいたずらっぽく笑って、お猪口を合わせた。

カチン、と高い音が鳴る。

適材適所。

彼女が何気なく使ったその言葉が、今の航太の胸に、冷たく、けれど鋭い楔のように打ち込まれた。

夜は深まり、外はしんしんと冷え込んでいるはずなのに、部屋の中だけはまだ、包み蒸しの残香が漂っている。


航太は、最後の一切れの菜の花を口に運んだ。

噛みしめると、春の苦味が喉の奥を通り抜けていった。


空になったクッキングシートが、わずかな脂を湛えて皿の上に残されている。

食卓を彩っていた「春」は、すでに二人の身体の中へと取り込まれ、心地よい熱となって巡り始めていた。

凛が手際よく皿を重ね、シンクへと運んでいく。


「いいよ、俺がやるから」


そう言った航太の声は、日本酒の酔いのせいか、自分でも驚くほど低く、甘く響いた。


「ううん、洗い物くらいさせて。美味しいものを作ってもらったお礼」


凛は蛇口をひねり、軽やかな水の音を立て始めた。


航太はその後ろ姿を、ソファに深く腰を下ろしたまま眺めていた。

彼女が着ている自分の大きなスウェットが、動くたびにふわりと揺れる。その何気ない生活の一コマが、まるで映画のスローモーションのように美しく、完成されたものに見えた。


テーブルに残された「春待ち」の瓶。

桜色のラベルは、キッチンの照明を受けて淡く発光している。

航太は自分のお猪口に最後の一滴を注ぎ、それをゆっくりと煽った。

喉を通る熱が、臆病な心に微かな火を灯す。


今なら、言えるかもしれない。

航太はリビングの隅にある、サイドボードの引き出しに意識を向けた。

そこには、半年前から眠っている小さなベルベットの箱がある。

中に入っているのは、凛の指のサイズを何度も確認し、彼女に似合う石を選び抜いた、婚約指輪(エンゲージリング)だ。

それを渡して、言葉を紡ぐ。


「四年待たせてごめん。これからもずっと、隣にいてほしい」


練習したはずの台詞が、頭の中で何度もリフレインする。

凛がこちらを振り向いた瞬間に、その箱を差し出そう。そう決めて、航太は深く、深く息を吸い込んだ。


「ねえ、航太くん」


洗い物を終えた凛が、タオルで手を拭きながら戻ってきた。

彼女の頬は、お酒と熱気でほんのりと赤らんでいる。


航太はサイドボードへ手を伸ばそうとした。指先が、引き出しの取っ手にかすかに触れる。


「私ね、四月から新しいプロジェクトを任されることになったの」


差し出そうとした言葉が、指先からこぼれ落ちた。

航太は取っ手を握ったまま、動きを止めた。


「新しいプロジェクト?」

「うん。ずっとやりたかった、地方の特産品をリブランディングする仕事。……だから、これからもっと忙しくなると思う。出張も増えるし、なかなかこっちに来られなくなるかもしれないけど」


凛の瞳は、未来への期待と、少しの不安、そして何よりも強い意志で輝いていた。

その輝きがあまりにも眩しくて、航太は自分の懐に隠していた「独占欲」にも似た決意が、ひどく場違いなものに思えてきた。


彼女は、今、自分の足で自分の人生を歩もうとしている。

新しい世界へ、一歩を踏み出そうとしている。

そんな彼女に対して、「家族になろう」という言葉は、彼女の翼を縛る鎖になってしまわないだろうか。

自分が守らなければならない、背負わなければならないと思っていた「責任」という名の重みは、もしかしたら彼女にとっては、今すぐには必要のない重荷なのではないか。


「……そっか。よかったな、凛。ずっと言ってたもんな、その仕事」


航太は引き出しから手を離した。

取っ手の冷たい感触が、指先にいつまでも残っていた。


「航太くんなら、そう言ってくれると思ってた。ありがとう」


凛は航太の隣に座り、その肩にそっと頭を乗せた。

彼女の髪から、微かに「包み蒸し」の香ばしい匂いが漂ってくる。

幸せだった。間違いなく、今この瞬間、自分は世界で一番幸せな場所にいる。

それなのに、胸の奥には、出口を失った言葉たちが澱のように溜まっていく。


結婚とは、何だろう。

今のこの、離れているからこそお互いを慈しみ、高め合える関係。

それをわざわざ壊してまで、「夫婦」という既定の枠組みに収まることに、どんな意味があるのか。

自分の弱さが、また卑怯な言い訳を探し始めている。


「今夜じゃなくてもいいじゃないか」

「彼女の仕事が落ち着いてからでいい」

「今のままでも、十分愛し合っている」


けれど、航太は知っていた。

「今」を逃し続けることは、いつか来るかもしれない「終わり」を無意識に受け入れていることと同じだということを。

言葉にしなければ、形にしなければ、想いは湯気のようにいつか空気に溶けて、消えてしまう。


「航太くん……?」


凛が、航太の顔を覗き込んできた。


「どうしたの? 難しい顔して」

「……いや。なんでもない。ただ、凛がどんどん遠くに行っちゃうような気がして、少しだけ寂しくなっただけだよ」


嘘ではなかった。けれど、一番伝えたい真実でもなかった。

航太は凛の細い肩を抱き寄せた。

彼女の体温が、自分の服越しに伝わってくる。

この温もりを、自分は一生、自分のものにしたいと願っている。

けれど、それを口にするための勇気が、どうしても一滴だけ足りなかった。


「遠くなんて行かないよ。どこにいても、私は航太くんのところに帰ってくるもん」


凛はそう言って、航太の胸に顔を埋めた。

その信頼が、航太には痛かった。

彼女は、航太が自分を「受け止めてくれる」と信じている。

けれど、航太が求めているのは、受容だけではない。

彼女の人生を、その責任を、苦しみも喜びも、すべてを半分ずつ分け合って生きていくという「契約」だ。

夜は、残酷なほど静かに更けていく。

壁にかかった時計の針が、無情なリズムを刻んでいた。

サイドボードの中の指輪は、今夜もその輝きを誰に見せることもなく、暗闇の中で眠り続けることになる。


「……もう、寝ようか。明日は凛が朝ごはん、作ってくれるんだろ?」

「うん。楽しみにしてて。航太くんをびっくりさせるような、美味しいの作るから」


凛は子供のような笑顔で立ち上がり、寝室へと向かった。


航太は一人、リビングに残された。

テーブルの上の、空になった日本酒の瓶。

「春待ち」。

春を待つという言葉の裏には、いつまでも明けない冬の孤独が潜んでいる。


航太は、サイドボードの引き出しにそっと手を置き、押し込むようにして閉めた。

カチリ、と小さな音がした。

それは、彼が今夜、またしても一歩を踏み出せなかったことへの、小さく虚しい敗北の音だった。

キッチンの照明を消すと、部屋は一気に深い闇に包まれた。


窓の外では、まだ春を遠くに感じる冷たい風が、都会のビル群を吹き抜けている。

明日になれば、また新しい朝が来る。

彼女が作る朝食の匂いで、自分は目を覚ますだろう。

その時こそ、自分は言えるだろうか。

それとも、また「適材適所」という言葉の裏に、自分を隠してしまうのだろうか。


航太は暗闇の中で、自分の右手のひらを見つめた。

スーパーの袋が食い込んでいた跡は、もうほとんど消えかかっている。

けれど、そこにあった重みだけは、まだ確かに残っているような気がした。

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