前編
金曜日の午後七時。新宿駅の喧騒は、週末の解放感と、一週間分の疲労を凝縮したような熱気で溢れかえっていた。
駅のホームに滑り込んできた電車のドアが開くと同時に、灰色のスーツを着た人々の波が吐き出される。航太はその波に抗うことなく、ただ流されるままにエスカレーターへと足を運んだ。
二十代後半。社会人になって数年が過ぎ、仕事の要領は掴めてきたが、その分、純粋な情熱よりも効率や保身を優先する術ばかりが上達してしまった気がする。
今日の午後の会議でもそうだった。後輩のミスをフォローしながら、心の中では「なぜこんな単純なことができないのか」と冷めた独白を繰り返していた。そんな自分に嫌気が差しながらも、表面上は穏やかな先輩の仮面を剥がすことができない。
「……疲れたな」
自動改札を抜けたところで、航太は深く溜息をついた。
吐き出した息は、まだ冷たい夜の空気に白く混ざり、すぐに消えていった。
ふと見上げたデジタルサイネージには、色鮮やかな「春の訪れ」を告げる広告が躍っている。それを見て、航太の胸の奥が少しだけ、疼くように跳ねた。
今日から始まる、三連休。
遠距離恋愛を続けて四年になる彼女、凛が、新幹線に乗ってこの街へやってくる。
本来なら、手放しで喜ぶべき再会のはずだった。けれど、航太の心には、期待と同じくらいの重さを持った「停滞感」が居座っている。
付き合って四年。それは、お互いの長所も短所も知り尽くし、家族のような安心感を得るには十分な時間だ。けれど同時に、その安心感は「変化」への恐怖を育む土壌にもなる。
最近、大学時代の友人たちのSNSは、結婚報告や子どもの写真で埋め尽くされている。今日、会社でも同僚が照れくさそうに結婚式招待状を配っていた。
「航太くんのところは、どうなの?」
そんな何気ない問いかけに、いつも「まあ、ぼちぼちです」と笑って誤魔化す自分。
凛のことは、大切だ。心から愛していると言える。
けれど、彼女の人生を丸ごと背負うという決断には、まだ指先が震えるような臆病さがつきまとっていた。もし、今のこの心地よい距離感が、結婚という形に押し込まれることで壊れてしまったら。もし、自分に一人の人間を幸せにし続ける責任が果たせなかったら。
そんな堂々巡りの自問自答を、航太はもう一年以上も繰り返している。
駅ビルを出て、冷え込んだ夜道を歩く。
向かうのは、自宅近くの少し品揃えの良いスーパーマーケットだ。
普段はコンビニの弁当やレトルトで済ませてしまう食生活だが、凛が来るときだけは、航太はキッチンに立つことに決めていた。それは彼にとっての、数少ない「誠実さ」の表現だった。
自動ドアが開くと、店内の明るい照明と、食材たちの鮮やかな色が目に飛び込んできた。
冷たい都会の夜から切り離された、生活の匂い。
航太はカゴを手に取り、まずは青果コーナーへと向かった。
そこには、冬の名残である根菜類に混じって、少しずつ春の気配が顔を出し始めている。
「……あ、あった」
航太の視線が止まったのは、緑色の蕾がぎゅっと凝縮された、菜の花のパックだった。
手に取ると、微かに土と若草の匂いが鼻をかすめる。
菜の花の、あの独特のほろ苦さ。
子どもの頃は苦手だったその味が、今はひどく愛おしく感じられる。苦味を知ってこそ味わえる美味しさがあるということを、大人になってようやく理解し始めたからかもしれない。それは、単に楽しいだけではない、四年という月日を積み重ねてきた自分たちの関係にも似ているような気がした。
メインは、鱈にしよう。
鮮魚コーナーへ移動し、透き通るような白身の鱈を二切れ、カゴに入れる。
今夜の献立は、鱈と菜の花の包み蒸しだ。
和食でありながら、バターのコクと酒の香りを閉じ込める。
クッキングシートの中で、食材たちが蒸気に包まれ、お互いの味を染み込ませていく。その「包み込む」という工程が、今の航太には何よりもふさわしく思えた。
そのまま、酒の販売コーナーへと足を向ける。
いつもなら安いビールを掴むところだが、今日は凛の好きな日本酒を吟味した。
棚には、季節限定の桜色のラベルを纏った純米吟醸が並んでいる。
「春待ち」という名がつけられたその瓶を手に取ると、冷たいガラスの感触が手のひらに伝わった。
「これにしよう」
凛の喜ぶ顔を想像すると、胸の中にあった停滞感の、その端の方が少しだけ解けていくような気がした。
けれど、レジを通り、会計を済ませて外に出た瞬間、再び現実の重みが航太の腕に食い込んできた。
パンパンに膨らんだビニール袋。
その持ち手が、航太の右手のひらに鋭く食い込む。
タラ、菜の花、日本酒、それから明日の朝のための卵や果物。
袋に詰め込まれた食材の重みは、そのまま「生活」の重みだ。
もし、凛と一緒に暮らすことになれば、この重みは毎日のものになるだろう。
二人分の食材を買い、二人分のゴミを出し、二人分の未来を、同じ袋の中に詰め込んで運んでいく。
その重みを「喜び」と呼べるほど、自分は強く、成熟しているだろうか。
それとも、このビニール袋のように、いつか重さに耐えきれず、プツリと持ち手が切れてしまうのではないか。
街灯の下、航太は一度立ち止まり、レジ袋を持ち替えた。
食い込んだ跡が、手のひらに赤く残っている。
痛み。それは確かな実感だ。
痛いからこそ、自分は今、大切な誰かのために動いているのだと実感できる。
マンションへと続く坂道を登りながら、航太はマンションの最上階を見上げた。
あそこの、まだ明かりのついていない自分の部屋に、もうすぐ凛がやってくる。
冷え切った部屋に、彼女が持ち込む温かな湿り気。
それを受け入れるための準備をしなければならない。
航太は、袋を握り直し、歩幅を少しだけ速めた。
アスファルトを叩く靴音が、静かな住宅街に規則正しく響く。
春は、もうすぐそこまで来ている。
けれど、その春の陽光の下へ一歩を踏み出すためには、この冷たい夜の重みを、自分の足で運び切るしかなかった。
部屋の鍵を開け、真っ暗な空間に足を踏み入れる。
「ただいま」
返事のない空間に向かって、航太は小さく呟いた。
冷蔵庫の低い唸り音だけが、彼を出迎える。
けれど、数時間後には、ここには「おかえり」という声が、そして料理の湯気が、満ちているはずだ。
航太はコートを脱ぎ捨て、袖をまくり上げた。
キッチンの照明を点けると、ステンレスの調理台が冷たく光っている。
そこへ、買ってきたばかりの「春」を並べ始めた。
ステンレスの調理台の上に、買ってきたばかりの食材を並べる。
レジ袋の持ち手が食い込んでいた手のひらには、いまだに赤々とした線が残っていた。航太はその跡を無意識になぞりながら、少しだけ熱を帯びた手のひらで、冷たい鱈のパックに触れた。
鱈の身は驚くほど白く、透き通っている。冬の深さを象徴するようなその白さに、春の先触れである菜の花の鮮やかな緑が寄り添う。
調理を始める前の、この静寂が好きだった。まだ何物でもない食材たちが、自分の手によって一つの形を与えられるのを待っている時間。それは、まだ答えを出せずにいる自分たちの関係に、無理やり「名前」をつけなくて済む猶予期間のようにも感じられた。
航太はまず、菜の花をボウルに入れ、冷たい水で洗った。
指先に伝わる蕾の硬さ。それは、冬の寒さに耐え、土の中で力を蓄えてきた生命の意志そのものだ。洗った野菜をザルに上げると、滴る水滴がキッチンの照明を反射して、小さな銀色の粒のように輝いた。
続いて、クッキングシートを二枚、長めに切り出す。
真っ白なシートを広げると、そこはさながら小さな舞台のようだ。
「……さて」
独り言を呟き、航太は鱈の身に軽く塩を振った。
身を引き締めるための、ささやかな儀式。
それから、クッキングシートの中央に鱈を置き、その周囲を囲むように菜の花を添える。彩りに買った赤パプリカを細く切り、緑の中に散らすと、そこだけが急に華やいだ景色に変わった。
バターをひとかけらのせ、隠し味に先ほど吟味した「春待ち」の日本酒を小さじ一杯だけ垂らす。
最後に、シートの両端をキャンディのように捻り、空気が漏れないようにしっかりと閉じる。
包んでしまえば、中身は見えない。
蒸気の力でゆっくりと熱が通り、鱈の旨味と菜の花の苦味、バターのコクが溶け合って、一つの完成された世界が作られていく。
航太は、その「包み」をじっと見つめた。
今夜、自分はこの包みを開けるとき、一緒に心の奥にある「言葉」も解くことができるだろうか。
その時だった。
玄関の向こうから、聞き慣れた、けれど久しぶりに聞く、軽い金属の音が響いた。
鍵が回る音。続いて、ドアが開く音。
「ただいま、航太くん」
その声が届いた瞬間、部屋の空気が一気に書き換えられた。
都会の冷たい夜風が入り込み、同時に、春の花のような、凛特有の柔らかな香水の匂いが、重たい沈黙を鮮やかに塗り替えていく。
航太は、手に持っていた菜の花の端切れを置いて、玄関へと向かった。
「おかえり、凛。……早かったね」
「新幹線、ちょっとだけ早く着いたの。会いたくて、駅から走ってきちゃった」
凛は、少しだけ上気した顔で笑っていた。
コートの襟元に顔を埋めるようにして、冷えた手をさすっている。
四年。その月日は、再会の瞬間の緊張を、ごく自然な親密さへと変えていた。けれど、航太の目には、彼女が以前よりも少しだけ大人びて、同時に、どこか脆さを秘めているようにも映った。
「寒かっただろ。今、お湯沸かすよ。それとも、すぐご飯にする?」
「いい匂いがする。航太くん、また何か作ってくれてるんでしょ?」
凛は、航太の横をすり抜けるようにしてキッチンを覗き込んだ。
「あ、菜の花! もうそんな時期なんだね」
彼女が弾んだ声を上げるたびに、一人暮らしの殺風景な部屋に色がついていく。
航太は、彼女の荷物を預かりながら、その後ろ姿を見つめた。
彼女がこの部屋にいる。その事実は、あまりにも自然で、あまりにも尊い。
けれど、その「自然さ」に甘えて、自分は大切な一歩を先延ばしにしているのではないかという後ろめたさが、胸の奥でチクリと刺さった。
「今夜は、鱈と菜の花の包み蒸し。……それと、凛の好きそうな日本酒、買っておいたから」
「やった! さすが航太くん、わかってる。私、着替えてくるね」
凛が寝室へと消えた後、航太は再びキッチンに一人残された。
さっきまでの静寂とは違う、誰かの気配が満ちた中での調理。
航太は、包み蒸しの入った皿を、まだ火の入っていないフライパンに並べた(蒸し器の代わりに、少量の水を入れて蓋をするのが航太流だ)。
時計の針は、午後八時を過ぎたところだった。
今夜は長い。三連休の初日。時間はたっぷりある。
けれど、たっぷりあるはずの時間は、意識すればするほど砂時計の砂のように、指の間からこぼれ落ちていくような気がしてならない。
航太は、キッチンの引き出しの奥にある、小さな、けれどずっしりと重い箱のことを思い出した。
半年前に、迷いに迷って購入した指輪。
それを凛に渡すタイミングを、航太はずっと探っている。
誕生日に、記念日に、あるいは何でもない普通の日に。
何度もシチュエーションを想像し、セリフを練習した。けれど、いざ彼女を目の前にすると、「今のこの幸せな均衡を壊したくない」という卑怯な防衛本能が働いてしまう。
結婚するということは、お互いの人生という「包み」を完全に開け放ち、混ざり合うことだ。
そこには、バターのように甘い時間だけではなく、菜の花のように苦い現実も待ち受けている。
今の自分に、その苦味を引き受ける覚悟があるだろうか。
凛を幸せにする自信があるのか。
答えの出ない問いが、頭の中で渦を巻く。
「航太くん、お待たせ!」
ルームウェアに着替えた凛が、キッチンに戻ってきた。
少し大きめのスウェットは、以前航太が貸したまま、彼女の私物になったものだ。
彼女が自分に馴染んでいる。その事実が、誇らしくもあり、恐ろしくもある。
「さあ、始めようか」
航太は、コンロのスイッチを入れた。
「ボッ」
青い炎が立ち上がり、フライパンの底を舐める。
中に入れた水が温まり、蒸気が生まれ、クッキングシートの中に閉じ込められた世界が、いよいよ熱を帯び始める。
中身は見えない。
けれど、この包みの中では、今この瞬間も、食材たちが変化を遂げている。
鱈はふっくらと身を解き、菜の花は自らのエキスを絞り出し、バターはすべてを優しく包み込む。
航太は、蓋の隙間から漏れ出す白い蒸気を見つめた。
それは、これから始まる夜の、そして自分たちの未来の、不透明な、けれど温かな予兆のように見えた。
「ねえ、航太くん。今年の春は、どこか遠くへ行きたいね」
凛が、冷蔵庫から日本酒の瓶を取り出しながら言った。
「春待ち」という文字を指でなぞる彼女の横顔に、航太は返す言葉を喉の奥で探した。
春。
その言葉が、今までになく重く、そして眩しく響いた。
包みが開かれるまで、あと数分。
航太の胸の中では、蒸気よりも熱い鼓動が、静かに、けれど確実に高鳴り始めていた。




