36.残り十三日間
――二十三時。
残り時間は十三日。夜の神社に虫の声が響いている。
僕は賽銭箱の前で手を合わせた。
ここが、僕の居場所――あと少しの間だけ。
僕は三十日間だけ人間として過ごせる、クマのぬいぐるみだ。
美心が探しているぬいぐるみは、僕のこと。
あれは、二十四回目の誕生日。
気づくと、大雨に包まれている道端で、一本の傘をさしていた。
その瞬間、人間になれたと悟った。
『人間になって、美心を笑顔にしてあげたい。友達をいっぱい作ってあげたい』と思い始めたのは、いまから五年前。
その願いが叶って、いまここに――。
美心に拾ってもらう直前が、一度目のチャンスの十二年目だった。
でもその時は、絶望の真っ只中で、願いを口にできなかった。
なぜなら、美心に拾ってもらった直後だったから。
美心に出会う直前の、前の持ち主の家にいた時のこと。
ある日突然、ビニール袋に押し込まれた。
やがて、車の走行音が行き交う場所に置かれ、袋の外から固い衝撃が何度も打ち付けられた。
今思えば、あれはカラスだった。
僕の身は綻び、雨水が跳ね返ってドロだらけに。
『僕はもう、ここで終わりなんだ……』
絶望の縁に立った。
でも、そんな僕に一筋の光が差し込んだ。
『ぬいぐるみさん、大丈夫?』
あどけなく温かな声と、小さな手。
三歳の美心は、僕を抱き上げ、ちぎれた体を縫い合わせてくれた。
『もう元気になった? ……なまえ、どうしよう』
彼女はカーテンの隙間から空を眺めていると、ふと笑顔になった。
『大きなお空の下で出会ったから、『クゥちゃん』はどう? 美心ね、さいきん、かんじも一緒にれんしゅうしてるんだよ。すごいでしょ』
僕は一体のぬいぐるみとして扱ってもらえるくらい再生していたが、心は閉ざしたまま。
なにもかもが信じられないまま、チェストの上から彼女を眺めていた。
でも、彼女は前の持ち主と違った。
歪んだ鈴を新調してくれたり、いっぱい話しかけてくれて、夜は一緒に眠ったことも。
次第に、胸の奥が温かくなっていった。
「助けてくれて、ありがとう」
美心に感謝の気持ちで一杯だったのに、そのひと言が伝えられない。
なに一つ感謝が伝えられない、不自由な体だから。
十二年に一度の周期でチャンスが巡ってくるから、次の周期で人間になって、彼女にお礼をしよう。
僕は彼女の成長を見守り、その日を心待ちにしていた。
けれど、最近は心が冷え始めている。
念願だった人間になれて、友達に恵まれた美心を見て、気づけば美心を思う心が恋になっていたから。
「僕はただ、美心の幸せだけを願っているのに」
涼しい夜風が、僕の心を揺らし続けている。
手で顔を覆っていると、遠くから近づいてきた足音が後ろで止まった。
顔を見られたくなくて、神社の出口へ向かった。
「こんな時間に手を合わせてるってことは、あんたもぬいぐるみ?」
彼とすれ違った直後、衝撃なひとことが告げられる。
僕はドキッとして振り返った。
彼は、ロン毛スタイルの三十歳くらいの大人の男性。
賽銭箱の前で手を合わせている。
「大丈夫。俺も同じだよ」
それを聞いて、思わずホッと胸を撫で下ろした。
「……仲間、なんですね」
人間に正体を知られたら、ぬいぐるみに戻る運命。
だからこそ、その言葉に救われた。
「こんな時間に来る奴は、だいたいそう。呪われたように境内社に向かっていくのを何度も見てたから」
「みんな同じところに魂が集まっていたんですね」
僕は拝殿を見上げた。
ここには沢山の想いが眠っているなんて。
それぞれ、どんな想いを抱えているのだろう。
「ここは、君だけの家じゃないってこと。……で、いま十二年目?」
「いえ、二十四年目です」
「なんだ、同期か」
彼は長い髪を耳にかけ、深いため息をつく。
「一番近くで彼女の悩みを聞いてあげたかったから、この姿にしてもらったんです」
神様に希望を伝えられるから、美心の同級生として頼んだ。
性別以外なら、ある程度叶えてもらえる。
「さっきの呟き、こっちまで聞こえたよ。でもね、君の想いは報われないよ」
「わかってます。だから、どうしたらいいのかな、って悩んでて」
暗い顔で俯く僕に、彼は鼻で笑った。
「もしかして、”特例”とか、信じてる?」
僕は頭に血が上り、怒鳴り声を上げた。
「信じてない! 数千万体分の一の確率なんて」
特例だった神主さんのように、本物の人間になれるかなんて考えたこともない。
彼は、肩を震わせている僕を見て、ふっとため息をついた。
「まぁ、俺は諦めてるけどね。神主のように、古い人間と思われたくないし」
変に期待しても、裏切られた時のショックが、どれだけのものかわかっている。
前の持ち主に、ゴミ袋に突っ込まれたあの時の、冷たい目。
いまでも忘れられない――。
「失礼なことを言わないで下さい! 神主さんは素晴らしい人です」
神主さんは、心穏やかで理解がある人。
人間界での情報操作は彼が担っている。
僕が難なく生活できるようにサポート役に回ってくれている。
彼はしばらく黙った。
きっと、僕との間に見えない壁が立ちはだかっている。
「まぁ、そんなに熱くなるなよ。恋愛なんて、思い通りにいくわけないだろ」
いまの立場が身に沁みている分、瞳の光が弱くなっていく。
「好きな人の結婚を見守るか、捨てられるか。これが、俺らの宿命だよ」
彼は僕の肩をポンポンっと叩いた後、御社殿の横へ向かって行った。
僕は拳を握りしめながら佇んだ。
その通り。
僕はこれから、僕らしく生きることが――。
すると、彼はふとなにかを思い出すように足を止めた。
「偉そうに言ってても……それが、いまの俺」
「えっ」
「惨めだろ。あいつのウエディング姿なんて、見たくないのにさ」
彼は寂しそうな声で呟き、再び足を進めた。
土の湿った香りが、僕の心を沈めていく。
僕は唇を固く結んだ。
受け入れたくない――でも、運命は変えられない。
だからせめて、わずかに残された時間を、大切にしていきたい。
美心の笑顔の残像だけが、僕の瞳の奥に残る。




