9.胸のもやもや、ふわりと
――帰りのHR終了後。
教室内は、緊張感がほどけ、私語が飛び交っていた。
私は机で荷物をまとめていると、背後のロッカー周辺から小さな声が届いた。
「ねぇ、聞いた? あの人、さっき廊下でお姫さま抱っこされてたんだってぇ」
”お姫様抱っこ”というキーワードに、胸がドキッとした。
ゆっくり振り返ると、彼女たちと目線が合った。
思わずサッと目線を戻す。
あの人……か。
自分でも気付かないうちに、名前が消されていたなんて。
「見てたよ! キュンとしちゃったぁ。恋愛ドラマを見ているようで」
「どんな手を使ったんだろうね」
針が降り注いでいるかのように、気持ちは追い込まれていく。
まさか、噂がこんな早く広まるなんて。
駆け足になっている心臓が、体に響かせていた。
「どうして人の噂をするの?」
堂々と噂に差し込んできた声――高槻くんだ。
びっくりして振り返ると、噂をしている女子生徒の前にいた。
思わず息を呑み、耳をすませる。
「だっ、だって……、いい雰囲気だったから」
一人の女子がしどろもどろに言うと、高槻くんはふっと軽く息を吐いた。
「美心は足をケガしてて、クラス分のノートを運ぼうとしてたから、無理をさせないようにああしただけだよ?」
「それでも、やり過ぎじゃない? ただのクラスメイトにお姫さまだっこなんてさぁ!」
「それに、呼び捨てしてるし」
高槻くんに詰め寄る彼女たちからは、真っ赤な感情が見えている。
でも、高槻くんは表情を変えない。
目線だけを一人一人に動かしている。
私はそんな姿に胸が痛くなり、机の下で握りこぶしを揺らした。
「名字より呼びやすいから、そうしてるだけ。それより、みんなが噂を広めたら、美心に迷惑がかかると思わない?」
高槻くんが首を傾けると、教室内の空気が固まった。
私の心の奥だけが、ぽっと明るくなっていたような気がしている。
その隙間を縫うように、「まぁまぁまぁまぁ」と、足利くんが間に入った。
みんなの目線は、一斉に足利くんへ。
「みんな熱くなるなって。青空の言い分から、鈴奈に特別な感情がある訳じゃないってことは、伝わってきたよな?」
足利くんはみんなに言い聞かすように顔を眺めた。
噂をしていた女子たちは、不服そうな目で仲間とアイコンタクトを取っている。
「……ま、まぁ」
「……」
高槻くんは、少しほっとしたような目で、足利くんを見つめていた。
「青空は鈴奈のケガの心配をしてただけ。鈴奈は恥ずかしかったからノートを渡せなかった。はい、それで解決! 異議あり?」
誰も言い返さない様子を確認し、足利くんはふっとため息をついた。
「もちろんないよな? じゃあ、この話はおしまいってことで、解散!!」
区切りをつけるようにバッと両手を上げると、クラスメイトは小さな愚痴をこぼしながら解散していった。
私はクラスメイトの興味がそれていく様子を見た途端、肩の力が抜ける。
「賢ちゃん、フォローありがと。おかげで助かったよ」
「おまえも噂されて大変だな。後でジュースおごれよ〜」
「あはは。もしかして、最初からそれが目的だった?」
高槻くんは少し安心した様子で、足利くんと話を始めた。
「ちゃうわ。さっき小銭がなくてジュースが買えなかっただけ」
「なに、僕にジュースを奢ってもらおうと思ってたの?」
「あははは……。バレたか」
話が収束に向かっているタイミングを見計らって、カバンを持って立ち上がった。
廊下に向かった足は、机の曲がり角で止まりかかる。
気付いた足利くんは、私の方に体を向けた。
「あ! 鈴奈。あんまり気にすんなよ。あいつらも悪意があって言ってる訳じゃない」
「僕もちょっとやりすぎちゃったみたい。まさか噂が広がるなんて思ってなかった」
一瞬、声が出そうになった。
けれど、佐知と喋らなくなったあの日のことを思い出したら、声が喉の奥で詰まった。
何も言わなかったら、これからも迷惑をかけ続けていくだけなのにね。
逃げるように教室を出た。
人混みに溢れている下駄箱前で、ゆっくりとブレーキがかかる。
大きなため息を吐くと、鼻頭が少し赤く染まった。
……私、弱虫。
『ありがとう』のひとことすら、言えないなんて。
傘を開き、雨に誘われるように外へ足を踏み出した。
しとしとと降り続いている雨は、いまの心境を表しているかのよう。
傘を傾けると、風がふわりと頬を撫でた。
高槻くんが転校してくる前は、こんな風に心が軽くなることなんてなかった。
風が頬を撫でるたび、胸の奥のもやもやが、少しずつ薄くなっていく気がする。




