lesson7
早朝、エリオットは今日もトレーニングをしに、【チェンジャーヴェレ】の裏口から中に入ろうとした。
「あれ、鍵が開いてない」
どうやら、フィリップスはまだ出勤していない様である。
あのムキムキ筋肉が居ない時、裏口の鍵は閉められているのだ。
エリオットはもう暫く経ってから来ようと思い、表通りに出た。
「あれ、エリオくん~、おはようございます~」
のんびりとした癒しボイスで挨拶し、イスラがエリオットに手を振っている。
彼女は今日早番で、開店準備をしているらしい。
重そうな金属製の看板を運ぼうとしているイスラに、エリオットは駆け寄った。
「おはようイスラちゃん! その看板、僕が運ぶよ!」
「わぁ、いいんですか~? お言葉に甘えて、お願いします~」
エリオットは力を入れて看板を持ち上げた。
だが、思いの外看板は軽くて、彼は力の入れすぎでバランスを失い、こけてしまう。
看板だけは死守しなければと思ったエリオットは、両手でそれを持ち上げてカエルの様な姿で道に転がった。
「わわ。エリオくん、大丈夫ですか~?」
「はっ、ははは~、大丈夫……」
イスラの前で転んでしまうなんて情けなくて、エリオットはややしょんぼりして起き上がった。
そして、所定の位置に看板を立てかける。
「この看板重いのに、持ち上げられちゃうなんてエリオくんは凄いですね~」
「いや~、でも転んじゃったし……」
「エリオくんは転ぶ前に持ってたじゃないですかぁ。男性従業員でも、軽々持ち上げられる人はいないんですよぉ。凄いです! わたし、台車に乗せて運ぼうと思っていたので助かっちゃいました~。ありがとうございます~」
イスラに褒められて、エリオットは嬉しくて顔を赤らめる。
それに、男性従業員が持ち上げられないというのなら、持ち上げられた自分はかなり筋力が付いて来ているという事だ。
思えば転んだのだって、軽すぎてびっくりしたからで……。
(僕、結構変わって来てるんだ……!)
エリオットが悦に浸っていると、あっとイスラが声を上げる。
「大変です~、エリオくんのおズボンの裾、破けちゃってます~」
示された箇所を見ると、確かに少しだけ裾が縦に裂けていた。
転んだ時に何処かに引っ掛けたのだろう。
だが、長年着古しているズボンだ。
今更これくらい、どうってことない。
「大丈夫だよ、古着だし気にしないで!」
「駄目ですよ~、まだ開店まで一時間程あるので、店の中でお直ししましょ~」
イスラは、エリオットの右手を掴んで、店内に引っ張っていく。
エリオットの心臓は、初めて女性と、しかもイスラと手を繋いだ事でバクバクと音を立てる。
(うゎっ! 柔らかいぃぃ……!)
エリオットはされるがままに店内に入り、奥の従業員用のテーブルセットに座らされた。
「はい、替えのおズボンです~。お直しが終わるまで、これに着替えて下さい~」
「わわ! ありがとう!」
エリオットは差し出された茶色いズボンを受け取り、着替えようとするが、イスラはにこにこと彼の方を見たまま動かない。
着替えるには一度下着にならないといけない訳で。
「……あの、イスラちゃん。着替えたいんだけど……」
「? はい、御着替えしてください~」
駄目だ、意味が伝わっていない。
エリオットは出来るだけ言葉を嚙み砕いてイスラに説明した。
「あのねイスラちゃん、着替える時って今履いているズボンを脱ぐでしょ? だから、このままだとイスラちゃんに僕の無様な下着姿を見せる事になっちゃうんだけど……」
「あっ! そうですねぇ、見ちゃ駄目ですね~! 普段は試着室にお通ししているのでうっかりしてましたぁ。後ろを向きますね~」
漸く気が付いたイスラは、くるりと後ろを向く。
伝わったことにほっとして、エリオットは着替えを始めた。
下着姿になると、見られてはいないとはいえ、好きな女の子の傍で下半身を晒している事に途端に恥ずかしくなる。
なるべく早く替えのズボンに着替えたエリオットは、イスラに完了したことを伝えた。
イスラはエリオットが着ていたズボンを受け取ると、彼の対面に腰掛けて、裁縫セットで器用に破れを直し始めた。
その手付きは流れるようで、縫い目がとても細かい。
縫い終わった箇所はまるで新品同然だ。
「イスラちゃん凄いね……! すっごく綺麗に直っていってる!」
「うふふっ、これでも【チェンジャーヴェレ】のお針子ですから~。このお店は町で一番人気なので、厳しい面接をクリアしないとスタッフになれないんですよぉ」
得意気に語るイスラは可愛い。
エリオットは、何故イスラがお針子になったのか気になり、そのままの疑問を口にした。
「なんでイスラちゃんはお針子になろうと思ったの?」
イスラは一旦手を止めて、エリオットを見た。
「ふふっ、気になりますか~?」
「うん、凄く気になる!」
縫うのを再開し、イスラは言葉を紡いだ。
「私、幼い頃にお父さんが死んじゃって、お母さんと二人で暮して来たんです~」
「えっ、そうだったんだ! 大変だよね、ごめんね話したくなかったら……」
「覚えてないくらいに小さい頃なので大丈夫ですよ~。お母さんが働きに出ていたので、一人でお留守番している日が大半だったんです~。だから、家の事は私がしていましたぁ」
懐かしそうな顔をして、イスラは話を続ける。
「私が13歳になった年、お母さんが再婚するって嬉しそうに御相手を連れて来たんです~。びっくりしましたが、新しいお父さんは私にも優しくて、ムキムキで、直ぐに家族になれました~」
「おぉ、再婚されたんだね! おめでとう!」
自分の事みたいに喜ぶエリオットに、イスラは笑顔になる。
「ありがとうございます~。でもね、お母さんとお父さん、私に遠慮してまだ結婚式をしていないんですよぉ」
「そうなの⁉」
マリンレーヴェン海洋王国では、結婚式に重大な意味がある。
夫婦で揃いのウエディングドレスとタキシードを着て、海に向かって花嫁がブーケを投げる事で、海の神様に祝福された本当の夫婦になれるのだ。
「そうなんです~。私達の周りは優しい人ばっかりなので、文句を言われたりはしないんですが、私はお母さんとお父さんに、ちゃんと祝福されて幸せになってほしいんです~。だけど、お金は私が結婚する時の為にとって置くって……。ほら、一式揃えるのってお高いでしょう~?」
二回目の結婚になるイスラの母と、母より若い父は、流石にイスラと自分達二回分の結婚式の為のお金は貯まっていないらしい。
「だから私、自分でお母さんとお父さんのドレスとタキシードを作ってあげたいんですよ~。それがお針子になった理由です~。ふふっ、びっくりさせたいので両親にはヒミツですよぉ」
エリオットは、想像以上の理由に感嘆した。
なんて健気で優しいのだろう。
ドレスとタキシードがあれば、小規模な結婚式を行える。
眼の前の女の子は、心から家族を想っているのだ。
「イスラちゃん! 僕にも出来る事ってない⁉」
思わず身を乗り出して、エリオットは言った。
どうしてもこの子の為になにかしたい、強く思った。




