lesson1
──エリオットは、フィリップスのドレスショップ【チェンジャーヴェレ】の裏口から、店内の個室に引っ張られ(物理的に)て入った。
個室はお洒落な紫と白を基調としたデザインの家具で統一されており、真っ白な壁紙と大理石の床が高級感があって美しい。
こんな高級店に入った事の無いエリオットは、委縮して、閉められた扉の横に張り付いて、直立不動になった。
「ちょっと何してんの? こっち来て座りなさいよ」
「いえいえいえいえ、家具を汚してしま……」
「声が遠いからさっさと来なさい」
「は~い!」
マスカラで強調された大きな緑の瞳で睨みつけられ、エリオットは俊敏に、ソファセットの端っこに座った。
「……まぁいいわ。で、早速だけど。うちのイスラちゃんは一筋縄ではいかないわよ」
「どういう事ですか?」
「あの子、天然なの。おまけに重度の筋肉フェチよ」
次々と流れてくる情報に、エリオットは溺れそうになった。
天然……、という言葉はかろうじて分かる。
ちょっと世間ズレしているふわふわとした性格の事だろう。
だが、筋肉フェチが分からない。
「あのぅ……、筋肉フェチってなんですか?」
恐々と問い掛けたエリオットに、フィリップスはティーカップを片手に答える。
「フェティシズム、性的魅力を感じるものの事よ。イスラちゃんの場合はそれが筋肉なの」
「せっ、性的……⁉」
「これくらいで動揺しない! とにかく今のアンタじゃ歯牙にもかけられないわ」
エリオットは、自分の身体を上から見た。
花の運搬で、腕には人並みの筋肉があるが、それ以外は人並み以下。
ガリガリの骨が浮きそうな胸から腹にかけての身体に、脚は棒きれみたいに細い。
外見は良くも悪くも平凡で、天然パーマの薄い茶髪に、焦げ茶色の瞳。
頬にあるそばかすは、笑うと可愛いと母に言われているが、母にだけだ。
エリオットは改めて自分を顧みて、がっくりと肩を落とす。
フィリップスの言う通り、これじゃあ彼女の頭にも残っていないだろう。
「そもそもアンタ、どうしてイスラちゃんを好きになったのよ?」
「一カ月前、こちらのお店が生花を注文されたじゃないですか。配達した品を受け取ってくれたのがイスラさんなんです。彼女の素敵な微笑みに、僕の心は一瞬で恋に落ちました」
「あー……。確かに生花使ったドレスを作るのに注文したわねぇ。でもアンタのとこだけじゃなくてあと二店舗くらいにお願いしたから、多分イスラちゃん、アンタの事全然覚えてないと思うわよ」
やっぱりそうかと、エリオットは更に肩を落とす。
すると、バシーン!! とした衝撃が背中に響いた。
「ぐぇぇ⁉」
「シャキッとなさい! そんな干からびたツラ、二度と見せるんじゃないわよ!」
どうやらフィリップスに背中を思いっきり叩かれたんだと気付くまで、数秒掛かった。
「い、いったぁ……!」
後からじんじんと痛みがやってきて、エリオットは呻く。
だが、同時に自分の中で燻っていた諦念の気持ちが、どこかへ吹き飛んだ気がする。
「店長さん、いえ、フィリップス先生! 僕、先生に師事すれば変われますか⁉」
眼に光を宿したエリオットに、フィリップスは不敵に笑う。
「アタシに最後まで着いてこれる……なら、ね?」
エリオットは、拳に気合を入れて握りしめ、覚悟を持って頷いた。
──個室の中、テーブルに紙を広げたフィリップスは、見かけによらない繊細な字で、サラサラとこれからのメニューを書いていく。
「アンタはまず、もっと脂肪をつけないとね。普段何食べたらこうなる訳? マリンレーヴェン海洋王国に住んでる男なら、否が応でもそれなりの身体にはなるわよ」
エリオットの暮すマリンレーヴェン海洋王国は、豊かな海の幸と、王家の素晴らしい政治のおかげで、衣食住に困る事は無い。
特に魚料理が豊富なので、小柄な男性はあまりいないのだ。
エリオットは、身長こそ170センチあるものの、身体はひょろひょろ。
というのも、エリオットは魚が苦手なのである。
「実は僕、魚が苦手で……、普段はパンとかサラダとか食べてますかね、ははは~……」
「ははは~、じゃないわよ! このすっとこどっこい! 今日から魚と肉を中心にしたメニューに変更よ! タンパク質を摂らないとお話にならないわ!」
フィリップスは紙に、一日の食事内容を書いていく。
とにかくタンパク質を意識したそのメニューは、エリオットにとって胸やけするものだった。
「こ、こんなに沢山食べられるでしょうか……。僕、胃が小さいんです」
「つべこべ言わない! やるって決めたんでしょうが!」
「はいっ、やらせていただきま~す!」
大きな眼でギロリと睨まれ、エリオットは直ぐに手のひらを返した。
「んで、その棒切れみたいな脚を鍛えるために、毎日ここの坂を50本ダッシュよ」
「50本ですか⁉」
【チェンジャーヴェレ】とエリオットの花屋があるこの坂道は、結構な勾配があり、上から下までとなると200メートルくらいだ。
一往復するだけでぜいぜい息を荒げているエリオットは、50という数字に眩暈がした。
「本当は100って言いたいとこだけど。アンタ本当に死にそうだから半分にしといてあげるわ」
これでも温情を掛けてもらった方らしい。
エリオットは頷くしか無かった。
──「ひぃっ、ふぅっ……! これでっ……、ごじゅうぅぅぅ‼」
エリオットは、早速翌日から与えられたメニューをこなしていた。
季節は冬なのに、滝の様に汗が流れ、最後の方はランニングよりも遅い、亀の歩みであったが、彼はなんとか50回坂を往復出来たのだ。
頂上には頃合いを見計らってフィリップスが待機しており、バサリと大きなタオルをエリオットに投げかけてくれる。
「ふうん、初日でやり切るなんて結構良い根性してるじゃない。よくやったわね」
初めてフィリップスに褒められ、エリオットはへろへろになって地面に倒れ込みながらも、喜ぶ。
「あっ、ありがと、うっ、ござい……ますっ!」
「あぁもう、息を整えてから喋りなさい!」
元々世話焼きなのだろう。
フィリップスは悪態を吐きながらも、エリオットの汗を拭ってくれる。
「朝ご飯はちゃんと食べたんでしょうね?」
エリオットは小食なので、偶に朝ご飯を摂らない日があった。
それをフィリップスに伝えたら、鬼の様に怒られたのだ。
『筋肉が無いと、始まる恋も始まらないわよ!!』
そう言われ、エリオットは三食きちんと摂る事を誓わされた。
「はひぃ……、ちゃんと、食べました……!」
朝から魚のソテーは辛かったが、誓った以上頑張って完食したのだ。
母と父は、急に魚を食べだしたエリオットに大層驚いていたが、父は良い事だと豪快に笑い、母はやや心配そうにしながらも、息子の成長に何も言わずに微笑んでくれた。
エリオットは、寝っ転がりながらチラリとフィリップスの脚を見る。
スリットの大きく開いたマーメイドドレスからは、みっちりと筋肉の詰まった太く逞しい脚が覗いている。
(こんなに逞しくなれる日が来るのかな……)
エリオットがぼーっと、フィリップスの脚を眺めていると、バシッと頭をはたかれた。
「っいったぁ……!」
「乙女の脚をそんなにジロジロ見るんじゃないわよ!」
その言葉に、エリオットは勇気をもって、気になっていた事を尋ねた。




