第6話
ザラームの黒曜城は、歓喜に満ちていた。
百年もの間、化石のように沈黙していた神木は、今やその枝の先々に若々しい緑の葉を茂らせ、天に向かって力強く生命を謳歌していた。
神木の復活に呼応するように、乾いていたザラームの大地は潤いを取り戻し、城の中庭では、色とりどりの花々が咲き乱れていた。
「リリアーナ様! ご覧ください、こんなに見事なバラが!」
「こちらの薬草も、薬効が今までの倍以上になりました!」
侍女や庭師たちに囲まれ、リリアーナは穏やかな笑みを浮かべていた。
アステルにいた頃のような、陰気で自信なさげな少女の面影はどこにもない。
カイン公爵から贈られた、空色の柔らかなドレスを身にまとい、民から「豊穣の乙女」と慕われる彼女は、まるで花のように笑っていた。
「まあ、綺麗…。皆さんのお手入れの賜物ですわ」
彼女が微笑むと、周りの花までが輝きを増すように見える。
自分の力が、誰かに喜ばれ、感謝される。
その当たり前の幸福が、リリアーナの心をどれほど満たしているか、彼女自身にも計り知れなかった。
「…楽しそうだな」
背後からかけられた優しい声に振り返ると、カイン公爵が立っていた。
彼の血のように赤い瞳は、リリアーナを見つめる時だけ、熱を帯びたような柔らかさを宿す。
「カイン様」
「君が来てから、この城は本当に明るくなった。花だけでなく、皆の笑顔まで咲かせてくれるとはな」
そう言って、彼はリリアーナの髪にそっと触れた。
その親密な仕草に、リリアーナの頬がぽっと赤く染まる。
二人の間には、言葉にしなくとも確かな想いが育っていた。
そんな穏やかな午後を、けたたましい来訪者が引き裂いた。
「アステル王国より、緊急の使節団が到着した、と?」
謁見の間で報告を受けたカインの表情が、すっと険しくなる。
その眉間の皺は、使節団を率いる人物の名前を聞いて、さらに深くなった。
エドワード第二王子、そしてアルムフェルト侯爵。
「…会おう。リリアーナはここで待っていろ」
カインはそう言い残し、謁見の間へと向かった。
玉座に座るカインの前で、エドワードとアルムフェルト侯爵は深々と頭を下げていた。
アステルを出てから休む間もなく馬車を飛ばしてきたのだろう、二人ともやつれ果て、その顔には悲壮な色が浮かんでいた。
「これはこれは、王子殿下直々のご訪問とは。いったい、どのようなご用件で?」
カインの口調は、賓客を迎えるそれではなく、明らかに敵意を含んでいた。
「カイン公爵閣下…。此度は、我々の非礼を詫びると共に、一つ、懇願があって参りました」
エドワードは、震える声で国の惨状を訴えた。
そして、絞り出すように言った。
「どうか…どうか、リリアーナ嬢を、我々の国へお返しいただきたい!」
その言葉に、カインは鼻で笑った。
「返す? 人違いではないか。我が国にいるのは、貴殿らが捨てた『出来損ない』ではなく、この国に豊穣をもたらす『女神』だが?」
「ぐっ…!」
痛いところを突かれ、エドワードは言葉に詰まる。
アルムフェルト侯爵が、涙ながらに訴えた。
「娘の非礼は、この父である私が責任を取ります! ですからどうか、あの子を…!」
「黙れ」
地を這うような低い声に、侯爵はびくりと体を震わせた。
カインは、冷え切った赤い瞳で二人を射抜いた。
「リリアーナに会わせろ、と? どの口がそれを言う。貴様らが彼女にした仕打ちを、忘れたとは言わせんぞ」
圧倒的な威圧感に、二人はもはや何も言い返せない。
カインは衛兵に命じようとした。
「こ奴らを叩き出せ」
「お待ちください!」
その時、謁見の間の扉が開き、リリアーナが立っていた。
侍女から話を聞き、居ても立ってもいられず駆けつけたのだ。
「リリアーナ!」
エドワードは、まるで救世主を見るような目で彼女の名を呼んだ。
そして、次の瞬間。
アステル王国の第二王子は、全てのプライドを投げ捨て、その場に膝をつくと、額を床にこすりつけた。
「リリアーナ…! 頼む、どうか我々を、国を救ってくれ…!」
父である侯爵も、妹のアイラまでもが、それに倣って土下座をする。
かつて自分をゴミのように扱った者たちが、今、自分の足元にひれ伏している。
その光景を、リリアーナは静かな、凪いだ瞳で見下ろしていた。
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「…お顔をお上げください、エドワード殿下。アルムフェルト侯爵様も、アイラも」
リリアーナの声は、驚くほど穏やかだった。
その静けさが、かえってエドワードたちを追い詰める。
おそるおそる顔を上げた彼らは、息をのんだ。
そこにいたのは、もう自分たちの知る、あの陰気なリリアーナではなかった。
背筋を凛と伸ばし、揺るぎない自信を目に宿したその姿は、近寄りがたいほどに気高く、美しかった。
「リリアーナ、すまなかった…! 私が、私が愚かだったのだ!」
エドワードは必死に言葉を紡いだ。
「君の本当の価値に気づかず、君を深く傷つけてしまった…! どんな罰でも受けよう。だから、どうか…!」
「罰、でございますか」
リリアーナは、ふわりと微笑んだ。
それは聖女のように慈悲深い笑みのはずなのに、エドワードは背筋が凍るのを感じた。
「では、少し昔話をしてもよろしいでしょうか」
彼女は、ゆっくりと話し始めた。
まるで、子供に物語を読み聞かせるような、優しい口調で。
「あるところに、とても気味の悪い色の石がありました。それは、一人の愚かな女が、大切な人の健康を願って、三日三晩、祈りを込めて作り上げたお守りでしたの」
エドワードの顔から、サッと血の気が引いた。
「けれど、その大切な人は、女の想いを『穢らわしい』と仰って、大勢の前でその石を床に叩きつけ、踏み砕いてしまわれました」
リリアーナは、自分の胸元にそっと触れる。
そこには今、カインから贈られた、燃えるような赤い宝石の首飾りが輝いていた。
「…殿下。わたくしの祈りを踏み砕いたのは、どなたでしたかしら?」
「あ…あ…」
エドワードは、声にならない音を漏らすだけだった。
リリアーナは、次に泣きじゃくる妹のアイラに視線を移した。
「わたくしには、可愛い妹がおりました。その子は聖女様で、いつもキラキラと輝いておいででした。姉は、その子の邪魔にならないよう、庭の隅で薬草を育てるのがささやかな慰めでしたのに…」
彼女は、悲しげに眉を寄せた。
「ある日、聖女様は王子様にこう告げ口をなさいました。『お姉様が、毎晩気味の悪い光の中で、呪いの儀式をしています』と。…アイラ。わたくしのささやかな営みを、邪悪な呪いだと貶めたのは、どなただったかしら?」
「ひっ…! ご、ごめんなさい、お姉様…! わ、わざとじゃ…!」
アイラは恐怖に顔を引きつらせ、後ずさった。
リリアーナは、最後に呆然と立ち尽くす父と母(いつの間にか侯爵夫人が駆けつけていた)に目を向けた。
「そして、わたくしを『出来損ない』と呼び、聖女の経歴に傷がつくからと、目立たぬように生きろと仰ったのは…どなたでしたかしら?」
「「……」」
両親は、もはや何も答えることができなかった。
リリアーナは、その場にいる全員の顔をゆっくりと見渡した。
彼らの顔には、後悔、恐怖、そして絶望がありありと浮かんでいる。
(ああ、もう、たくさん)
わたくしの心は、もう何一つ動かない。
かつての愛も、憎しみさえも、今はもう遠い昔の物語のよう。
彼女は、再び、完璧な淑女の微笑みを浮かべた。
それは、絶対的な拒絶を示す、美しくも残酷な微笑みだった。
「国の危機、民の苦しみ…大変お気の毒に存じます。ですが」
一呼吸置いて、彼女は告げた。
その声は、春の陽だまりのように穏やかで、そして冬の刃のように鋭かった。
「あなた方が捨てた『出来損-こ-な-い』ですもの。アステル王国がどうなろうと、**わたくしにはもう、関係のないことですわ**」
その瞬間、エドワードたちの世界から、完全に光が消えた。
すっと、カインがリリアーナの肩を優しく抱き寄せ、彼女を守るように前に立った。
彼の赤い瞳が、地獄の業火のように燃え上がり、絶望の淵にいる者たちを見下ろした。
「聞こえたな? 彼女は我がザラームの宝であり、未来の公爵妃だ。二度と彼女の前にその汚れた姿を現すな。…消えろ」
その言葉が、彼らの運命にとどめを刺した。
エドワードたちは、魂の抜け殻のようになって、崩壊寸前の祖国へと、とぼとぼと帰っていくしかなかった。




