第5話
リリアーナがアステル王国を去って、季節が一つ巡った頃。
初めは、誰もその異変に気づかなかった。
いや、気づこうとしなかった、と言うべきだろう。
最初に悲鳴を上げたのは、王国のパン籠と呼ばれる南部の穀倉地帯だった。
例年であれば、黄金色の穂が豊かに波打つはずの小麦畑が、今年は青いままで成長を止め、そのまま立ち枯れていったのだ。
農夫たちは首を傾げ、天候不順のせいだろうと囁き合った。
だが、異変はそれだけでは終わらない。
王都の市場から、瑞々しい果物が姿を消した。
たわわに実ったはずのリンゴは、赤く色づく前に木から落ちて腐り、ブドウは酸っぱいまま萎びていった。
川からは魚の姿が消え、牧草地の草は力を失い、乳牛は乳を出さなくなり、子羊は次々と痩せ衰えていった。
まるで、大地そのものが生命力を失い、緩やかに死に向かっているかのようだった。
「聖女様! どうか我らをお救いください!」
民衆は、聖女アイラに殺到した。
アイラは各地を回り、神々しい光を放ちながら祈りを捧げた。
その光景は美しく、人々は一時的に熱狂し、これで救われるのだと安堵した。
しかし、現実は無情だった。
アイラの祈りが終わった後も、枯れた小麦が蘇ることはなく、腐った果実が元に戻ることもなかった。
彼女の力は、あくまで「その場を華やかに見せる」だけの、表層的なものに過ぎなかったのだ。
「聖女様の力は本物なのか?」
「あんなに祈ってくださるのに、何も変わらないじゃないか…」
感謝と期待の声は、やがて疑念と失望の囁きへと変わっていく。
そして、国中に原因不明の咳病が蔓延し始めると、民衆の不満はついに爆発した。
王宮では、連日重苦しい会議が開かれていた。
「原因がわからん! いったいこの国はどうなってしまったのだ!」
国王の怒声が響き渡る。
エドワード王子は、青ざめた顔で報告書を握りしめていた。
「父上、ザラームからの報告によりますと…かの国では、百年枯れていた神木が蘇り、それに伴い、国土が日に日に潤いを取り戻していると…」
「なんだと!? なぜザラームだけが…!」
その時、会議の末席にいた白髪の賢者が、震える手で一枚の古い羊皮紙を広げた。
「陛下…恐れながら、一つの可能性が…」
賢者は、国の創世記に記された一文を読み上げた。
「『ごく稀に、王家の血筋から離れた場所に、大地の生命そのものを育む者が生まれる。その者の魔力は輝きを持たず、ただ万物に生命の根源を与えるのみ。その者が土地を離れる時、豊穣は約束の地を去るであろう』…と」
輝きを持たず、生命の根源を与える。
その言葉に、エドワードの脳裏を、ある人物の姿が雷に打たれたように過った。
(まさか…)
地味で、陰気で、取るに足らないと思っていた女。
いつも庭の片隅で、薬草をいじっていた姿。
彼女が触れた花が、少しだけ元気を取り戻していたこと。
自分が病に伏せるたび、彼女が見舞いに来てくれた後は、いつも体が軽くなっていたこと。
そして、自分が「穢らわしい」と叩きつけた、あの緑のブローチ。あれを身につけていた間は、一度も大病をしなかったこと。
全てが、繋がった。
「リリアーナ…」
呆然と呟かれたその名に、同席していた父、アルムフェルト侯爵が血相を変えた。
「馬鹿な! あの出来損ないに、そんな力があるはずが…!」
だが、彼の言葉とは裏腹に、その顔はみるみるうちに蒼白になっていく。
侯爵家の庭で、何度枯れかけても不思議と蘇った薔薇のアーチ。
領地で原因不明の不作が囁かれた時、娘がしばらく滞在した後は、なぜか持ち直したこと。
全て、あの「出来損ない」の仕業だったというのか。
自分たちは、家の恥だと疎んじ、虐げ、追い出した娘が、実はこの国の生命線を握る存在だった。
聖女であるアイラを輝かせるため、その影として蔑んできた姉が、この国の豊穣そのものだった。
ガタッ、とエドワードは椅子を蹴るように立ち上がった。
「…ザラームへ、使いを」
その声は、絶望と、ありえないほどの焦燥に震えていた。




