第4話
カイン公爵に伴われ、わたくしは一度だけ実家であるアルムフェルト侯爵邸に戻ることを許された。
最低限の荷物をまとめるためだ。
「リリアーナ! お前、一体どういうつもりだ!」
客間に通されるなり、父が怒声を浴びせてきた。
その隣では、母が扇で顔を隠しながら、ヒステリックに泣きじゃくっている。
「よりにもよってザラームの黒公爵とは…! エドワード殿下との婚約を破棄されたばかりだというのに、我が家にこれ以上恥をかかせるでない!」
「お父様、お母様」
わたくしは、静かに頭を下げた。
「長年、お世話になりました。わたくし、本日を以てこの家を出て、ザラームへ参ります」
「何を言っている! 私が許さん!」
「そうよ! 出来損ないのお前が、聖女であるアイラの経歴に傷をつけるような真似は許しません!」
(ああ、やっぱり)
心配しているのは、わたくしの身ではない。
家の体面と、聖女である妹の名誉だけ。
わたくしが傷ついているかもしれないなんて、この人たちは微塵も考えないのだ。
心の中に、もう何の感情も湧き上がってこなかった。
ふと、客間の窓から見える中庭に目をやった。
そこには、見事な薔薇のアーチがある。
数年前、原因不明の病で全ての薔薇が枯れかけたことがあった。
聖女であるアイラが祈りを捧げても効果はなく、庭師たちも匙を投げていた。
(あの時も、そうだった)
わたくしは、夜中にこっそり庭へ出て、来る日も来る日も、自分の魔力を薔薇の根に注ぎ続けた。
少しずつ、少しずつ、生命力を分け与えて。
やがて、枯れ枝のようだった株から新しい芽吹きが見られ、再び美しい花を咲かせた時、誰もが「聖女アイラ様の奇跡だ」と褒めそやした。
わたくしがやったことだと、誰も気づかなかった。
気づこうともしなかった。
アイラも、何も言わずにその手柄を自分のものにしていた。
それでよかった。
目立たず、騒がれず、誰かの役に立てたのなら、それで。
そう、自分に言い聞かせてきたけれど。
「…もう、よろしいのです」
わたくしは、静かに両親から視線を外した。
「わたくしは、もうあなた方の娘ではありません。アルムフェルト家の出来損ないは、今日ここで死にました」
「なっ…!」
「まあ、なんてことを…!」
驚愕する両親を背に、わたくしは自室へ向かった。
部屋には、ほとんど物と呼べるものはなかった。
数着の地味なドレスと、数冊の薬草学の本。
それらを小さなトランクに詰め込むのに、時間はかからなかった。
最後に、窓辺に置かれた小さな植木鉢を手に取った。
中には、小さなハーブの芽が育っている。
これは、わたくしが唯一、自分のためだけに育てていたものだ。
気持ちを落ち着かせる効能がある、ささやかなハーブ。
トランクと植木鉢を手に、誰にも見送られることなく、わたくしは生まれ育った屋敷を後にした。
もう、振り返らない。
過去は全て、この場所に捨てていく。
わたくしは、新しい場所で、新しい人生を始めるのだ。
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ザラームへの道は、馬車に揺られて三日かかった。
国境を越えた途端、景色が一変したことに気づく。
わが国、アステルは緑豊かな丘陵地帯が続く、穏やかな国だ。
しかし、ザラームの地は、どこか乾いていた。
空は高く、陽射しは強い。広大な大地が広がっているが、育っている植物は背が低く、葉の色も薄いように感じられた。
豊かな国だと聞いていたけれど、その豊かさは、鉱山から採れる宝石や金属によるものなのだろう。
(なんだか、土地全体が疲れているみたい…)
そんなことを考えているうちに、馬車はザラーム公爵の居城である「黒曜城」に到着した。
その名の通り、黒い石で造られた城は、天を衝くようにそびえ立ち、威圧的でありながらも荘厳な美しさをたたえていた。
「ようこそ、リリアーナ嬢。ここが君の新しい家だ」
カイン公爵にエスコートされ、城の中へ足を踏み入れる。
城内は、外観の印象とは裏腹に、光に満ちて明るかった。
磨き上げられた床、壁に飾られた美しい絵画。
しかし、やはりどこか、生命の気配が希薄な気がした。
案内されたのは、城の奥にある広大な中庭だった。
中央には、天高く伸びる一本の巨木が立っていた。
だが、その木は痛々しいほどに枯れていた。
幹はひび割れ、枝には一枚の葉もついていない。まるで、何百年も前に命を終えた化石のようだった。
「これは…?」
「我が国の守り神とされてきた『神木』だ。だが、見ての通り、もう百年近く枯れたままだ」
カイン公爵の声には、微かな痛みが滲んでいた。
「土地の枯渇は、この神木の衰弱と共に始まった。我が国の魔術師たちが総出で力を注いでも、聖職者たちがどれだけ祈っても、この木が蘇ることはなかった」
彼は、わたくしの方へ向き直った。
その赤い瞳が、真剣な光を宿してわたくしを捉える。
「リリアーナ嬢。君の力は、生命そのものに働きかける稀有なものだ。俺の目に狂いがなければ、君の力なら、あるいは…」
試してほしい、と。
その眼がそう訴えていた。
わたくしは、ゴクリと唾を飲み込んだ。
こんな、国の運命を左右するような大役、わたくしに務まるだろうか。
でも、彼の期待を裏切りたくはなかった。
初めてわたくしを「価値ある者」として見てくれた、この人のために。
わたくしは意を決して、枯れた神木へと歩み寄った。
ごつごつとして、冷たい樹皮。
ひび割れた隙間からは、乾いた土の匂いがした。
そっと、両手で幹に触れる。
そして、目を閉じ、意識を集中させた。
(お願い…目を覚まして…)
自分の体の中にある、温かい光のような魔力。
それを全て、手のひらを通して木の中へ、大地へと流し込んでいくイメージを描く。
これまで、道端の花や薬草にしてきたことと同じ。
でも、相手は比べ物にならないほど大きい。
わたくしの魔力が、みるみるうちに吸い取られていく。
くらり、と眩暈がした。
それでも、わたくしは力を込め続けた。
すると、その時。
ポッ…
手のひらに触れている幹のすぐ上で、何かが芽吹く、小さな、小さな音がした。
はっとして目を開けると、信じられない光景が広がっていた。
枯れ枝のようだった枝先に、小さな、本当に小さな、若緑色の双葉が顔を出していたのだ。
「おお…!」
「神木に…芽が…!」
周りで固唾をのんで見守っていた家臣たちから、どよめきが上がる。
わたくしは、自分の目を疑った。
わたくしの力が、本当に、この百年枯れていた神木に命を吹き込んだ…?
「…素晴らしい」
カイン公爵が、感嘆の息を漏らしながらわたくしの隣に立った。
彼は、その双葉を愛おしむように見つめると、わたくしに向かって、心からの笑みを浮かべた。
「ありがとう、リリアーナ。君は、やはり俺の…いや、この国の希望の女神だ」
女神。
かつて、元婚約者に言われたのと同じ言葉。
でも、その響きは全く違って聞こえた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
初めて自分の力を認められた喜び。
初めて誰かに心から感謝された安堵感。
忘れていた感情が、まるで芽吹き始めた神木のように、わたくしの心の中でゆっくりと蘇り始めていた。




