第四章:散華August, Die She Must.②
第四章・後半になります。
ここから物語はいよいよ八月終盤へ突入し、鏡・鼎・凜の三人がそれぞれ“自分だけの夏”を過ごした結果、すれ違いが一気に加速して行きます。
悪意を持っているものは誰もいない。
しかし善意のすれ違いが人を傷つける。
作者としても書いていて胸の痛くなる場面が多い回ですが、三人の心の揺らぎを丁寧に積み重ねていきました。
本章では、鏡の視界が狭まり、鼎と凜の「見えない距離」が広がっていく様子を描いています。
どうぞ、少し静かな気持ちでお読みいただければ幸いです。
※鏡の両親の背景については拙著「TSした親友と結婚することになった俺氏の話ver.2」https://www.pixiv.net/novel/series/14250995をご参照くださいませ<m(_ _)m>
第四章:散華August, Die She Must.
第四節:How to Disappear Completely.
◇小田鏡の場合
我が小田家は年末年始、ゴールデンウイーク、そしてお盆と、長期休暇の時期には大勢の親類縁者が集まって来る。別に本家筋とかそういうものでもないのだけれど、おじいちゃんおばあちゃんもお父さんお母さんも来客が大好きなのだ。
加えて我が家は広い。自慢してるわけじゃなく、おじいちゃんが建てた家をお父さんが拡張してひと頃は三世代合計九人が住んでいた。
五人きょうだいのうち上の二人(間もなく三人目も)は独立して出て行ったのと、客間二つに加えて離れまであるので収容力が大きいのだ。
そんな訳で、自然にここが選ばれたのだろう。
小学生の頃は鼎もよく泊まりに来た。徒歩五分の距離なのだからわざわざ泊まるほどではないのだけれど(現に鼎の両親が宿泊したことはない)何かにつけて泊りに来て、一緒に夜更かしをしては怒られていたものだ。
最後はいつだったろうか。確か、小学校卒業の直後だった気がする。それ以降は僕が部屋から出て来ないものだから、自然に足が遠のいたのだろう。親と遊びに来ることはあっても、泊まることは無くなっていた。
今年のお盆も大勢の来客が見込まれている。
鼎も四年振りに泊まりに来てくれるんじゃないか。
また夜更かしして遊べるんじゃないか。
そんなことを少しだけ期待していたのだけれど。
僕の期待は泡と消えてしまった。
たった今、鼎から電話が来た。バレー部の合宿、どうしても抜けられないそうだ。通話が終了した後の、真っ暗な画面に僕の顔が映る。
階下でお母さんが呼んでいる。かき氷、融ける前に食べなさいって。
十二日の朝、僕は久しぶりに男物を引っ張り出して身に着けた。夕方には帰省第一陣が到着する。女装してるとこを見せてあれこれ質問されるのも面倒だ。それに……鼎がいないと思うとなんだか張り合いがなくて……。
ブルーのポロシャツと黒っぽいジーンズ。六月までは普通に来ていたものなのに、やけに重たい。特に下半身。ベルトの締め付けが苦しい上に、錘でも入っているかのような重量感。もしかして体力が落ちている?
スカートばかり履いていたせいで解放感に慣れてしまったのだろうか。
鏡を覗くと、なんだか知らない人がいるようだった。なんだろ、この違和感。おかしい……。これが本来の僕じゃなかったのか?
日が傾くころ、お父さんの実のお姉さん・ルミコ伯母さんとそのご家族、佐々木の伯父さんといとこたち・ミチロウくんとカオリちゃんが到着した。
それから樹姉、旦那さんの治臣さん、その子の照くん、涼ちゃん、準くんも。
広い我が家がいきなり賑やかになった。
明日には海兄(独身)が帰って来る。
毎年のことだけど、お盆は八月十二日辺りから十七日くらいまで、少しずつ日程をずらして六家族が一泊か二泊して行く。
お母さんとおばあちゃんが張り切っている。僕も挨拶くらいはしておかなきゃ。
甥っ子たちは可愛い(時々生意気)だけだからいいけど、いとこ二人からはコンタクトレンズのことを盛んに弄られた。「可愛くなってる」って。
灯姉とお母さんには女装の件は口止めしてあるけど、ちょっと不安。
鼎……会いたいなあ。合宿が終われば直ぐに会えるんだけど。メールしてみようか……。ダメダメ、僕の我が儘で迷惑かけちゃダメ。
◆高山凜の場合
空調の効いたリビングでぼんやりとテレビを眺める私……。
画面には平和祈念像が映っていますが、内容は頭に入りません。
あの日——鏡ちゃんから告白を受けて以来、私は連絡を取っていません。あの時は笑顔で「構わない」と言いましたが、今は胸に穴が開いたと言いうか、心臓が無くなってしまったような感覚です。
何一つ、手に付きません。データの整理どころか、カメラに触ることも出来ません。アニメや映画なんかで見る、オバケがお札に触れないような……あんな感じです。
外出しないから一日中パジャマのまま、メイクもせず、シャワーすら浴びず……。いつもなら意地悪くツッコミを入れて来るはずの妹が、心配してくれるレベルでした。
一応平気な振りをして笑っては見せますが……。今夜もきっと枕に顔を埋めて泣くんだろうなあ。
時々スマホを手に取ってSNSを開いてみます。大勢のフォロワーさんの投稿が流れて行きます。鏡ちゃんはアカウントを持っていないのでそこだけは安心していられます。
あ……鼎くんの……南高男子バレーボール部の公式アカウントの投稿……。そうか、お盆は合宿に行くんだ。場所は……N町の町営研修施設? そんなに遠くないけど、公共交通機関じゃ不便なところ。
今までの私だったらカメラ持って押しかけていたのに、もうそんな気力も無いや。
◇稲葉鼎の場合
合宿に備えて荷物を準備している。一週間分となると結構な量になる。スポーツバッグ一つじゃ足りないな。親父の出張用のキャリーケースを借りようか。
時々手が止まる。
あの時の、かがみんの横顔が想いに浮かぶから。
ため息が出る。
俺は何もしてやれなかった。それどころか、かがみんが元気をなくした原因すら知らない。
休憩直前までは普通に撮影をしていたはずだ。
俺がその場を離れて、飲み物を買って戻ったらもう態度が変わっていた。「疲れただけ」とかがみんは言っていた。
でも違う、あれは何かに悩んでいる顔だった。無理して笑っている時の顔だった。
準備を再開する——手が止まるの繰り返し。
スマホを取り出すが、メール、電話とも着信無し。
凜に聞いてみようか……。でも、もし凜が答えを知っていて、俺が原因だったら? そうなったら俺、多分立ち直れない。
また大きくため息。
あの時、かがみんは何をしていたっけ。……買ったばかりの同人誌を読んでいただけだ。
俺はすぐには戻らなかった。ふぇりっくす氏に誘われて他の撮影に応じていたから。その姿を見られたとか? でもその程度のことで? だいたい、かがみんから見える位置じゃなかった。
他のカメラマンかレイヤーから何か言われたとか? むしろそっちの方があり得るな……。
かがみんに直接聞いてみようか……。
スマホを取り出し、真っ暗な画面に映る自分の顔を眺め、ため息をついて、またポケットに押し込む。
ああ、ダメだ。こんなことじゃ練習中に大怪我してしまうかもなあ。
タスクフォーカス——圭兄の声が聞こえた気がする。
そうだ。そうだよ。圭兄なら俺を導いてくれる。わざわざ聞くまでもない。
考えても意味の無いことは考えない。今は合宿のことに集中する。その後は操縦訓練に集中だ。今月中に単独飛行許可を獲るって決めたんだから。
かがみんのことを考えるのは、夜ベッドに入ってからの一時間だけにする。
そう自分に言い聞かせて、俺は荷造りを再開した。
それが「逃げ」だってことには、うすうす気付いていながら。
◆◆小田鏡の場合
お盆の賑やかさは救いだった。入れ代わり立ち代わり訪れる、だいたい同年代のいとこたち。小さな甥っ子姪っ子たち。
鼎がいない穴を彼らが埋めてくれる。凜への罪悪感もひと時だけ忘れさせてくれる。
GWの時は部屋に籠って顔さえ見せなかった無作法も、誰も非難せずにいてくれる。その優しさが嬉しくて……ちょっと切ない。
嵐のような一週間が過ぎて、落ち着いた夏休みが戻った頃。
鼎はもう家に着いただろうか。
電話してみる? メールの方がいい?
結局勇気が出なくてどちらも出来なかった。鼎に会いたいのに。
鼎ならきっと心配してくれる。「何があったんだ?」って聞いてくれる。
今なら素直に「鼎を凜に渡したくない」って言えそうな気がする。
でもその「会う」が出来ない。
なんだろう、この違和感。
この一週間というもの、僕は女装をしなかった。そのせいで六月以前の僕に戻ってしまったのだろうか。凜の魔法が解けてしまったのだろうか。
凜……どうしてるかな。今更会わす顔が無い。今月中は逃げ隠れも出来るけど、新学期には嫌でも会わなければならない。
四月に同じクラスになった時の気まずさ。これからはあの時の比ではない。
僕と凜は、もう敵同士なんだ。
思えばなんてことをしてしまったのだろう。「恩を仇で返す」って、こういう事だよね。
凜はこのことを鼎に話すだろうか。話すだろうな。ニュアンスは解らないけど。
それを聞いて、鼎はどう思うだろうか。海水浴の時、鼎は言った。「お前は女の子にしか見えない」って。「上半身も隠しておけ」って。
あの時僕は「鼎に思いが通じる可能性はある」と思ってしまった。
本当にそうだろうか。鼎が僕をそういう目で見ているとしても、同性から恋愛的な感情を向けられることとは別物じゃないだろうか。
もしかしたら、僕にはもう味方がいないのかも知れない。新学期まであと二週間足らず。僕は本当に登校できるのだろうか。
◇◇高山凜の場合
八月も中旬に入り、私は自宅のリビングや市の図書館等、エアコンの効いた場所にいることが多くなりました。
ようやく外に出られる程度には気力も戻って来て、夏休みの課題に手を付け始めたのです。進路のこともそろそろ考えないといけませんからね。
今日は図書館で古文の課題を片付け、午後二時頃に自宅に戻りました。
あれから、写真は一枚も撮っていません。データの整理もしていません。
さて、課題は先が見えてきました。今日はまだ時間もありますから、部屋の掃除でもしましょうか。
何処から始めましょうか。まずは床を埋め尽くす雑誌の類からですね。
床が見えて来ると綿埃や紙くずが気になります。よく見ると抜け毛も大量に落ちています。うわあ……不潔極まりない。思春期女子が居ていい部屋じゃない。リビングから掃除機持ってこなきゃ。
スマホがぴろんと音を立てました。見れば鼎くんからのRINE……何かと思えばただの挨拶でした。スタンプくらい送り返せばよかったけど、今はスルー。
鼎くんを責める理由は無いけど、今は関わりたくない。
掃除機をかけ終わり、物足りなくてコロコロを使います。三回くらいテープを剝がして、ようやく納得します。
ふと壁を見ると……コルクボードに貼ってある鏡ちゃんの写真。お父さんに頼んで最高画質でプリントしてもらったやつ。
どうしよう……。今まで私を癒してくれた笑顔が、今は私を責めているみたい。
いや、それは気のせい。ただの思い込み。私がそれを受け止められないだけ。
私は写真を剥がし、机の抽斗にしまい込みました。きっとまたこれを見たいと思える日が来るはずだから。
鏡ちゃん……。たぶんあなたは、もう私の魔法を必要としていない。コーデもメイクも、自分一人で出来る。
私は、魔法使いじゃなく、ただのカメラマンになるよ。
◆◆稲葉鼎の場合
N町立スポーツセンター。我がT市からマイクロバスで約二時間、バレーコートを四面も取れる大きな体育館に宿泊施設まで備えた、とても贅沢なスポセンです。
H教大バレー部では毎年ここで合宿をしているそうです。確かに環境は最高ですね。徒歩圏内には遊べるところが何もない。コンビニすらない。
そんな環境で大学生のチームと合同で練習できるなんて夢のようです。
今、俺たちの目標は「春高予選で信成学園に勝つ」こと。その俺たちに、目下インカレ三連覇中のH教育大学が稽古をつけてくれるのです。
雑念を抱えたままでは圭兄にも高橋コーチにも申し訳が立ちません。
高橋コーチの(圭兄の時からですけど)基本方針はゲーム形式の練習です。部員数十一人の俺たちでは二対二か三対三しか出来ませんが、ここではフルメンバーで試合が出来ます。
やっぱり大学生ともなるとレベルが違います。
高さ、スピード、パワー。どれをとっても、二軍チームでさえ信成より格上です。
この人たちと毎日練習試合をするのです。
このレベルに慣れてしまえば、信成と言えども恐るるに足らずです。
ワンセットマッチをやって、問題点を洗い出して、また試合をして……。その繰り返しです。
晩飯を食った後は一時間ほど座学があります。珍しいと思いません? 運動部のメニューに座学なんて。
圭兄は、およそ1年間で俺たちに「弱者の戦術」を教えてくれました。個人の力に依らない、しかし所謂チームワークでもない、堅いレシーブと発想力を活かした戦い方でした。
高橋コーチの戦術はそれを更に進化発展させたものです。なんと言うか、圭兄が直感でやっていたことを言語化・理論化・体系化したと言うか……。まるで数学の授業です。
高橋コーチは今大学三年生です。チームではスタメンどころかベンチ入りさえ出来ないと笑っていましたが、きっと指導者として花開くタイプなんですね。
座学の後は各自個人練習をして、風呂に入ったら間もなく消灯時刻です。もうへとへとです。
ここで俺には憂鬱な時間がやって来ます。
どうしても、かがみんのことを考えてしまいます。あいつは今どうしているだろう。メールしようか。いっそ電話してしまおうか。
かがみんが一人で悩みを抱えているなら、俺がそばに居て支えてやりたい。でもそれがかがみんを追い詰めることになるかもしれない。
あいつは無理に笑っていました。なら、俺が近付こうとすれば、更に無理をさせることになりそうです。
いっそのこと凜に相談しようか……。しかし一度だけ送ったRINEは既読スルー。
合宿が終わったら真っ先に凜のところに行こう。「かがみんのことどう思う?」って聞こう。
それからかがみんに会いに行こう。そうしよう。
問題は、その勇気が俺にあるかどうかだけです。
◇◇◇小田鏡の場合
灯姉とお父さんお母さんからリクエストされて、再び女装を始めた。でも、部屋からは出られない。
鼎はもう家にいるはず。五分歩けば会える距離。
でも僕から会いに行くなんて無理。
鼎……来てくれないかな……。
僕を助けに来て欲しいな……。
鼎……。
鼎……。
◆◆◆高山凜の場合
我が高山家は、二十四日土曜日から一泊二日の温泉旅行です。これは夏休み前から決まっていたことで、行先は霧月湖、宿泊先は霧月ヨンパレス・ホテルです。
水曜の夜、私は久しぶりにノートPCを起動させました。
この魔法使い・高山凜ともあろうものが、たかが失恋くらいでいつまでも落ち込んでいられますかって。たとえ恋が破れても、私は鏡ちゃんを輝かせなければならないのです。
鏡ちゃんに魔法を掛けた者としての、それが責任ってもんじゃないでしょうか? 皆さんもそう思いませんか? 思いますよね?
SDカードが一杯になりかけていたので、PC保存済みのデータを確認しつつカードを空にして行きます。
あ、これ鼎くんが信成戦でサーブミスったやつだ(笑)
こっちは近所の公園で撮ったあじさい。きれいだったな。ポトレの背景に使えそう。
これは? なんだろう、このモザイクみたいなの。ああ、思い出した。夕立の時のアスファルトの路面。よくぞこんなものを撮りましたね私。
さてさて、カメラの準備ヨシ。後は私自身の準備です。しばらくの間色々サボっていたから髪もお肌も悲しいことになっています。
せっかくだから明日は服でも買いに行きましょうか。お小遣いは……うっ、ちょっとだけ……いや……かなり厳しい……。
スマホがまたぴろりんと音を立てました。発信者は鼎くん……。流石にこの時ばかりは胸が苦しくなります。
スルーしようかとも思いましたが、「忙しいから後で」のスタンプでお茶を濁しました。
ごめんね鼎くん。あなたのこと、嫌いじゃないけど……私の代わりに鏡ちゃんを幸せにする人と仲良くお喋りできるほどには、私は人間が出来ていないから。
鏡ちゃんへの連絡もまだできない。
でも新学期までに一所懸命笑顔の練習をして、九月二日は朝イチで「あの時の言葉は本心だよ」とほほ笑む準備だけはしているよ。
◇◇◇稲葉鼎の場合
合宿から帰ったらすぐ、伯父貴に呼ばれました。二十三日のスケジュールが空いたから来いと言うものです。
かがみんに会うだけの度胸を持てない俺は、渡りに船とばかりにその誘いに乗りました。
俺は夏休みですが、他の社会人メンバーは平日なので誰もいません。伯父貴と二人だけというシチュエーションは初めてで新鮮でした。
湖面は凪いで、いつもの水上スポーツの人たちもいません。なんだか、この大きな湖を独占しているみたいです。
タッチ・アンド・ゴー、8の字飛行、ストール、スピン(錐もみ)からの回復……。
一時間くらい飛んで、俺たちは岸に戻りました。岸に着くと念のため機体を係留します。その作業に取り掛かった時、伯父貴が言いました。
「おいカナ、まだ飛びたいか?」
「はい、お願いします」
ふーっと伯父貴が嘆息します。
「俺ァもう疲れたから、次はお前一人で行け」
「はい、了解」
屈み込んでロープを結びながら、俺はふと思いました。
次は一人で行け? 一人で? え?
伯父貴を振り返る俺。無表情のまま頷く伯父貴。
次の瞬間俺は立ち上がり……砂浜に膝を突いて声も出さずに泣き始めました。そしてうずくまり、砂を叩いて号泣しました。
しかし泣いてばかりはいられない。
「ありがとうございます、達郎伯父さん」
「おお、遂に俺の本名キタ――(゜∀゜)――!!」
「はい、半分だけですけど」
「まあいいさ。で、今日このまま行くか?」
「いいえ、いま俺平常心じゃないので……明日またバスで来ようと思います」
「うん、妥当な判断だな。それでこそ俺が見込んだ男だ」
「ありがとうございます」
さあ、土日は泊まり込みで飛びまくるぞ!
第五節:Bad Day.
◆稲葉鼎の場合
伯父貴の車でいったん自宅に帰った俺、ソッコーで泊まり込みの準備をしました。
旅館に泊まるようなカネは無い。なので、クラブの格納庫の二階を利用します。
そこには畳三枚分くらいの、キャットウォークに繋がる物置代わりのスペースがありまして、コンセントもありますから一泊二泊くらいならヨユーです。
親父からキャンプ道具一式を借り受け、インスタント食品を買い込み、即出発です。
夜行バスに乗れば日付が変わる前に到着できるでしょう。
俺はふと思い立ち、かがみんを誘おうかと思いました。
なんの計算もありません。
一緒に行けば、二人でおしゃべりしながら綺麗な月を眺めれば、湖を見れば、かがみんが元気になるような気がしたからです。
スマホを取り出し、メールを開き(かがみんはRINEもSNSもやってないので直メか直電のみです)本文を入力し、後は送信ボタンを……送信ボタンを……押せませんでした。
下書きを削除し、ため息を吐きます。
以前の俺なら迷わなかったかも知れません。恐らく考え無しに誘っていたことでしょう。事実今年の六月まではそうしていたのです。
でもかがみんへの恋心を自覚してからというもの、却って「一歩踏み出す勇気」を失ってしまった気がします。
特に、かがみんが元気をなくしている理由が判らない今は……。
いや、だいたいですね、こんな時間になってからいきなり旅行に連れ出すなんて迷惑でしょうが。それに、かがみんは今元気が無いんだから無理させるわけにもいかないし……。
俺は荷物を背負い、息子の唐突な行動に呆れる母に行ってきますと言って玄関を出ました。
しかしそれにしても、無計画な行動はするもんじゃないっすね。
高速バスを降りたら、乗り換える予定だった路線バスの最終便がまさにドアを閉めるところでした。これに乗り損ねたらターミナルで夜明かしです。
大荷物を背負って大声で叫びながらバスを追いかけ、運転手さんが気づいてくれたおかげで一度走り出したバスが止まってくれて……。
ギリギリセーフでした。かがみんを連れていたら、みっともない姿を見せるところでした。あいつまで巻き込んでこんな所でキャンプなんて、考えるだけでぞっとします。
何はともあれ、格納庫に到着です。
荷物を整理して(格納庫の鍵は伯父貴から借りました)銭湯に行きます。徒歩十分のところに日帰り入浴可の小さな温泉宿があって、クラブのメンバーもしばしばここを利用しています。
これまた閉店ギリギリで間に合いました。
なんか今日の俺、全てがギリギリじゃね?
ひとっ風呂浴びてさっぱりした俺は、缶詰の肉とレトルトの五目御飯で遅い晩飯を済ませ、シュラフにもぐり込んだのでした。
おやすみなさい。
明けて二十四日の土曜日。格納庫のシャッターを開けて、クラブのメンバーの到着を待ちます。
いくら単独飛行を許されたとはいえ、正式な技量認定証を交付されるまでは本当の単独飛行はお預けです。この辺は昨日のうちに伯父貴から説明を受けました。
今日は他のベテランに同乗してもらってのフライトです。
かがみんを乗せて飛べる日はいつになるのやら。
昼飯は近所の定食屋で済ませ、晩飯はクラブのメンバーに連れられて焼肉屋へ行くことになりました。俺のソロを祝ってくれるそうです。
そして夜。皆は帰りましたが、俺はもう一泊です。
寝る前に、もう一度浜に出ました。
ここに通うようになって間もなく丸二年が経ちますが、夜の湖を見るのは初めてかも知れません。小学校の修学旅行の時は大騒ぎしてそれどころじゃなかったし。
独特な形の中島、その真上にぽっかりと浮かぶ満月が、鏡のような湖面に映っています。
この月を、かがみんと眺めたかったなあ。そして「月が綺麗ですね」なんて言ったりして。
うわ恥ずかしい(笑)
腹が満ち足りて眠気を催した俺はスマホを取り出し、湖の写真を一枚撮ってSNSに上げました。
そして格納庫に帰り、疲れからかあっという間に眠りに落ちたのでした。
◇高山凜の場合
八月二十四日、土曜日。霧月湖周辺での観光を終えた私たち一家は、午後三時にホテルにチェックインしました。
霧月湖に来るのは久しぶりです。前回は小学校の修学旅行ですから、実に5年振りですね。
自称宇宙一の大浴場で、お風呂の遊園地です。とにかく大きい! 遊戯施設いっぱい! 温泉だけでなく、プールもあります。
遊び疲れてお風呂に入って、美味しいご飯を食べてまたお風呂……。はあ~、生き返るウ~。
そして客室露天風呂! ここからは湖が一望できます。お父さん、奮発しましたねえ。
あー、写真撮らなきゃ! 大丈夫だってお父さん、人は入らないように撮ってるから! だいたいお父さんのハダカなんて需要ないから!
楽しい! 出来れば鏡ちゃんも一緒に来て欲しかったけど……それは叶わぬ夢なのよ……。
空がすっかり暗くなると、お父さんは下のラウンジへお酒を飲みに行きました。お母さんはアロマサロン、私と翠はゲームコーナーです。
いやあ、遊んだ遊んだ(笑)
部屋に戻った頃にはまぶたが重くて重くて。
先に戻っていたお母さんがアロマの匂いをまき散らしています。お父さんはまだ飲んでいるのでしょうか。
もうどうでも良くなって、ふかふかのお布団にルパン・ダイブしました。
はっと目を覚ましてスマホを見ると、おや、まだ十一時過ぎ。どうしましょう、すっかり目が覚めてしまいました。
もう一度露天風呂に入る?
お風呂のところに行ってみましたが、なんだかめんどくさいな。
しかし夜の霧月湖、初めて見るけどいい眺め……。ベタ凪の湖面、中島、右上の満月。一眼レフを取り出してパシャパシャと何枚か。
そしてSNS用にスマホでも一枚。
投稿してからタイムラインを見ると、あらら?
鼎くんも霧月湖の写真を上げているじゃありませんか。投稿時間は四十五分前。すぐ近くにいるんですねえ。
そう言えば鼎くん、フライング・クラブがどうとかいつも言ってるけどこれのことかな?
メッセージを送ってみましたが、三十分待っても反応なし。
再び眠気を催した私は、妹を押し退けて布団にもぐり込み、そのまま眠りに落ちたのでした。
◆小田鏡の場合
また朝が来る。新学期がその分近付く。
魔法が欲しい。
時間を止める魔法が。
朝食……トーストをひと口かじって、カフェオレは半分残して、目玉焼きには手を付けられなかった。
お母さん……ごめんなさい、心配させて。
僕は大丈夫だから……。
大丈夫だから……。
部屋に戻る。でもすることが無い。
課題は……ああ、半分以上残ってる。
少しでも片付けなきゃ。
片付けなきゃ。
シャーペンを動かすけど、僕、何を書いているんだろう。
これ、なんの問題?
数学?
英語?
この文字の並びからすると現国かも……。
なんだか面倒になってきた。
SNSを開いてみる。鼎と凜には内緒にしている鍵アカウント。ブックマーク……。ここから二人のアカウントを眺める。
鼎の最新の投稿は……あ、霧月湖だ。中島の形ですぐわかる。月が綺麗だ。小学校の修学旅行でいった思い出の場所。鼎と同じ班になれて、すごく嬉しかったやつ。
また行きたいな。
凜の投稿は?
霧月湖……。
これ、霧月湖?
二人、一緒にいるの?
一緒に温泉に行ったの?
そうか。まあ不思議はないよね。
小四からの幼馴染で、ずっと付き合っていて、もう高二なんだし。そのくらいはするか。
ああ。
僕なんかが勝てる相手じゃなかった。
僕も女の子になればどうにかなるかもなんて思って……。
勝ち目のない勝負を挑むなんて……。僕が馬鹿だった。
震える指先でブックマークを外し……。二人をブロックし……。アカウントを削除し……。
そこから先の記憶が、僕にはない。
◇◇稲葉鼎の場合
夏とは言え八月も下旬、湖畔の朝は結構冷え込みます。俺は寒さに目を覚ましました。
八月二十五日、日曜日。腕時計を見れば、九時四十五分。
よく寝たものです。
スマホを充電器から引っこ抜くと……あ、凜からリプが届いている。
なんだよ。あいつ、すぐ近くにいるじゃん(笑)
「おはー」
RINEを送ると数分後には返事が来ました。
『おっは~』
「どこにいるの?」
『家族旅行でヨンパレス』
「いいなー。こっちは金ないから格納庫でキャンプしてるわー」
『いいじゃんアウトドア』
なんという事もないやり取り。かがみんのことを聞いてみようか……。いや、でもなあ……。
「明日かがみんのとこへ行こうか」
震える指で……送信……。
◆◆高山凜の場合
八月二十五日、日曜日。目を覚ますともう九時近く。よく寝たなあ……。
鏡ちゃん、どうしてるかなあ。メール……しづらいなあ。鼎くんが水を向けてくれたらいいんだけど……。
家族も起き始めました。朝食はビュッフェなので十時までに行けば良し。とりあえず顔でも洗いましょう。
豪華な朝食を済ませ、スマホを見ると鼎くんから昨日のリプへの返信が届いていました。
『おはー』
「おっは~」
ここら辺は私たちの日常のやり取りです。
『どこにいるの?』
「家族でヨンパレス」
『いいなー。こっちは金ないから格納庫でキャンプしてるわー』
格納庫(笑)キャンプ(笑)鼎くんらしい(笑)
「いいじゃんアウトドア」
鏡ちゃんのこと、聞きたいな……。鼎くんなら何か知っているかもしれないのに。
——鏡ちゃんのこと、何か知らない?
その文面を送ろうかどうか迷っているところへ——ポコンと通知音。
『明日かがみんのとこへ行こうか』
私は無言でスマホを抱き締めました。
その日の夜遅く、私たちは家に帰り着きました。くたくたでした。
でも明日には鏡ちゃんに会えるのです。楽しみだな。鏡ちゃんに会えれば、それだけで私は幸せです。
今日はもう寝よう……。
◇◇◇稲葉鼎の場合
二十五日の夜遅く、俺は家に帰り着きました。くたくたでした。
かがみんに「明日行くから」とメールを送りましたが返信なし。
3か月前までの、あの状況を連想してしまう……。
ああ、自分のことに感けている場合じゃなかった。
明日はなんとしてもかがみんに会わなきゃ。
そして今、二十六日の昼過ぎ。俺は凜とともに小田家の玄関前に立っています。
抜け駆け禁止協定はまだ有効なので、一旦小田家の前を通り過ぎてさくらや前で合流してからというなんともまぬけな行程を経ていますが。
親戚特権を利用して勝手にドアを……ドアを……あれ? 開かない。鍵が掛かってる。
呼び鈴を鳴らしますが反応なし。おかしいな。一家揃ってお出掛けか?
「留守だね……」
凜の言葉に、俺たちの間には何とも言えない不安と気まずさが流れました。
「電話してみようよ」
凜に促され、スマホを取り出して……。履歴……お盆前の通話が最後……。
『おかけになった電話は、電波の届かないところにあるか、電源が入っていないためかかりません』
「あんだって?」
「どしたん」
「繋がらねえ。電源切ってるっぽい」
「困ったね……あっ、そうだ灯姐さん!」
凜がスピーカー・モードで灯さんに電話しています。
『はい、灯です』
「凜です! 鏡ちゃんと連絡取れないんですが!」
『鏡なら入院してるよ。ごめんね、連絡忘れてたわ』
入院? かがみんが入院?
「お見舞いに行かせてください! 場所はどこなんですか?」
『市立病院。鏡のやつ今すっごく不安定だから、顔見るだけでいい?』
通話が切れて、俺たちは顔を見合わせ、二人同時に黙り込みました。
かがみんが入院……確かにここしばらく元気は無かったけど、そこまで重病には見えなかった。なんで? どうして?
ここに突っ立っていても始まりません。とにかく、今は行動あるのみです。
◆◆◆高山凜の場合
市立総合病院。外来患者でごった返す正面玄関をくぐり、すぐ右側の総合案内で「お見舞いに来ました」と伝えると「直接病棟へ行ってください」と言われました。
ただ、鏡ちゃんの病室番号が分からないと言うと、今度は「防災センターで聞いてください」とのこと。防災センターとは、警備員さんがいる詰め所だそうです。
広い病院内をうろうろし、職員らしき人に何度か尋ねて、ようやく救急玄関の風除室の中にある小さな窓口にたどり着きました。
窓ガラスの向こう側には優しそうな警備員のお姉さんが座っていました。
カウンター上には帳簿のようなものが置いてあって、私は反射的に名前を書こうとしたのですが、「お見舞いですか?」と聞かれ、そうですと答えると警備員さんから「記入の必要はありませんよ」と言われました。
よく見ると、その帳簿は業者さん向けの鍵の貸出簿でした。
入院している部屋が解らないと言うと、警備員さんは入院患者の名簿から鏡ちゃんの病室を調べて親切に教えてくれました。
二階の西病棟へ行ってナースステーションで今度こそ入館の受付をし、言われた部屋へ行きます。
そっと入ると、ちょうど灯姐さんがカーテンの陰から顔を出したところでした。久仁彦伯父さんと理玖おばさんもいました。
「かがみんの具合、どうですか?」
鼎くんが小声で聞きます。
「今は落ち着いてるけど、さっきまで酷かったよ。情緒不安定と言うか、パニックみたいな発作がね」
灯姐さんが教えてくれました。
パニック……発作……いったい何がそんなにも鏡ちゃんを追い詰めたのでしょう。やはり私に原因があるのでしょうか。
鏡ちゃんは私に「鼎のことが好き」と言いました。
そして、何度もごめんねと謝っていました。
あれは何のための謝罪だったのでしょう。
灯姐さんに招き入れられ、私たちは眠ったままの鏡ちゃんに会いました。
別人のようにやせ細り、血の気のない頬はまるで蝋のようです。
見ているうちに、涙が溢れてきました。鼎くんも隣で泣いています。
「いつ退院できるか分からないけど、大丈夫になったら連絡するから。それまでは面会もメールとかも控えてくれる?」
おばさんのお願いに、私たちは「はい」と答える以外にありませんでした。
第六節:ALONE AGAIN (NATURALLY)
◇小田鏡の場合
何かの電子音が少し離れたところから断続して聞こえる。
左側に人の気配がした。目を開けると白衣を着た看護師さんが立っていた。
「あ、気が付きました? 血圧計りますから」
左腕に圧迫感。白い天井と、周りを囲む白いカーテン。ここは病院なのだろうか。
「右腕気を付けてください。点滴刺さってますよ」
ああそうか。僕、入院してるっぽい。
「鏡ちゃん! 鏡! 気が付いたか!?」
お母さん……目が真っ赤。何故かは知らないけど、お母さんは興奮すると男言葉になる。
「鏡……何があったのさ……。丸一日意識なかったんだよ……」
灯姉……。お父さんは? お父さんはどこ?
ここは病院? なんで僕はこんなところにいるんだろう。早く帰らなきゃ。課題がいっぱい残っているんだ。
そう言えばスマホ……どこに行ったんだろう。……どうでもいいか。もう必要ないし。あんなもの、見たくもないし。
廊下の方から聞こえて来る電子音。ああそうだ、あれは何かの医療機械の音。
無味乾燥な電子音。それがまるで子守唄のようで、僕は目を閉じて再び眠りに落ちた。
◆小田夫妻の場合
八月二十五日、日曜日朝。
朝食にほとんど手を付けずに息子が部屋に戻ったのが(その時視聴していたTV番組から推定して)七時五十分頃。
異様な叫び声を聞き、小田久仁彦・理玖夫妻が息子の部屋に飛び込んだのが八時二十分頃。T市消防本部の記録によると、八時二十三分に119番通報が入っている。
その時既に鏡は床に倒れて意識を失っていたそうだ。手にはスマートフォンが握られており、引き剥がすのに苦労したと救急隊員の一人が証言している。
鏡は市立病院救急科へ搬送され、入院となった。(翌々日に神経内科病棟へ移っている)
救急車には久仁彦一人が同乗し、理玖と灯は家に残り、後刻久仁彦から入院決定の連絡を受けて必要なものを持参している。
いくつかの検査や両親への聞き取りを経て、医師が下した診断は「急性ストレス障害(ASD)」(のちに専門医の診察を受け「解離性障害」と診断される)
担当医はDr.大森。偶然だが久仁彦・理玖とは高校時代の同級生。所謂「悪友」というやつだ。おかげでお互い遠慮会釈無しにものが言える。
「身体の検査では衰弱はみられるものの異常は無し。鏡くんは『急性ストレス障害』と思われるな。これは、とても辛い、衝撃的な出来事を経験した直後に起こる、心と体の自然な反応だと考えてくれ」
「鏡くんは今後突然、当時の映像や感覚が鮮明に蘇って来て、またその場に戻ったような感じになることがある。フラッシュバックというやつな。聞いたことあるだろ?」
「頭の中が真っ白になったり、周りの出来事がまるで映画を見ているように感じられたり、感情が麻痺したように感じることもある。これは解離と呼ばれる症状だ」
「当時のことを思い出させる場所や音、人などを、無意識に避けてしまうこともある」
「常に神経が高ぶっていて、なかなか眠れなかったり、物音に過敏に反応したりしやすい状態でもある」
大森の説明を、久仁彦たちは沈鬱な表情で聞いている。
「オレたちは……親として何が出来る?」
理玖が質問した。大森は大きく息を吐いた。
「最も大切なことは、まずは鏡くんが安心できる環境を整えることだ」
「辛い出来事について、無理に話させたり、聞き出したりする必要はない。と言うか絶対しないでくれ。話したくなるまで待つという姿勢で大丈夫だ」
「日常を取り戻すために、少しずつ、規則正しい生活リズムを取り戻せるようにサポートをお願いしたい」
「心配なことや変化があれば、いつでも医療スタッフに相談してくれ」
聞けば聞くほど、久仁彦は血の気が引いていく。いったい何が息子をそこまで追い詰めたのであろうか。
昏々と眠り続ける息子に寄り添いながら、まんじりともせず夜を明かした久仁彦だった。
二十六日十一時、鏡の意識が戻ったとの連絡を受け、久仁彦が病室に到着した。
昨夜は病院に泊まり込み、今朝はそのまま出勤した久仁彦である。体力自慢の彼の顔にも、流石に疲労が色濃く浮かんでいる。
彼はベッドに上半身を起こした息子を見た。
「鏡……鏡……お父さんだよ。わかるかい?」
呼びかけても反応が無い。
虚ろな瞳。
ここ一週間ほどろくに食事を摂っていないせいで、すっかりこけてしまった頬。
スキンケアやヘアケアに熱心だった息子が、見る影もなく瘦せ衰えている。
病衣を着て点滴を受けている姿に、久仁彦は思わず落涙した。
灯に鏡の世話を任せ、久仁彦と理玖はデイルームに移動した。幸いなことに、他に利用者はいない。
「どうしてこんなことに……」
ついつい繰り言が出てしまう。
「鏡ちゃんはね、『消えてしまいたい』って言ったよ」
原因は解らない。解らないが……。
久仁彦と理玖、この二人は幼稚園の入園式からの付き合いである。高校三年生の時に理玖を妊娠させてしまい、その絶望的な状況を親の支えで切り抜けて結婚に至った二人である。
「子は親の助けなしには生きられない」
それを誰より理解している二人である。
理屈などどうでもいい、俺たちがこの子を守るんだ——二人は決意を込めて視線を交わした。
それはそれとして、彼らにも日常というものがある。
市役所勤務の公務員であり、管理職でもある久仁彦がいつまでも職場を離れているわけには行かない。大黒柱である彼には家族を養う責任がある。
後ろ髪を引かれる思いで久仁彦は病室を後にした。何があってもお前を守ってやるぞと呟きながら。
二十六日十七時。久仁彦は十六時半で早退し、再び病室を訪れた。
眠っているのか、覚めているのか。半眼の、ぼんやりとした表情で横たわる鏡。灯がげっそりした顔で説明する。
「また大暴れしてさ。鎮静剤打たれちゃったよ」
「そうか。フラッシュバックがあるんだな」
「ちょっと一休みして来ていい?」
「ああ。お腹減っているだろう? これで何か食べて来なさい」
久仁彦は灯に食事代を渡し、丸椅子に腰かけて考え始めた。
中学に入ったあたりから、鏡は不登校にまでは至らなかったが引き籠りがちになった。
その間ずっと鼎くんと凜ちゃんが我が家を訪ねてくれていたな。
六月頃から鏡は女装を始めて、実に楽しそうだった。子供の頃の明るさが戻って来ていた。
お盆の前くらいだろうか。女装をしなくなったのは。
てっきり我が家を訪れる親戚一同への配慮だろうと思っていた。だがお盆が過ぎ、彼らが去っても女装しようとしなかった。母さんたちが熱心にリクエストして再開したが、部屋に籠るようになったのはそこからだ。
この辺りにヒントがありそうだが……。
二十七日、昼休みが終わったばかりの久仁彦のスマホが鳴った。理玖からだ。
何かあれば直ぐ知らせるように言ってある。その何かが起きたに違いなかった。電話を取ると理玖の悲痛な声が響いた。
『鏡が……退院するって聞かないんだ……』
「分かった。すぐ行く」
それだけ言うと久仁彦は早退の手続きを取り、病院へ直行した。
「許可は出来ないよ」
大森医師は断言した。
「体は……若いからすぐ回復するかも知らんが、精神的なダメージが大きい。とてもじゃないが日常生活をおくれるレベルじゃない」
久仁彦にも異存は無い。だが問題は鏡だった。
「おうちに帰りたい……帰りたいよオ……」
理玖にしがみつき、泣きじゃくっている。こんな姿は幼稚園以来じゃないだろうか。
「なあ大森。俺としてもお前を信頼してるし、病院に居た方が良いってことも分かっている。だが……」
久仁彦の涙腺も崩壊寸前だった。
「短期間でいいんだ。自宅に戻してやるわけには行かんだろうか? まずいと思ったらすぐ連れて来るから……」
大森も迷っている。万が一のことを考えたらこのまま入院させておくのがベストだろう。
だが……しかし……。
幼児退行を起こしたかのように泣く少年を見ていると自信が揺らいでくる。風見ちゃん(大森はいまだに理玖を旧姓で呼ぶ)は専業主婦だ。大学生のお姉さんもいると言うし……。
「……自宅療養……という名目でなら……」
「ほ、ほんとか大森!」
「あくまでも自宅療養だからな。週に二回は神経内科の外来を受診させること。ちょっとでも怪しいと思ったらすぐ入院させる。あと、もうすぐ新学期だが、通学なんて以ての外だぞ。九月いっぱいは自宅でおとなしくしていること。いいな?」
「いいとも! いやあ、持つべきものは親友だなあ(笑)」
「うるせえ(笑)」
大森は鏡に向き直り、その頭を撫でた。
「なあ鏡くん、おうちに帰りたいかい?」
無言で肯く鏡。
「帰れるよ。嬉しい?」
鏡は泣き笑いの顔になった。両親でさえ久しぶりに見る笑顔だった。
帰宅したからと言って、元通りの生活に戻れるわけではない。大森医師が言う通り、これは治療の一環なのだ。久仁彦と理玖は、鏡の様子を大森にメールで送り続けている。
食欲は相変わらず戻らない。スキンケアやヘアケアはしていない。女装もしていない。
自分の部屋には篭らないが、独りになることを恐れ、常に母と一緒にいる。夜も夫婦の寝室で寝ている。
だが穏やかな表情で、時折笑顔も見せる。フラッシュバックは起きないようだ。
このまま回復してくれれば……。夫妻は微かに希望を持った。しかし——。
九月二日、月曜日の朝。夫と娘を送り出した理玖はリビングへ戻った途端、息を呑んだ。
そこには、制服を着た鏡が立っていたのだ。
「ちょっと鏡、何してんだ?」
「何って……。今日は始業式だから……。学校行かなきゃ。課題終わってないけど……」
「無理だよ……大森先生も言ってたろ……九月いっぱいはダメだって……」
「大丈夫……大丈夫……」
「大丈夫なわけないだろ。ほら、部屋に戻って……」
「大丈夫だってば!」
鏡が叫んだ。理玖でさえ、今まで一度も見たことのない険しい怒りの顔だった。理玖はたじろいだ。
次の瞬間、鏡の表情は和らぎ、「大丈夫だよ、お母さん」と言った。
「僕はもう大丈夫だから。これ以上お母さんに迷惑掛けられないし……。それにね」
玄関のドアを開け、鏡は振り返った。
「失恋くらいで落ち込んでいられないさ」
そう言い残し、へたり込む理玖を残して鏡は出て行った。
その連絡を受けた久仁彦は思わず席を立った。椅子が倒れ、部下たちが驚いて彼を見上げた。
「(大丈夫なものか。これは……惨劇の幕開けだ!)」
◇稲葉鼎の場合
九月二日、月曜日。二学期の始まりです。
かがみんについては情報がありません。恐らくは登校は無理でしょう。でも万が一の期待を込めて、俺は小田家の玄関を開けました。
理玖伯母さんが居たので俺はちょっとびっくりです。しかもよく見ると泣いていたらしく、目が真っ赤でした。
「どうしたんですか? 何があったんです?」
「鼎くん……鏡ちゃんが……鏡ちゃんが……」
「かがみんが?」
「学校へ……行っちゃったの……」
聞けばかがみんは今月いっぱいは自宅療養するはずだったとか。それなのに、学校へ行った……?
なら何故俺が来るのも待たずに?
胸の中に積乱雲が沸き上がるように不安が膨らんで行きます。
俺はそのままさくらやに向かって走り出しました。
さくらや前で凜と合流し、事情を手短に説明します。凜も真っ青になっていました。
とにかく、今は何が何でもかがみんに追いつかなければなりません。追い付いてどうするとか考えている余裕もありません。
しかし何という事でしょう。教室に駆け込んだものの、そこにかがみんの姿はありませんでした。
◆高山凜の場合
始業式当日の朝。私はぼんやりとさくらや前に立っています。鏡ちゃんは……来れないでしょうね。
灯姐さんからも理玖おばさんからも、鏡ちゃんの情報は来ていません。きっとまだ病院にいるのでしょう。
せっかく三人で登校できるようになったと思ったのに、私の魔法はいったい何だったのでしょう。役に立たなかっただけならともかく、却って悪い結果を招いてしまったのではないでしょうか。
「りーん!」
鼎くんが凄い顔をして走ってきます。
「かがみんが! 学校へ行ったって!」
怪訝な顔をする私。冷静沈着が売りの鼎くんが、しどろもどろに説明します。
鏡ちゃんは少し前から自宅療養している。
今月一杯は療養する予定だった。
でも今朝、お母さんの制止を振り切って登校してしまった……。
それだけ聞くと、私は返事もせずに駆け出しました。
息せき切って教室に入りましたが、鏡ちゃんはいませんでした。他の人たちに聞いても姿を見ていないと言います。
どういうこと?
不安は募りますが、いったいどうしたらいいのか……。
ふと思いついて、私は鏡ちゃんに電話してみることにしました。おばさんからは止められていますが、こんな場合だから許して貰わねばなりません。
スマホを取り出して……。電話帳……灯さんの次、鏡ちゃんの名前。「発信」をタップ……。
プツッ、ツー、ツー、ツー、ツー、ツー、ツー……。
「は?」
なにこれ……。もう一度……。
プツッ、ツー、ツー、ツー、ツー、ツー、ツー……。
なにこれ……。手が震える。世界が揺らぐ……。
「凜、どうした?」
「着信拒否されてる……」
「あんだって?」
鼎くんが電話をかけ始めて……。
「俺もだ……」
何これ……。なんなのこれ……。
中学から今年の五月まで、私たちはずっと鏡ちゃんから避けられてきた。
でも、メールや電話をスルーされることはあっても、着信拒否まではされていなかった。
だから、私たちは希望を繋いでいられた。
それなのに……。いったいどうして……。何故?
予鈴が鳴りました。
間もなくHRが始まります。鏡ちゃんを探しに行きたいけれど、席に着かなければなりません。
担任の本多先生の声が廊下から聞こえてきました。
「こら小田、何をしとるか! 早く教室に入れ!」
◇◇小田鏡の場合
鏡は、いま息も絶え絶えに歩いている。
それほど速足でもない。いや、むしろ他の人より遅いくらいだ。それなのに息が切れる。明らかに体力が衰えているからだ。
校門を過ぎ、正面玄関に向かう間にも何人もの生徒に追い越される。大半は鏡のことなど、存在すら気にも留めない。せいぜい「おい、早く歩けよ。邪魔なんだよ」といった者がいるだけだ。
玄関で上靴に履き替えたものの、鏡にはそこから先へ行く勇気が無かった。 教室へ行けば、嫌でも鼎と凜に会わなければならない。
考えた末、鏡は校内のどこかに身を隠し、予鈴ギリギリまで待つことにした。先生と同時に教室に入れば、少なくとも二人から声を掛けられずに済むのではないだろうか。
一歩ずつ、一歩ずつ、階段を登る。一歩ごとに息が切れる。誰もいない廊下を歩く。
予鈴が鳴りだした。だいたい計算通り……。今日は満足げに微笑む。
「こら小田、何をしとるか! 早く教室に入れ!」
担任の本多先生だった。後ろからいきなり背中を叩かれ、鏡は転びそうになったが辛うじて踏みとどまった。
本田先生は前の戸から、鏡は後ろから教室に入る。
後ろ側に座っている生徒の何人かが鏡に視線を送ったが、興味関心を示す者はいなかった。ただ鼎と凜だけが、鏡のあまりの変わりように目を見張っているだけだ。
HRが終わり、次は始業式。体育館への移動が始まる。
鼎と凜は真っ先に鏡に声を掛けた。いや、掛けようとした。
「おい、かg」
鏡はその場に倒れた。操り人形の糸が切れたみたいだったとクラスメイトの一人が後に述懐している。
慌てたのは鼎と凜の他は担任だけだった。他の者たちはそのまま体育館に向かった。誰も倒れた鏡を気に留めていない。彼らの関心は夏休みの思い出と、これからの予定だけだ。
凜の魔法が完全に効力を失った今、鏡は「自分たちとは無関係の員数外の陰キャ」なのかも知れなかった。
凜の叫びも、鼎の震える指先も、鏡にはもう届かなかった。
倒れ込む瞬間、鏡は何も感じなかった。痛みも、恐れも、呼ぶ声さえ、すべて遠くにぼやけていく。
——ああ、もういいや。
夏の終わりの、静かすぎる諦念だけが彼を包んでいた。
九月二日、午前八時三五分。鏡の夏が終わった瞬間だった。
And the summer whispered, “You’re not done yet.”
(第四章:了)
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
第四章は鏡が壊れていく「散華」の章でしたが、後半では彼の心がどこで、どのように折れてしまったのかを描くことを意識しました。
そして節のラストで“夏が終わる”瞬間に立ち会っていただけたなら幸いです。
次章では、鼎と凜がようやく“事実を知るための一歩”を踏み出します。
彼らがどう動くかによって物語は一気に転がり始めますので、続きも見守っていただけると嬉しいです。
感想・ブクマ・評価など頂けますと、とても励みになります。
引き続きお付き合いいただければ幸いです。




