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第三章:飛翔JULY, she will FLY.①

七月。

夏の日差しの下、三人の関係は少しずつ形を変えていきます。

「魔法のドレス」から始まった物語は、いまやそれぞれの“飛翔”の物語へ。

恋と友情、そしてほんの少しの嫉妬が、静かに動き出します。


――これは、少年たちが「誰かを好きになる」という魔法を、自分の言葉で確かめていく物語。

第3章・前編「飛翔 July, she will FLY」開幕です。

第一節FLY me to the MOON.


◇稲葉鼎の場合


 朝の日課のランニングを終え、二度目の朝飯を頂きます。ごちそうさまでした。

 昨日の撮影会は最高で最低でした。

 山田の策略にまんまと乗せられ、コスプレすることになってしまった俺。全く恥ずかしい。

 しかしかがみんを抱きしめてしまった俺。あの感触、温もり、忘れようったって忘れらんねえ。なんか新しい扉が開いた気がする。

 山田のやつは「ない扉は開かない。今開くか、後で開くかだ」と言ってたけど、半分以上はあいつの所為だからな((# ゜Д゜))ムキー!


 ええい、煩悩を捨てろ稲葉鼎。今日からはまた三人で登校するんだ。

 玄関を出ると朝日が眩しい。五分歩けばかがみんの家。親戚特権で勝手に玄関に入ります。

「おはようございま~す!」

「あらカナくん、おはよ~」

 我が初恋の女性(ひと)、灯お姉さん。相変わらず美しい(*´ω`*)

「かがみんを迎えに来ましたー!」

「ちょっと待ってね、鏡おー! カナくん来たよー!」

「はーい」

 二階からかがみんの声が小さく聞こえました。このやり取り、前回は中一の頃だったよな。階段を下りてくる足音にテンション上がります。

「おはよう、鼎」

「お……おはよう」

 うわー。なんか、めっちゃ照れくさい(笑)今日のかがみん、やたら色っぽいし! なんと表現したらいいか……そう、まるで女の子! 女装してるわけじゃなのに、全身からオンナノコの匂いを漂わせている!

 高くなった心拍数を感知されないように、俺は言葉を探しました。

「眼鏡やめたんだ?」

 ちょっと声が上ずったかもしれません。

「うん。慣れたらコンタクトレンズもいいかなって。どお? 変じゃない?」

「変なものかよ。似合ってるぞ」

 あっ、ここは可愛いって言うべき場面だった?

「ありがと」

 ああ、かがみんの笑顔! 俺はこのために生きて来たんだ(゜´ω`゜)ウルウル

 次は凜と合流だけど、本当にこのまま学校に行っていいのかな? 色々不安だな……。


 教室に入ると案の定、皆がざわめきました。そして俺の耳には、野郎どもの性癖の捻じ曲がる音がはっきりと聞こえたんです。

 ヤベえ。俺たちはとんでもないものを生み出してしまったのかも知れねえ。

 休み時間の度に野郎どもがかがみんの周りに集まっています。全く腹が立つ! そりゃあ今のかがみんは妖しいフェロモンを放っていて、確かに魅力的ですよ?

 でもお前ら、昨日までかがみんをただの陰キャ扱いしてたよな? かがみんが困っている時も何一つ手を貸そうとしなかったよな? それどころか無視したり、戸惑ってるかがみんを笑ったりしたこともあったよな?

 俺や凜がかがみんのためにどんだけ力を尽くして来たか知らないだろ?

 それを、ちょっとばかしかがみんが変わったからってそこまで露骨に態度変えるのか?

 恥ずかしくないんか、おのれら!

 教室移動の時、植木のやつがかがみんの手を取ったので俺はその前に立ち塞がり、わざとらしく咳払いをしてやりました。

 植木が青ざめました。

「あ……お呼びでない? お呼びでないね?」

 俺は黙ったまま頷きます。

「こりゃまた失礼いたしました(笑)」

 愛想笑いでごまかしながら逃げ去る植木。俺はかがみんの手を引いて理科室に向かいました。他のやつらを、特に男はかがみんに近づけたくねえ!



◆高山凜の場合


 撮影会でテンションを上げ過ぎた私は、筋肉痛とともに目を覚ましました。しかし愚図愚図してはいられません。早く起きないと妹が攻撃を仕掛けてきます。一昨日は耳元でクラッカーを鳴らされました。

 何より今日は、また鏡ちゃん鼎くんと並んでの登校なのです。思えば三人並んで歩いたのは、中学校の入学式以来じゃないでしょうか。

 いつもの駄菓子屋前で二人を待ちます。もう間もなく、あの角を曲がって姿を現すはずです。

 あ、来ました来ましたキマシタワー!

 鼎くんと並んで歩く鏡ちゃん。朝日を浴びてキラキラと輝いております。一幅の名画を見るようです。

「おっはよ!」

「おはよう」

「おはよー!」

 ああっ、これです。これなんです、私の待ち望んでいたものは! さあ、学校へ向かいましょう。クラスの皆も鏡ちゃんを見て驚くはずです。

 それにしても鏡ちゃん、色っぽいが過ぎない?

 着ているのは間違いなく男子の夏服なのに、女の子と間違えられそう。

 確かに髪はつやつやでサラサラだし、メイクしているわけでもないのにお肌は透き通るように白くて……。

 眼鏡を外したから? 二重にしたから? でもそれだけで? ああ、そうか。笑顔だからだ。鼎くんのジョークに弾けるように笑う鏡ちゃん。

 あの頃の笑顔が戻って来たからだ。私の魔法、大成功! でもこんなもの腐女子どもに見せたらパニックが起きるのでは? 本当にこのまま登校してしまってもよいものでしょうか?


 教室に入ると案の定ざわめきが起きました。皆鏡ちゃんに注目しています。そりゃそうです、今の鏡ちゃんはこんなにも輝いているんですから。私も誇らしくなります。

 その一方、教室のそこかしこで女子グループがひそひそと囁きを交わしております。内容は聞かなくても解ります。きょう×かなorかな×きょうの討議です。

 くだらないなどと言ってはなりません。左右を間違えたら戦争です。これに比べたらきのこたけのこなど些細な問題です。

 ただ私は、この尊い(てえてえ)姿を他の腐女子の目に晒したくないと思いました。架空のキャラクターならともかく、この二人は実在の人物(ナマモノ)ですよ? あいつらの手が触れたら本当に腐ってしまうかも知れないじゃないですか。

 鏡ちゃんと鼎くんを、可能な限り二人切りにしてはならない。私は秘かに決意しました。



◇小田鏡の場合


 今日からまた鼎や凜と一緒に登校することになってしまった。

 愉快と憂鬱が七:三くらい。

 コンタクトレンズの異物感はまだ残っている。でも僕は眼鏡をやめようと思っている。あの二人と並んでいても違和感がないようにしたい。

 しかしサトーやヤマを忘れたりはしない。陽キャの仲間入りなんて僕には無理だから。

 鼎が迎えに来たらしい。灯姉(あかねえ)が呼んでる。そんな大声出さなくても聞こえるよ。

 正直、このまま鼎の前に出るのはもの凄く照れくさい。笑われたりしないだろうか。

 恐る恐る、階段を下りて行く。いつも通りの鼎の笑顔に安心する。

「おはよう、鼎」

 ついつい声が小さくなってしまった。

「お……おはよう。眼鏡やめたんだ?」

 やっぱり鼎が戸惑ってる。眼鏡にしておけばよかった。

「うん。慣れたらコンタクトレンズもいいかなって。どお? 変じゃない?」

「変なものかよ。似合ってるぞ」

「ありがと///」

 ほんと恥ずかしい。顔を見せたくなくて、僕はさっさと玄関を出た。


 凜は僕を見て笑いを堪えるような、妙な顔をしていた。僕が笑いたくなるほど変になったと言うなら、それは凜の所為だからね。

 並んで歩き出したはいいけれど、僕には共通の話題がなかった。その点鼎は話題が豊富だから、僕は聞き役に徹することにした。ただし生返事だけはしない。

 教室に着いたらなぜかみんなの反応がおかしい。女子は寄って来ない(これはいつも通り)で何かこっちを見てひそひそと会話している。まったく、嫌な感じ。でも気にしない。陰口をいちいち気にしていたら陰キャは務まらないのだ。

 男子たちの態度は露骨におかしかった。皆が急に優しくなった気がする。鼎や凜と一緒だったからカースト上位者に仲間入りしたと思われているのだろうか。

「小田くん、荷物重いだろ? 持ってあげるよ」

「小田くん、次は理科室だよ。早く行こう?」

 それはいいが、なんで手を引っ張ろうとするんだ。めっちゃ気持ち悪い。

 鼎が来てくれなかったらあんな奴と手を繋がなければならなかったかも知れない。本当に気持ち悪いったらありゃしない。

 これからはなるべく鼎と一緒に居よう。



第二節MOON RIVER.


◆稲葉鼎の場合


 六月中旬、インターハイ予選を三回戦で終えた俺は凜からコスプレイベントに誘われました。去年も行った屋外でやる大規模イベントです。そこへ今年は三人で行かないかと言われたんですよ。

 めちゃくちゃ行きたかったっす。でも行けなかったんです。

 その日はフライング・クラブの定例会の日で、俺の正式な入会が承認される日だったんで。こればっかりは欠席するわけには行きません。涙を(体感でドラム缶三本くらい)呑んで断りました。

 かがみんを巧く誘えずに困っていると凜が言うから、手伝ってやろうかと思ったら自分でやるって言うし。

 あいつはすぐ暴走するから心配していましたが、結局上手く行ったようで何よりでした。


 霧月湖へ向かう道中、伯父貴から問い詰められました。何故先週は来なかったのかと。

 勘弁してください、俺の大切な人たちのためだったんです。

 凜からは時々刻々と報告が入ります。寝坊した、朝食を摂った、カメラバッグを玄関に置いた、メイクとコーデが決まらない、玄関を出た、かがみんが来ない、かがみんと合流した、バス停に着いた……もうええっちゅうんじゃ(笑)楽しそうで何よりです。たぶん今夜のSNSは賑やかになるでしょう。


 会議では予算とか活動方針なんかが話し合われ、航空事故の事例が紹介されたりしました。そして最後に俺の件です。

 来たる七月七日、俺の十七歳の誕生日を以て正式会員と認めることが全会一致で承認されました。

 先輩の皆さん。改めまして、ご紹介にあずかりましたH県立南高校2年、稲葉鼎です。

 人生最悪の時期に伯父貴に救われるようにここに連れて来られ、以来自力で空を飛ぶことが夢で、ここにその第一歩を踏み出せることを本当に嬉しく思います。

 御覧の通りの若輩者ではございますが、空の先輩方の教えを胸に、安全第一で、ひとつひとつの訓練に真剣に取り組んで参る所存です。

 そしていつか、自分で設計した機体で、誰かの夢を乗せて飛べるようなパイロットになりたいと思っています。

 ここまで支えてくれた伯父貴、家族や仲間、そして今日こうして迎え入れてくださったクラブの皆様に心から感謝いたします。


 時おり凜のSNSをチェックしつつ、この日のフライトに掛かることになりました。

 この「霧月フライング・クラブ」は現在三機のULPを保有しています。すべて同じ型式で、うち一機は伯父貴の個人所有、クラブ所有の二機のうち一機(初號機)は破損が酷く格納庫の片隅に放置され、部品取りに利用されている状態です。

 チェーンブロックで機体を吊り上げて台車に乗せ、五百メートル先の湖岸までは人力で運びます。俺が一番若いので、力仕事は当然俺の役目です。

 うちの機体は全て耐空証明を取得しています。

 耐空証明っていうのは車で言うところの車検証みたいなもので、この飛行機はちゃんと安全に空を飛ぶことが出来ますよっていう意味です。これがなければ空を飛ぶことは出来ません。

 湖岸に着いたら折り畳んであった主翼を展張し、機体の最終点検をします。外観を見て、亀裂や折れ曲がり、羽布(はふ)の裂けや破れ、燃料や冷却液の漏れがないことを確認します。三舵に触れて、ガタつきが無いことを確認します。

 操縦席に乗り込み、操縦桿とフットペダルを最大限に動かし、舵が正常に動いていることを確認します。極稀に、レリーズ索の連結を間違えて舵の動きが逆になっていることもあるので注意しなければなりません。

 燃料の残量を確認します。クラブの決まりとして最後に乗った人が満タンにして帰ることになってはいますが、運航前点検を省略する理由にはなりません。

 異常なしです。メインスイッチを入れ、エンジンを起動します。プロペラが回りだすので、その前に周囲に注意喚起しておかなければなりません。

 ULPのエンジンは自動車のように一発始動という訳には行きません。コツがいるのです。今日は上手くかかりました。

 暖機運転をします。CHT(シリンダー・ヘッド・テンプ=エンジンで最も熱くなる所の温度)の針が動き出したらゆっくりとスロットルを開きます。回転計、出力計を見ながらフルスロットルまで上げます。異常がないことを確認したら一旦エンジンを停止させます。

 機体を降りてログを付けます。所定の用紙に本日の日付、飛行開始時刻、エンジンのアワ・メーターの数字、搭乗者名を記入します。

 フロート支柱にロープを結び付け、台車ごと水の中に押し出します。機体が水に浮かんだら台車を引っ張り上げ、次は機体を引っ張って岸に着けます。ここで先ほど結び付けたロープを解きます。

 今日は俺の正式入会を祝って一番に乗せてもらえることになりました。ラッキー!

 フロートと胴体についている手掛け足掛けの棒を伝って操縦席まで行きますが、これが結構大変です。鋼管に羽布を張った機体は足を乗せる場所、踏んで良い場所がないのです。

 身の軽い俺が先に乗り、伯父貴の搭乗を助けるのが慣例です。乗り込んだらキャノピーを閉めます。うちの機体は密閉式風防です。

 手動ポンプを三回押してシリンダー内に燃料を送り込み、十分気化した頃合いを見計らってスイッチオン。今度はなかなか上手くかかりません。五回目でやっと成功しました。まったくもう。()らすんじゃないよ、エンジンちゃん。

 ここ霧月湖は水上スポーツが盛んです。水上バイクやモーターボートが湖面を走り回り、ウインドサーフィンをやっている人もいます。中島の向こう側には遊覧船もいます。彼らを危険に晒すわけに行かないので離着水には十分注意しなければなりません。

 岸辺に残ったメンバーからOKの合図を待ってエンジンの回転を上げます。今日は向かい風、風速は二メートル。波もありますが穏やかで、絶好のフライト日和です。

 岸から十分離れたらフルスロットル。十ノット……二十ノット……ぐんぐん速度が上がります。

 波頭を乗り越える時の衝撃が、ドン、ドン、ドンとリズミカルに下から突き上げてきます。三十ノット……四十ノット……速度が上がるにつれて間隔が短くなり、五十ノットで操縦桿を軽く引くとスッと衝撃が消えます。

 後はスロットルそのままに速度を六十ノットに維持し、高度を上げて行きます。

 地上がどんどん遠ざかっていきます。人や車が動いているのがはっきり見えます。まるでジオラマのようです。百メートルも上がるともはや「高い」という感覚はありません。「遠い」感じがします。

 高度五百メートルに達したら8の字飛行の訓練開始です。ストール(失速)とグライド(滑空)の訓練もして、一時間で戻ることになりました。

 無線で地上へ連絡し、旋回しながら高度を下げて行きます。この時三十メートルで霧月村役場の上を通過するのがポイントです。

 進路上に障害が無いことを無線で確認しつつ、最後のアプローチです。スロットルを更に絞り、速度を落とさないように機首を下げます。視線は遠くへ向けます。そうしないと水平が分からなくなるのです。

 目測で高度五メートル、操縦桿を少し引きます。あとは接水するまで我慢です。

 ドン!と大きなショックが来て着水成功です。再びスロットルを開け、速度が上がらないように操縦桿を目いっぱい引き付けます。方向舵を使ってUターンし、岸に向かいます。水上バイクの皆さんが並走しながら手を振ってくれました。こちらも風防を開け、挨拶を返します。

 接岸ギリギリのところでエンジン停止、惰性で岸に着くようにします。

 ゴズッ!という音がしてフロートの先端が砂にめり込み、機体の行き脚が止まります。

 再び足場に苦労しながら浜に降り立ちます。一時間のフライトで体がゴワゴワになっています。今日も無事に戻れました。ありがとうございました。

 スマホを見るとヤマからのDMが入っていました。かがみんと連絡が付かないと言うので、今日は街中のコスプレイベントに言っているはずだと返しておきました。


 次のメンバーが機体に乗り込みます。自分がしてもらった通りに支援しなければなりません。機体の向きを変え、搭乗を手助けします。

 エンジンが掛かりました。進路上に障害物はありません。いってらっしゃい!



◇高山凜の場合


 今週末、ここT市では年に一度の屋外コスプレイベント、通称「コスガ(Cosplay Garden)」が開催されます。

 私の次なる目標はそこに鏡ちゃんを連れて行くことでした。しかしなかなか同意をもらえません。人前に出るのは恥ずかしいと言うのです。

 今回鼎くんは都合により参加できません。それに毎回毎回彼の力を借りると言うのも申し訳なく、自分で何とかしなければならない局面です。

 でも私は鼎くんのように作戦を考えつくような頭脳は持ち合わせておりません。結局出来ることと言えばふぇりっくすさんに相談することだけでした。

 ふぇりっくすさんは以前から鏡ちゃんに会いたがっており、自分を利用してくれて構わないとまで言ってくださいました。本当にありがとうございます。

「鏡くんが来るにしても来ないにしても、僕は亜里沙をやるから」

 山田くんに聞いたところ、亜里沙とは(霖太郎以外で)魔理奈とよく組む、パートナーのようなキャラクターなのだそうです。青いドレスを着た金髪の女の子のイラストを見せてもらいましたが、これはアリだと思いました。

 二人の美少女(中身は男)が並ぶ姿なんて、見るだけで心が満たされるじゃありませんか。

 以上の情報を以て、放課後の部室で鏡ちゃんと最後の交渉です。

「あのね鏡ちゃん。この前のイベントの話なんだけど」

「ええ……」(←露骨に嫌そうな顔。私の心は既に複雑骨折しています)

「ふぇりっくすさんがね、鏡ちゃんに会いたがっているの」

「ふぇりっくすさんが?」

「そう。なるべく目立たないところで会うだけならどう?」

「会うだけ?」

「うん。写真も無理に撮らなくていいよ」

「あー、コスプレはさせるのね。いいよ、仕方がない」

「ホント!? ありがと~!」

 感極まった私は鏡ちゃんに抱き着こうとしましたが寸前で回避されました。無念(๑•́ ₃ •̀๑)チェー

「あのね凜ちゃん。女子が気安く男子に抱き着いたりしたらダメだよ。誤解されたらどうすんのさ」

 大変申し訳ございませんm(_ _)m

「そうそう、ふぇりっくすさんがコレやるんだって。鏡ちゃん知ってるキャラ?」

「亜里沙でしょ? 同人誌で見たやつ」

「二人並んだら可愛いよねー。楽しみだなー」


 そして待ちに待った当日、妹のフライパン叩き(フライパンをお玉でガンガン叩くやつ)で叩き起こされた私は、持ちものの最終点検を行い、玄関を出ました。いつもの駄菓子屋「さくらや」前で鏡ちゃんを待ちます。

 五分待ちました。

 十分待ちました。

 十五分が過ぎました。叢雲の如く不安が広がります。

 二十分が過ぎました。もしかして、ドタキャン? この界隈では稀によくあると聞きますが、鏡ちゃんに限ってそんなことは無いと信じます。

 二十五分、まだ鏡ちゃんの姿が見えません。私はもう涙目です。通り過ぎる人々の視線が刺さって痛いくらいです。

 三十分。ようやく鏡ちゃんが現れました。

「もー、鏡ちゃん。三十分も待ったんだからね!」

 何はともあれ、バスに乗りましょう。心が躍り、会話も弾みます。

 火御子(ひのみこ)神社下で降車したら、長い坂を登ります。キャリーケースを転がすお仲間たちが大勢います。

 社務所横のプレハブが受付です。一人千七百円を払って私はカメラ、鏡ちゃんはコスプレの参加証を手に入れました。

 パンフレットも頂きました。注意事項がたくさんありますのでよく読んでおかなければなりません。

 ふぇりっくすさんとの待ち合わせは十一時に末社前です。現在十時半、まだお見えになっていません。

「ねえ鏡ちゃん、ちょっとだけ撮ってみない?」

「え? あ、うん……」

 あまり気乗りしないようですが、慣らし運転的にシャッターを切りました。

特にポージングや表情も意識しないテストショットに過ぎませんが、それでも自然光の下で撮る鏡ちゃんは過去最高の輝きを放っています。

 やはり自然光こそが最強の照明です。

 一息ついたところへふぇりっくすさんが到着しました。撮影は後回しにしてお茶会の始まりです。

 この席で、私はふぇりっくすさんが女装を始めた理由を聞くことが出来ました。鏡ちゃんと同じように、この人も自分のコンプレックスを克服しようとしていたんです。初めて知りました。

 しかも「凜ちゃんが撮ってくれた写真がバズったおかげで自分のしていることが間違っていないと確信できた」とまで言ってもらえたのです。

 カメラマン冥利に尽きるとはこのことです。


 お茶会の後は二人一緒に撮影することになりました。なんだかふぇりっくすさんまでが鏡ちゃんに魔法をかけてしまったみたいです。

 大きな神社なので撮影スポットがたくさんあります。目立ちたくない鏡ちゃんに配慮して末社の陰のところで撮っていたのですが、誰にも見つからないわけがありません。他のカメラマンからも声を掛けられます。また同じゲーム作品のキャラの方からも是非ご一緒にと希望されます。

 鏡ちゃんも初めは恥ずかしがっていたのですが、ふぇりっくすさんに励まされたのか少し経つと笑顔で応じるようになっていました。

 そこでハプニングが起きました。山田くんが現れたのです。鏡ちゃんがびっくりして固まってしまいました。



◆小田鏡の場合


 なんとかって言う街の中でやるコスプレイベントに凜からしつこく誘われた。

 冗談じゃない。コスプレも女装も、鼎と凜だけだからOKしたんだ。無関係な第三者に見られて堪るものか。

 本当にその時点では断るつもりだった。女装は自分だけの趣味に留めるつもり(あ、言っちゃった///)だったのだ。でも、ふぇりっくすさんが僕に会いたがっていると聞いて少しだけ心が動いた。

 ヤマとサトーの罠にかかったのは事実だけど、その前にふぇりっくすさんの写真を見たのがきっかけなのは事実だ。そのふぇりっくすさんを直に見られるなら……しかもふぇりっくすさんは亜里沙をやると言う。ヤマの薄い本で見た魔理亜里を自分で再現できるのなら……少しだけ恥をかいても耐えられるかも知れない。


 当日の朝、家を出るのが少し遅れてしまった。直前になってビビってしまったからだ。

 雨でも降らないだろうか。未練がましく空を見上げる。雲一つない、澄み切った初夏の空。

 ああ、贅沢は言わない。雨粒が無理なら、せめて隕石か、出来れば小惑星の一つでも落ちて来てくれないだろうか。

 衣装の入ったバッグを抱え、覚悟を決めて玄関を出たものの、どうしても歩みが遅くなる。待ち合わせ時間を五分遅れてしまった。凜ちゃんゴメン。

「もー、鏡ちゃん。三十分も待ったんだからね!」

 ……その内の二十五分は僕の責任じゃないよね?


 バスの中で凜はずっと独りでしゃべり続けていた。適当に聞き流してはいたが。

 およそ三十分でメイン会場の火御子神社。ここで受付をして参加証をもらう。これがあればコスプレしたまま色々なお店に入れるし、連絡バスも無料で利用できるのだそうだ。

 着替える前に凜にメイクをしてもらった。これで三度目だけど、本当に魔法のようだ。僕の顔がどんどん魔理奈に変わっていく。こういうのも自分で出来たらいいのにな。

 更衣室には女装レイヤーさんが僕の想像以上にいっぱいいた。ひょっとしたら、女装ってそんなに珍しいことではないの?

 着替えが終わったらまた凜と合流、ふぇりっくすさんとの待ち合わせ場所へ向かう。


「やあ鏡くん、初めまして。ふぇりっくすです」

 実際に会ったふぇりっくすさんは僕より十㌢は背が高く、そして美しかった。

「撮影は苦手なんだって? じゃあまずはそこらでお茶でもしようか」

 思ったより気さくな人で、僕も緊張せずに済んだ。三人で入った境内の中の喫茶室で、ふぇりっくすさんは色んなことを話してくれた。

 ファンシー雑貨を集めるのが趣味なこと、趣味が高じてファンシーグッズのデザイナーになってしまったこと、でも会社での評価はあまり高くないこと、職場以外では普段から女装していること、休日は女装してスイーツショップに行くのが習慣なこと、コスプレは違う自分を発見するためだったこと、凜の写真がきっかけで有名人になってしまったこと。

「聞いてもいいですか? ふぇりっくすさんは、そもそも何故女装を始めたんですか?」

「ハハッ。答えにくいことを聞くね、鏡くんは」

「あ……ご、ごめんなさい」

「構わないよ。凜ちゃんにも以前聞かれたよね。あの時ははぐらかしたけど、いい機会だ。教えてあげる」

 ふぇりっくすさんは、紅茶のカップを皿の上に戻して話し始めた。

「僕はねえ、自分が大嫌いだったんだ……」

 いくら鍛えても筋肉が付かない細い体も、女っぽい顔立ちも、そのくせ普通に低い声も、そして可愛いものが大好きな性格も。

 おまけに高校卒業直前に大病を患って三年間を棒に振り、その間ずっと世界から切り離されていると感じていた。

 偶然病室で見た魔法少女アニメの「どんな困難にも勇気を奮い起こして立ち向かうヒロイン」に強く憧れた。

 その時思ったんだ。この女っぽい顔も、細い体も、誰かと比べてコンプレックスを感じる必要はない。ヒロインになるための、誰にも真似できない最高の才能だって。

 女になりたかったわけじゃないんだ。でもこの体なら、あのヒロインの持つ勇気と力を、僕という男の延長線上にある「最高の可能性の姿」として、再現できるんじゃないかって。

 それ以来「必ず病気を治して、憧れのヒロインの姿になって、現実の世界をこの足で歩いてやる」と目標を立て、それが生きる希望となった。

 今ではこうして魔法で変身して女の子になって、人生に立ち向かっている。

 女装は僕にとって、男である自分を否定するためのものではない。女装が似合うという「僕の才能」を肯定することなんだ。

 僕の女装とコスプレは、諦めかけた人生を再起動させる『起動装置ブースター』であり、現実と戦う『戦闘服コンバット・スーツ』なんだ。

 あと、好きな人を振り向かせたいってのも少しだけあったかな? 結構いい雰囲気になったんだけどね。思い切って告白して、思い切り玉砕したよ(笑)だけど後悔はしていないかな。「自分は自分」って思えるようになったからね。


 今はこんなに輝いている人でも劣等感に塗れていた時代があるんだ。意外としか言いようがなかった。

「ねえ鏡くん。一緒に凜ちゃんの写真に写りたいんだけど、ダメかなあ?」

 断れるはずがなかった。断る理由がなかった。

 ふぇりっくすさんと一緒に撮影していると、色々な人から声を掛けられた。自分にも撮らせて欲しいと言う脂ぎったおじさんカメラマン。一緒に写って欲しいと言うコスプレの人。

 どちらも僕が男だと言うと驚く。それが面白かった。凜には悪いけれど、他の人に撮ってもらうのがなんだかすごく楽しくなってきた。これも魔法なんだろうか。

 ふぇりっくすさんと並んでベンチに座り、調子に乗って撮影に応じていたらヤマのやつが現れた。何故いる? 内緒にしておいたのに!

「いやあ偶然偶然(笑)」

 わざとらしく笑うヤマ。絶対嘘だ。どこから情報を嗅ぎつけやがったのか。

「めっちゃ可愛いぞ、かがみん。俺にも撮らせてよ。いいだろ?」

「男に可愛いって言うなー!」

 嫌だった。ヤマに見られるだけでも恥ずかしいのに、ましてや写真に撮られるなんて。

 でもその時、ふぇりっくすさんが僕をぎゅっと抱き寄せて耳元で囁いてくれたんだ。

「もっと自信を持って。鏡くん、君は『可愛い』んだから」

「は……はい」

 僕はこの時、初めて自信を持ってレンズを見ることが出来た気がする。それはそれとしてヤマ、お前は後でお仕置きな。



第三節the RIVER flows on and ON.


◇高山凜の場合


 今回のイベント参加は結果として大々々成功でした。

 イベントに連れ出せれば(=人前でコスプレさせれば)御の字と思っていたのに、鏡ちゃんは私に向かって言ってくれたのです。「僕に魔法をかけてくれてありがとう」って。

 私は胸が一杯でした。言葉が出て来なくなり、代わりに涙が零れました。

「お礼をしたいんだけど、何がいいかな」

 思いがけない言葉に一瞬頭が真っ白になりました。言葉が勝手に口から出てしまいました。

「じゃあ私と付き合ってよ」

 ……言ってしまいました///(〃∇〃)キャーハズカシーィ

「え?」

「次の休みに水族館に行こう」

「ああ、そういう意味ね。いいよー」

 おや? 一世一代の告白だったはずなのに、微妙に外した気がします。直ぐに水族館の話を持ち出したのは失敗だったかもしれません。

 しかしデートの約束は取り付けました。

 水族館と言えば恋人予定者の聖地みたいなもの! その時改めて告白することにしましょう。がんばれ私!

 あとは「コスプレでない女装」をしてもらうだけです。ふぇりっくすさんのおかげで道は既に整っています。イベントからの帰り道、私は鏡ちゃんを自宅に誘いました。

「ねえ鏡ちゃん、水族館に行くときさあ、私の服、来てみてよ」

「え?」

「ふぇりっくすさんも言ってたでしょ? 鏡ちゃん、才能あるよ!」

「う……」

「コスプレだけじゃなくて、ポートレートも撮りたいの。どお?」

「ポートレート?」

「そう。普通の服で撮るやつ。私の服、貸してあげるからさ!」

「……うん。わかった」

 その時の私の気持ちをお察しください。天使がラッパを吹き鳴らしながら空を舞っています。


 鏡ちゃんは私の家に来ることを酷く嫌がりました。「誤解される」というのです。小学生の頃は普通に私の部屋で、鼎くんと三人で遊んでいたのですが。高校生にもなるとやはり意識してしまうものなのでしょうか。

 それでもなんとか「家には入らない、玄関先で服を受け取るだけ」を条件に鏡ちゃんを自宅までに連れて来ることが出来ました。

 私の部屋にまで来てくれればちょっとしたファッションショーをやれたのに、これでは無理ですね、残念。

 ラッキーなことに鏡ちゃんと私は体の大きさがほぼ同じです。鏡ちゃんの恥ずかしがり屋の性格を考慮して大人し目のデザインの服を選び、その中にミニスカートと、ある秘密兵器を混ぜておきました。

 これを鏡ちゃんに手渡します。妹は中身に興味津々でしたが秘密ですよ。

当日これを着て来てくれれば良いのですが、着て来なくてもまあ良しとしましょう。水族館デートさえできれば!

 ああっ、来週が待ち遠しい!



◆稲葉鼎の場合


 霧月湖からの帰りの車の中、俺はつい助手席でうとうとしかけてしまいました。伯父貴の車に乗せてもらっている身で居眠りとは義理を欠く行為ですが、眠りに落ちる寸前にスマホが振動し、意識を取り戻しました。

 凜からのRINEでした。恩に着るよ、凜。

 文面は──「鏡ちゃんと水族館に行くことになった!」

 その一文を見た瞬間、胸の奥に小さな下降気流マイクロ・ダウン・バーストが発生した気がしました。

 どっちから誘ったんでしょう。かがみんは水族館が大好きなんです。単純に、かがみんの好きなところへ行くだけなんでしょうか。

 水族館って、恋人同士が、あるいはこれから恋人になるかもしれない二人が行く場所じゃないか? 二人きりで水族館なんて、それは「デート」ですよね?

 凜は、単純にかがみんに魔法をかけているだけじゃない。かがみんと恋人になりたいんです。

 凜とかがみんの中が進展しているのなら、それは喜ばしいことです。そのために俺は力を貸していたんですから。

 おめでとうと返信しようとしましたが、どうしても指が動きませんでした。理由ははっきりしています。嫉妬です。

 でも、俺は何に嫉妬しているんでしょう? 部室スタジオでの記憶が蘇りました。寝落ちしたかがみんを抱きしめた感触が思い出されます。あの時掌に感じた体温も、鼻腔をくすぐった匂いも、大腿直筋の上に加わった重みも、艶やかな唇の輝きも、寝息さえ俺の感触として未だに生々しく残っています。

 画面の中の「楽しみ!」というスタンプがどうしようもなく遠い世界の話に見えた俺は、訳の分からないスタンプを送ってお茶を濁しました。

 直ぐ後にかがみんからもメールが来ました。三人で水族館に行こうとのお誘いです。

 散々迷いましたが、俺はバレーの練習を口実に断りました。


 夜、家に帰りついた俺はかがみんからめちゃくちゃ怒られました。

 自分の部屋に戻ってかがみんに「ただいま」のメールを送ったらあいつが押しかけてきて、イベントで山田と遭遇した一件を問い詰められたってわけです。

 俺は土下座しました。腕組みして俺を見下ろすかがみん、そのかがみんに叱られているうちに俺は背筋がぞくぞくして来て、かつてない興奮を味わいました。

 山田に見せてもらった同人誌の中に「魔理奈に踏みつけられて歓ぶ村人」ってのがありまして、読んだ時は全く理解できなかったんですが、今なら解ると思いました。あれ~? もしかして、俺ってHENTAI?


 いや、そんなことはどうでもいいんです。今はかがみんのご機嫌を取らねばなりません。この場合の科白は一つだけです。

「迂闊でした。お願いします、許してくださいなんでもしますから!」

「ん? 今なんでもするって言ったよね?」

「あ……はい」

「じゃあ次のイベント、一緒に来て。霖太郎やってもらうから」

 どうやら拒否権はなさそうですorz しかし俺のコスプレ姿を衆目に晒すのは恥ずかし過ぎます。なんとか妥協案を探らねばなりません。

「あの……スタジオじゃだめですか?」

「僕は衆人環視の中で恥ずかしい思いをしたんだけど?」

「あ……はい」

 もう駄目だ……。腹を括るしかないのでしょうか。

 助けて! 誰かが必要なの。

 助けて! 誰でもいいってわけじゃないけど。

 助けて! 誰かが必要なのは分かってるだろう?

 助けて!



◇小田鏡の場合


 ふぇりっくすさんは不思議な人だ。僕みたいなコミュ障の陰キャでも安心して話せる。一緒にいると落ち着くし勇気が出る。なんというか、すごく可愛いのに男らしくてカッコいい。イベントに参加して良かったと思う。(ヤマと遭遇したのは想定外だったけど、三角締めで締め上げてやったらありがとうございますと言いながら情報源をゲロした。鼎は後で絶対処す)

 僕も女装を続けてみようと思った。人前に出るかどうかは別として、コスプレじゃない女装もしてみたくなった。そうなると女の子の服が必要だけど、どうやって手に入れたらいいんだろう。灯姉や母さんには相談できないし、自分で買うことも出来ない。凜はその辺も手伝ってくれるだろうか。

 

 イベント自体は夜遅くまで続くらしい。ふぇりっくすさんは行きたい撮影スポットがたくさんあると言って連絡バスに乗り、僕らは余り遅くなるわけにもいかないので途中で別れて帰ることになった。

 駅前のバスターミナルでふぇりっくすさんとさよならし、駅ビル内に設けられているイベント用臨時更衣室を借りて元の男子高校生の姿に戻った。本当に「魔法が解けた」って感じがする。

 帰りのバスを待つ間、僕は言わずにいられなかった。

「ねえ凜ちゃん。僕に魔法をかけてくれて、ありがとうね」

 凜がぽかんとしていた。照れ隠しに僕は言葉を続けた。

「お礼をしたいんだけど、何がいいかな」

 そうしたら凜は「私と付き合って」と言った。驚いたが、水族館に行くから付き添えと言う意味だった。あーびっくりした! 鼎を裏切るわけじゃないと判ってホッとした。

 でも意外だな。凜、そんなに水族館が好きだったっけ? まあ僕が水族館大好きだから構わないけど。 鼎も誘った方が良いよね? 変に勘繰られたくないし。

 それはそれとして、ヤマに情報を漏らした件は必ず処す。


 またバスに三十分揺られ、凌雲公園前で下車。「さくらや」前で別れようと思ったら凜が家へ寄って行けと言う。小学生の頃なら当然のようにそうしていた。

 でも今は違う。いくら幼馴染とは言え、鼎の彼女の家に僕一人が上がり込むわけには行かない。僕は遠慮したが、しかし今日の凜はしつこかった。

 ポートレート撮影用に自分の服を貸してくれると言うので、家族がちゃんと在宅していることを確認の上、玄関先で荷物の受け渡しのみの条件で家に寄ることにした。凜の家なんて五年振りだった。

 結局おばさんのお招きでリビングでお茶を頂くことになった。

 おじさん、おばさん、元気そう。ご無沙汰してしまってごめんなさい。妹の(みどり)ちゃん、ずいぶん大人っぽくなってる。もう中学生だっけ? 昔は人懐っこくて可愛かったけど、今日はなんだか視線に敵意を感じる。気のせいかな? 大丈夫、お姉ちゃんを盗ったりしないよ。

 凜から紙袋を受け取った。中に入っているのは凜の服。出来るだけ肌が出ないものを見繕ってもらった。翠ちゃんが中身を気にしていたけど、こればっかりは秘密にしなければならない。

 家路を急ぐ。女の子の服(それも借り物)を抱えて外を歩くなんてものすごくドキドキする。コスプレ衣装の比じゃない。悪いことをしているわけじゃないのに、背徳感が凄い。

 職務質問されたらどうしよう。



第四節ON your marks get set GO.


◆稲葉鼎の場合


 その夜、俺は一人悶々と無駄な時間を過ごしていました。

 何も手に着かず、夢うつつの中で脳裏に浮かぶのは二つの事柄、二人の水族館デートと、自分が参加するだろうコスプレイベントのイメージだけ。

 薄暗い水族館の通路。青く光る水槽の前で仲良く手を繋ぐ凜とかがみん。二つの人影が、やがて一つになります。俺はそれを離れたところからただ見つめるだけです。かがみんが元気になってくれればそれでいいし、その上で凜の恋が実るならオール・オッケーです。

 レイヤーとカメラマンでごった返すイベント会場。霖太郎になり切った俺は、魔理奈になり切ったかがみんを力強く抱き寄せてポーズを取ります。恋人同士の設定なのだから遠慮は無用。魔理奈も俺に抱き着いて来ます。カメラマンからは冷やかされますがありがとうございます、俺にとっては声援です。

 スマホがRINEの通知音を奏でます。凜からでしょうが、手に取る度胸がありません。

 メールの着信音も時折鳴ります。こちらはかがみんでしょうか。やはり読む気になりません。

 全てをぶち壊しにしたくなります。世の中に、嫉妬ほど見苦しい感情があるでしょうか。

 凜の恋が実るようにと願いながら、いざその時が来るとそれに耐えられない——いや、凜が俺から離れて行くのが嫌なのか?

 違います。凜とかがみんが結ばれたら、俺は部外者になってしまう——それが嫌なのでs……いや、それも違います。

 何なのでしょう、この整理の付かない感情は。

 山田に情報を漏らしてしまった。

 折角かがみんが誘ってくれたのだから、一緒に行くと言えば良かった。

 なんでもするなんて言わなければ良かった。

 後悔ばかりが頭の中を渦巻いています。

 ——タスク・フォーカス——圭(にい)の言葉がふと浮かびました。自分のコントロールできない外的要因に意識を向けず「今自分がすべきこと」「目の前の一事」に集中すること。

 では、今の俺に出来ることは何でしょうか。俺はそっと呟きました。

「次は、俺があいつを誘う」

 行先は、角山動物園でGo!



◇高山凜の場合


 やりました。やってしまいました。

 私の服を、鏡ちゃんに手渡してしまいました。

 しかも、昨日着てまだ洗濯していないやつをです! なんということをしてしまったのでしょう!

 しかもしかもしかも! パンツとブラまで混ぜてしまいました///

 あ、変な想像しないでください。下着は洗濯済みですし。これにはれっきとした理由があるのです。

 次のミッションは鏡ちゃんに「普段着の女装をさせること」です。ふぇりっくすさんも言っていましたが「コスプレの時だけ女装」では不十分なんです。鏡ちゃんのコンプレックスを払拭し、自己肯定感を最大化するための、これは試練なのです。

「女の子の服を着ること」に慣れてもらわなければなりません。女装が戦闘服なら、下着は装備の基本、土台です。見えないところから整えなければ意味がありませんよね? ね? あなたもそう思いますよね?


 嗚呼、それにしても水族館デート! なんて甘美な響き!

 先日の魔理×霖撮影もエモかったけど、あれは作り話に過ぎません。鏡ちゃんへの魔法を完成させるには、本物の女の子になってもらう必要があるのです。

 手段を選んでいる余裕はありません。


 食事と入浴を済ませた後の独りの時間。スマホの画面には鏡ちゃんに渡した衣服の写真が写っています。

「ちゃんと着てくれるかな……」

 露出の少ない、ライトブルーの長袖ワンピース。布の質感、襟元のレース、袖の透け感を指先でなぞります。

 頭の中で自然と浮かぶのは——その服を着た鏡ちゃんの姿!

 最初は撮影モデルとしての想像でした。けれど、だんだんと彼の表情がやわらぎ、視線が合い、頬が紅く染まります。

「ねえ、凜ちゃん……これ、似合ってる?」

 妄想の中の鏡ちゃんの声に、私の胸が高鳴ります。

「うん……すごく、可愛いよ」

 気づけば、自分の唇が微かに動いていました。枕に顔を埋めて、ひとりじたばたします。

「私、なに考えてるの……」

 でも妄想はやめられない止まらない。

 自分の服に自分の香りが残っていることを思い出し、それが今、鏡ちゃんの体を包んでいるのかもしれない、私の匂いが鏡ちゃんの肌に沁み込んでいくのだと思うと、頭がぐちゃぐちゃになってもうどうしようもない。

「……いいよ。明日になったら全部、冗談にするから」

 言ってはみたものの、そんなことが出来るでしょうか。その「時」が来るまで、止まるんじゃねえぞわたし!

 私が恋人になれば、あの衣装はポートレート撮影用ではなく、二人だけの日常の服になるのです。私が選んだ、私と鏡ちゃんだけの秘密のユニフォームに……。

 ふと思い出します。妹は鏡ちゃんを変な目で見ていました。きっと私の宝物に嫉妬しているのでしょう。

「ふふふふふ……」

 思わず笑みが零れます。残念でした。鏡ちゃんは私だけのマジックアイテムなんだから!



◆小田鏡の場合


 家に帰りついて、大急ぎで部屋に籠った。早急に解決しなければならない問題がある。

 一つには、凜から預かった服をどこに隠すか。

 いま一つは、当日家族にバレないように出かけるにはどうしたらよいか。

 まだある。本番前に試着をしなければならない。

 考えあぐねた末、服はキャリーケースに入れておくことにした。キャリーケースも凜から借りたもので、中に同じく借り物のコスプレ衣装が入っていることは母さんや灯姉も既に知っている。木を隠すなら森の中だ。

 当日は駅のトイレかどこかで着替えるとしよう。

 試着は……明日の夕方にするか。明日なら母さんはおばあちゃんとお出かけ、灯姉はアルバイト、圭兄ちゃんもバレー部のコーチで遅くなるはずだ。父さんの帰りが五時四十五分より早くなることは無いし。

 よし、決まった。

 落ち着いた僕は凜からもらった紙袋を開けてみた。なんだろう、この匂い。汗と柔軟剤が混じった、とてもいい匂い。

 水色のワンピースが出てきた。大人っぽくて結構いいデザインだ。

 黒いキャミソールも出てきた。ワンピースの下に着るやつだろうか。

 なんか緩い感じの長袖Tシャツ。良い感じ。

 ひらひらのミニスカートが二枚。これは却下。何考えてるんだ凜は。

 そして最後に出て来たのは……パンツとブラ……。何考えてるんだ凜はああああああああ!!!!!

 しかも、しかも……これ使用済みのやつだよね!? 何考えてるんだ凜はああああああああ!!!!!!!

 こんなもの持ってるのがバレたらHENTAI扱いだよオ! ああ、どうか家族に見つかりませんように!


 翌日。僕は学校ではニマニマ笑う凜となるべく目を合わせないように過ごし、鼎とも後ろめたいので可能な限り接触を避け、授業が終わると即帰宅。

 誰もいないのを確かめ、ドアチェーンを掛けて試着を始めた。パンイチになってキャミソールを着てみる。

 鏡の前に立ってみたけど……。うーん……。は、恥ずかしい……。これは恥ずかしい。初めてスカート穿いた時の比じゃない。

 でも……。この感覚、どうしよう、癖になるかも……。

 Tシャツとミニスカート。どうしよう。ちょっとだけ試してみるか。いやいやいや、無理無理無理(笑)

 やっぱりやめようか。でも水族館でポートレートは約束しちゃったし……。仕方ないよね?

 仕方なく、本当に仕方なく、ワンピースを着てみた。サイズはピッタリだ。鏡に映った僕は、確かに女の子だった。肩のラインが柔らかく見える。腰のくびれも、思っていたより細い。

『女装は僕にとって、男である自分を否定するためのものではない。女装が似合うという「僕の才能」を肯定することなんだ』

 ふぇりっくすさんの言葉。これが……僕の才能なんだ。

 少しずつ調子が出てきた。鏡の前で踊るように揺れてみる。どんどん楽しくなってきて、僕は笑いが止まらなくなった。

 あくまでも撮影用だけど、これで凜と外を歩けたら……。似合っているって言われて、きれいな写真を撮ってもらえたら。もし鼎に「可愛い」なんて言われたら、僕はもう男ではいられなくなるかも。

 笑い疲れた僕はソファーに身を投げ出し、そのままうたた寝をしてしまったのだった。


 ドアチャイムが鳴ったような気がした。夢なのか現実なのか判断が付かなくてぼんやりしていたら、インターホンから父さんの声が聞こえてきた。

『おーい、開けてくれー』

 そうだ、ドアチェーンを掛けておいたんだった。寝ぼけまなこを擦りながら玄関に出てチェーンを外す。

「お帰り、お父さん」

「ただいま。なんでチェーンなんk」

 ドアを開けると父さんが入って来たが、そのまま固まってしまった。目を見開いて僕を見ている。なんでだろう?

 あっ。

 そう言えば僕、ワンピース着たまま……。耳まで赤くなるのが自分でも分かった。

「あ……あの……お父さん、これは……」

「鏡? 鏡なのか?」

「う、うん」

「あ~びっくりした。理k……母さんが若返ったのかと……」

 あれ? そっち?

「みんなはまだ帰ってないのか?」

 肯くと、父さんは僕の手を引いてリビングへ連れて行った。そして僕をソファーに座らせ、スマホで写真を撮り始めたのだった。

「ちょっとー! なんでドア開きっ放しなのー?」

「あ、お父さんお帰り&ただいまー」

 そこへ母さんと灯姉まで帰ってきた。もうだめだ。おしまいだorz

「なになに? 何やってんの?」

「あらパパ、その子はだぁれ?」

「ふふっ。誰だと思う?」

 母さんたちが僕をまじまじと見ている。本当に、穴があったら入りたい。

「「鏡(ちゃん)?」」

「当たり~。どうだい、ママの若い頃に瓜二つだろ?」

「ちょっとパパ(笑)三十年も前の写真どこから出した(笑)」

「でもほんとに同じ顔してる(笑)」

「似合うよなあ」

「似合うよねえ」

「ここ一カ月、スキンケアとヘアケア頑張ってたもんなあ」

「でさ、鏡。この服はどこから?」

 姉の質問から始まり、結局僕はすべてを白状させられた。土曜日にはお母さんと服を買いに行くことになり、日曜日は初めから女の子の格好で出掛けることになってしまったのだった。



第五節GO ahead, make my DAY.


◇稲葉鼎の場合


「あれっ、稲葉じゃーん」

「なんでいるの?」

「珍しいですね先輩。彼女にフラれたんですか?」

 体育館の鍵を開け、独りで支柱を運んでいる俺に対し、第一声から失礼な奴らです。ここは土曜日の午前の南高体育館。

 昨日の夜、俺は凜に先んじてかがみんを誘おうとしましたが、家族と出掛けると言われ失敗に終わりました。それで今日は仕方なしにバレー部に顔を出したわけです。

「カナもやっとやる気出してくれたか」

「インハイ予選、惜しかったですからねえ」

 圭兄と話しているのはバレー部の新コーチ、高橋清二さん。圭兄の大学の後輩で、秋からVリーグ入りする圭兄に代わり俺たちの指揮を執ってくれる人です。一学期中は引き継ぎで二人一緒に指導してくれています。

「よーしカナ、お前普段サボってる分メニュー追加な」

「酷えや圭兄(笑)」

「コーチと呼べやゴルァ!」

「へいコーチ」

 体をほぐしたら対人パスから。今日の俺は凡ミスばかりです。

「よそ見すんな稲葉ー!」

 高橋コーチからも怒られました。

 今の俺たちのテーマは守備の強化です。特にブロックとレシーブの連携が不十分ということで、ゲーム形式の練習を沢山やっています。(コーチの大学のチームとの練習試合も定期的に組んでもらえています。人脈って大切だなあ)

 三対三がメインですが、チーム編成を毎回変えてやるのは気分が変わって常に新鮮です。色々な組み合わせの中でメンバー同士の相性の善し悪しが分かって来るのが面白いですね。

 上がったトスを思い切り打ちます。コート外から歓声が上がりますが、心はまるで晴れません。

 今頃あいつら、何してんだろうな……。

「中止! 中止!」

 圭兄の大声が響きました。

「カナ、お前今日は下がれ」

 めちゃくちゃ怖い顔で俺を睨んでいます。俺は項垂れてコートを出ました。代わりに一年の星が入ります。

「少しは集中しろ。いま小松と接触しかけたのも気づいてないだろ」

「はい……すみません」

 三対三の間、俺はずっとボール拾いを命じられました。その間ずっと考え続けました。

 俺はあの二人の保護者じゃありません。二人を見守ってやれるほど大人でもないです。なら、もう少し自分に素直になっても許されるでしょうか。その「素直」がなんなのか分からないんですけど。

 休憩中、座り込んで水を飲む俺のところに圭兄が来ました。

「お前にしちゃ珍しいな。悩みがあんなら聞くぞ?」

「何を悩んでるのか解らないのが悩みっす」

「あれまあ、重症だな。まあ、偶にはうちに飯食いに来いや」

「はあ……」

 めっちゃ行きにくいや。四年間ずっとかがみんに避けられて落ち込んで、ようやく普通に会えるようになったら今度は俺がこの有様ですよ。なんなんだかなあ。


 スパイク練が始まりました。もう一本、もう一本……ボールを叩く音が、胸の奥のざらつきを一瞬だけ消してくれる気がしました。でも次の瞬間には、また新しい棘が刺さって。いくら打っても終わりません。

 何本目だか分かりませんが、変な打ち方をして手首を痛めてしまいました。患部を押さえて顔を顰めているとまた圭兄に怒られてしまいました。

「お前今日は雑念だらけだな。そんな気持ちで練習しても意味は無いぞ。今日はもう上がれ」

 まったく情けない。俺は頭を下げて体育館を引き上げました。

「ちゃんと病院で診てもらえよー!」

 圭兄の声が背中に刺さります。明日はどうしようか。霧月湖に行ったところで、こんな状態じゃ飛行機に乗るのも危険でしょう。

 無為に過ごすことになってしまうのかな。


 本当に無為な日曜日でした。何も手に着かず、ベッドに寝転がって時折SNSをチェックするだけです。そこには楽しそうな凜の投稿が流れて来ます。

 昼直前、電話が鳴りました。圭兄からです。無視したかったです。きっとかがみんもこんな気持ちで四年間を過ごしていたんだろうな。

「はい、鼎っス」

『おう、ショボクレてんなあ』

「そげなことねっスよ」

『嘘こけ(笑)今ウチ俺しか居ねえんだよ。寂しいから飯食いに来いや』

「あれ? 練習は?」

『高橋に丸投げ(笑)(笑)(笑)』

 ああ、圭兄。俺のために時間取ってくれたんだ。もう泣きそう(´;ω;`)ウッ…

「りょーかーい、すぐ行きます~」


「お邪魔しま~す」

「おう、座れ座れ。手首は大丈夫か?」

「はい、これくらい大したことないっす」

「捻挫を甘く見るなよ? まあ、大したものは無いが、遠慮なく食えや」

 テーブルにはパスタとサラダが並んでいました。独身料理の定番ですね。いや文句はありませんけど! 一切ありませんけど!

「昨日は散々だったよなあ。なんか嫌なことでもあった?」

「……」

「今日は鏡と凜ちゃんが水族館に行ったらしいけど、それと関係ある?」

「……」

「あるよなあ。自分の彼女が親友とデートだもんなあ」

「あ! いえ、凜は……彼女とかじゃないんで……」

「あれっ? そうなの? 俺はてっきり……」

「……はい。いや、好きは好きですけど、別に告白とかしてないし、付き合ってるわけでもなくて。それに、今日もデートとかじゃなくて。ただの水族館見学っすよ。俺も誘われたし」

「『ただの』って言葉を使うときは、たいてい『ただの』じゃないんだ」

「……」


「俺……最近自分が分からないンす。なんか……かがみん見てると……こう、落ち着かなくて」

「うん、そりゃあ恋だな」

「ゲホッ!」

 圭兄の即断に俺は咽て、パスタが鼻から出てきました。

「そりゃあないっすよ! だってあいつ、男だし……」

「独り占めしたいんだろ? じゃあそう言うことだよ。まあ理屈は後でいい。感情は、理屈より早く動くもんだ」

「……」

「昨日の練習も酷かったしなあ。お前、ボールに八つ当たりしてただろ?」

「……はい」

「まあな、気持ちに正解なんかねえから。『何が正解か』なんて悩んでも意味ねえよ。自分が選んだ道を正解にして行くしかないんじゃないか?」

 簡単に言うなあ、圭兄は。でもその言葉を聞いた時、俺の中で縺れた糸が解けて行くような感覚が生じました。

「だいたいお前さ、鏡のために南高(ナンコー)に来てくれたんだろ? 信成の推薦蹴って」

 選択肢を間違えちゃいけない、誰かを傷つけちゃいけない。そればかり考えていた俺にとって、圭兄の言葉は背中に生えた翼のようでした。

 凜への想いは嘘じゃなかった。でも、かがみんへの新しい気持ちも多分嘘じゃない。いずれどちらかを選ばなきゃならないだろうけど、焦る必要は無い。

 圭兄がコーヒーを淹れてくれました。

「俺もVリーグから声掛かった時は嬉しかったけど怖かったよ。俺がプロでやって行けるのかってな」「でもな、親父から言われたよ。未来のことはだれにもわからない、そん時ゃそん時だって」

 なんだか腹の底から笑いがこみ上げてきました。

「……ありがとうございます、圭兄。なんか、すげぇ楽になりました」

 言葉にした瞬間に、胸の奥に痞えていたものがすっと抜けた気がしました。吸い込む空気が甘く感じます。

「人に教えるのは得意なんだよ。自分のことになると迷うけどな」

 俺はまた噴き出しました。兄貴らしいや。

「ところで、鏡の様子はどうだ? その……学校で、とか」

「……あいつなら絶好調ですよ。俺が保証します!」

 その言葉に、自分でも驚くほど迷いがありませんでした。

 明日は、胸を張って会いに行けます。



◆高山凜の場合


 さくらや前で待つこと四十分。日曜日の午前九時。初夏の空は晴れ渡っていますが、わたしの心は曇り空です。

 四十五分が経ちました。あの角を曲がって現れた鏡chあれ? 違いました、別の女の子でした。

「凜ちゃん、お待たせー」

 あれっ? やっぱり鏡ちゃんでした。涼しげなサマーニットにパステルグリーンのマキシ丈スカート、私が知らない服を着ています。

「家族に全部バレまして……母さんたちにいろいろ遊ばれた結果がコレ」

 ははあ。薄手のニット越しに、可愛らしいキャミに夏を主張させるとは。お母さんたち、やりますねえ。メイクもバッチリ決まっていて、ちゃんと女の子です。

「すごいよ鏡ちゃん。とっても似合ってて……すごく可愛い!」

 私が褒めると(お世辞じゃありませんよ!)鏡ちゃんは恥ずかしそうに微笑みました。

「鼎も……そう言ってくれるかなあ……」

 あらら。これはいけません。

「もう、鏡ちゃん! 今日は私とデート(←ここ強調)なんだから! 鼎くんの話題は無し! OK?」

「あ、はい」

 よーしうむうむよーし。気合を入れて、さあ、お出かけしましょう!


 路線バスでターミナルまで、そこから高速都市間バスで隣街のM市営水族館までおよそ一時間。今度こそ会話を弾ませなければなりません。

 はあ~……。それにしてもこの可愛らしさ、こんな至近距離で見つめていられるなんて。

 車内は結構な混雑ぶりですが、私たちを奇異の目で見る人はありません。それどころか大学生らしきカップルの女性の方が鏡ちゃんを指して「あの子可愛い」と言ったのです。彼氏の方が調子に乗って「お付き合いしたい」と言い出し彼女から肘鉄を喰らっていましたが。

 皆さん、分かりますか?

 鏡ちゃんは客観的に見ても可愛いのです。その「可愛い」を、私は今独り占めにしているのです。第三者の意見が私の独占欲を正当化します。

 どこかのバス停で年配の女性が乗り込んできました。私たちの横を通り過ぎる時にその方がパスケースを落とし、鏡ちゃんが拾って手渡しました。

 その方は、私に向かって「親切な妹さんね」と言いました。鏡ちゃんが照れています。

「はい、自慢の妹です」

 私は元気よく答えました。

 再び走り出したバス。窓から差し込む光に照らされ、私の鏡ちゃんがキラキラと輝いておりました。


 水族館もまた賑わっておりましたが、しかし鏡ちゃんが女の子の服でいることに、もう何の違和感もありません。皆の好奇の視線も、今は「可愛らしい女の子二人組」を見ているものに違いないと思えるのです。

 暗い洞窟のような展示室、青い光に包まれた水槽の前。鏡ちゃんの横顔が、水面の揺らぎを反射して幻想的に輝いています。

 館内は特に撮影禁止ではなく(ストロボは使用しないようにとのことでしたが)他のお客さんが写り込まないようにスナップ写真を撮っていきます。

 その場の光だけを使って撮るのは私の得意技です。しかし、撮影に夢中になり過ぎないように……。

 私は今日、積年の想いを伝えなければなりません。このタイミングだ。そう決意して、私は勇気を振り絞りました。

「鏡ちゃん、あのね」

「凜ちゃん、見て見て! クラゲ、クラゲ! 無限に眺めていられる!」

 鏡ちゃんはクラゲに夢中で、私の言葉は宙に浮いてしまいました。

「あ、うん。きれいだね」

 しょーがない。ここはクラゲの魅力に免じて、許してあげましょう。——いいよ。今日の私は、何度でも仕切り直せる。

 次にチャンスが訪れたのは、深海魚の展示を抜けた、海底トンネルを歩いているときです。頭上を大きな魚たちが悠然と泳ぎ、まるで本当に海の中にいるようです。カップルで写真を撮り合っている人もいます。

 私は思い切って、鏡ちゃんの袖を少し引きました。

「鏡ちゃん」

「どうしたの、凜ちゃん?」

 鏡ちゃんが振り返ったその時、後ろから騒がしい幼稚園の団体がどどどどっと押し寄せてきました。

「わあああ! サメだー!」「先生、タコがいるよ!」「いーとーまきまきイトマキエイ」

 波に流されるように、私たちはトンネルの出口まで押し出されてしまいました。鏡ちゃんは、目を丸くして私を見ています。

「ごめん、なんだか急に押されちゃったね」

「う、うん。びっくりした。で、何の話だったの?」

「あ、えっと……イルカショーの時間が近いから、急がないとって話!」

 言えませんでした。何度チャンスがあっても、鏡ちゃんの眩しい笑顔と、周囲の騒音に邪魔されて、一世一代の告白は口から出てきません。

 舌の上に残った告白の言葉が、泡となって弾けました。

 イルカショーでは、濡れるのを嫌がって最後列に座る私たちを、他のカップルはきっと笑っているんだろうな。

 結局、告白はできないまま水族館の出口へ向かうことになってしまいました。

 ああ、本当に私は「告白」なんて柄じゃないのかもしれない。

「今日は楽しかったね、鏡ちゃん。また来ようね」

「うん、楽しかったよ! 凜ちゃん、ありがとう」

「また写真撮らせてくれる?」

「喜んで!」

 鏡ちゃんの笑顔に、私の心は少しだけ救われました。



◇小田鏡の場合


 土曜日、僕は母さんに連れ出された。明日着て行く服を買うんだって。凜から借りたのがあるから要らないって言ったんだけど、問答無用だった。一緒について来た父さんと灯姉も実に楽しそうだ。

「パパったらウッキウキねえ(笑)」

「そりゃあ高校時代の理玖にまた会えるんだからな(笑)」

「ちょっとー! 子供たちの前ではママって呼べよ、恥ずかしいだろー(笑)」

「母さんって時々男言葉出るよね」

「わたし妹が欲しかったし」

「灯、それ弟だからね(笑)」

「部屋着も買おうよ。あっ、下着も必要よね?」

「セーラー服とかも買っちゃう? コスプレ用とかの安物でないやつ」

 なんだか僕抜きで勝手に話が進んでない?

 試着を繰り返しながらショッピングモールの中を延々と歩く。母さんは僕とお揃いの服を選びたがった。

「鏡と双子コーデよ! 夢だったの~」

「お母さん!? 自撮りはいいけど投稿はNGだよ!?」

「大丈夫、鍵垢だから!」

「ぎゃー!!」

「ああ、いいねえ。白のレースブラウスにパステルグリーンのロングスカート、なんだか本当に姉妹みたいだなー」

「でしょー? 私もまだまだ負けてないから~」

「なあなあ、こっちも良くないか?」

「あら~。紺色主体の落ち着いた上下。制服みたいねえ」

「父さんって清楚系が好きなの?」

「あのね灯。男は誰でも清楚が好きなものよ?(断言)」

「え? そんなもん?」

「そうだよ(便乗)だって守ってやりたくなるじゃないか」

 虚無を抱えて着せ替え人形にされる僕。一人ファッションショーで一人撮影会だ。恥ずかしい。でも明日は凜に写真撮られるんだよね。その予行演習だと思えばまあ……。

「鏡おー、次こっち! オフショルダーのトップス、タイトなミニスカート、流行りのロングブーツ!」

「あら大胆。でも鏡は線が細いからいいかも」

「いやちょっとママ、これは流石に……」

「試着だけ試着だけ!」


 そして日曜の朝。僕は最初から女の子の格好で家を送り出されたのだった。しかもガッチリお化粧までされて。

 あくまでも撮影用の衣装だから現地で着替えたいと言う僕の意向は完全に無視されてしまった。もしかして父さんたちは、本当に僕を女の子にしたいんだろうか。

 外へ出るのを躊躇ったため、また待ち合わせに五分遅れてしまった。

「遅いよ鏡ちゃん。四十五分も待ったんだからね!」

 だからそのうち四十分は僕の所為じゃないってば。


 ターミナルへ向かう路線バスも、水族館に向かう高速バスも、かなりの混雑だった。他の人の視線が怖い。

 でも一時間以上掛かって水族館に着いたけど、幸いなことに僕を笑ったり変な目で見たりする人はいなかった(と思う)

 おばあさんの落とし物を拾ってあげたら、凜の妹と勘違いされた。そんなに子供っぽく見えるのだろうか。

 高速バスに揺られて一時間、M市営水族館に到着。この水族館に来るのは小学生以来だ。涼しげな館内に入ると、凜はすぐに目を輝かせて「ここ写真映えしそう!」とカメラを構え始めた。

 僕はと言えば展示に夢中。水族館そのものが大好きだけど、クラゲとタツノオトシゴが好き。

 特にクラゲ! 青い光の中でふわふわと漂うクラゲは僕のコンプレックスが昇華されていく様を見ているようで、一日中でも見ていられる。ああ、癒される。

「凜ちゃん、見て見て! クラゲ、クラゲ!」

「うん。きれいだねえ」

 凜は僕の言葉に応えてくれた。

 人混みを抜けて、巨大な水槽の下の海底トンネルへ。頭上を回遊魚が泳いでいく。海は僕の魂の故郷なのかも知れない。感動で胸がいっぱいになる。

 凜が何か言おうとしていたようだが、幼稚園の団体が来て話は流れてしまった。残念。イルカショーの時間が迫っているから急ごう、と凜が言う。

 イルカショーは圧巻だった。久しぶりに見たイルカの大ジャンプに、僕は心底感動した。ずぶ濡れになってでも最前列に行けばよかった。

「楽しかったー! やっぱりイルカは可愛いね」

「また来ようね、鏡ちゃん」

「うん。今度は鼎も誘ってさ」

「えっ」

 凜が一瞬だけ、本当に一瞬だけ凍り付いたように見えた。

「あ、バレーで忙しいか。そうだよね。まあ、凜ちゃんと二人が気楽でいいけど!」

 僕が慌ててフォローすると、凜はすぐにいつもの笑顔に戻ってくれた。

「そうだね。鼎くんはね、バレーに集中するべきだよ!」

 よかった、不機嫌にならなくて。

「今日は楽しかったね、鏡ちゃん。また来ようね」

「うん、楽しかったよ! 凜ちゃん、ありがとう」

「また写真撮らせてくれる?」

「喜んで!」

 このやり取りをして、僕らは別れた。


 家に帰りつくと灯姉が迎えてくれた。お父さんとお母さんはデートからまだ帰っていないそうだ。

 着替えようとしたら化粧は落としてもいいけど部屋着は指定の物を使えと言われた。昨日買った女の子用のやつだった。

 それはまあいいとして、着替える前にもう一度姿見の前に立った。

 鏡に映る、見知らぬ女の子の姿。

 それにしても、今日は不思議な体験をしたものだ。

 女装で外へ出て、公共の交通機関に乗って、人混みを歩いた。それは想像以上に楽しくて、心が満たされる体験だった。

 誰も僕を笑ったりはしなかった。僕の女装は不自然ではないのだろうか。これが凜の魔法の力なのだろうか。

 この姿を鼎が見たら——なんて言うだろう。

「可愛い」って、言ってくれるかな?



ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

今回は鼎・凜・鏡、それぞれの心の距離が大きく動く章でした。

魔法のようなきらめきの裏にある、不安や焦り、嫉妬……。

夏の空のように揺らぐ想いが、次の物語へとつながっていきます。


次回、三人の関係に、どんな“波”が訪れるのか――。

ぜひ最後まで見届けてください。

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