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最終章:回想As Time Goes By.

 本章で、「魔法のドレスでキミと」は完結します。

 高校二年生の六月から十月までの、半年にも満たない期間の物語。

 鏡にとって楽しい時間もあれば、痛みや後悔、どうにもならない現実もあったと思います。

 最終章は、そんな日々を経た「少し先の未来」からの回想です。

 大きな事件は起きません。

 派手な展開もありません。

 それでも――人が生きていく上で、きっと一度は立ち止まって考えることになる「自分は何者なのか」「このままでいいのか」という問いに、鏡なりの答えを探していく章になっています。

 北国の遅い春とともに、物語の最後までお付き合いいただけたら幸いです。


 北国の春は遅い。

 首都圏では既に桜が満開だと言うのに、ここH県T市では日陰にまだ雪が残っている。桜のつぼみも膨らみ始めたばかりだ。

 それでも、春は必ずやって来る。

 午前十一時。家事を手伝った後、五分ほど歩いて僕は「出勤」する。

 小田家の裏門を開放し——裏門と言っても表玄関が見える位置だけど——腰のキーケースから鎖に繋がれた鍵束を取り出し、離れ玄関の両開きドアを解錠する。車と同じリモコンロック。

 これで防犯システムが解除される。

 中に入ったら一旦施錠。

 室内は寒く、まだヒーターが必要だった。

 二階建ての離れは一階が貸しギャラリー、二階が図書館になっている。僕らが自分の手で作り上げた、小なりとは言え僕らの城だ。

 今(と言うか普段は)ギャラリーは凜の作品で埋め尽くされている。

 テーマごとにセンス良くまとめられているが、僕の女装コスプレ写真まであるのは流石に閉口する。

 これはやめてくれって言ったんだけどなあ。

 まあいいや。来週からは近所の陶芸家たちの展示即売会の予定が入っているから、こいつらとも暫しのお別れだ。

 肩をすくめ、僕は二階に上がった。

 防犯のため階段下のドアと図書室入り口の扉も施錠されている。

 中に入ると少し黴臭い。古本がメインだとこうなるのだろうか。防犯カメラの作動状況を確認、室内の温度と湿度を確認し、ヒーターとカウンターの上の缶用保温ケースの電源を入れた。

 バックパックから取り出したノートパソコンをカウンター内のデスクに置き、掃除が済んだら母屋に行く。

「はい鏡、いらっしゃい」

 来年は還暦だと言うのに、ずっと変わらない母の声。

 僕はここで昼食を食べさせてもらう。無論ただではない。毎月の食費と離れの賃料、水道光熱費は(家族割で格安だけど)しっかりと払っている。

 午後一時、今度こそ離れの玄関を開放し、門の外に案内看板を掲げる。

 ギャラリー兼ブックカフェ「ディオゲネス・クラブ」営業開始だ。




 何故僕がこんな場所を作ることになったのか。


 高校二年の初夏、何の因果か僕は女装する(させられる)ようになって、幼馴染の稲葉鼎と恋に落ちた。

 僕自身の勝手な思い込みと間抜けな誤解から自殺未遂までしちゃったけど、それでも鼎と両想いになれて、卒業まで幸せな一年半を過ごすことが出来た。

 卒業後、鼎と凜は二人とも夢を追ってそれぞれの道を進んだ。

 凜は本格的に写真を学ぶため神奈川県の大学に進学し、鼎は三年の春高バレーで全国出場を果たした後、近くのM市にあるM工業大学で航空工学を学び始めた。

 僕は進学できるような頭脳は持っていなかったし、特に将来の夢もなかったので、そのまま市内の中小企業に就職した。

 ところが……やっぱり僕は無能だった。初めは営業をやらされたのだけれど、成績は上がらずクレームばかり。

 直ぐ内勤に回され、そこでも僕は手順を覚えられずに何度も同じミスを繰り返し、初めは親切だった先輩や上司もどんどん冷たくなっていって、最後には挨拶すらしてもらえなくなり、半年経たずに退職してしまった。

 再就職はしたものの同じことの繰り返しで、五社一年半で心が折れた。

 こうして僕は立派な()ニートに成長した。

 父も母も、それについて非難めいたことは何も言わず、笑顔で接してくれてはいた。それが僕には却って辛くて、中学時代のように鬱屈するようになって行った。

 鼎や凜からはメールが来るけど、返信するのも億劫だった。

 これではまたあの頃の繰り返しだ——。

 そう思って焦り始めた、二十歳になって直ぐのある日、サトーからDMが来た。「GWに帰省するから家に来い。ヤマも来る」というものだった。

 サトーは旧帝大に進学していて、地元にはいない。ヤマは近場の大学に自宅から通っているが、卒業してからは一度も連絡を取っていなかった。

 いったい何なのか不安に思いながら(ほら、久しぶりに同級生に会ったら怪しげな勧誘を受けたとかあるでしょ?)サトーの家に出向いた僕は驚いた。

 決して狭くはないサトーの自室(八畳間だと言っていた)が本で埋め尽くされ、座ることさえ出来なかったのだ。

 大学生になってアルバイトで稼げるようになり、しかも都会に住んで古本屋もたくさんあることから調子に乗って買いまくった結果だそうだ。

「もう床が抜けそうでさ」

 サトーが自嘲気味に笑った。

 僕らは立ったままコーヒーを飲んでいる。それでも三人分のスペースがなくて、一番図体のデカいヤマは廊下にいる。

「しかしオダキョー氏が女装を続けてくれていてラッキーでしたな」

 ヤマは満足げだった。

 言い忘れていたけれど、僕はその時女装していた。

 本当は高校卒業(就職)と同時に女装はやめるつもりだったし、実際にやめた。

 しかしニートになると、母から「せっかく家にいるのに、なんで可愛くしないの?」と言われ、已むを得ず(本当に已むを得ず)再開することになったのだ。

「それで? 今日はどういう趣旨の集まりなのさ」

「二年ぶりのディオゲネス・クラブに決まってるだろ」

「嘘つけ、何か企んでるだろ」

「はっはー、バレたか!」

 増え過ぎた本を一部引き受けて欲しい、というのがサトーの要望だった。

 売却すれば良さそうなものだが、愛着ある本たちを二束三文で買い叩かれるのが死ぬより辛いそうだ。

 ヤマも同様だった。僕の家が大きいものだから置き場所もあるだろうと思っているのだ。

 勝手なやつらだと思ったが、その時僕の中にあるアイディアが浮かんだ。

 うちの離れを図書館にしたらどうだろう……と言うものだ。

 離れは現在使用されていない。親戚が遊びに来た時さえ使われず、せいぜい小さな子の遊び場になるくらいのものだ。

 その子たちもすっかり大きくなって、去年あたりからは遊び場としての機能も果たさなくなっている。

 公共の図書館には無いようなマニアックな本を集めて、貸出しは面倒だから会員制の閲覧専門にして、コーヒーくらいは飲めるようにしたら面白いのではないか。

 それだけでは利益は見込めないだろうけど、一階を貸しギャラリーにすればある程度は需要がありそうだとヤマが言った。

 このネット時代に貸しギャラリー?とも思ったが、ヤマに拠るとT市周辺にはネットには無縁な油絵や日本画の画家、彫刻家、書道家等が結構住んでいて、彼らは「場所」を求めているのだそうだ。

「俺たちも手伝うから」

 二人に煽られた僕はその日の夜、その話を恐る恐る父に切り出した。「ニートの分際で何を言うか」と怒られるのではないかとビクビクしていたが、父はあっさりと認めてくれた。

 ただし条件は「自力でやること」

 融資はするが返済も求めるとのことだった。

 もうやるしかないのだと覚悟を決めた。

 サトーとヤマにその件を話し、協力を要請した。二人とも二つ返事で引き受けてくれた。本と手だけでなく、運営にも協力してくれると言う。

 翌日からさっそく活動が始まった。

 サトーが改装の計画と図面を引き受けてくれ、ヤマは近郷の芸術家たちに渉りを着けてくれた。

 僕は資金調達に取り掛かった。クラウドファンディングというものをやってみたのだ。

 結果はもう惨憺たるもので、支援者はわずか十一人。おそらくだけど、両親と四人の兄姉、三人の祖父母、後はサトーとヤマ。

 目標額の一割にも達しない、いきなりの挫折だった。

「やっぱり僕なんかの計画じゃ、誰も興味持たないよね」

「まあ、この書き方じゃなあ」

 『離れを図書館に改装したいです。みんなで読書できたら楽しいと思います。

  手伝ってくれる人がいたら嬉しいです。よろしくお願いします。』

 うぐぐ……。

「かがみん、原因はお前の文章だ。クラファンは理念を書くんだよ。でも……まあいい。金がないなら働くしかない。お前なら出来る。だってやりたいんだろう?」

「俺たちも手伝うんだし、金が貯まったらやればいい。工事に掛かれるのは俺たちが休みに入る八月。冬休みもあれば来年もある。夢は逃げないぞ」

「……うん。やる。僕、やってみるよ」

 それから僕はアルバイトに精を出した。

 スーパーのレジ、ホームセンターの品出し、清掃、調理補助、駐車場スタッフ、etc。

 手当たり次第、雇ってくれるところならどこでもという感じで朝から晩まで働き、掛け持ちもした。

 体はボロボロだけど不思議と「逃げたい」気持ちは湧かなかった。働くことが楽しいと思えたのは初めてだった。




 凡そ三カ月間でかなりの資金を貯め、夏休みに入ったサトー、ヤマの三人で工事に取り掛かった。

 順調だったなんて言わない。

 サトーは大学で建築工学を学んでいて、強度計算もCAD設計もできる。

 だが……。理論家ではあるが、実務経験はゼロ。ネット動画を参考に試行錯誤の連続だった。

「図面は間違っていないはずなんだよ? なのになんで……」

 指定通りの寸法に切ったはずのツーバイ材の長さが足りない。

 石膏ボードを貼り終わって確認したら斜めだった。

 手順を間違えて、せっかく打ち付けた釘を引き抜くのは毎度のことだ。

 いったいどれほどの資金と時間を無駄にしたことか。

 手は豆だらけ、腰は痛い。DIYは思った以上に素人の(そして陰キャの)限界を痛感させた。


 母は毎日差し入れを持って来てくれた。父も休日には顔を出す。

「おーい、ちょっといいか〜?」

 表から父の声がして、僕らは手を止めた。

 がっしりした体格の、強面のおじさんが父に続いて入って来た。

「こちら、市内で工務店を経営してる清水さん。大学時代の友人でな、我が家の増築でもお世話になった方だ」

「ん。邪魔するよ」

 寡黙な人らしく、彼は挨拶もそこそこに、僕たちの散らかりまくった作業場をゆっくり見渡した。

そして。

「……ふん」

 それだけ言って帰って行った。

 僕たちは顔を見合わせた。

「なんか……おっかねえ人だったな」

「怒ってなかったか?」

「いや、あの人絶対本職だよね? 工務店の人って言ってたし」

 父はそれ以上何も言わず、ただ「がんばれよ」とだけ言い残して母屋へ戻った。


 翌日から清水さんは毎日来るようになった。軽トラのエンジン音を響かせて。

 彼は毎日勝手に「見物」に来て「個人の感想」を呟いて行く。

 作業の手順や使うべき材料、上手く行くコツ。そして、してはいけないことやしなければならないこと……。それ等は事実上の「助言」であり「指示」だった。

 その言葉には不思議な温度があった。厳しいけど優しい。突き放すふりをして、ちゃんと支えてくれる。

 僕は気づいた。

——父が頼んだんだ。

——だけど、プロだからタダ働きはしない。

——だから「見物」に来てくれている。

 その事実に気づいた瞬間、胸が熱くなった。


 僕らの作業が変わり始めた。

 最初は不格好でガタガタだった床も、壁も、棚も。

 手間と汗をかけて組み立てれば、少しずつ「図書館らしさ」が生まれていく。

 二階の図書室の内壁は漆喰塗りにした。清水さんが「本を置くなら漆喰が一番だよなあ」と呟いた結果だった。


 僕らの夢が少しずつ形になって行く、そんなある日。

 サトーが図面を見ながらため息を吐いた。

「……電気の配線、これ以上は俺達には無理だ。法律的にも触っちゃダメな領域だ」

 ヤマも床に大の字になって言った。

「水道管とガス管もだ。ガスは撤去するだけとは言え、素人がやっていいことじゃない」

「じゃあどうするの……。ここまで来て止まっちゃうの?」

 三人とも黙り込んだ。

 僕らの力では、ここから先は一歩も進めない。

 最早これまでか……と観念した、その時だった。

 清水さんの軽トラではないエンジン音が聞こえたかと思うと、見知らぬ男性が門扉を開けたのだ。

「おーい、誰かいるかー?」

 白髪混じりで、父よりかなり年上らしい。日焼けした肌に無駄なく引き締まった身体。いかにもお人好しそうな笑顔。

「ど……どちら様でしょう?」

「うん、近所のおっちゃん。学生さんが面白いことやってるって清水の小僧から聞いてよ、見に来たんだわ」

 清水さん、話を広めてる?

 僕たちが戸惑っている間に、その人は勝手に中へ上がり込んで来た。

「ほう……若いのに頑張ってんなあ。素人さんにしちゃあ上出来上出来(笑)」

 床を踏み、壁を叩き、天井を見上げ、目がキラキラしている。どう見てもそれは完全に「プロの目」だった。

「で、どこで困ってんだ?」

「で、電気の配線が……ちょっと……あと配管関係が……」

 サトーが恐る恐る言うと、その人は鼻で笑った。

「ちょっとどころの騒ぎじゃねえよ。これ全部やり直しだわ」

「ですよねー!?」

 ヤマが頭を抱える。

「わっはっはっ。おっちゃんに任しとき!」

 その人は立ちどころに腰道具をぶら下げた作業服姿の電気屋さんに変身し、表のライトバンから電工ドラムとプロ用工具一式を持って来た。

 やっぱりこの人、本職の人だ。僕は大いに焦った。

「あ、あのっ。プロの方ですよね? 僕ら、そんなお金持ってないです!」

「まあ気にすんなって。近所のおっちゃんの暇つぶしよ」

 そう言いながら、その人はブレーカーを落とし、慣れた手つきで電線を引き直し、僕らが三日掛かった挙句に投げ出した工程を、わずか半日で終わらせてしまったのだった。


 翌日は水道工事の人が来た。

「ここらに特技を生かせる場があると聞いて」

 その翌日にはガス屋さんが。

「なんだか無性に配管の撤去がしたくなって」

 次の日も、その次の日も……。

「クロス貼りの練習が出来ると聞いて」

「廃材をもらえると聞いて」

「余った長机と椅子を引き取ってもらえる気がして」


 誰もお金の話をしなかった。ここまで来れば、いくら頭の悪い僕でも流石に黒幕が分かる。

 僕は父に尋ねた。

「ねえ、お父さん……あの人たちって……」

 父は新聞から顔を上げずに言った。

「清水の友達の友達。そのまた友達の……まあ、市内の物好きな職人たちさ」

「……お父さんが頼んでくれたの?」

「いや。俺は何も頼んでない。ただ、困ってる若いのがいるとは言ったな。あとは奴らの勝手だ」

「……ありがとう」

「礼を言うのはまだ早いぞ。ちゃんと返済しろよ?」

 納品書と請求書と領収書の束を差し出す父の声は、厳しくも優しかった。


 九月、秋分の日。

「ディオゲネス・クラブ」と大書された木製看板を玄関の上に取り付けて、僕らの城が完成した。

 この看板はヤマが声を掛けた書道家の方が落成記念にと寄贈してくださったものだ。

 ディオゲネス・クラブ——高校時代からの僕らの交流がこんな形になるなんて、夢のようだ。

 確かに、これは夢なのかも知れない。

 だが今日からこれは現実となる。

 現実とは非情なものだ。

 僕はこれからクラブの運営を続け、利益を上げ、借金の返済もしていかなければならない。喜んでばかりはいられなかった。


 それに、僕にはもう一つ向き合うべき現実があった。

 他でもない、鼎との関係だ。




 卒業してからも僕らは交際を続けてはいた。

 鼎が航空工学を学ぶために近隣の工業大学に進学したことは既に述べた。

 毎日のようにメールが来て、忙しそうで、でも楽しそうで、電話の向こうの声はいつでも前を向いていた。

 寮生活をしてはいるが、夏休みや冬休みは言うに及ばず、隔週末と祝祭日には必ず帰って来ていた。

「たまには親の顔見ねえとさ」

「寮の飯は不味いんだよ」

「別にかがみんに会いに来てるわけじゃねーから」

 そんなことを言いながら、結局は僕の部屋や鼎の部屋でだらだらして、他愛もない話をして……。膝の上に抱っこされたり、頭を撫でられたり、時にはキ……ちゅーされたり……。

 恋人同士(あるいは大き目のねこさん扱いかも……)としての時間は不足してはいなかった。でも、僕が仕事について行けなくなって落ち零れてしまった後は顔を見るのも辛くなって来た。

「こいつにかがみんを乗せて飛ぶのが俺の夢なんだ」

 一度だけ連れて行ってもらった霧月湖畔の倉庫で、作りかけの小さな飛行機を指差して鼎は宣言した。

「卒業までには必ずやってやる。楽しみにしとけよ」

 この熱量に、僕は圧倒されていたのだ。

 ディオゲネス・クラブ計画が始まったことも、どうしても鼎には言えなかった。

 そんな奴じゃないと分かっているのに、笑われるんじゃないか、馬鹿にされるんじゃないかという不安と劣等感が先に立ってしまう。

 だからこそ、胸を張れる状況になるまでは黙っていたかった。

 夢に向かって真っすぐ飛んでいく鼎の隣で足踏みして、転んで、もがいて、足掻いて、ようやく掴んだこの小さな場所を、未完成だからと言い訳して隠していたのだ。


 因みに凜には割と早いうちにバレた。

 小田家の情報漏洩担当大臣・灯姉(あかねえ)の実績だった。

 内装工事があらかた終わり、本を運び込んでいる時だった。

「鏡ちゃ~ん。面白そうなことやってるねえ~?」

「「「どわあああああ!」」」

 粘っこい凜の声に、僕らは跳び上がった。

「高山(うじ)! 何故(なにゆえ)ここに!?」

「何故って(笑)帰省中だから(笑)」

「いや秘密のはずなんだけど……」

「灯姐さんが教えてくれたよ。見学していい?」

「それは……ご自由に……」


「結構いいじゃん。下はギャラリーなんでしょ? 何を展示するの?」

「まだ決まってないけど、近場の芸術家さんたちが使ってくれそうではある」

「じゃあさ。私の写真、飾ってもいいよね? ていうか飾って。決まり!」

「え?」

「ここが鏡ちゃんの夢の場所なんでしょ? だったら最初に乗っかるのは私。これは古事記にも書いてある」

「……」

「異議ある?」

「……ないです」

「よろしい」

 凜はやっぱり強く、そして眩しかった。


 工事は終わった。でもまだ鼎には言えないと思った。

 繰り返しになるが、工事が終わっただけなのだ。

——本当に、やって行けるんだろうか。

——打ち明けるのは、経営が軌道に乗ってからにした方が良いんじゃないか。

 そんなことを考えながら、落成記念式典の準備をした。

 式典というほど大げさなものじゃないけれど、パーティー(宴会?)をやることになったのだ。

 母が酒と食べ物を提供するから是非やれと言った結果だった。


 当日朝。

 ギャラリーには既に凜の作品が麗々しく展示され、工事を支えてくれた職人さんたちがそれを眺めながら早くも酒を飲んでいる。

 僕がホスト役ということで、簡単な挨拶をしなければならなくなった。

 女装をするのはGW振りだった。職人さんの前で女装するのが初めてだと言うことに気付いたのは会場に入ってからだ。

 凜、灯姉、サトー、ヤマが拍手をするとおっちゃんたちの視線が集中し、微妙な空気を感じ取って僕は「しまった!」と思ったが時すでに遅し。

 固まる僕に、清水さんが「ああ、噂通りだ」と言ったのだった。

 ……それだけだった。

 あっちの方で母が「どーよ、ウチの末っ子は!」と自慢しているのが聞こえてきた。

 誰かが「理玖ちゃんの若い頃そっくりじゃねえか」と言ったのも。

 僕を見て距離を取る人も目を逸らす人も、あるいは好奇の眼差しを向ける人もいなかった。ただ、「小田鏡」として扱われただけだった。

 挨拶が済み(何を言ったかは緊張し過ぎて覚えていない)二十歳を過ぎていた僕も少しだけグラスに口を付けた。初めて飲むお酒は美味しいとは思えなかった。

 玄関の方から、清水さんの銅鑼声が響いて来た。

「なーにやってんだ、早よ入れ入れ」

 なんだろう、来客だろうか。一応僕がホスト役なのだから出迎えるとするか。

 玄関へ出てみると、そこに居たのは……。

「えっ? かなえ? なんで?」

 清水さんに襟首掴まれて引っ張られているのは、誰あろう鼎その人だった。

「なんだなんだ」

「おお、稲葉じゃーん」

 サトーたちも驚いていた。

「やあ……」

 鼎が照れくさそうに後ろ頭を搔く。

「知り合いだろ? 前からしょっちゅう来てたぞコイツ」

 清水さんの言葉に、僕は改めて驚いた。

「前からって……知ってたの?」

「あー、うん。灯さんから聞いて……」

 その一言で、僕は膝の力が抜けた。なるほど、納得だ。凜に情報が流れて、鼎に流れていないはずがない。

 秘密にしていたことを責められるかと思ったが、鼎は少し笑って続けた。

「完成おめでとう。何も力になれなくて済まないと思ってる」

「僕こそごめん。ずっと内緒にしてて」

「構わないよ。言えない理由があったんだろ?」

 僕はそれ以上会話できなかった。ただ上を向いて涙が零れないようにするしかなかった。

「ほらほら、そんなところに立ってないで。セーシュンするならこっち来なさいよ」

 凜が僕らの手を引っ張った。


 後から聞くと、鼎は初めから——GW頃に僕がアルバイトを始めた頃から勘付いていたそうだ。

「なんかやってるなーとは思っていたけどさ。でもかがみん言い辛そうだったし、じゃあ聞かない方が良いかなーって」

 お気遣いありがとうございます。これだから僕は鼎が好きなんだ。

 その夜、僕は思い切り鼎に甘えたのだった。




 兎にも角にも、我が「ディオゲネス・クラブ」は営業を開始した。

 図書館は会員制で、費用は入会金と年会費だが小中学生でも利用しやすいようにかなり安めに設定したし、お薦めの本を寄贈してくれれば割引もする。

 コーヒーくらい飲めるようにしよう……と言うのが当初の計画だったが、チャットGPTにお伺いを立てたところ、結果は惨敗だった。

 法律、設備、責任、費用、全部アウト。

「それはもう喫茶店ですね」と、やたら丁寧な口調で現実を突きつけられた。

 GPT先生の回答を読んだ瞬間、僕の中の「優雅なブックカフェ構想」は音を立てて崩れ去った。

 ならば自販機と思ったが、スペースと電気代を考えてこれも見送り。

 結局ペットボトルと缶飲料をカウンター内に用意して販売することで妥協した。

 同様にお菓子の類も販売することにした。どちらもコンビニやスーパーで買うより割安だが、職人さんたちの伝手で安い仕入れ先が見つかったおかげで利益率は悪くない。

 そしてここが重要なのだが、閲覧室では本家に倣って『会話禁止』が最大のルール。ノートパソコン等の使用は自由だが音を出さないようにしてもらう。

 ギャラリーは1週間単位での利用が原則で、地の利が悪い(住宅街の真ん中で駐車場が無い)ことからこれも安めにせざるを得なかった。

 こちらはそこそこ利用があった……と言っても月に一回くらい。ほぼ凜専用の個展会場と化していた。凜はこちらが頼んで作品を借りている状態だから代金は取れなかった(最初の一週間分は除く)

 そして図書館は——閑古鳥が鳴いていた。

 当初の会員は九人だけ。0001がサトー、ヤマが0002、僕が0003。

 両親と下の兄・圭も会員になってくれた。鼎と凜もご祝儀代わりに入会してくれた。あと、意外なところでは清水さんも。

 広告宣伝費は無いから自分でプリントしたビラをご近所にポスティングした。一度だけ新聞に折り込み広告を入れたこともあった。

 あとはSNSと口コミが頼りだ。

 僕自身、昔アカウントを削除して以来何もしていなかったせいで拡散力と言うものがない。

 知り合いにインフルエンサーでもいれば良かったのだけれど……。

 客が来ようと来るまいと必要経費は発生する。経費を稼ぐため、アルバイトを継続せざるを得なかった。

 当時の僕は早朝から午前十時くらいまでアルバイト、十九時までカウンターで居眠りしつつ空しい時を過ごし、夜はまたアルバイト……という生活だった。

 よく身体を壊さなかったものだと思う。


 そんなこんなで半年以上が過ぎた、四月の下旬。

 カウンター内で舟を漕ぐ僕を揺り起こすように、来館者を知らせるアラームがピコンと音を立てた。玄関の赤外線センサーと連動してノートPCが防犯カメラの映像を映し出す(このシステムはヤマが提供してくれたものだ)

 中学生か、高校生か……玄関先に立って中を覗き込んでいる。

——ウチは土禁じゃないよ、そのまま入って来ていいんだよ。

——冷やかしでも何でもいい、入って来てくれ……。僕は祈るような気持ちでモニターを見つめていた。

 やがて少年は回れ右をして視界の外へ消えた。

 嗚呼……。何度目だろう、この失望。

 背もたれに身体を預け、大きく嘆息して目を閉じた僕の耳に、またアラーム音が聞こえた。

 さっきの少年だ。今度はおずおずと中へ入り、階段を登って来る。

 足音が聞こえて来る。どうかこれが幻聴じゃありませんように……。

「あの……」

 少年が顔を見せた。学校帰りだろうか、制服はまだ新しい感じがするから高校一年生かも知れない。

 声が小さく、視線を合わせられないところが僕そっくりだった。

 少年はカウンターの前に立ち、一枚のビラを差し出した。開業当初に配ったやつだ。鞄の底にでも沈んでいたのか、よれよれのクシャクシャでところどころ変色している。

 クラブの規則、会話禁止の部分を指差して少年は言った。

「これ、本当ですか……」


 緊張を悟られないよう、僕は努めて冷静さを演じた。

「本当です。ここは、本を読むだけの場所です」

 少年は微かに震えていた。声を掛けるべきだろうか? それとも……。

「入会……。したいです……」

 勇気を振り絞るような、少年の声。

 今でも覚えている。その時の僕は、呼吸が出来ていなかった。黙って入会申込書とボールペンを手渡し、規約を説明した。

 学生証で身元を確認し、入会金と年会費の金額を告げると、彼……八神祐樹くんは少し間をおいて財布を取り出し、二枚の紙幣を差し出した。

 それを手提げ金庫にしまい、お釣りと領収書を渡す。

 彼がお釣りを財布に戻す間に、僕は会員証を作った。A4の色厚紙にテンプレートを印刷して名刺大にカットし、氏名と生年月日、会員番号を手書きしただけのものだ。ラミネート加工さえしていない。

 会員番号0010。……初めての、入会希望者。

 八神祐樹くんは会員証を眺め、それを裏返し……そして、ほんの少し口許を緩めた。そこには規約の概要と、クラブからのメッセージが書いてある。

『このカードを提示すると、世界がちょっとだけ生きやすくなります』

 八神くんは缶コーヒーを買い、本棚を眺め、やがてハードカバーの翻訳SFを手に取って席に着いた。

 一番奥の、窓際の席。

 静かに本を読む彼の背中を、僕も黙って見つめていた。

 この「場所」の、初めての住人を。


 それがきっかけと言うわけでもないだろうが、会員は徐々に増えて行った。

 ギャラリーの利用も順調だった。インターネットではない場所を求めている人がこれほどいるとは予想外だった。

 プロ・アマ問わずヤマが営業を掛けてくれた画家、書家、彫刻家に陶芸家。特に生け花教室と書道教室の生徒さんたちは良いお得意さんだった。

 アクセサリー造りが趣味の近所の奥様達の作品は図書館で販売してマージンを取った。

 クラブの財政が好転したのは良いのだが一つ問題が持ち上がった。盗難対策だ。

 展示品の中にはお値段六桁どころか七桁のものもある。

 営業時間内は出展者がいるから良いとして、問題は夜間だった。SEC◎MとかALS◎Kとか、警備会社を使えるような予算は無い。

 父に頼んで、市役所の施設警備を請け負う業者さんから機械警備のステッカーを何枚か貰って(無料ではなかったけど)入り口のドアと窓に貼った。

 それだけではどうにもならないので、ヤマに相談するとセキュリティー・システムを自作してやると言い出した。C市の私立大学で電子関係の勉強をしているそうだ。

 窓には全て頑丈な格子を嵌め、玄関は二重に施錠。二階に繋がる階段は上下にドアを設けてこれも施錠。更に図書室入り口も施錠。

 展示品には出展者の任意で保険を掛けてもらい、夜は図書室に移す。

 この移動も出展者自身にやって頂く。不親切ではなく、僕が触れて破損でもさせたら責任を負い切れないからだ。

 そうして全て施錠すると自動でシステムが起動し、不正な解錠や窓の破壊・侵入を感知すると照明が点灯し警報音が鳴る。

 そして僕のスマホに通知が来る。カメラ映像も送信されて来る。僕はそれを確認して警察に通報する。

 これだけのシステム構築を、無料でやってくれたのだ。

 費用は払うと言ったが頑なに拒否された。

「俺は運営に協力すると言ったよ」

 その言葉に僕は泣いて感謝したのだった。

「まあどうしてもと言うなら、今後の年会費はチャラにしてくれ(笑)」




 鼎は本当に自分の夢を叶えた。

 二十二歳の七月だった。突然お誘いのメールが来て、霧月湖に行くことになった。

 ディオゲネス・クラブには定休日というものがなく、僕の都合で不定期に休業するのだけれど、それでも告知期間は必要だ。

 一週間先延ばしにしてもらい、鼎の家に行くと何故か凜もいた。

 そして三人で鼎が運転する車で霧月フライング・クラブにお邪魔した。

 倉庫のシャッターを開けると、三年前は骨組みしかなかった複葉の水上飛行機が台車の上でちゃんと形になっていた。

「完成したぜ」

 得意げに踏ん反り返る鼎。凜は早速写真を撮っている。

「れいしきかんそくき」を参考にしたと鼎が言ったが、僕はミリタリーに詳しくないのでよく解らなかった。

 一度翼を折り畳んでから湖畔へ運び、そこで再び翼を広げるのだと言う。

 その前に僕は着替えるように言われた。夏だと言うのに防寒服上下。毛皮の付いた帽子にゴーグルまで。

「空の上は寒いんだよ」

 同じ格好をした鼎が笑った。

「二人とも似合ってるよ」

 カメラを構えた凜も微笑んだ。


 高校の修学旅行で旅客機に乗って以来、空を飛ぶなんて五年振りだ。しかもこんな小さな飛行機で。

 鼎の手助けで狭い座席に押し込められ、エンジンが掛かってプロペラが回り出すともう何も聞こえない。一応伝声管という物はあるのだが、役に立つのだろうか。

 怖かった。めちゃくちゃ怖かった。

 けれど一度空へ上がってしまうとその怖さも吹き飛んでしまった。

 鼎が僕に見せたかったと言う景色。これが……そうなんだ。

 すごい……。

 鼎が夢中になる理由がよくわかった。

『おーい、聞こえるかー!?』

 伝声管の漏斗のような部分から微かに響く鼎の声。

「聞こえるー!」

 僕も叫び返した。そして伝声管を首から外し、もう一度叫んだ。

「あいしてるー!」

 鼎がキョトンとした顔で振り返って何か叫んだので、僕は伝声管を首に掛けた。

『これからー! 面白いもん見せてやるー!』

 鼎が叫ぶと飛行機は大きく左に曲がって湖の上を外れ、山の方に向かった。

 鼎が右下の方を指差した。見ると、山と山の間に赤茶色の蝋燭のような奇岩が立っている。

 岸に戻ってから聞くと、あれはマップには載っているけど車で行けるところからは見えない、飛行機乗りだけが知っている空の名所だそうだ。

「俺たちは大魔神って呼んでるけどな」


 鼎は凄いやつだった。


 僕は二十五歳になった。

 四月二十九日、自宅リビングでささやかなパーティーが催された。

 両親と、出産のため里帰り中の灯姉、そして鼎。皆が僕を祝ってくれていた。でもその輪の中心で僕は一人不安を抱え込んでいた。それを悟られまいと笑顔を作ってはいたが。

 そう。今日から僕は二十代後半——四捨五入すると、もう三十歳。

 これからは若さを武器にすることも、若さを言い訳に使うことも出来ない。

 みな既に何者かになっていた。

 凜は北匠ノヴァ・フレックスの公式カメラマンになり、その作品はチームのホームページを飾っていた。

 そして間もなく圭兄と一緒になる(凜をお義姉さんと呼ばなければならないのか。なんだかなあ……)

 その兄はチームごとDiv.1に行った。次の世界選手権では本当に日本代表になってしまうかも知れない。

 灯姉は先ほども触れたがもうすぐ一児の母。同時に薬剤師としても活躍中だ。

 上の兄・(かい)は大企業の管理職で、更に上の姉・(いつき)は専業主婦で、三人の子を立派に育てている。

 サトーもヤマもそれぞれ就職して真面目にやっていて、クラブにも時々顔を出してくれる。

 鼎は……大学卒業後は市内の機械部品メーカーに就職し、二年後にはULP事業部を立ち上げてそこの責任者に収まり、世界を相手に商売を始めていた。

 本当に凄い人たちばかりだ。

 それに引き換え、僕はどうだろう。

 お陰様でディオゲネス・クラブは賑わいつつあるとは言え、利益を出すには程遠いし、借金はまだまだ残っているし、返済のためのアルバイトは欠かせないし。

 僕はいったい何者なんだろう。


 鼎との交際は、続いてはいる。でも会ってお喋りするだけの……なんと言うか、ただの幼馴染に戻ってしまった感があった。

 考えてみれば(考えなくとも)僕らは男同士で、いくらお互い好きと言っても結婚することは出来ない。

 家族にはなれないのだ。

——いま僕の目の前でお酒を飲みながら灯姉と笑い合っている鼎。

 そんなことを考えながらその横顔を眺めていた僕は、鼎の結婚披露宴に参列している自分を想像してしまった。

 僕はスーツを着て、少し後ろの席に座っている。新婦は知らない人だ。きっといい人なのだろう。

 鼎は笑っていて、僕も笑っている。

『おめでとう』

 そう言う自分の声がやけに自然で。

 その瞬間、胸の奥で何かが決定的に崩れた。

 ああ。

 僕はもう、この人の「未来」に含まれていないのだ。

 そんな想像に、僕は深刻なダメージを負った。


 ……オウンゴールだけど。




 それから二か月半、今度は鼎が二十五歳になった。

 七月七日、七夕の夜。港まつりの後、誕生日パーティーをするからと鼎の家に呼ばれた。こういう事をする家庭ではないと聞いていたので意外だった。

 僕と、鼎と、その両親。静かだけど、笑顔が満ちていた。

 料理とケーキを食べ終わって、ワインを飲んでいる時だった。

「なあかがみん。お前さあ、ウチの養子にならねえ?」

 世間話のように鼎が切り出した。

「……は?」

 耳を疑う……とはこのことだった。養子? なにそれ。

「俺たち結婚は無理だけど、家族にはなれるだろ? 俺はお前と家族になりたい」

 僕の手を取り、まっすぐに見つめて来る鼎。僕は困って叔父さんたちの方を見た。二人とも笑顔で肯いていた。

「別に今すぐ決めなくていいよ。でも、いい返事を待ってる」

 鼎に送られて帰宅したけれど、僕はずっと混乱していた。

 鼎の家——稲葉家の養子になる。決して軽いことではない。僕一人で決められるものではなかった。

 次の土曜の午前、僕は両親に相談した。鼎の言葉も、その場の空気も、できるだけそのまま伝えたつもりだ。

「話は聞いているよ」

 父はそう言ってコーヒーカップを置いた。

「どうするかは……鏡、お前次第だ」

 母も何も言わず、ただ頷いた。

 それが一番正しい答えだと頭では分かっていた。

 分かってはいたけれど……。

 正直に言えば、僕はどこかで期待していたのだ。「行きなさい」とか、「やめておきなさい」とか、誰かが代わりに決めてくれることを。

 僕は無意識のうちに床の間に入っていた。ここは小さい頃には僕らの遊び場で、姉や兄たち、鼎も含めて頻繁に出入りしていた場所だ。

 畳の上で、胎児のように丸くなった。

『お前と家族になりたい』

 その言葉が、嬉しくて、怖くて、重かった。

 神棚を見上げると缶ビールと柿ピーが供えてある。奇妙なものだが、これが我が家の風習だった。

 手を合わせたわけでもない。

 祈ったわけでもない。

 ただ、じっと見つめていただけだ。


 その時、不意に思い出した。

 高校生の頃、追い詰められて逃げ場を失くした時もここでこうして丸くなったことを。

 あの時も誰も答えてはくれなかった。

 それでも明日は来た。そして僕は生きている。

 不思議と怖さが少しだけ薄れた。

 鼎の人生に僕がいなくてもいい未来。

 さっきまであれほどリアルだったその想像が、急に色を失った。

 代わりに、別の景色が浮かんだ。


 稲葉家の食卓で、当たり前のように座っている自分。

 名字が変わっても、変わらない笑い声。

 それを誰も不自然だと思わない未来。

——ああ。僕は、ここに居ていいんだ。


 窓は開いていないのに、隙間風が吹き抜けた気がした。その風に背中を押されるように、僕は心を決めた。

 否、答えは初めからそこにあったのかも知れない。

 その夜、僕は両親に答えを告げ、翌日稲葉家を訪れた。

 自分の意思で、鼎と家族になるために。

 僕は三人の前に手を付き、頭を下げてこう言った。

「どうかこれから、よろしくお願いします」

 そして鼎に、背骨が折れるかと思うほど抱き締められたのだった。


 それからの進展は早かった。

 行政上の手続きはさっさと済ませ、僕は小田鏡から稲葉鏡になった。

 秋の吉日を選んで僕らは盃を交わした。小規模ながら、荘厳な儀式だった。

 小田家の床の間で、黒紋付を着た親族に見守られる中、僕らは互いに向き合って座る。祖父が注いだ盃を飲み干す。

 こうして僕らは家族になった。親の血を引く兄弟よりも、堅い契りの義兄弟に。

 儀式の最中、ビールの缶を開ける音が聞こえたようだが気のせいだろうか。




 それから五年が過ぎた。

 ディオゲネス・クラブの会員と蔵書、ギャラリーの利用者は増え、借金も三か月前に返済し終えた。

 ほぼ十年。……長かった。

 思えば遠くへ来たもんだ。これからどこまで行けるだろう。


 ここまで回想した時、来訪者を告げるアラームが鳴った。

 本日最初のお客さまは——八神祐樹くんだった。

 彼もすっかり大人になった。私生活は詮索しないから詳しくは知らないけれど、社会人として立派にやっているようだ。

 次に入って来たのは万丈栞さん。なんと、ふぇりっくすさんの娘さんだ。

 徐々に席が埋まって行く。

 それでも賑やかにはならない。静けさを求める人のための場所なのだからこれでいいのだ。

 僕はただ、感謝の念を込めて彼らを見つめる。


 小田家の近況にも触れておいた方が良いかな?

 父は市役所を定年退職したが隠居するつもりは更々無いらしく、嘱託で郷土資料館の館長になった。ここで郷土史の研究をするのだと言う。

 母も元気いっぱい、父とラブラブの日々を過ごしている。

 上の姉、樹(四十二歳)は秘かに漫画を描いていたらしく、先月タイッツーに投稿した作品「TSした幼馴染と結婚することになった少年の話」が万バズを果たして有名人になってしまった。

 主人公の少年が父にそっくりで、TSした元少年が僕にそっくりで、背景の街並みとか神社なんかがうちの近所にそっくりで、両親も大慌てだったが、まさかと思ったら作者が姉というオチだった。

 そんな事より、ここ数年フォローしていた漫画家さんが実姉だったことの方がショックだったけど。

 上の兄・海(三十七歳)は奥さんと二人の子供を連れて家に戻った。

 都会での生活に疲れ果てたらしい。今は清水さんの会社で経理を担当している。

 下の兄・圭(三十五歳)は一昨年に本当にワールドカップの日本代表になり(ほとんど活躍はしなかったが)今季限りで引退するそうだ。

 こっちに戻ったら地元の少年団の監督をやると言っている。当然凜も着いて来るわけで……「お義姉さまと呼べ」と言ってデカい面する姿が目に浮かぶ。

 下の姉・灯(三十三歳)は少し前に二人目を出産した。実家を離れてはいるが、凜とは今でも連絡を取り合っているようだ。

 祖父母たちも歳は取ったがまだまだ元気だ。長生きして欲しい。


 そして僕自身は間もなく三十歳。

 これを契機として、僕は小説を書き始めた。

 あの辛くて、苦しくて、切なくて、でも懐かしくて、ほんのちょっぴり甘酸っぱい少年時代を思い出しながら、自伝的小説を。

 タイトルを思いつけなくて困っていたけれど、ようやくそれも決まった。

 え? 何かって?

 それはね——

「魔法のドレスでキミと」


 最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

 書き始めた当初は、三章で終わらせる予定でした。

 登場人物も鏡・鼎・凜の三人だけで、誤解が解けて三人で記念撮影をして終わりにするつもりでした。

 しかし番外編を書いたころから思わぬ方向に物語が膨らみ始め、特に圭兄が存在感を増して行き、ここまで長くなってしまいました。


「魔法のドレスでキミと」は、派手な成功譚でも、完璧なハッピーエンドでもありません。

 それでも、「生きて続いていく人生を肯定したい」という思いで書いてきました。

 主人公・鏡は強くありません。

 むしろ情けないほどに弱い少年です。

 何度も立ち止まり、躓いては転び、回り道をし、自分を責めてきました。

 それでも、誰かに支えられながら、自分の居場所を自分の手で作ってきた――その過程こそが、この物語の答えだと思っています。

 鼎、凜、家族や友人たち、そしてディオゲネス・クラブに集う人々。

 誰かが誰かを「救う」のではなく、それぞれが自分の人生を生きているからこそ、そっと寄り添える関係が生まれたのだと思います。

 ここまで読み進めてくださったあなたが、もし少しでも

「このまま生きていてもいいのかもしれない」

 そう感じてくれたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。

 またどこかで、本と人と、静かな居場所がつながる物語を書けたらと思います。

 本当にありがとうございました。


  アトリエだいこんや 拝


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― 新着の感想 ―
先ずは言わせてください。 完走おめでとうございます。 このシリーズは一言で言えば「目立たない人生を真正面から肯定する物語」だと思います。 鏡は最初から最後まで、才能や成功に恵まれた側の人間ではない…
正直に言って、とても静かで、でも強い物語でした。 派手な展開や分かりやすいカタルシスがあるわけではないのに、読み終えたあと、胸の奥に「まだ生きていていい」という感覚が残る、それがこの作品の一番の力だと…
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