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第五章:回生September, I Remember.

第五章に入りました。

ここから物語は、鏡たち三人の「夏の終わり」に潜んでいた真実へと踏み込みます。

これまで楽しく重ねてきた時間の裏で、誰も気づけなかった誤解とすれ違いが、ついに破裂します。


鏡、鼎、凜、そして圭。

それぞれの想いが衝突し、傷つき、そして――「もう一度、息を吹き返す」ハッピーエンドとなっています。


長い章ですが、どうか見届けていただければ嬉しいです。

第一節:Promise.


 九月二日、午前九時半。既に久仁彦は市立病院に到着している。が、大森に尋ねても鏡は搬送されていないと言うではないか。

「何があった?」

「今朝、学校へ行ったそうだ。鏡はきっと倒れる。耐えられるはずがない」

「なんてこった! あれほど言ったのに……」

 そこへ理玖から電話が来た。

『鏡が学校で倒れたって……。赤十字病院に行ったって言うから。オレそっちへ行くよ』

 その時救急対応が可能で最短距離な医療機関が其処だったのだろう。大森らは直ちに赤十字病院に連絡を取り、転院の手配を開始した。

「やはり退院は許可すべきでなかった」

 大森は歯噛みするように呟いた。医師としての悔恨と、人としての痛みが混じった声音だった。

「済まん大森。俺が我が儘を言ったせいで……」

「馬鹿を言うな、小田」

 大森は顔を上げ、友としての目で言った。

「決定を下したのは俺だ。全ての責任は俺にある。お前は父親として当然の願いを言っただけだ。間違っても自分を責めるなよ。今度は何があっても最後までケアするからな」

 久仁彦は黙って頷いた。その頷きには、罪悪感と、縋りつくような希望と、どうしようもない恐怖が入り混じっていた。


 午後〇時半。防災センターから六階東病棟ナースステーションに、救急隊が到着した旨の連絡が入った。

 医師休憩室で番茶を啜っていた大森はその報告を受け、一号エレベーターの前に立った。階数表示が一階から順次上がって来る。が、遅い。各駅停車か、こいつは。

 そう言えば、少し前に警備員がボヤいているのを偶然聞いた。救急隊専用の玄関とエレベーターがない、これが市立総合病院の欠陥だ、と。

 五階で止まったまま動かない階数表示を睨みつけ、腕組みし爪先を踏み鳴らして到着を待つ。見舞客が怪訝そうに大森を見守っている。

 やっとエレベーターのドアが開いた。三名の救急隊員、患者を乗せたストレッチャー、赤十字病院の職員が一人、そして風見ちゃん。

 そのやつれた顔を見て、大森は己の判断の甘さを呪った。


 ベッドに横たわり、眠り続ける鏡。低血糖著しく、ブドウ糖注射液の静脈投与を受けている。

 久仁彦も理玖も、今はただそばで見守る以外何も出来ない。

 親とはこんなにも無力なものなのか……。

「ゴメン、くー」

 くー、とは久仁彦の愛称だ。二人になると今でも、理玖はこの子供の頃からの愛称を使う。

「オレがもっと……しっかりしていれば……」

「お前の所為じゃないよ、理玖。俺たちは二人で一つだろ。自分だけを責めちゃいけないよ」

 すすり泣く理玖の肩を抱き寄せる久仁彦。その胸中にも、理玖に負けず劣らず後悔と自責の念が渦巻いている。

「あの……」

 背後から声が掛かった。鼎と凜だった。

「ああ、来てくれたんだね」

「はい。始業式は抜けられなくて」

 そこへ看護師が入って来た。検査をするのだ。久仁彦たちはデイルームに退避した。

「遅くなって済みません」

「謝ることじゃないさ。今は眠っているから、顔でも見て行ってくれ」

「鏡ちゃんの具合、どうなんですか?」

 凜が恐る恐る聞く。理玖は答えられず、久仁彦が代わりに口を開いた。

「正直……まだ分からない。今は眠っているからいいが、家族以外には会わせない方が良いと言われている」

 鼎は唇を噛み、しばらく何かを言いかけては飲み込んだ。だが、このタイミングだ。今言わなければいけない、と胸の奥が告げていた。

 そして、覚悟を決めたように顔を上げた。

「久仁彦伯父さん……それで……ちょっと言いにくいんですが……」

 久仁彦が顔を上げる。

「俺たち、着信拒否されてるんです」

 鼎の告白に、久仁彦は唖然とした。脳みそを直接殴られたかのような衝撃だった。何故だ? 何故着信拒否までする必要がある? この二人が鏡を傷つけるような真似をするはずがない。

「理玖伯母さん……ほんとなんです。メールも、電話も……通じません。番号からも、アドレスからも……全部拒否されています」

 凜も俯いたまま、小さく続けた。

「私も……です……。鏡ちゃん、私たちのこと……もう、見たくもないのかなって……」

 理玖の指先が震えた。久仁彦は眉間に深い皺を刻み、額を押さえた。

「理由は分からないんだね?」

「はい……」

 鼎は拳を握りしめた。

「本当に分かりません。俺たち、鏡に何かした覚えは……」

 その言葉は、理玖の胸にも鋭く突き刺さった。母として、理由を知らないことが恐ろしくてたまらなかった。

「……鏡は今、とても不安定な状態なの。誰かが来たと気づいただけでパニックを起こすかもしれない。今日は……会わせてあげられないの。本当にごめんね……」

 その後ろで、久仁彦が重くうなずいた。

「でも……二人とも、鏡のことを思ってくれてありがとう。あいつが落ち着いたら……必ず知らせる」

 二人は頷くしかなかった。鏡の状況は何も分からず、ただ「拒絶」という事実だけが胸に残った。

 そこへ息を切らせた灯が現れた。エレベーターの遅さに痺れを切らし、階段を駆け上がってきたと言う。若いって羨ましい。久仁彦がそんなことをしたら膝が壊れるだろう。

 鏡の寝顔を眺めた灯が戻って来ると、久仁彦たちは帰宅することにした。入院に必要なものを調達せねばならない。外に出ると、既に日が暮れかけていた。

「結局今日は休みにしちまったな(笑)」

 久仁彦の車で凜と鼎を送り、そのまま自宅へ。理玖が玄関の鍵を回し……。

「あれ? 開かない」

「何してんの母さん」

「何故か鍵が……おかしいな?」

「おかしいのは母さんだよ。もう一回試して」

 今度は開いた。元々開いていたものを、理玖が施錠してしまったらしい。

「鍵掛けるの忘れてたんじゃないの? お母さん慌てん坊だから」

「失礼だな。施錠確認はちゃんとしましたー」

「お帰り~」

 リビングの暖簾をかき分け、圭がのっそりと顔を出した。



第二節:The Sound of Silence.


「おまっ、圭っ、なんっ、なんでいる!?」

 久仁彦の声が裏返った。

「父さん驚き過ぎ。最愛の弟の危機に駆け付けない兄がいるもんかよ。高速ぶっ飛ばして、パトカー三回振り切ったわ」

「誰が知らせた? 灯か?」

 パトカーの件は冗談であって欲しいと願いつつ、久仁彦は灯に確認した。

「うん、あたし~(笑)」

「余計なことを……もうシーズン始まってるんじゃないのか? 試合はどうした」

「今調整中だからね。俺の参戦はもう少し先。事情話したらチームも快く了承してくれたよ」

 圭の飄々とした態度はいつも通りで、ふわりと部屋の空気を軽くしてくれた。

「それならいいが。始まる前にクビとか洒落じゃ済まんぞ?」

「大丈夫だって(笑)土曜には戻るけどな」

「兄ちゃん、すぐお見舞い行く?」

「おー、行く行く。鏡の顔、この目で見ないとな!」

 その言い方は軽い調子だったが、その奥にごく小さな緊張の影を理玖は見た気がした。兄としての本能が働いている——そんな眼だった。

「さすがスポーツマンだな。体力あるわ」

「父さんも母さんも疲れてるだろ? 今週は俺に任せて、少し休んでくれよ」

 圭の言葉に、理玖も表情を緩めた。

「助かる……本当に」

「はいはい。家族はこういうとき支え合うもんだろ?」

「ありがたいよ、本当に。じゃあ母さん、お言葉に甘えるとするか。でも圭、お前一人で大丈夫か?」

「大丈夫だって(笑)暇な大学生が手伝ってくれるらしいから(笑)」

「あたし暇じゃないもーん! たまさか臨時休講だっただけだもーん!」

「はいはい(笑)」


 圭が病院に着いた時は既に日は落ち、宵闇が辺りを包んでいた。正面玄関は既に施錠されている。

 案内看板を見て救急玄関へ向かい、受付で入館者名簿に名前を書いて中に入る。夜の病院はもう少し静かなものかと思っていたが、職員が忙しそうに動き回っていて結構賑やかだった。

 防災センターで聞いたとおりに六階のナースステーションで来訪目的を告げると、六〇五号室を案内された。

 そこは他の病室と異なり、完全な個室だった。

 入室前に一度深く息を吸う。兄として、ここまで胸がざわつくのは初めてだった。

 そっと入口のカーテンを開けると、常夜灯に照らされた鏡の寝顔が見えた。ぞっと背筋が寒くなる。一瞬、霊安室に迷い込んだのかと思うほどその顔には生気というものがなかった。

 ただベッドサイドモニターの電子音だけが生命の存在を知らせていた。

 更に近づいてみる。……これは本当に鏡なのか。

 ベッドの上の少年はあまりにも細く、小さく、儚げだった。丁寧にケアされていた黒髪は艶を失い、頬は削げ、唇は乾き切っている。

 圭はベッドの横の丸椅子に腰を下ろし、鏡の手をそっと包み込んだ。その皮膚は潤いを失い、細く骨ばっている。

「鏡……鏡……」

 小声で呼びかけてみたが、反応はない。

「お兄ちゃんだよ……」

 もう一度囁いた。反応を期待していたわけではない。だが……その指先は、かすかに震え、触れられたことを確かめるように、圭の指に弱く触れ返した。

 たったひと月前……「お兄ちゃん大好き」と言って弟が抱き着いて来たのはたったひと月前なのだ。

「……鏡。何があったんだよ。誰に何を言われた? 何を見た? どうして……こんなに痩せるまで一人で抱え込んだんだよ」

 答えはない。ただ機械の電子音が、規則的に病室内に響いているだけだ。

「大丈夫だ。兄ちゃんが来たからな。だから……もう独りで苦しまなくていい」

 圭は弟の手を握ったまま、じっとその寝顔を見守った。そこから離れられない理由を、自分でも分かっていた。この小さな手の震えは——鏡がまだ生きようとしている証拠だったから。


 翌朝、灯と交代して帰宅した。僅か半月ぶりだが、やはり母の手料理は良いものだ。

 ここで圭は初めて倒れる直前の弟の様子を聞いた。

——最初に倒れた時、「消えてしまいたい」と言ったこと。

——二度目の時、「失恋した」と言ったこと。

 失恋……か。それは辛いな、と圭は思う。自分にも経験はある。だが、鏡がここまで壊れるほどの相手とは誰だろう。本当に鏡の周囲にそんな相手がいたのか?

 六月の下旬だったか、鼎から「鏡に恋してる」と聞いたのは。そこから進展があったとは聞いていない。

——それなのに、鏡は「失恋した」と言った。

 どういうことなのだろう。何か引っかかる。この状況で、どう失恋するのだ? 他に身近にいる相手は凜ちゃんくらいだろう。それとも、俺の知らない他の誰かだろうか。

 そのうち鼎にでも聞いてみるとするか。ともかく今は睡眠を取らねば。仮眠室があると知っていればそこで寝ていたのになあ。看護師さん、帰り際に教えてくれるもんだから……ああ、眠い。俺の脳みそもそろそろ誤作動を起こしそうだ……。


 九月四日、水曜日。

 鏡への付き添いは母が行うことになった。圭は止めようとしたのだが、やはり母は自分で末っ子を見守りたいらしい。

 昼食を済ませてから圭も陣中見舞いと称して病院へ行った。弟に会いたいのは彼も同じなのだ。

 病院に着くと、割と元気いっぱいな灯が迎えに出た。

「なんだお前、帰らないのか?」

「帰れないよ、心配で。仮眠室使うから平気だし」

「ちゃんと家で休めよ。休息も仕事のうちだぞ」

「行き帰りの時間がもったいないじゃん」

 やれやれ。兄が妹を説得するなんて無理なのかも知れない。圭は匙を投げた。

 鏡は時折目を覚ますようになったそうだ。喜び勇んで病室に行ったが、圭がいる間は目を開けることは無かった。

 午後三時頃、灯が仮眠室から出て来た。

「あれっ? 兄ちゃんまだいるの?」

「帰れないよ、心配で」

「あたしと同じかよ(笑)」

 デイルームの自販機で缶コーヒーを買い、灯と向かい合って座る。灯のスマホが音を立てた。RINEの通知音だ。

 誰かとやり取りをした後で灯が席を立ち、病棟へ向かった。入れ替わりに理玖が現れた。

「なにさ、まだ居たの?」

「いても役に立たないことは解っているんだけどね~」

「無理すんじゃないわよ。休める時は休めって言ったの、あんただからね」

「へーいへい(笑)」

 その時である。病棟の方から凄まじい叫び声が響いて来た。紛れもなく鏡の声だ。

 大慌てで病室へ向かう理玖と圭。ナースステーションからは看護師が既に走っている。

 六〇五号室では暴れる鏡が看護師や看護助手に押さえ付けられているところだった。灯は少し離れたところで腰を抜かしてへたり込んでいた。

 鏡は鎮静剤を射たれ、間もなく静かになった。

「何があったんだよ」

 デイルームでは他の人目もあり、仮眠室に場所を移して圭と灯が会話を交わしている。理玖は鏡に付き添ったままだ。

 灯はまだ真っ青な顔でぶるぶると震えていた。圭の質問にも満足に答えられずにいる。

 しばらくたつと落ち着いたのか、灯は漸う答え始めた。

「凜ちゃんからRINE来て……鏡に会って話したいって言うから……」

「まだ無理だろ?」

「うん。で……鏡に聞いてみようと思って。病室行ったら起きてたから。『凜ちゃん来てもいい?』って聞いたら……」

「暴れ出した?」

「……うん」

 鏡が、凜の名前に反応した……。圭の中で、何かがゆっくりと結晶し始めた気がした。



第三節:Fix You.


「灯……凜ちゃんをここへ呼んでくれ。カナも一緒に」

「いいの? 会える状況じゃないよ?」

「鏡に合わせるわけじゃない。聞きたいことがあるんだ」

「……わかった」

「ああ、くれぐれも鏡の様子は知らせないようにな」

「了解」

 スマホの上をすべる灯の指はわずかに震えている。メッセージの応酬が続いた後、灯が顔を上げた。

「兄ちゃん、カナくんにはそっちから連絡いい?」

「なんでじゃ」

「わからん。『抜け駆けしたから気まずい』とか言ってる」

「なんだよそれ」

 訳が分からないが、鼎に電話すると「直ぐに行きます」と返ってきた。凜と鼎が揃ったのはそれから約四十分後だった。


 圭、灯、鼎、凜。

 四人は今、病棟の第二カンファレンスルームにいる。

 ここは本来患者家族が使う部屋ではない。だが圭が「内密な話をしたい」とナースステーションで相談すると、大森医師の鶴の一声で使用許可が降りたのだ。

 四人が尋問じみた空気に呑まれぬよう、テーブルには飲み物を置いた。

 圭は最奥の席を選び、右隣に鼎、左隣に凜。灯は圭の真正面だ。

 そしてドアは閉め切らず、半分だけ開いたまま。密室にしないための、圭の配慮だった。

 だがどれほど配慮しても空気の重さは消えない。

 灯も含めて三人はこれから何を聞かれるのか知らない。その不安の中心に、圭は静かに座っていた。

「突然呼び出して済まなかったな」

 まず圭自身がペットボトルの蓋を開け、一口飲む。灯もそれに続いた。場の緊張を少しでも解こうとする、わざとらしくない自然な動作。

「二人には本当に感謝している。いつも鏡のためにいろいろ頑張ってくれてたよな」

 その言葉に凜は両手を握りしめて俯いた。その凜を見る鼎の目に、一瞬だけ複雑な色が走る。圭には、それが敵意に見えた。

「おかげで鏡はここ二カ月、すごく楽しそうだった。……女装ってのは意外だったが……」

 ここで灯が小さく噴き出した。深刻な話のはずなのに、不意に生まれたその笑いが空気をわずかにほぐした。鼎と凜の表情も少し柔らいだ。

 圭は続けた。

「そして今、鏡はあんな状態だ。あまりにも突然に……。その理由を、一緒に考えたいんだ」

 言葉が重くテーブルの上に落ちる。

「二人にも辛い思いをさせるかも知れない。だが兄として、どうしても真相にたどり着きたい」

鼎も凜も、言葉を失っていた。

 圭はゆっくり視線を二人に向ける。

「……協力……してくれるか?」

 鼎と凜が肯いた。二人とも青ざめている。

「先ずカナ、ここしばらくの鏡とのやり取り、可能な限り詳しく話してくれ。関係ないと思うようなことも全部。他の二人は話を遮ったり腰を折ったりしないように」

 鼎は動悸を鎮めるように深呼吸を繰り返し、やがて訥々と話し始めた。

「俺は……かがみn……鏡に惚れてました。はっきり自覚したのは圭兄(けいにい)と話した時からだけど……。初めてコスプレしたかがみんを見て、あまりに可愛くて……。独り占めしたくなって……」

 鼎は大きく息を吐いた。息継ぎをするかのようだった。圭が促すように頷く。

「凜がかがみんと水族館に行くって聞いた時は凄く羨ましくて。かがみんは俺も誘ってくれたけど、意地張って行かないって言っちゃって。その後です、圭兄から『それは恋だ』って言われたの」

「ああ、あの時な」

 圭の言葉に、凜は膝の上で両手を強く握りしめた。鼎は視線を落としながら話し続けた。

「それから、動物園に誘いました。その時、なんか誤解させたみたいでかがみんを泣かせてしまって。俺、かがみんが泣いた理由がずっと気になっています。今でも解りません。かがみんに何を誤解させたのか」

「そこは後で考えよう。続けてくれる?」

「はい。動物園ではせっかく可愛い恰好してくれてたのに俺が気づいてやれなくて、怒らせちゃいました。

 でも次の日には仲直りできたし……。

 で、その日の放課後に凜の誘いで、教室でまた写真撮って。かがみんに凜の制服着せて……。その時、流れでキスしそうになりました。俺、その後凜に言ったんです。かがみんは譲れないって。凜も正々堂々勝負しようって」

 凜は鼎の言葉に肩を震わせたが、黙っていた。

「七月には港まつりに行きました。圭兄も知ってるよね? 浴衣着て、クラスの皆と一緒に花火見て。次の日に俺、かがみんから誕生日プレゼントをもらったんです。これです、このネクタイピン」

 圭はちらりと目を走らせた。なかなか凝った意匠だ。結構いいお値段がするのではないだろうか。鏡のやつ、張り込んだな。

「夏休み直前にまた皆と海水浴に行きました。凜がかがみんとペアコーデしてるのが悔しくて……。

 それに、かがみんの肌を他の男どもに見せたくなくて、無理やりTシャツ着せました。その時もかがみんを泣かせてしまいました。俺の所為です。

 告白したかったです。でもいくらかがみんが可愛くなっても男同士だし。気持ち悪いって言われるかもって思って……。何も言えなくて」

「八月の……四日だったかな? かがみんからコスイベに誘われました。前から約束していたやつです。

 かがみん、最初は凄く楽しそうだったのに……。途中からなんだか元気がなくなって。

 疲れただけって言ってたけど、何か隠しているんじゃないかって俺は思いました。何か嫌なことがあったんじゃないかって。でもあいつ、何も言ってくれなくて」

「お盆は合宿だから行けないって言ったら、無理に笑っていました。何か隠してるって、その時確信したんです。その後も何度か連絡しようかと思ったんだけど、結局怖くてできませんでした」

「二十五日の夜……霧月湖から帰った後ですね、最後にメールしたの。返信は無かったけど。二十六日には電話が通じなくなっていて、二日の朝には着信拒否されていました」

 最後の方は鼎も感情が昂ったのか、一気に語り終えた。

 圭は時折相槌を打ちながら訊いていた。着信拒否の件は初耳だ。

「霧月湖……ね」

 圭が軽く一呼吸入れて呟いた。鏡が最初に倒れたのが二十五日の朝。ここに鍵がありそうだ。

 次は凜の話を聞いてみよう。

「いやありがとう。次は凜ちゃん、話してもらっていいかな?」

 凜は俯いたまま肩を震わせている。順番を間違えたかな? 先に凜に語らせた方が良かっただろうか。圭は少しだけ後悔した。

 詰問するのではなく、凜が口を開くのを圭はじっと待っている。時々ペットボトルに口を付けながら。

 十分も経っただろうか。埒が明かないと思ったのか、圭は水を向けてみることにした。

「鏡に女装させようと思ったのはどうして?」

 この質問に凜は唇を噛み締めたが、漸く話し出した。

「私、ずっと鏡ちゃんが好きでした……。小学生の時から……。だから、中学に入って鏡ちゃんがどんどん離れて行くのが悲しくて……。

 それで、ある女装レイヤーさんから『自分に魔法を掛けるとすごく楽しい』って言われて。思ったんです、鏡ちゃんに魔法を掛けてみたいって。きっと鏡ちゃんも元気になれるって」

「なるほどね。大成功だったよね」

 圭の笑顔に凜の表情が少し弛んだ。

「はじめは嫌々だったけど、鏡ちゃん、どんどん積極的になって行って。私も調子に乗って、鼎くんと恋人同士みたいなポーズもさせて。それが凄く尊く……あ、いえ、本当のカップルみたいに似合っていて。

 切っ掛けになった女装レイヤーさんにも会わせました。交友関係が広がったらいいなと思って。鏡ちゃんもその人と仲良くなってくれたと思います」

 圭は頷きながら黙って聞いている。実際女装した鏡は信じられないほどの可愛らしさだった。初めて目撃した時の衝撃を思い出す。

「鏡ちゃんも『僕に魔法を掛けてくれてありがとう』って言ってくれて。それで、お礼をしたいって言ってくれて。付き合ってって言ったんです。告白のつもりだったんですけど、でも水族館に行こうって言ったから『水族館見学に付き合え』って意味に解釈されたみたいで」

 このすれ違い。なんて可愛いやつらなんだ。

 圭はニヤける口許を見せないように手で覆い隠した。見れば灯も顔を伏せて肩を震わせている。笑うんじゃねえぞ、妹よ。

「その後鼎くんが鏡ちゃんをデートに誘ったって聞いて……ものすごく……妬ましかったです。そこで喧嘩したって聞いて喜んでしまって……そんな自分が嫌になって、それでカップル撮影を提案したんです。恋人同士の演技をさせたら仲直りできるかなって」

 鼎が顔を上げ、口を開きかけたが、灯が目で制した。鼎は両手を握りしめて俯いた。

「でも本当に二人がキスしそうになって……私……頭の中が真っ白になって……妨害しちゃったんです。机を叩いて。大きな音出して」

「うん。無理もないと思うよ」

「それから港まつりに行って、お揃いの浴衣を着て……」

「あれは本当によく似合っていたね。姉妹のように見えたよ」

 凜は少し照れたように顔を伏せた。

「海水浴の時も鼎くんに見せつけてやりたくてペアコーデして。でも、二人が手を繋いで歩いているのを見て、もう勝てないかもって思って……」

「だから八月のイベントに鏡ちゃんが誘ってくれた時は嬉しくて。まだ望みはあるかもって。でもコーデはさせてもらえなくて、鏡ちゃんが離れて行くんだなあって思って。恋人になれなくても、カメラマンでいられればそれで良いかもって」

 凜の声が次第に涙声になって行く。必死に涙を堪えているのがわかる。

「イベントの途中から元気がなくなったのに気付いたのは私も同じです。理由は聞けませんでした」

「イベントの次の日か、その次の日くらいに偶然鏡ちゃんに会いました。その時……鏡ちゃんから言われたんです。『僕は鼎が好き』って」

 鼎が顔を上げた。目を見開き、唇を震わせている。彼にとっては衝撃的な新事実だった。

「鏡ちゃん、何度も謝っていました。何故かは解りませんけど」

「私、本当に負けたんだなあって。でも私は鏡ちゃんに元気になって欲しかったから……それでもいいやって。もうこうなったら応援するしかないと思って。だから言ったんです。『構わないよ』って」

「それからは連絡取ってません。何も手に付かなくなっちゃって。二十六日からは鼎くんと同じです」


 圭は目を閉じ、腕組みをして体を背もたれに預けた。

 二人の話を総合すると、鼎と鏡はどうやら「両片思い」というやつだったようだ。——凜も鏡に片思いしていた。——鏡は失恋したと言った。——凜の名前を聞いてパニック発作を起こした。

 事はこの三人の内で完結しているはずだ。——鏡が倒れたのが二十五日の朝。やはり鍵は二十五日にある。

「凜ちゃん。君、二十五日は何をしていた?」

「え? あ、霧月湖温泉に行ってました。家族旅行で……」

「いつから?」

「二十四から一泊二日です」

「カナ、お前は?」

「二十三の夜から二十五まで……」

「鏡はそれを知っていたか?」

「いいえ、知らないはずです。言ってないし、写真は上げたけど、かがみん、SNSはやってないから」

「凜ちゃんは?」

「私も言っていません。写真は投稿しました」

「ちょっとそれ見せてくれ」

 二人が1週間以上前の投稿を探し出し、圭の前に差し出した。

 夜の霧月湖。中島にかかる月。構図も同じなら、投稿時刻もほぼ同じ。

 違いと言えば凜の写真には客室露天風呂が写っているくらい。

 圭は暫くの間思考を巡らせていたが、やがて口を開いた。

「なあ、こうは考えられないか?」

 慎重に言葉を選びながら、圭は自分の推理を口にした。

「鏡は、凜ちゃんに『カナが好き』と言ったんだよね? そしてその後、二人の投稿を見た。お前たち二人が『同じ時』『同じ場所』にいると知った」

 鼎の顔が引きつり、凜は息をのみ、灯は両手を口に当てて青ざめた。

 圭は続けた。

「そして鏡は思いこんだ。凜ちゃんが、カナを連れて温泉旅行に行ったと……カナを凜ちゃんに奪われたと……」

 鼎の膝が震え、凜の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。

「そ……そんな……鏡ちゃん……SNSやってないし……」

「もしかしたらアカウントを持っていたのかも知れない。本人から話を聞けない以上、全ては憶測にすぎない。でもこの仮定なら全て説明が着くと思うんだ」

——鏡がスマホを握りしめて倒れていた理由も。

——失恋したと言った理由も。

——二人を着信拒否した理由も。

——凜の名前を聞いてパニックを起こした理由も。

——あんな風に壊れてしまった理由も。……全部。

 鼎は唇を噛み、凜は両肩を震わせて泣き出した。

 灯でさえ言葉を失ったまま、白い指でスマホを強く握りしめている。

 圭は三人の顔を順に見渡し、静かに締めくくった。

「……鏡は、間違った形で絶望してしまったんだよ」

 誰も悪くないのに。

 誰にも悪意なんかないのに。

 室内が静まり返った。誰も口を開こうとしなかった。


 その時、廊下の向こうから悲鳴が聞こえてきた。



第四節:Breathe Me.


——母さんの声だ!

 考えるより先に圭は走り出した。カンファレンスルームは病棟の一番奥。六〇五号室はナースステーションのすぐ近く。約五十メートルの距離。

「やめろ! やめるんだ鏡!」

 理玖の男言葉が響く。その声音の必死さが圭の背筋を寒くする。

 廊下には夕食の配膳のデリカートが並び、トレーを運ぶ給食センターの職員は何が起きたのか分からないと言う顔で立ち尽くす。

 看護師や医師の姿は見えない。他のナースコールや救急搬送されてくる患者への対応で全員が手を取られており、六〇五号室の異変に即応できる者がいないのだ。

 そんな事情を考える余裕もなく、圭は職員や患者を搔き分けて走る。

「誰か! 誰か来てー!」

 再び響く理玖の声。圭を先頭に四人が病室に飛び込んだ。

 目の前に広がる、真っ赤な世界。

 ベッドに座る鏡と、しがみつく理玖。

 シーツも、鏡の病衣も、両手も、理玖の衣服や顔も深紅に染まり、床にも血液が飛び散っている。

 鏡の右手には、これまた血糊が着いたボールペン。

 右腕を振り上げ、逆手に持ったボールペンを躊躇いもなく右腿に突き刺す。布を貫通し、肉を抉る鈍い音。続いて左腿を。更に腹を。二回……三回……。

 理玖は半狂乱だ。

 だが鏡は、表情ひとつ変えない。それは、痛みに耐えている顔ではなかった。全てを諦め、絶望したものの顔だった。

 鏡の右腕を掴もうとした理玖が投げ飛ばされ、床に倒れた。

 圭の思考は、そこで一度止まった。

 理解できない——という感想すら出てこない。

 ただ「刺している」「血が出ている」「鏡だ」という事実だけが、ばらばらの断片として目の前にあった。

「鏡ちゃん!」

 凜が叫んだ。鏡はゆっくりと視線を上げ、こちらを見た。

「凜ちゃん……」

 あれは……本当に弟の声なのだろうか。まるでこの世のものならぬ、低い声。

「ゴメンね、いっぱい迷惑かけて。これで終わりにするから……本当に……本当に……ゴメンね」

 鏡はボールペンを順手に持ち替え、ペン先をじっと見つめ……微かに微笑んだ。そして、目を閉じて上を向いた。

 渇いた唇から声が漏れた。

「……さよなら」

 全員が息を呑んだその瞬間。

「や め ろ !」

 鼎が飛び出した。

 ボールペンの先端が鏡の細い頸に届く寸前。抱き着いた鼎の左上腕にそれは刺さった。

 鼎はそのまま鏡を押し倒し、ボールペンが床に転がった。

「離せ。離してよ……僕は消えるんだから」

 握り拳で弱々しく鼎の背を叩く鏡。虚ろな目は何も映していない。

「させるか!」

 自らも傷を負い、返り血に染まりながらも鼎は鏡に頬ずりし、泣きながら抱きしめた。

「何があっても俺が守る。俺が一生側に居る。だから、消えるなんて言わないでくれ!」

 鏡の目に、僅かながら光が戻った。鼎の言葉の意味がゆっくりと沁み込んで来る。

 至近距離で見つめ合う二人。 ようやく駆け付けた看護師が「手を離して、一度ベッドに横になって」と声を掛けるが、鼎は腕を離そうとしなかった。

 鏡の体がぴくりと震えた。

 抱きしめられたまま、鏡は呆然と、信じられないものを見るように鼎を見つめた。

 鏡は、ゆっくりと言葉を探すように喉を震わせた。

「……なんで……」

 掠れた声が漏れる。

「……なんで?」

「理由なんか無えよ。お前が消えたら俺も消える。それだけだ」

 鏡の呼吸が乱れ、肩が震えた。

 胸の奥に沈み込んでいた「死にたい」「消えてしまいたい」という黒い泥のような感情が、少しずつ剥がれ落ちていくのが自分でも分かった。

「……やだ……やだよ……カナ……」

 その一言が出た瞬間、鏡の中で何かが決壊した。

 見る見るうちに鏡の目に涙が溢れ、喉の奥から押し潰されたような嗚咽が漏れた。

「生きてても……いい?」

 小さく、小さく、縋るように。

「当たり前だろ」

 鼎がさり気なく鏡の額に顔を寄せる。

「俺と一緒に生きてくれよ」

 鏡が目を閉じ、口を大きく開けて……あとは二人抱き合っての大号泣となった。

 二人の泣き声だけが、静かな病室に溶けていった。

 夕方の光がカーテン越しに薄く差し込み、まるで二人をそっと包んでいるかのようだった。

 恐る恐る、看護師が二人に近づいた。

「さ。傷の手当、しましょ?」

 鏡は小さく頷いた。


 その後鏡は整形外科病棟に移され、麻酔の効果か今はぐっすり眠っている。

 灯は鏡に付き添い、鼎は外科外来に連れて行かれた。

 鼎のシャツも血痕が広がり、それが自分の血なのか鏡の血なのか区別がつかなかった。

 大森医師から治療を命じられた時は「こんなもん怪我のうちに入らねえよ」と粋がって見せたが、圭に腕を叩かれて痛みに絶叫し、連行と相成った。


 久仁彦はこの辺りでようやく到着した。どうか責めないでやって欲しい。管理職が仕事を抜け出して来るのだ。これ以上早くなんて無理というものだ。


 その小田夫妻が仮眠室で会話している。

「そうか……鏡のやつ、鼎くんを凜ちゃんに取られたと思ってあんなになってしまったのか……」

「アホか。失恋くらいであんなンなるかよ。あれは……アイデンティティ・クライシスだ。自分が何者なのか分からなくなって壊れてしまったんだ。オレにはよく解る」

 十七歳の高校三年生。在学中に妊娠し、退学するか、中絶するか、駆け落ちするか。……それとも死か。八方塞がりの中でギリギリの選択を迫られた理玖だからこそ言える台詞だった。

 久仁彦はそれ以上口を開かなかった。女装によって自己肯定感を得、同時に自分というものを失った息子の痛みに、ひたすら想いを馳せるだけだ。

 仮眠室の壁掛け時計が十七時を告げた。

「俺たち、何をしてやれるのかなあ」

 湯飲み茶わんに手を伸ばしながら、久仁彦がぽつりと言った。

「何もねえよ。……ただそばに居てやるだけさ」

 理玖が急須にお湯を注いだ。

「それで良いんだろうか?」

「いいも何も、オレ達がそうだったろ? 親が味方ってだけで、子供は勇気が出るもんだぜ?」

 久仁彦の湯飲みにお茶を注ぎながら理玖が言う。

「……そうか……そうだな」

 ようやく、久仁彦の表情に明るさが戻った。



第五節:All You Need Is Love.


 こちらはデイルーム。並んで座る凜と圭。

 泣きじゃくる凜を圭が慰めている最中だ。

「私……私……余計なことしちゃった……」

「そんなことはないさ。凜ちゃん、頑張ってくれただろ?」

「でも……結局鏡ちゃんを傷つけただけで……」

「作戦が裏目に出るなんて、バレーでも珍しくないよ。凜ちゃんは鏡のために一所懸命だった。それだけで十分ありがたいよ、俺としては」

「きっと鏡ちゃん、私を恨んでます。もう会ってもらえないかも……」

「十七年間一緒にいた兄として断言しよう。鏡は、友達を恨むような奴じゃない。直ぐに会うのは無理かも知らんが、必ず元に戻れる日は来るよ」

 しゃくり上げながら肯く凜。圭は席を立ち、自販機で紙パックのりんごジュースを買って凜の前に置いた。

「いっぱい泣いたから水分不足してるでしょ? ついでに糖分も補給しようか」

 凜は驚いたように瞬きをし、両手でそれを包み込んだ。

「……ありがとう、ございます……」

 その手はまだ震えていたが、さっきより少しだけ温かかった。

 圭は照れくさそうに視線を逸らしながら言った。

「落ち込んでる時ってさ、何飲んだらいいか分かんねえだろ。だから……まあ、これが正解かわかんねえけどさ」

 その不器用で真っすぐな言葉に、凜の目にまた新しい涙がじわりと滲んだ。今度は悲しみではなく、嬉しさの涙が。

「あの……お兄さん……」

「うん?」

 りんごジュースを受け取り、少し落ち着いた凜は、勇気を振り絞るように圭を見上げた。

「また……会って、話を聞いてもらえますか?」

 その目はまだ涙の跡を残しているのに、どこかすがるような、でも一歩踏み出す強さもあった。

 圭はその視線を正面から受け止め、ほんの一瞬だけ考える素振りをしてから、ゆっくり口を開いた。

「ああ。そのうち試合のチケット送るよ。みんなで見に来てくれ」

「……はい。行きます、絶対に」

 凜は力強く頷いた。その横顔は、つい先ほどまで泣いていた少女とは思えないくらい凛としていた。

 圭はそんな凜を見て、少し安心したように微笑んだ。

「ところで、あの……その、試合って、写真撮ってもいいんでしょうか?」

「もちろん。客席からなら撮影自由だよ」

「……本当に?」

「ああ。むしろ撮ってほしいくらいだよ。凜ちゃんは、写真上手いからな」

 その一言に、凜の胸の奥が熱くなる。

 鏡に魔法を掛けた時と同じ。カメラを向けた相手が、自分のレンズ越しに輝き出す感覚が甦る。

「……撮ります。圭さんがコートに立つところ。ぜんぶ撮ります」

「期待してるよ」

 圭は照れ隠しのように笑い、自分のコーヒーを飲み干した。

 凜の胸の奥に、久しく忘れていた『高揚』のような気持ちが生まれた。

——カメラなら。

——レンズ越しなら。

——まだ私にも何かできる。

 それはまだ恋とは言えない。でも、凜がもう一度前を向くための、最初の一歩だった。


 鏡が退院したのはそれから二週間後。

 九月十八日、午後二時のこと。場所は六階東病棟六〇五号室。

 久仁彦・理玖・灯が揃うと、大森医師はカルテを閉じ、深く息をついてから口を開いた。

「……結論から言おう。鏡くんはいつでも退院できる」

 その場の空気がわずかに揺れた。

 誰もすぐには言葉を発せず、大森は穏やかな視線で家族を見渡す。

「まず、身体の傷は順調に治っている。刺創はすべて浅く、筋層・血管・臓器への損傷はなし。感染の兆候もない。身体面だけで言えば、入院継続の必要はもう無いと言っていい」

 医師としての判断を淡々と述べるが、その声にはここ数日の緊張が滲んでいる。

「問題は精神面だ。だが……鏡くんは急性期を脱した。あの日の衝動は、一時的に極限まで追い詰められたことによるもので、慢性的な精神疾患とは性質が違う」

 大森はそこで少し言葉を切り、ゆっくりと続けた。

「……彼は絶望の理由を理解し、支えを得た。そして今は、それを失いたくないと強く願っている。これは治療において、とても大きい」

 理玖が目元をぬぐい、久仁彦は小さく拳を握った。

「もちろん、完全に回復したわけではない。今後も強い不安や抑うつが揺り返す可能性はある。だが、ここから先は……」

 大森は柔らかく微笑む。

「……病院のベッドより、家族がそばにいる生活の方が鏡くんの力になるだろう」

 その言葉には、医師としての責任と、友としての確信があった。

「自宅療養に切り替えながら、心療内科か精神科でのフォローアップを続ける。学校はまだ無理だが……日常に少しずつ戻る準備を始めよう。焦らずにな」

 カルテを持ち直し、大森は最後にきっぱりと告げる。

「鏡くんは大丈夫だよ。あとは君たち家族が、彼の帰り道になってくれればそれでいい」

 その瞬間、理玖は堪えきれず肩を震わせ、久仁彦は深く、深く頭を下げた。

——家に帰ってくるんだ。あの日、血まみれのベッドで消えようとした少年が。

 また「帰る場所」を手にしようとしている。


 そしてさらに1週間。九月二十五日、金曜日の夜。

 鼎も凜も鏡の退院の連絡は受けたが、面会は時期尚早と言われていた。

 自室で机に向かい、本日の復習をしている鼎の横で、スマホがポコンと音を立てた。

 思わずギョッとして画面を見る。鏡のアドレスからの着信だ。

 ごくりと生唾を飲み込み、震える手でメールを開いた。

 メッセージはただ一言。

『会いたい』

 鼎はじっと画面を眺め続けている。何をどう表現してよいやら。これは夢ではないのだろうか。

 会いたい。

 それは鼎も同じだ。僅か五分の距離、許されるものならば今すぐ飛んで行きたい。

 だがそれで鏡の負担を増やすことになっては元も子もない。あの日病室で見た光景は、未だ鼎の網膜に焼き着いたままなのだ。

 断った方が良いのではないだろうか。と言って、それもまた鏡を傷つけることになりそうだ。返信を遅らせてもいけない。

 だから鼎は一言だけ返した。

「俺も」

『いつ来れる?』

 間髪を入れずに次のメッセージが来る。

「ちょっと待って確認する」

 ひとまず逃げを打っておいて、鼎は圭に相談のRINEを送った。

「かがみんが会いに来いって言ってるけどどうしたらいい?」

 圭兄(けいにい)、忙しいだろうから返事来るかな?

 そんな懸念を吹き飛ばして、一分以内に返信が来た。

『行ってやれ』

 あまりに単純すぎて不安になる。試しに灯にも同じことを聞いてみる。

 こっちも答えは同じだった。両親とも同意見だと言うから、きっと良いのだろう。

 よし、行こう。

 気持ちは理屈より早く動くんだ。

「明日行ってもいいか?」

『何時?』

「昼頃でいいか?」

『もっと早く』

「じゃあ十時」

『おk』


 九月二十六日、土曜日。天気晴朗、なれども風弱し。鏡の胸の高鳴りは強し。

 鏡は朝早くから家の中をうろうろしている。

 キッチンではスポーツドリンクをグラスに注いではひと口しか飲まず、リビングではソファーにダイブしたかと思うとクッションを抱えて転がって、トイレに入っては何も出さずに出て来る。

 その様子を、家族はそれぞれ違う表情で見守っていた。

「鏡、お前どうしたんだ?」

 久仁彦は笑わずに尋ねるが、その目は明らかに笑っている。

「……なんでもないよ」

 言うわけがない。誰が言えるものか。「今日は鼎が来る」なんて。

 壁掛け時計は九時三十分。ため息を吐き、スマホを見る。そっちもやはり九時三十分(当たり前だ)

 もう一度ため息。

 灯は台所でおやつを準備しながら「いや〜青春だねぇ。尊いねぇ。母さん、今日の鏡かわいすぎない?」と実況している。

 理玖は「からかうなよ、灯。鏡の気持ち考えなよ」と言いながら、実は誰より嬉しそうだった。

 その時、玄関のチャイムが鳴った。鏡は転びそうになりながら玄関に飛び出した。

「は、はいっ! ——って、えっ」

 勢いよく扉を開けるとそこにいるのは……!

「宅配便でーす」

「…………あっ、はい」

 灯が台所から腹を抱えて笑っている声が聞こえる。

「まあ一回はお約束だよねぇ鏡ぉ〜」

「うるさい!」


 五分後。二度目のチャイム。鏡はさっきより静かに、慎重に扉を開けた。

「よ、よお……」

 今度こそ、鼎だった。ラフなTシャツ姿で、少し息を切らしている。

 鏡の喉が、ごくりと鳴った。

「……かなえ」

 ようやく絞り出した一言は、情けないくらい震えていた。

「なんか待ち切れなくてさ。早過ぎたかな?」

「ううん……全然……」

 言いながら、自分の声がうまく自分のものに聞こえない。そして——次の瞬間、考えるより早く飛びついていた。

「かなえーっ!」

 鼎は驚きながらも、強く抱きしめ返した。

「会いたかったよ、僕……すごく……すごく……会いたかった……」

 鏡は涙声だった。

 鼎は鏡の頭にそっと手を回した。

「俺もだよ、かがみん」

 その瞬間、家族は空気を読むプロと化した。

「あ~なんだか寝足りないなー(棒)もう一眠りしようかなー(棒)」

「そうだねー、せっかくの休みだし、ゆっくりしようか父さん」

「あたしもレポートまとめなきゃ~」

 わざとらしく呟きながら、夫婦は寝室へ、灯は自分の部屋へ……。

 三人は音もなくリビングを退出し、玄関には鏡と鼎の二人だけが残った。

「かがみん。顔、上げて」

 鏡がゆっくりと見上げると、鼎は一瞬だけ迷って——でも覚悟した目で言った。

「かがみん。あの時……病室で言ったこと。全部本気だから。俺は……お前が好きだ。誰より、何より、お前がいい」

 鏡の視界が滲む。

 喉の奥が熱くなる。

 呼吸がうまくできない。

「……僕……僕も……鼎が好きだよ……ずっと……ずっと……好きだった……」

 その瞬間、鼎は鏡をもう一度抱きしめた。

 鏡は泣きながら、鼎の胸に顔を埋める。

「生きてて……よかった……」

「生きててくれてありがとう」

 二人の心が、一つに溶け合った瞬間である。


 ゆっくりと抱擁が解け、二人の影が二つに別れた時。

 鼎の左腕には、まだ白い包帯が巻かれている。そのことに気づいた瞬間、鏡の視線はそこから離れなくなった。

「あ、これ? 平気へーき。そんな(ヤワ)じゃないって」

 鼎は気まずさを誤魔化すように、わざと大げさに腕をぶんぶん振って見せた。

「やめてよ! 痛いでしょ……」

 思わず出た言葉に、鏡は自分で驚いた。心配と怒りと、申し訳なさと——いろんな感情が混ざり合っていた。

 鼎は少しだけ目を丸くし、それから静かに笑った。

「……よかった。ちゃんと怒れるくらいには元気なんだな」

 泣きながら鼎を見上げる鏡。

「だって鼎、僕のせいで……」

「入ってもいい?」

「あ……うん。入って……来て」

 鏡が半歩よけると、鼎は「お邪魔します」と小さく呟いて上がり込んだ。

 鏡は緊張でぎこちない歩き方になりながら、鼎をリビングへ案内した。

 ……が。

 そこは見事に無人だった。テレビは消え、テーブルには湯飲みだけがぽつんと置かれている。

「……あれ? みんなどこー?」

 廊下の方から、小さな含み笑いが聞こえた気がした。

「ちょっ、灯、静かに!」

「いや無理(笑)」

「こら、聞こえちゃうだろ!」

 鼎は思わず吹き出し、鏡は顔を真っ赤にした。

 いや聞こえてるし……。

「もー!」

 鏡が叫ぶと、ようやく三人が観念して出てきた。

 久仁彦・理玖・灯の三人が、気まずそうに、でも嬉しそうに並んで立つ。

「お邪魔してます……」

 鼎が小さく頭を下げると、真っ先に久仁彦が言葉をかけた。

「鼎くん。本当に……ありがとう!」

 両肩に手を置き(と言っても鼎のほうが背が高いのであまり絵になっていないが)頭を下げる。

 父として、心の底からの感謝。久仁彦の声は震えていた。

 続いて理玖が鼎の包帯を見つけ、眉を寄せた。

「痛かったよね……ごめんね、あんな役目を負わせちゃって」

「い、いえ! 俺が勝手にやったことですから!」

 鼎の慌てぶりに、理玖は微笑んだ。。

「……これからも、鏡をよろしく頼みます」

 そして灯が、にやりと笑って鼎の横腹を肘でつつく。

「かーなえくーん? ウチの鏡を泣かせたら、ただじゃおかないからね?」

「泣かせません!!」

 即答だった。鏡は嬉しさで胸が押し潰されそうだった。

 それからは、久しぶりに「普通の食卓」だった。

 母・理玖が作る優しい味の昼食。

 灯のしょうもない冗談。

 久仁彦の苦笑。

 鼎が遠慮しながらもよく笑う声。

 鏡はふと気付いた。こんなふうに、家族の輪の中に鼎が自然に座っているなんて夢みたいだ。でも、現実なんだ。……現実だよね?

「また来いよ、鼎くん」

「はい! ぜひ!」

 鼎は玄関で深々と頭を下げ、帰って行った。

 扉が閉まった瞬間、鏡の胸の奥がじんわりと熱くなる。

 自室に戻ると静寂が落ちてきた。窓からは秋の光が差し込み、ベッドの白いシーツが柔らかく耀いている。

 鏡は胸に手を当てた。

——ここにある。

——まだちゃんと動いてる。

「……生きてみよう。もう一度」

 小さく呟く——もう一人じゃないんだし。

 その声は、あの日とは違い、確かに「未来」に向いていた。


 ここまでの部分を見ると、鏡は順調に回復しているように見えるだろう。

 実はそうとも言い切れない。

 頻度は下がりつつあるとはいえ、フラッシュバックは毎日のように起きる。特に凜のことを考えると呼吸困難になる。

 あの時味わった恐怖、トラウマが消えてくれないのだ。今でも抗不安薬と就眠剤を手放せない。

「……会わなきゃ、だよね」

 また呼吸が苦しくなってきた。凜は全く悪くない。全ては僕のためにしてくれたことだ。全ては自分の誤解、思い込みだったことは理解している。それでも、気持ちが追い付いてくれない。

「……もう少し、時間をください。凜ちゃん……」

 鏡は心の中でそっと呟いた。


 十月。既に最初の一週間が過ぎている。朝の空気が少し冷たくなった。鏡の体重も少し戻り、表情も穏やかになっていた。

——そろそろ学校に行かなきゃ。

 鏡は焦っていた。出席日数は既に危険水域に達している。病気を理由にしても、このままでは留年し兼ねない。それでは両親にも申し訳が立たない。

「金曜日、学校に行くよ」

 鏡は思い切って両親に切り出した。母は不安げに眉根を寄せたが、父は「うん」とだけ言って頷いた。

 励ますでもなく、助言するでもなく、ただ「受容」する。我が子を余程信用していなければ出来ることではない。

 金曜日を選んだのは理由がある。

 土日の次はスポーツの日。三連休があるのだ。もし学校での緊張に耐えられなくて力尽き、倒れても、泣いても、誰にも会わずに三日間は引きこもれる。

 小さな計算だけど、それくらいしないと足が前に出ない。

 勇気だけでは歩けない時もある。逃げ道ごと抱えて前へ進むしかない。


 十月九日、金曜の朝。

 鏡は今、キッチンのテーブルに着いて震えている。中身がすっかり冷めたマグカップを両手で持って。

 お父さんは鏡の頭を撫で、額を付けただけで出勤して行った。

 お母さんも、(あか)(ねえ)(今日は午前中休講だそうな)も、特に何も言わない。ただ鏡の動向を——行くにしても、休むにしても——無関心を装って注目している。

 玄関のドアが開く音。続いて鏡を呼ぶ鼎の声。鏡は弾かれたように立ち上がった。

「い……行って来ます……」

 かすれたような声に、母と姉は優しく微笑んだ。


 駄菓子屋・さくらや前。

 凜は一人ベンチに腰かけて、鏡と鼎を待っている。

 昨夜遅く、理玖おばさんからメールが来た。

『明日鏡が登校します。会った時、決して謝罪の言葉を口にしないでください。あなたは悪くないのですから』

 凜にはその理由が痛いほどよく解る。

 自分が謝れば、鏡ちゃんはますます罪悪感を募らせるだろう。ただ「会えて嬉しい」とだけ言おう。


 二丁目の丁字路前。ここを左に曲がればさくらやが見える。

 鏡は足を止めた。呼吸が荒くなる。

「かがみん、今日はやめておこうか?」

 鼎が不安そうに顔を寄せてきた。

「平気だよ。凜に会うって決めたんだから」

 秋晴れの空を見上げて深呼吸。ゆっくりと息を吐きだし、視線を元に戻した。

「さあ、行こう」

 鏡は先に立って歩き出した。さくらやの前の凜に向かって大きく手を振る。

 凜も気づいて立ち上がり、手を振り返した。

 近づくにつれ、脈拍が早くなっているのが自分で分かる。

「大丈夫か?」

 鼎の言葉に、今日は無言で肯いた。


 三歩の距離を置いて向かい合う鏡と凜。

 緊張からか、どちらも声が出ない。一歩踏み出せば届く距離。それが、こんなにも遠いなんて。

 鼎が、ほんのちょっと鏡の背中に触れた。「押す」というほど強くなく、温もりを伝える程度の接触。

 鏡の口から吐息が漏れ、それが言葉になった。

「……おはよう、凜ちゃん」

 凜の視界が滲んだ。心の中で「泣いちゃダメ」を繰り返している。

「鏡ちゃん……会えて、嬉しい……元気そうで良かった……」

「うん。大丈夫だよ。僕、ちゃんと来れたよ」

 三人が揃うのはいつ振りだろう。

 並んで歩き出す。その先に、きっと幸せが待っていることだろう。

 沿道の植木鉢に揺れる赤いコスモスも、三人の未来を応援するかのように揺れていた。



第六節:Beautiful Day.


 同じく、十月九日の昼近く。

 場所は某県の県庁所在地、S市。都心を離れ、今は紅葉美しい山間の温泉街の中にその体育館はある。正式名称は「ノヴァフレックス・アリーナS」

 VリーグDiv.3、北匠(ほくしょう)ノヴァ・フレックスのホーム・アリーナである。

 元は大企業の保養・研修施設だったものが事業再編によって手放され、それをチームの親会社・北匠興業株式会社が格安で入手したものだ。

 明日からホーム二連戦。相手は現在リーグ首位のキンイロスポーツジャンパーズ。強敵相手に選手たちは気合十分、むしろ殺気立っていると言っていい。

 小休止が入り、新人セッター・小田圭は給水のためベンチに戻った。窓から差し込む秋晴れの日差しが眩しい。

 彼は明日がプロデビュー戦となる。

「お疲れ~」

 チームメイトの一人、ベテランOH・直江が声を掛けた。

「圭のセット、撃ちやすくていいなあ」

「あざっす」

 他の攻撃陣も口々に「撃ちやすさ」を称賛する。

「ここに欲しいってところに『ある』んだよな。『来る』じゃなくて『ある』」

「そうそう。なんか自分が数倍上手くなった気がする」

「なんかボールが止まって見える」

「「「それだ!」」」

「あざっす」

「俺は嫌だなあ。タイミングが読み辛くて」

 対戦していたBチームのMB・色部が心底嫌そうに言った。

「コースは読めてるのに、なんでタイミングが合わないんだか。さっぱりわからん」

「それが小田の持ち味だよな」

「あざっす」

 体育館が笑いに包まれたが、圭自身は静かに微笑んでいるだけだ。物静かで、常に落ち着いている男と言うのがメンバーからの評価だった。

 ブルゾンの上に置いてある圭のスマホが光った。灯からのメッセージだ。

「ちょっと失礼」

 圭が着信をチェックし、満足そうに笑顔を見せる。

「おいおい圭、なーにニヤついてんだよ」

 一年上の同期、細井が肘をつついた。

「カノジョか? いいねえ、モテる奴は」

 リベロ・千葉も乗っかって来る。

「いえ……」

 圭は一度だけ小さく息を吐き、画面を閉じてから素直に口を開いた。

「弟が今日……学校に行ったそうです」

 その一言に、近くの数人の動きがふと止まった。圭が「最愛の弟の危機」と聞いて急遽チームを離れ、実家へ走ったあの日のことを、誰も忘れてはいない。

「それは何よりだ」

 いつの間にか背後に来ていた上杉監督が、短く、それでもどこか柔らかく言った。

「じゃあ明日は心置きなく暴れてもらおうかな」

 上杉の言葉に周囲がどっと笑った。圭も釣られて小さく笑ったが、その胸の奥では別の感情が静かに広がっていた。

——鏡。自分で学校に行けたんだな。

 ひと月前。自殺未遂までした弟……血に染まった病衣はまだ夢に出てくるほどだ。それが、今朝は自分の意思で外に出た。

 制服を着て、靴紐を結んで、玄関の扉を開けて歩いている——その事実だけで胸が熱くなる。

——凜ちゃんも……よかった。あの子はきっと、強くなる。

——カナ……お前は本当にすげえよ。弟を守ってくれて、愛してくれて、ありがとう。

 圭は水をひと口飲んで、ゆっくりと呼吸を整えた。

 体育館の空気は熱い。スパイクの音、シューズの擦れる音、仲間の掛け声——今、全てが心地よい。

——家族も、弟の友達も、あいつを愛してくれる人たちも……みんなが、それぞれの美しい一日を取り戻しつつある。

 圭の胸の奥で、ひとつの思いが静かに形になる。

——だったら俺も、前へ進まなければ。

——プロチームに入れた、それで終わるわけには行かない。チームを強くし、Dⅰv.1まで行く。そして俺は日本代表になる。

 スマホをブルゾンの上に戻し、コートへ歩き出す。

 その背中に直江が声を掛けた。

「圭、明日は派手なの頼むわ」

 圭は振り返り、いつもの落ち着いた笑みで答える。

「派手にやるのは、スパイカーの仕事です。俺は……水になりますよ」

 観客席のない静かな練習場に、控えめな笑いが広がった。

 だがその水は、誰より強く、誰より優しく仲間を押し上げる。

——俺はスターじゃなくていい。スターを支える人間でありたい。そして……弟の未来を支えられる兄でありたい……。

 圭はトスを上げた。柔らかく、吸い付くように、迷いなく。

 スパイカーの助走音が迫り——乾いた打球音が体育館に響いた。

「ナイスキー!」

 歓声が上がり、圭の胸の中にも、小さな炎が灯った。

 レシーブが上がる。

 スパイカーが走る。

 水が流れるように、自然にトスを上げる。

 ボールがブロッカーの指先を掠める。

「ナイスキー!」

 再び歓声が上がる。

——明日、俺はプロとして初めてのコートに立つ。

 鏡が今日、学校へ戻ったように。

 鼎があいつを抱き締めたように。

 凜ちゃんが前を向いたように。

 父さんと母さんが受け止め続けたように。

——俺も、自分の場所で戦うんだ。

 世界は確かに動いている。

 昨日止まっていたものが、今日は動き出す。

 そしてそれを誰かがそっと支えている。

 体育館の窓の外では、紅葉した山が風に揺れている。

——ああ、今日は佳日だ。人生最良の日だ。

——明日もきっと、美しい一日になる。


(第五章:了)


第五章まで読んでくださり、本当にありがとうございます。


鏡にとって最も暗い時間でしたが、その暗闇の中で伸ばされた「手」が彼を救いました。

作者の責任として、全員に幸せになってもらわなければなりません。


鼎、凜、圭、そして家族。それぞれの想いが重なり合い、鏡は再び歩き出しました。


次章(第6章:最終章)では、日常へと戻る一歩と、新しい関係の始まりが描かれます。

引き続きお付き合いいただければ幸いです。

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― 新着の感想 ―
鏡ちゃんが幸せになれて本当に良かった。 鏡ちゃんと、彼を取り巻く人々が一人残らず幸せになりますように。
圭兄さん、八面六臂の大活躍でしたね。 番外編の時からカッコいいと思っていたので大満足です。 凜ちゃんとの今後も気になります。 何はともあれ、ハッピーエンドおめでとうございます。 次も期待しています。
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