第9話
「ここがモデルの事務所、ですか……! 都会だぁ」
弘彦と陽奈の二人が電車に揺られること数十分、目的地である事務所に到着する。
首を痛めるように聳え立つビル群の中の一つに彼は目を向け、ゴクリと生唾を飲んだ。
見慣れない都会の風景にわなわなと震えていた弘彦がふと隣に目を向けると、青い顔をしながら俯く陽奈の表情が目に映った。
「鍔木さん、大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。だいじょうぶ、だよ。ほら、さっさと終わらせに行こ」
「そう、ですね……」
弘彦はこの彼女の言葉に対して、〝事務所関連のことを終わらせる〟と〝二人の関係を終わらせる〟という、二つの解釈で捉えらることができた。
歩き始めた陽奈の後ろを、カルガモの雛のようについてゆく。
エレベーターに乗り込んで上の階に向かい、とある階の一室の前で深呼吸をする。
「じゃあ、入るよ」
「は、はい」
陽奈は鉄製の扉でも開けるかのように、ゆっくりと開ける。
その部屋の奥の椅子には、モデル事務所の社長にふさわしいほど容姿端麗で、美女という二文字が似合う女性が座っていた。
「よく来たね、陽奈。……っと、そちらの少年は?」
「あ、えと、鍔木さんの付き添い、みたいな感じです。あっ! 玖珂弘彦と言います‼」
「私はこの事務所の社長、嘉社麗美亜だよ。よろしくね。……メカクレショタか……じゅるり。おっと、それじゃあ件の話について座って話そうか」
(な、なんか悪寒が走った気がする⁉)
その社長こと嘉社の対面にあるソファに座り、早速本題に入る。
「それで? 君はこの事務所のオーディションに応募し、読者様方に多大なる応援を頂き、仮契約をしたが取り消したい。そう言いたいのだね」
「ぅ……は、い。そう、なります……」
「君はまだ中学生だ。けどね、今の君は大人の世界に片足を踏み入れているのと同じで、〝責任〟が生じる。君はその責任を放棄しようとしているわけだ」
「…………」
嘉社には予め「辞退したい」という旨を伝えていた。
助走なしでいきなり詰められ、自然と陽奈の視線が床へと吸い寄せられてゆく。
「君はこの契約を破棄してまで、いったい何がしたいんだい?」
「えっと。昔からの夢で、ソフトテニスをもう一回挑戦して、日本一なりたいなって……」
「ソフトテニスか。ああ、君はすごい選手らしいね。けど、ソフトテニスはオリンピックとかはないらしいじゃないか。それを続けて、何かあるのかな」
「っ! ……えっと……」
太ももの上で強く握られた彼女の拳は震えていた。
助け舟を出すべきだろうか。自分が割り込んだところで何か状況が好転するだろうか。弘彦にそんな思考は過ったが、腹をくくって沈黙を破る。
「つ、鍔木さんの代わりになるような人とかはその、いないんですか……?」
「陽奈は二位に大差をつけて一位になったんだよ、弘彦君。しかも、雑誌の売り上げが先月より何倍も上がったことから難しい。君は隣の子以上の逸材を見つけられるのかい?」
「い、いえ……無理かも、です……」
「だろうね」
弘彦の言葉は容易に丸められて、ゴミのようにポイッと捨てられた。
(相手は大人だ。まだ子供の僕の小細工だとかは通用しない……。鍔木さんの本心を確認して、終わらせよう)
隣でだんまり陽奈に声をかける。
「鍔木さん。喋らなくていいので教えてください。モデルになるのなら何もしないで、まだテニスをしたいなら今握ってる手を動かしてください」
「……ぐすっ……」
彼女は何も言わずに手を開き、弘彦の太ももの上にそれを乗せてしわを作った。
「わかりました」と、彼は一言。そして、その場に立ち上がる。
「嘉社さん。やっぱり契約の話、無しにしてもらえませんか」
もうおどおどとした喋り方はなく、弘彦はまっすぐと嘉社に顔を向けてそう言う。
「あのねぇ、さっきから言っている通り――」
「鍔木さんがモデルやらずに損が生じた分、僕が働いて貢献します! モデルとしては無理な気がするので雑用とか、なんだってやります‼ だからお願いします‼」
「……なぜそこまでするんだい」
「僕は鍔木さんの専属マネージャーだからっていうのもあります。他にも、昔に救われたから恩返しをしたいんです。……いや、でももっと利己的な欲求は違くて……!」
前髪をくしゃっと掻き、隠れていた青い瞳が露わとなった。
眉間にシワを寄せ、目を光らせる真剣そのものの表情だ。隣の陽奈も、抑えが効かなくなってきており涙が零れ落ち始めている。
「もっと、鍔木さんの隣にいたいんです‼ 僕が彼女の隣に立つのは不相応なのは重々承知ですけど! 憧れの人の憧れを、一番近くで見たくなったんです‼ だから――‼‼」
「なっ……⁉」
弘彦は床に手を付け、
「もう少しだけ僕と鍔木さんに、夢を見させてください……お願いします……!」
「ぁ……え、っと。私からもっ、おねがい、します……!」
消え入りそうなか細い声で、土下座をした。次いで陽奈も同じように土下座をし、嘉社の落ち着いた雰囲気が霧散し狼狽する。
そして、はぁと溜息を吐いて嘉社は諦めた様子の口調で話し始めた。
「わかった。わかったから顔を上げて、そのまま立ってくれたまえ」
「い、いいんですか……?」
「いや、うん。まあ、こんなこと言うのはアレだけどさ、実は――元から許すつもりだったんだ……」
「「――……はぇ?」」
困ったなと言わんばかりに、ポリポリと頬を掻きながら眉を八の字にする。。
「ただ『いいよ』って許したら、陽奈に〝辞め癖〟が付いてしまうと思ってね。お節介かもだが、一芝居してから話そうと思ったんだけど……いやはや、なんとも素敵なマネージャー君だ」
「え、いや、すみません! 出しゃばって‼」
「いいや、謝らなければならないのはこの私の方だ」
そう言うと、姿勢を低くして土下座をした。
「二人ともすまなかった。大人が子供に土下座をさせるなんてあってはならないことだ。ここまで追い詰めるつもりはなかったと、言い訳はしない。ソフトテニスのことを愚弄した発言も、同じように謝罪する。このことは君たちの保護者にきちんと責任を持って説明する。本当に、申し訳ない」
「そ、そんな、大丈夫ですよ全然! 僕は気にしてませんから‼」
「う、うん! 私も、私のことを思ってしてくれたことだってわかったから、だいじょぶ」
「いいや、これは〝大人の責任〟だ。君たちが許してはい終わり、と終わらせてはダメなことなんだ。だが、君たちが許しをくれたこと、感謝する」
とりあえず、無事にこの件は解決したと息を吐いて胸をなでおろす。
土下座をやめて立ち上がった嘉社は、「それにしても」と切り替えて言葉を続けた。
「弘彦君、君からは原石を感じたよ。特に瞳が、ね。順当に成長すれば晴斗と肩を並べられるやも……。どうだい、脅しとかじゃあなく、うちで働いてみない?」
「えっ、えっ。い、いやぁ、さすがに僕じゃ――」
「ダメっ! 玖珂は私んだから‼」
嘉社がぐいぐい距離を詰めてそんな提案をしたが、本人より早く陽奈が間に入って断る。
ふんすと鼻息を鳴らしていたが、自分がした行いを冷静に鑑みて、今度は頭から煙が出て汽笛の音でも鳴りそうな勢いだった。
「ふぅん、へぇ~~? あの陽奈がねぇ。まあいいさ。気が向いたら連絡でも寄こしたまえ」
「あ、えっと、ありがとう、ございます……?」
「ぐるるるる……‼」
猛獣のように唸る陽奈を横目に、嘉社の名刺を受け取る。
「陽奈、契約や雑誌にことはこちらで何とかする。が、やっぱりモデルになりたいと言ってもあたしは首を縦に振らない」
「わかってます」
「だがもしも……陽奈、そして弘彦君。君たちがソフトテニスで一位に輝き、トロフィーやらなんやらを貰ってそれを私に見せてくれれば考えてやらんこともない。目指すからには全力でやれよ、少年少女ども」
嘉社は拳を突き出し、口角を上げてそう言い放ってみせた。
二人は顔を見合わせ、勢いよく返事をする。
「「はいっ‼」」