第8話
陽奈は事故によって利き手を骨折したが、特に後遺症がなく完治した。
テニスの成長を阻害していたのは、当時の周囲の環境と心の弱さからだ。それゆえに自分を客観視する者がいなくなり、フォームが崩れていてもわからなかった。
しかし、今ではそれを補ってくれる人物がいる。
「フォームも体に馴染んで安定してきましたね。さすが鍔木さんです!」
「うん、いい感じだよ」
陽奈の両親が旅行から帰ってきて、姉の家を後にする時まで弘彦を専属マネージャーとする約束から三日が経過した。
二人は中学校に行く前の朝と授業後の時間に、橋の下でテニスの練習をしている。
行っているのは正しい姿勢でラケットを振り、ずれがあったら微調整しながらまたラケットを振るというシンプルなものだ。
「この調子なら夏の大会に出れますよ! やっぱり鍔木さんは天才です! 誰も止められませんよ‼」
「ふ、ふふ……ふふふふっ。そんな褒めても私からは何も出ないんですけど~っ‼ 玖珂はさぁ、私のこと持ち上げすぎなんだってば~~♪」
「いえ、本当のこと言ってるだけです」
「だからさァ~~~♪♪」
(鍔木さんのキャラ、なんか変わってないか?)
夕陽が川面に反射する煌びやかな情景の中。弘彦の褒めちぎり攻撃に対して、満更でもなく顔を緩めて効果抜群の様子な陽奈。
順調に元の力を取り戻しつつあることを実感できている彼女は、それが嬉しくて仕方がないのだ。
「明日には家に帰るんですよね? そ、その……今は仮の専属マネージャーですけど、どうしましょう……。い、嫌なら全然断っても‼」
「今更何言ってんの。色々私のために頑張ってくれてんの見てたし、そりゃもちろん――っと、電話だ。ちょっと出るね」
「あっ、はい」
喉元まで出かかった返答が電話に遮られ、一旦お預け状態になる。
彼女はスマホを耳に当てて電話越しの相手と何かを話しており、嬉しいことを伝えられたのか、花が咲いたような笑みを浮かべていた。
しかし、ハッと何かに気が付いて弘彦を一瞥する。その花のような表情は一変し、象牙のように血の気のない表情へとなる。
「はい、はい……。え、っと。そう、ですね。嬉しいんですけど、ちょっと色々あって。明日直接、お返事させてください……はい……」
「鍔木、さん……?」
「ど、どうしよう……。テニスの練習、できなくなっちゃうかも……」
彼女の瞳の中で絶望が揺蕩い、青ざめた表情からただ事ではないと弘彦は察する。
「な、何があったんですか?」
「ファッションモデルの事務所のオーディシを受けてるんだけどさ、お試し掲載で一番人気だった子が採用されるって感じなの。それで、今は事務所と仮契約みたいな状況で、一位になったって報告があったの……」
「ファッションモデルもやるとなると、練習時間は削らなきゃいけない……。しかもデビュー前から人気となると、そっちの仕事が多忙になる可能性がある、と」
小さく頷き、今にも零れそうに目が潤んでいた。
ソフトテニスの夢を叶えるために二番目の夢を諦める。ただ、そうした場合、テニスもモデルも叶えられなくなる可能性がある。思考を巡らせた弘彦は、指を顎に添えた。
「うん。まあ、なんとかなるよね。明日社長さんと話付けてくるから」
「そう、ですか……」
空元気。陽奈の今の状態を表すのならば、その三文字が適していた。
ぎゅっとスカートを強く握りしめて濃いシワを作る彼女だが、弘彦は喉に何かが詰まって言葉が発せない。
結局、何も声を掛けられずに今日が終わりを告げた。
明日の空模様は雨である。
# # #
――翌日。
今朝のテニス練習は、雨が降ったことにより中止になった。
学校での陽奈はいつも通りだった。誰にでも冷たい冬空の下の氷のような、そんな彼女。心を開きかけていたと思った弘彦に対しても、いつもの彼女に戻ってしまっていたのだ。
そして放課後、彼女がその事務所の社長と話をするために帰路を辿ることなく、駅の方角に向かって歩き始めた。
(鍔木さん、大丈夫だって言ってたけど……心配だ)
その後ろを、雨音に紛れて付ける不審者こと弘彦。
すると、陽奈はピタリと足を止め、はぁと溜息を吐いて振り返る。
「あのさぁ、とっくに気づいてるんだけど。私になんか用、玖珂」
「え⁉ あ、いゃ、その……ちょっとだけ、心配で……」
「ついてきてなんて、言ってないんだけど」
「……!」
傘で顔を隠すが、震える口元が前髪越しに目に入った。
(鍔木さんは多分、行くのが怖いのかもしれない。無理やりついて行ったら嫌われる。……だからなんだ? 嫌われたって別に何も問題ない。僕一人が犠牲で、彼女が真に幸せになれるのなら――‼)
「じゃ、私は今から行ってくるから」
「あ、あの! 僕も付いていかせてください。使います――一回だけ鍔木さんをストーキングする権利を‼」
あの日、買い物に出かけた際に渡された権利。それをここで使ったのだ。
彼女は一瞬、目を大きくさせて驚き、ふっと笑って踵を返して歩み始める。
「……勝手にすれば」
「は、はいっ‼」
「あっ、でもついてくるならこれ、一緒に被ってもらうから」
そう言って陽奈から手渡されたものは、紙袋であった。
「なん、ですか。これは」
「変装だけど。私って有名人だし、しゃっちょから忍んで来いって。はい、玖珂の分」
「さっきまでのシリアスは何処へ……。ってか被りません、ふざけないでください。――目と口用の穴開けないと‼」
「はっ、盲点だった。さすが玖珂」
おお、と感心した様子の声を漏らす陽奈。
二人は指で紙袋に穴を開け、それを被る。見てくれは三百六十度どこから見ても不審者である。
「よし、行きましょう。鍔木さん!」
「うん、行こう。……あっ、この紙袋パン匂いする」
「こんな時にまで腹を空かせないでください」
結局、そのまま紙袋を被った不審者二人組は、無事に駅員に引き留められるのであった。