第7話
「休日の昼ごはんは外で食べるに限るなぁ」
家宝が手に入った翌日、弘彦は自作の弁当片手に外を歩いていた。
雲一つない快晴の下、同じような瞳を持つ彼は川のせせらぎで耳を洗おうと橋を渡ろうとしたのだが、妙な音が耳に響く。
「この音は……テニス? こんなとこで練習してる人もいるのかな」
橋の下からボールを打ち返す音が反響しており、弘彦は吸い込まれるようにそこへと足を運ばせる。
するとそこには、紐で繋がれたソフトテニスボールをひたすらに打ち返し続ける陽奈の姿があった。
やましいことは何も考えていないのだが、彼はこそこそと隠れてその様子を観察する。
一度ボールを回収し、サーブを打とうとするもスカッと空を打って外す様子も見られた。
(てっきり中学に上がると同時にやめたと思ってたけど、まだ続けてたんだ。……でもなんで、ソフトテニス部に入ってないんだ?)
そんな疑問が生じたが、それを吹き飛ばす咆哮が轟いた。音の主に目を向けると、陽奈がお腹を押さえている。
相変わらずだなぁと、呆れ混じりに苦笑いする弘彦。
「お弁当忘れた。この川にサワガニがいないし、ダンゴムシくらいしかいないんだよね。……ダンゴムシ、か……」
(なんか鍔木さん、とんでもないことを呟いていないか?)
嫌な予感を感じ取った弘彦は、不審者ムーブをやめて彼女に近づいて声をかける。
「ひ、鍔木さーーん! こんにちは、奇遇ですね」
「うん? あれ、玖珂じゃん。ねぇ、ダンゴムシってね、一度揚げると白くなるんだけどもっかい揚げると黒に戻るんだよ」
「まるで一度やったことがあるような物言いですけど……えっ? つ、鍔木サン……?」
「ふふふ。じょーだんだよ。じょーだん、ね」
陽奈のその不敵な笑みは、心に塗られた不安を拭うには不十分であった。
わかりやすく話を変えるように、彼女は「なんでここに?」という質問をぶつけてくる。
「天気もいいので外で弁当を食べようと。……あ! す、ストーカーとかはしてないですから‼」
「ふぅん。その手に持ってるの、私のために作ってくれたのかな~って期待しちゃった」
「えっ、と。よろしければお裾分けしますが」
彼女は「大丈夫。流石に貰いすぎな気がするし」と言いつつも、狙いを定めた肉食獣のように、手に持っている弁当から視線が外れることがない。
「……実は試作の料理で、誰かに試食してもらって感想聞きたかったんですけど、鍔木さんがそう言うなら仕方――」
「貰わないとは、言ってないんだけど」
「でもさっき大丈夫って」
「言って! ないんですけど⁉」
「……そうですよね」
彼女の気迫に圧倒され、過去の発言が改変された。
鼻息混じりに歩き出し、階段に腰を掛けたところで弁当を手渡す。
「おお、これはなんて料理? 野菜が赤いね」
「ラタトゥイユというフランス南部の郷土料理です」
「おしゃれな料理だね。さすが、鼻につく」
「……それは誉め言葉として言ってるんですか?」
「? 当たり前でしょ? 言葉の意味はよく分かってないけど。ん~、これおいひ~~♪」
「鍔木さんは言葉の勉強をもっとすべきです」
川の流れる音と、橋の上で車のタイヤが摩耗する音。それに加えて、隣で陽奈がむしゃむしゃと弁当を頬張る音が弘彦の耳に届いていた。
弁当を食べ終えた後、彼女に一つの質問を投げかける。
「鍔木さん、そういえばさっきテニスの練習してましたけど、テニス部には入らないんですか?」
その質問をした直後、陽奈の顔に影が落ちた。
何か地雷を踏んでしまったかと焦るが、彼女はふぅと一息吐いて、
「いーよ。弁当のお礼、特別に教えたげる。……私さ、昔はめっちゃソフトテニス上手かったんだ。〝神童〟とか呼ばれちゃうくらい。
でもある日、自業自得の事故で利き腕を骨折しちゃったんだ」
「えっ」
「ソフトテニスで日本一になるっていう夢があったけど、諦めて二番目のモデルになるって夢を目指し始めた……って言いたいけど、やっぱ諦めきれなくてさ。まーサーブすらまともに打てない凡人未満になり果てた私はもう、ね。はいっ、暗い話おしまい」
「…………」
その話を聞いて、弘彦は同情して悲しみを分かち合う。なんてことはなく、怪訝な顔をして頭の上に疑問符を浮かべている。
そして、こんなお願いをした。
「もう一回、サーブを打ってくれませんか?」
「……今の話聞いてたわけ? ちょっと性格悪い気がするんですけど」
「はい。ですが今度は、目を瞑ったままで打ってください。自分が思う、ベストフォームで。僕が合図をします」
「はぁ、何言ってんの? おちょくるつもりなら――」
「僕はいたって真剣です。お願いです、一回だけでいいので信じてみてください」
前髪の隙間から覗く蒼穹の瞳で、彼女の姿を穿つ。鮮やかな瞳の内側には深海のような、はたまた宇宙のような未知が孕んでいる。
その気迫に押された陽奈は少したじろぎ、渋々了承する彼女はラケットを持ち、そのまま肺の空気を吐き出し始めた。
(とある出来事から、皮肉にも僕は目が良くなった。だから何となく、見て分かった。彼女はもう上達しないのではなく、ただ目を背けているだけなんだ)
紐で繋がれたテニスボールを握りしめ、それを頭上に投げて膝を曲げた。ボールが一瞬宙で静止し、そのまま落下してくる。そして、
「――今ッ‼」
「ふっ‼」
スパーーンッ‼ と、爽快な音が響き、繋がれていた紐が千切れて遥か遠方へと吹っ飛んでゆく。
こちらも吹き飛ばされそうな勢いで、打った自分自身も瞠目させて驚いていた。
「え、ほぼ新品だったのに千切れた……⁉ 私が、これを⁉」
(元天才というのは、何かと周りの視線や声を気にする。「昔は~」とか「落ちぶれた~」とかなんとか。そう言われるのが怖くて、目を背けて、目を向けられないようにするんだ。その気持ちは、嫌というほどわかってしまう……。だから、自分自身と向き合えずに、サーブすら打つのが怖くなっていたんだ)
わなわなと震えている陽奈に近づき、弘彦はこう宣言する。
「鍔木さんがソフトテニスを復帰して白い眼で見られようとも、僕は隣で応援し続けます。鍔木陽奈さん、あなたは日本一になれます」
「っ! て、適当なこと言わないでほしいんだけど。たまたまいいサーブ一回打てたくらいで……」
「確かに今のままじゃ無理かと。ですが、きちんと練習すれば、容易に過去の実力を超えれると思いますよ」
「そこまで大口叩くんならさぁ! 期間限定で、私が実家に帰るまで専属マネージャーにでもなってみてよ! そんな覚悟もない癖――」
「わかりました」
逡巡の間もなくノータイムで返事をし、彼女をたじろがせた。
彼はマネージャーとしての経験など皆無で、ましてや運動もそれほど得意というわけではない。だが、それでも、彼女の力になりたいと心の底から出た真が姿を現す。
「僕はテニスコーチでもないただの料理好きです。どちらかというと向いてないと思います……。だから、あなたを料理します。体のどんな部位も余さず使って仕上げて、最高のソフトテニスプレイヤーにします。
必ず、あなたを日本一に連れていきます!!!」
「っ⁉ じょ、冗談だったのに……。そこまでゆーなら、ちょっと気になってきた」
彼女は疑いの表情から、ニヤリと口角が上がった期待の表情へと移り変わった。
夏の気配をどこか感じる生ぬるい風が二人の肌を撫でる昼下がりに、二人は握手を交わす。
「ふんっ。じゃ、よろしく。精々私をあがかせてみてよね、玖珂」
「はい! ……あれ? な、なんか、流れでとんでもないことになった気が……」
そんなこんなで再び夢に向かって歩みだす陽奈だったが、二番目の夢が足枷となるということには、この時の二人はまだ知る由もなかった……。