第6話
買い物は無事に終わり、家の玄関前まで到着した。
鍵穴に鍵を挿入してひねった後、軽度の怪我のお詫びとして陽奈に持ってもらっていた醤油を受け取り、弘彦は彼女にお礼をする。
「えっと。醤油、持ってくれてありがとうございました!」
「別にいいよ。……ちなみに私は、今お腹が空いてる」
「……さいですか」
「料理作り過ぎたらまぁ、お裾分けを貰ったげていいけど?」
油断すれば口が綻び、涎が出そうなほど本心が隠しきれていない彼女の様子に呆れつつ、彼は口ごもるように言葉を発した。
「そのぉ……もしよかったら鍔木さんの分も作ってお裾分けします、よ? どうせ――」
「いいの⁉ やったー! お邪魔しまーす‼」
「え、ちょ⁉ 鍔木さん⁉」
自分の部屋の扉ではなく、弘彦の部屋の扉に手をかけて突き破るような勢いで開ける。
そんまま顎が外れてそのまま地面につくのではないかと思えるほど、彼は口を大きく開けていた。
「ダメ? どーせなら一緒に食べればよくない? わざわざピンポンしてもらうのも悪いし」
(部屋は別に汚くないが、あの鍔木陽奈さんを自分の家に⁉ 海士嶺さんにバレたらとんでもないことになる気がするけど……まぁ、ごはんをお裾分けするだけだし……)
「本当にダメ……?」
「ダメだなんて、言ってないんですけど」
「それ、あんたが言うんだ」
上目遣いの陽奈に勝てるはずもなく、弘彦は彼女を部屋に招き入れる。心の中で呟いていた通り、部屋の中は散らかっておらず清潔な状態だった。
買ってきた醤油をキッチンに置き、エプロンを身に纏い、早速料理に取り掛かろうとする。
「完成するのに少しかかるので、適当にくつろいでいてください」
「私もなんか手伝――」
「いえ、あなたは大人しくしててください」
「…………。りょーかい。ふわぁ……ねむ」
きゅうりのへたを遥か彼方に吹き飛ばす能力を持つ者に、包丁を握らせるわけにはいかない。彼はそう思い、大人しくしていろと命じてキッチンから追放した。
不服そうな表情を浮かべていたが、従順にリビングに足を運ばせて立ち去る。
やがて、あちらからはテレビ越しの人の声が、こちら側からフライパンの上で鳴る油の喝采が響いてきた。
――数十分後、部屋が夕飯の匂いで充満され始める。
「鍔木さん、夕飯ができ――……あれ、それは」
「んぁ、ご飯できた? にしてもこのクッション硬いね」
「それ、壊れたプリンターですよ」
うとうとしていたであろう陽奈が、寝ぼけ眼で自分の下敷きになっているプリンターに目をやる。
彼女は机の上に置かれていたプリンターに突っ伏していたが、突然ウィーンという機械音が鳴り始めた。
「うわっ! ご、ごめん、気づかなかった……」
「大丈夫ですよ。紙を挟む上の部分がなくなってるし、普通に壊れてるので。あれ、でもなんか出てきたな……ブッ⁉⁉」
もう動かないと思っていたプリンターが息を吹き返したと思ったら、何かを口から吐き出す。
それを手に取ってみると、それは押しつぶされた陽奈の乳房であり、思わず弘彦も吹き出した。
「んなっ⁉ ふんっ‼」
「ああッ⁉ もったいない‼」
彼女は目にもとまらぬ速度で弘彦の手からそれを奪い取り、ビリビリに破いてゴミ箱に捨ててしまった。
「こんなトラップ仕掛けて……さいてー! ごはん美味しくなかったら許さないから‼」
「で、でも勝手に乗っかってたのは鍔木さんじゃ」
「はぁ?」
「はいっ。スミマセンデシタ」
「ちょっとお手洗い借りるから」
ごはんが美味しかったら許してくれるんだと心の中で呟き、「象かな?」と感じるズシンズシンという音を立てながら歩く彼女の背中を眺める。
許してもらうために作ったばかりの料理を机に並べようとしたのだが、風前の灯火のプリンターが待ったをかけて再び稼働する。
「なっ、なん、だと……! プリンターが壊れてるからなのかわかんないけど――もう一枚出てきてくれた……⁉」
ビリビリに破り捨てられたものと同じものが、そこから出てきたのだ。
弘彦は無言でそれを手に取り、自分の部屋にあったファイルに挟み、枕の下に隠した。
「うーん。家宝にしよう」
「ん? 玖珂、何してんの」
「何もしてませぇん! そ、それよりもご飯できてるんで食べましょう! 手塩に掛けて作りましたんで! さぁさぁ‼」
「な~んか怪しい気がするけど、まあいっか」
トイレから帰ってきた彼女に怪訝な顔をされて心臓が止まりかけたが、なんとか誤魔化すことに成功する。
「今日は何作ったの?」
「ポジョデモーレというメキシコ料理です。チョコレートを使ったモーレソースで鶏肉を煮込んだものですよ」
「おお、なんかすごそう! 見た目もすごい美味しそう‼」
学校で見せるダウナーな雰囲気を纏う傾校の美女は消え失せ、幼女のように目をキラキラさせて料理を見つめていた。
机を隔てて椅子に座り、いただきますと言った直後に料理を口に放り込む。
「ん、美味しい! このモーレソース、とかだっけ? が甘いかと思ったらちょっとピリッとしてて、いい感じに中和してる! それに鶏肉もホロホロで美味しくってご飯が進む……‼」
「あはは、ありがとうございます。食レポ助かります」
「しかもなんか前の料理よりもグレードアップしてる気がする!」
「フフフ……ちょっと本気出しました」
彼女の宝石のような瞳が一段と輝いており、その瞳を向けられるだけで焦がされそうになる。
食事も進んで陽奈がお代わりをした時、ふと気になったことを質問した。
「そういえば、なんで鍔木さんは隣にいきなりやってきたんですか? 引っ越ししたってわけじゃないですよね」
「んー。私の両親がなんかの記念日で海外旅行に行っててさー。私はお姉ちゃんの家に居候させてもらってるってわけ」
「そうだったんですね」
「でも姉、料理できるとか言ってたくせにできなかったんだよね。写真では美味しそうな料理が一か月に一回くらい送られてたらしいのに」
(……僕がお隣さんにお裾分けするのは大体月一だけど、まさかあの人……)
自分が作ったと偽って、お裾分けした料理を送っていたのではないかという説が生じる。
流石にそんなくだらない見栄を張ることはないだろうと、弘彦は陽奈の姉を信じることにした。
食事もあっという間に終わり、彼女はお腹を叩きながら幸せそうに笑みを浮かべていた。
だが、次第に表情は曇りはじめ、気まずそうにおずおずとした様子だ。
「あの、さ。私の分のお金、払うよ」
「いやいや! いいですよ。家宝が手に入った……じゃなくて、自分の料理を他者から評価されることが嬉しかったんです。だから代金は不要です」
「うーん……あんたがそう言うなら。ふふ、あれだね。イタリアン筑前煮」
「『至れり尽くせり』が言いたかったんですか? なんですかイタリアン筑前煮って」
軽く談笑を交わし、夜の帳もすっかり降りたので隣に帰ることとなった。
「じゃっ、今日は色々ありがとね」
「いえ、僕の方こそイロイロありがとうございました」
「……? うん、またね」
ひらひらと手を振って玄関から出ていく陽奈。
ポツンと一人残された弘彦は、今までのは黄昏時に見えた幻影なのではと感じてしまうほど現実味がなかったようだ。
「まさか家宝が増えてしまうとは思わなんだ……」
自分の部屋に戻り、陽奈の押しつぶされた乳房が印刷された用紙の下から、とある紙を一つ取り出す。
そこには、汚いながらも心が籠っていると伝わる文が書かれてあった。
――あなたの料理のおかげでテニヌの試合かてました。本当にありがとう! 私のヒーロー‼ つばきひなより
「鍔木さんは覚えてないんだろうけど、本当に嬉しかったなぁ……」
その手紙を見て微笑むが、すぐに横にある先ほどの紙が目に入る。
綺麗ごとを述べたとて思春期の男子中学生の性には抗えなかった。
「本当にありがとうございます、鍔木さん。そして、本当にごめんなさい……‼」
彼は、その紙をファイルに挟んだのち、トイレに引きこもって数分間出てこなかった。