第5話
「あぁぁ……今日は本当に疲れた。第一軍のイケメソに詰められるなんて……。なんて金曜日だ」
学校が終わり、自宅に帰ってきた弘彦は、ソファに全体重を預けて脱力した。
カーテンの隙間からは斜陽が差し込み、カラスも夜の訪れを察知して鳴いている。
「この壊れかけのプリンターもさっさとしまわないとだし……。あ、調味料なくなってきてたから買いに行かないとだ。はぁあ、めんどくさいけど行くかぁ……」
粘着シート並みの接着力を発揮するベッドから何とか離れ、学ランを椅子にかけ、適当な服に着替えて外へと繰り出す。
行き先は最寄りのドラッグストア。もう授業外のため、試練が訪れることはないだろう。そう思っていた矢先に、弘彦は異変を感じ始めた。
(なんか……誰かが僕のことつけてる⁉ じ、自意識過剰かもしれないし、もう少し様子見しよう……)
後ろから感じる謎の気配。それに気が付いた彼はビクビクと肩を震わせ、怯えながら歩みを進める。
しかし、右に曲がれど左に曲がれど、駆け足だろうとその気配はついてきた。それだけではなく、みるみる距離も縮まってゆく。
「や、やばいやばい……! なんで昨日と今日で辞世の句を詠ませようとする場面が多いんだ! こうなったら、全力ダッシュだ――ッ! うげぇ~~ッ‼」
整った姿勢のクラウチングスタートをきったが、呆気なく転んで大地との接吻を果たす。
後ろの気配は好機と言わんばかりに距離を詰め、弘彦の傍らまでやってきた。
「――……あのさ、だいじょぶそ? 玖珂」
ブラウン色の髪を耳にかけ、紅玉色の瞳で覗き込む姿は紛れもない、お隣さんの陽奈そのものである。
「痛たた……そ、その声は鍔木さん⁉ なぜここに……いや、それよりも! 気を付けてください、今ストーカーされてるんです‼」
「えーっと……。言いづらいんだけどさ、多分それ私……。マジでごめん」
「そうだったんですか。鍔木さんでよかったぁ~……!」
心の底から安堵し、緊張の糸が途切れた。
申し訳なさそうな表情で差し伸べる陽奈の手を握り、その場で立ち上がる。
「怪我、してない?」
「大丈夫です。ちょっと腕擦りむいたくらいですよ。……それにしても、なぜ僕の後を……?」
「え。いや……なんとなく……」
「なんとなくで人をストーキングしない方がいいですよ」
「ぐぅ」
(鍔木さんからぐうの音が出た……と思ったらお腹の音じゃないか?)
腹ペコキャラが定着しつつある彼女を、温かな目で見つめる。
その後、弘彦は「夕飯の調味料の買い出しに行くだけなので」と言って立ち去ろうとしたのだが……。
「あの、なぜ鍔木さんはついてきているのでしょうか……」
「腕、ちょっと怪我させちゃったの私のせいじゃん。だから荷物くらいは持つよ。あと、一回だけ私をストーキングする権利あげる」
「別に大丈夫ですよこれくらい。……あと、そんな権利は無暗に渡しちゃダメです」
大丈夫だと言っても全く引き下がる様子がなく、そのまま二人で歩き続けて最寄りのドラッグストアに到着した。
自動ドアを通り抜けると、若干肌寒い冷房の効いた空間へと突入する。
「スーパーとかじゃなくていいわけ?」
「調味料の醤油だけ買う予定なので」
「ふーん。……そーいえばさ、〝調味料のさしすせそ〟ってあるじゃん。砂糖、塩、酢……ここまでは分かるでしょ。せの醤油で『ん?』ってなるんだけどさ、最後の味噌が気に食わないだよね。家庭科のテストでそこ間違えて恨んでる」
「は、はぁ。ちなみにテストではなんて答えたんですか?」
「〝魂〟」
「…………。ふ」
「あ、笑った」
てっきり「は? 何笑ってんのお前?」などと怒られるかと思った弘彦だったが、笑った彼を見て少し微笑むだけだった。
雰囲気が以前よりも格段に柔らかくなった陽奈に困惑しつつ、目的の醤油を手にする。あとは会計に持っていくだけだったが、ここで緊急事態が発生する。
「――でさ~~、昨日の陽奈さんに話しかけられちゃったんだよナ~~‼」
「へー。良かったじゃん。私も話したいけどクラス違うからなぁ」
体操着に身を包む男女たちが、談笑をしながらこのドラッグストア内を闊歩しているのが弘彦の目に留まった。
「や、やばいですよ鍔木さん! バレたら非常にまずいです‼」
「何が? 別にばれても問題ないでしょ」
「学校内では〝刺激〟を求めている生徒が多いんです。もし彼氏の海士嶺さんでない陰キャである僕なんかと歩いていたら……。明日の校内新聞はとんでもないことにぃぃぃ‼」
「……まあ、別になんだっていいけど。見たところ部活の集団っぽいし、中々むりげーな気がするけど」
唐突に始まった内密任務。
こそこそと辺りを見渡し、万引きGメンがいたら確実に目を付けられる不審な動きをしながらレジへと向かう。
そしてあと少しだと思った矢先、一本道の通路の前後から生徒の声が聞こえてきた。
「あ、ぁあ……もうおしまいだ……‼」
「はぁ……。玖珂、動かないで」
「へ?」
弘彦の正面に立ち、顔に手を伸ばして一工夫を凝らす。
声の主は徐々に近づいてゆき、ついにあちら側が二人を認識した。
「あれ、もしかして陽奈さん⁉ ……と、お隣の子は?」
「――私の弟。えーっと、ヒロタだけど」
「えっ、あっ、ヒロタ、です……」
「へェ~、陽奈さんって弟さんいたんだな~! あんま似てねェけど、二人とも目がすげぇすごいっすね‼」
弘彦の前髪には、先ほどまで陽奈がつけていた太陽のヘアピンを付け、その双眸を露わにしている状態にしている。
幸いにも、学校内で彼の瞳を見た生徒は殆どいない。さらに、陽奈の方が身長が高かったことから、バレることはなかった。
(一旦なんとかなった……。でも、鍔木さんは国語の授業の時で演技が下手なのが露呈した。早いとこ切り上げないと絶対ボロが出る!)
弘彦は陽奈の服の袖をつまみ、こう言って切り上げることにする。
「は、早く帰らないと怒られちゃうから行きま……行こ! お、おねえちゃん……」
「ぷっ。ん、うん、行こっか。そーゆーことだから。じゃっ」
吹き出しかけた彼女を睨みつつ、この場を離れることに成功した。
人気のないスペースまで移動し、ようやく呼吸ができたように大げさに息を吐く。
「ぷはぁぁぁ! なんとかなった……。あ、鍔木さん、ヘアピンありがとうございました」
「もっかい言って」
「? あ、ありがとうござ――」
「それじゃない。『お姉ちゃん』って、もっかい言ってみてよ♪」
「え」
ヘアピンを返却すると、彼女はニマニマと口角が上がった表情で弘彦を見下ろした。
よっぽどお姉ちゃん呼びがツボに入ったのか、心底楽しげに提案している。
「い、嫌ですよ! あの時は仕方なく呼んだだけです! もう呼びません」
「ちぇっ、つまんないのー。……ん? 何これ」
棚に置いてある賞品に興味が移り、弘彦はこれ以上の辱めを受けずに済む。かと思ったのも束の間、今度は目玉が飛び出しそうなほどの物が目に映った。
陽奈が棚から手に取ったのはとある長方形の箱だ。そこには「0.01」と書かれていたのだ。
(やけに人気が少ないと思ったら、そういうコーナーだったのかぁ……‼)
「コレなんだろ。美味しいやつ?」
(そして鍔木さんは食うことしか頭にないのか⁉)
一難去ってまた一難とはまさにこのこと。弘彦は目頭を押さえて、どう切り抜けようか唸る。
(いや、保健の授業でも習ったとこだし、普通に教えても大丈夫なのでは? いや、でも……)
「ねぇ、これ何? 知ってそうな反応してるけど」
「えーっと。それは、ですね……。その――〝男女がえっちなことをする時に用いる物〟……です」
はぐらかすことなく、事実を述べる。
陽奈は呆けた顔で、手に持っている箱と弘彦を見比べる。そして、
「~~っ⁉ し、知ってたし! 知らないとは言ってないんだけど⁉ あ、あんたを試した、みたいな? だからぁ……その、さっさと帰ろ‼ ア~変なの手に取っちゃったなァ~~‼」
「そ、そうですね……」
「ほら早く帰るよ。醤油が冷めちゃう!」
「醤油は元々冷めてます」
彼女は茹蛸もびっくりなほどの赤面顔を披露し、パタパタと手で顔を仰いでレジへと歩み出した。
必死に平静を装おうとしているようだが、右手と右足、左手と左足のそれぞれが同時に出ていて違和感しかない。
結局、二人は家に着くまで無言のままで、気まずい空気が彼らの隙間を通り過ぎるのであった。