第4話
調理実習は幕を閉じ、その後の三時間目と四時間目、給食は何事もなく進行し、昼休憩の時間となる。
ある生徒はグラウンドへドッジボールをしに、ある生徒は教室で談笑を。各々が各々の形で休憩をする中、弘彦は一人で廊下を歩いていた。
(今日は色々あってどっと疲れた……。図書室で英気を養って五、六時間目に備えよう)
図書室はわざわざ渡り廊下を渡らねばいけないため、赴く生徒はそれほど多くはない。
一人でまったり、誰にも邪魔されずに本の虫となろう。そんなことを心で呟いたからなのか、フラグが立ってしまったようだ。
始まりの地でレベル99のモンスターにエンカウントしたような強い衝撃が、彼に襲い掛かる。
「君が玖珂弘彦くん、だよね」
「ぇ……あ、はい。そうですけど……」
「初めまして、俺は海士嶺晴斗。――陽奈の彼氏だよ」
彫刻作品のような整った顔に、中学生にしては高い身長をしている生徒。
一度歩けば、黄色い声援が沸き上がるだろうと容易に想像が付く。
「実はちょっと噂を聞いてね。弘彦くん、俺の彼女と最近仲がいいらしいじゃないか。だから彼氏である僕も、君に興味を持ったんだ」
(いやいや……そんなこと言って尋問するつもりなのでは⁉ 兜煮にしても崩れなさそうなイケメン顔面しやがって! ……やっぱ怖い‼)
弘彦はカタカタと震え始め、「あばばばばば」と謎の奇声も上げ始める始末だ。
その姿を見た晴斗だが、纏っていたキラキラオーラが霧散する。そして、弘彦の肩を掴んでゆさゆさと揺らした。
「だ、大丈夫かい弘彦くん⁉ 一旦落ち着こう! はい、深呼吸!」
「ひ、ひっひっふー……」
「それは腹式呼吸だッ‼」
数分後に弘彦は元に戻り、ようやく話の本題に突入する。
「えぇと、それでなんの話でしたっけ……?」
「俺が君に興味を持ったからお話をと思っ――」
「……あ、あの、違ってたらすみません。それ、建前ですよね? 話したいことがあるならズバッと言ってください。……あぁすみません調子に乗った口調で‼」
晴斗がきょとんとした顔へとなったと思えば、今度は真剣な表情へとコロコロ変化していた。横の空いている窓から、生ぬるい風が吹いてくる。
そして、ズボンのポケットからスマホを取り出してとある画面を見せつける。
映し出されていたのはモデル雑誌の一ページで、鍔木陽奈がおしゃれな格好をしている姿が弘彦の目に映った。
「陽奈がさ、俺と同じファッションモデルの事務所のオーディシを受けてるんだ。お試し掲載で一番人気だった子が採用されるって感じでね。アイツは圧倒的人気で、採用間違いなしなんだ」
「へ、へー……。それはすごい、ですね」
「それでね、彼女が本格的にモデルになるのならば、厄介なファンも付いてくると思う。君と陽奈がどこまで進んでいるのかはわからないが、きっとこれからはマネージャーからも……――」
つらつらと放たれる晴斗の言葉に対して弘彦は、やっぱりかと納得をしていた。
「あはは……まあ要するに、『これからモデルになるから、関係のない男は引っ込んでろ』ってことですよね……」
「……そこまで強くは思ってはいないが、そう捉えられてもおかしくないかもしれない。気分を悪くしてしまったかな。ごめん」
(ああ、この人はいい人だ。だから、もしここで僕が駄々をこねたところで、悪者になるんだ)
彼は陽奈の彼氏であるため、彼女を想うのも必然。
所詮はたまたま料理を数回食べてもらえた程度の男であるから、引き下がるべきだ。弘彦がそう心の中で思っても、心の底に沈殿している気持ちが舞い、震える口が動いた。
「――嫌、です」
「……そっか。ちなみにだけど、なんでかな」
「きっと、僕なんかよりあなたの方が鍔木さんを知っている。でもきっと、僕しか知らない鍔木さんもいるんです……! あなたはそれに目を向けないで、勝手に彼女の交友関係に割り込んでいるように見えて……その、だからっ! 鍔木さんに何か言われるまで、僕はこのままでいこうと思ってます」
晴斗は瞠目した後、怪訝な表情となることなくにこやかに笑ってみせる。
「そうだね、まずは本人に確認しなくちゃあね。俺は先走ってしまったようだ。ごめんよ」
「い、いえ! 彼女のことを大切に想う行動力はその……めちゃいいですよ‼」
「ははっ、嬉しいな。ありがとう、弘彦くん」
「あ――」
心の広さも、顔も、何もかもが負けているようで、敗北感が消されることのないテトリスのように積み重なっていく。
光と対局な影に嫌気がさし、顔が自然と下を向いた。
「弘彦くん、俺に啖呵を切ってたけれど……もしかして陽奈のこと好きなの?」
「はぇっ⁉ いやいやいや! 寝取りの趣味は一切ないのでご安心を‼ ……でも、そうですね。ここまで本気になったのは、ちょっとした理由がありますね……」
「え、なになに。聞かせてよ!」
「ひぇっ」
ズズイッと一気に距離を詰めてくる陽キャにたじろぐ陰キャの光景が広がる。
断ることもできず、弘彦は重い口を開けてその理由を話し始める。
「昔っから料理が好きで、ずっと続けてたんです。でもある日、ちょっとした不運に苛まれて何もをかなぐり捨ててやろうとしたんです……。けど、その時鍔木さんにちょっとしたことで助けられて」
「なるほど。それで恩返しをしたかったってことかな」
「ま、まあ、そんな感じです……。僕にとって鍔木さんは〝ヒーロー〟なんです。だから、だから僕は――」
瞬間、窓から風が吹き荒れて、弘彦のうねる前髪が靡いてその双眸が露わとなった。
「――僕は心の底から、鍔木さんの最上級の幸せを願ってます」
「ぁ、ぇ――」
その瞳は、大海原と宇宙を溶かして混ぜ合わせ、固まったものを磨いたような、宝石がただの路傍の石に思えるほど青く、青く輝いている。
その真剣で美しい双眸を直視した晴斗は、喃語を話す赤ん坊のようになり、弘彦の目で自分の目が奪われていた。と同時に、敗北感が植え付けられる音がする。
「あ、その……。じゃあ僕はこれでっ!」
「え、あ、うん。……すごく綺麗な空色の瞳だった。外国人が親戚にでもいるのかな?」
弘彦は前髪を整え直した後、脱兎のごとく逃げ出した。
晴斗は踵を返して歩き出し、教室へと戻ろうとしたのだが、
「――まーた勝手に動いてくれたね。海士嶺」
「うおッ⁉ い、いつからそこにいたんだい……陽奈」
「最初からいたんですけど」
壁にもたれ掛かり、髪を人差し指でくるくると巻いている陽奈の姿がそこにはあった。
蒼穹の双眸の次は、ジトっとした紅玉の双眸を向けられ、彼はビクッと肩を揺らして汗を垂らす。
「モデルになるから私が関係控えろとか、厄介なファンがなんとかとか……。よく言うよ、偽彼氏の分際で」
「ははは……ごめんね。今度カブトムシ捕まえてくるから許して! 今年こそギネス更新サイズを捕まえるんだ‼」
「……それはあんたが好きなだけでしょ。美味しくないからいらない」
鍔木陽奈と海士嶺晴斗。
この二人はこの中学校ではお似合いカップルと知れ渡っているが、実のところは数多の告白を回避するために関係を持った〝偽カップル〟なのだ。
「あれ? でもなんだか陽奈、今日は機嫌がいいね」
「ん? まーね。ふふっ、やっぱり玖珂は面白いなって」
「……はぁあ。なんだか弘彦くんには負けた気分だ……。腹いせに偽カップルってことは彼に黙っておくか。そのほうが面白そうだし」
勝手な行動をした晴斗を許すほど、陽奈は上機嫌であった。
「最上級の幸せ、ね。いーじゃん、玖珂。もっと気に入ったよ」