第3話
弘彦にとっての授業が終わり、二時間目に突入する。
皆がそれぞれのエプロンに身を包み、普段の授業よりも生き生きとした様子で目を輝かせている授業が今、始まった。
「では、今日は予定通りに調理実習を行っていきますよ~。もし時間が余ったら、おやつを作ることも許可しちゃいます♪」
班は男女二人ずつであり、弘彦の班には先ほどのエロガキクラスメイトこと須藤、そして陽奈も入っている。
ドラゴンのエプロンに包まれながら、腕まくりをして意気込む。
(調理実習で無双する妄想は何度もしたけど、そんな都合よくことは進むはずもなく……。卵焼き係として、務めを果たそう!)
学校が占領される妄想と似たようなことを頭の中で思い描いていた彼だが、頬をぺちんと叩いてそれを追い払った。
今回の調理実習で作る料理は四品。ごはん、味噌汁、卵焼き、サラダだ。
弘彦は早速卵焼き作りに取り掛かろうとしたのだが、最新の高性能自動車が如く危険を察知し、とある人物に駆けよる。
「あの、鍔木さん。一応聞くんですけど、料理は得意なんですか?」
サラダ係である陽奈は、包丁を殺人鬼のような持ち方をしていた。
「はぁ……。あのさぁ、あんま私のこと舐めないでくれる? ちょっと仲良くなったからって、お節介するのは迷惑に感じる人もいるかもよ」
「そ、そうですね。なら僕も持ち場に戻――」
「料理ができるとは、言ってないんだけど」
「……なんとなく、予想できてましたよ」
彼の腰あたりで結ばれているエプロンの紐を引っ張って引き留める陽奈。
弘彦はやっぱりかと言いつつ、なんやかんや嬉しそうに口元を綻ばせていた。
「えぇと。とは言ってもきゅうりとかトマトを適当な大きさに切るだけですよ?」
「自分の当たり前が他の人も当たり前にできると思わないで」
「あ、はいッ。スミマセン」
早速、料理のなんたるかを一から叩き込もうとしたその時、横から割り込んで話しかけてくる女子が現れる。
班のメンバーの一人であり、ごはん係の笹田だ。
「あのー、もしよかったらあたしが教えるよ。ごはん係でやること少ないから」
「ぇ、あ……。そ、そうですね。僕より笹田さんの方がいいかも、ですし……。じ、じゃあ卵焼き作っときます」
自分のような陰キャに教えを乞うなど、それこそ屈辱的な物だろう。自分よりも優れている笹田に任せるべきだ。そう思った弘彦は辞退して自分の持ち場に戻ろうとする。
だが、陽奈の横を通り過ぎる際にこんなか細い声が届いた。
「……あーあ。ちょっと楽しみだったのに」
「え――」
「んじゃあ笹田。私に一から教えてよ」
「うん、あたしに任せてー!」
もう手を伸ばしても、掴めることはない。暗い闇から垂らされた蜘蛛の糸が千切れた感覚はこんな感じなのだろうと、心がズキッと傷んだ。
気持ちを切り替え、先生が前で配っている卵を受け取りに行く。味噌汁係の須藤も同じく、一緒に向かった。
「なぁなぁししょー。卵ってよォ、ちょっとエロいよな‼」
(須藤はどこまで性癖の開拓が進んでいるんだ……? 到底理解ができない。そして僕に同意を求めないでほしい)
話を広げられたら困るので、濁った返答をして適当にいなす。
味噌汁の材料を受け取った須藤は先に持ち場に戻るが、先生が「おかしいわね……」と首をかしげた。
「卵がもうないわね。前のクラスの子が間違えて沢山使っちゃったのかしら……」
もはや、ここに自分の居場所はないのではないかと思い始める。
そんな時、後ろから風鈴のような軽やかな声が響いた。
「卵、ないの?」
「え、鍔木さん⁉ サラダは……」
「切ったらぶっ飛んだきゅうりの端を探しに来た」
「えぇ……笹田さんが気の毒に思えてきた……」
「それはどういう意味? さっきのきゅうりと同じ末路を辿りたいってこと?」
「あはは……そんなまさか。首切りは勘弁してください」
陽奈から殺意が漏れ出たため、首を腕でガードする。
呆れ混じりの溜息を吐いた後、一旦自分の持ち場に戻って卵を抱えて彼の前に立つ。その卵は学校から配られるものではなく、おやつ作りをする人が持参してくるものだ。
「はぁ……。ほらこれ、使っていいよ。おばあちゃん家で産みたてほかほかのやつ」
「え、いいんですか⁉ あ、ありがとうございます!」
「美味しい出来じゃなきゃ……覚悟しといてよね。食べ物の恨みは怖いんだよ」
「ハイッ、全力でやらせていただきます」
短期間だが、彼女の食への欲というのは凄まじいものだと弘彦は感ずいている。もしこの卵たちを落としでもしたら文字通り一刀両断されかねないと、カタカタ震える。
陽奈は一歩分距離を詰めてその美術品のような御尊顔を近づけ、柔軟剤の香りが数段階強くなる。そのままただ卵を渡すだけだが、彼女は一言添えた。
「じゃあはい、これ。産みたての私の卵だから、大事に使ってよね。私はサラダと戦ってくるから」
「え、あぁ、はい。もちろん。…………。あれ?」
そっと、人肌で温められた卵を受け取る。膨大な宇宙の情報が叩き込まれたように、脳が一時停止した。
《これね、私の卵だから大事に育てて、ね……♡》
顔を赤らめた陽奈がそう言いながら卵を渡すという幻覚に塗り替えられ、脳裏に貼りついて離れない。
そして、数分前に須藤から言われたことが理解ってしまい、片膝をついて崩れ落ちる。
「く、クソッ――! 須藤の言っていたことがわかってしまったことが悔しい! 流石は須藤、性欲と性欲で強さを得ているってわけなのか……ッ‼」
「よくわからないけど、弘彦くん? お料理を作る時は前髪を三角巾に入れるのよー?」
「はい……」
妄想が激しい男子中学生は、その卵を我が子のように抱えて料理に取り掛かった。
# # #
調理実習は終局へと進み、各々が作った料理を口に運ぶフェーズへと突入する。
弘彦と陽奈の共同作業(意味浅)で作った卵焼きも形を成し、机に並べられていた。
「給食以外で食う飯の新鮮だなァ~~‼」
「ちょっと須藤くん! あたしの分の卵焼き取らないでよ! うちにあるアイアンメイデンにぶち込むよ⁉」
「なんだそれ! エロそうだな‼」」
須藤と笹田の攻防戦を横目で眺めながら、弘彦は隣で黙々とご飯を頬張っている陽奈に話しかける。
「あの、鍔木さん? 卵焼きのお味はいかがでしょうか……」
「ん? ん! 美味しいっ‼ 私甘いの好きだし、これはグッド。おばんちゃんとこの鶏も喜んでると思う」
(ほっ。打ち首は回避できたみたいだ)
安堵の溜息を漏らし、止めていた箸を再び動かし、口へ卵焼きを放り込んだ。
無事に美味しい卵焼きを作り終えて死刑を回避したのだし、もうなんのイベントも起こらないだろう。
彼がそう考えていたのも束の間、隣の彼女がそわそわしだしたかと思えば、バシッと肩を叩いて何かを押し付けてくる。
「え、っと? な、なにか気に障ることでもしちゃいましたか⁉」
「違う。……これ、昨日のと一時間目の時のお礼、的な」
「これ――クッキー、ですか?」
「あんたさ、あのおにぎり食べれなかったからお腹空いてるでしょ? だから、これが私からのお裾分け。これで貸し借り無し、ねっ」
透明な袋に梱包されたクッキーたちは、円や星、四角といった形をとっており、開けずとも甘い香りが鼻腔を擽る勢いのクオリティーだった。
弘彦がお礼を告げると、「第二陣が焼きあがった」と呟いてオーブンの方へと歩いてゆく陽奈。
(す、すごい! 女子からクッキーを貰ってしまった! しかも美少女から! 多分明日は隕石が頭に落ちるから、今度こそ辞世の句を用意しておこう)
彼女の背中とクッキーを見比べていると、忍のように音もなく笹田が近づいてきた。
「ふふふのふ。ねぇねぇ玖珂くん。陽奈ちゃんね、この調理実習でバカデカクッキー作る予定だったらしいよ。さっき聞いたんだー」
「あー、そうなんですね。……えぇと、すみません。それに何か意味が含まれていたり……?」
「当たり前でしょ⁉ 陽奈ちゃん――君のためにわざわざ型抜きしてたんだよっ‼」
「えっ、僕のため……? いやいや、そんなまさか」
きっと、イケメンな彼氏に渡すついでのお情けとして渡してくれたのだろう。そう言い聞かせて心を落ち着かせる。
机の上には、型抜かれた大きなクッキーが置かれている。そしてその穴の数は、手に持っている袋の中に入っている数と同じだ。
心臓の鼓動がどんどん早まる。顔に熱が集まってゆく。
(いやいや、ないない。あの人彼氏持ちだし。……勝手に期待して、勝手に絶望する。最初から期待なんか持たなければ、深い絶望を味合わずに済むんだ。まだ短いけど、人生の中で学んだことだ)
そう言い聞かせる彼だが、ひとりでに歩み始めた〝彼のとある感情〟は、止まることを知らない。
そして、本格的に歩みを進めたのと同時に、糸でつながれたように連動して動き始めた人物もいる。
「玖珂弘彦? ふぅん……。まあ、お話をしてみようかな。――陽奈の彼氏として」
一人の美少年と弘彦が衝突するのは、時間の問題だ。