愚者の人生 宝石とチャンスを探してみようともしない人のバカさ加減
《裏地のなかの人生》
春の陽射しが差し込む高架下、川田は段ボールの上に寝転び、空を見上げていた。空腹ではなかった。近くのパン屋の廃棄を夜に回収すれば、一日分の食事にはなる。喉が渇けば公園の水道があるし、寒くなれば古着のコートにくるまればよい。
「……あー、なんか、だりぃな」
今日も、昨日と同じように始まった。
かつて、この男には友人がいた。いや、正確に言えば、彼に一方的に施していた裕福な男・松井隆一である。毎日食事を運んでくれた。雨の日には傘を差しかけ、冬には上着まで与えてくれた。
だが、隆一はある日、旅に出た。
「帰ってきたら、変わっててくれたらいいな」
そう言い残して。
川田は変わらなかった。
正確に言えば、変わろうとすらしなかった。
隆一の気配が消えたあの日、川田は一瞬、不安になった。だが翌日には再び、陽だまりの中でうたた寝をし、酒をもらい、物乞いの声をかける日々に戻った。
彼の上着の裏地には、隆一が夜中に縫い込んだ宝石が三つ、いまも眠っている。だが川田は、その存在に一度たりとも気づいていない。コートの裏をまさぐることも、糸の違和感に注意を払うこともなかった。
それが、彼の人生だった。
「働くのなんて、バカらしいさ」
「明日? そんなもん来るのか?」
「目標なんて、持ったところで何になる」
そんな言葉が、彼の口癖だった。
かつて隆一が帰国し、彼の姿を見つけたとき、心底驚き、そして深く落胆した。
「川田、おまえ……まだここにいたのか」
「おう、松井。久しぶりだな。どうだった? 海外」
「……おまえ、自分のジャケットの中、見たことあるか?」
「へ? ああ、寒い日は着るけど、あれもうボロボロだぞ。なに、なんか虫でも湧いてたか?」
隆一はそれ以上、何も言わなかった。ただ、ふっと笑って、コートの裾を見つめた。
「……いや。なんでもないよ」
それから、隆一は二度と川田の前に姿を見せなかった。
季節が巡っても、川田は変わらない。空き缶の数を数え、日がな一日、のんべんだらりと通行人を眺める。
ときおり、近所の子供が声をかける。
「おじさん、なにしてんの?」
「んー……人生ってやつを、深く考えてんだよ」
「ふーん」
そこへ通りがかったオジサンが「お前何言ってんだよ、人生なんて欠片も考えてないの
丸わかりだぞ、人生なんて全く考えてない人間が、判断のつかない子に
そんなこと言って子供の人生狂わすのか!」
「いやただの子供たわごとだと思ってだな」
「子供だって人生があるんだ、狂わされた人間がどれほど苦労すると思ってんだ、コノヤロー!」
「わかったわかった、謝るから許してくれよ」
「俺に謝ったってダメだ、子供に謝るんだ」
「オジサンごめんな、悪気はなかったんだが、あんたのためにならないから謝る」
「謝ってくれてありがとう、おじさん」
子供は理解できずに走り去る。その背を見送りながら、川田は缶ビールのプルトップを開ける。冷たくもないその液体が、喉をすべり落ちていく。
夢もなく、野望もなく、責任もない。だが自由だ、と彼は自分に言い聞かせる。
「なあ……それで、いいんだろ?」
川田は誰にも答えを求めない。ただ、誰も問わないからこそ、彼は答えを出さずに済む。
そうして今日も、空は高く、時間だけが等しく流れてゆく。
何も知らぬままの宝石は、裏地の糸の奥に、静かに、静かに眠っていた。