《バナナの夢》
《バナナの夢》
春のある朝、川田は手のひらほどの小さな布袋を見つめていた。袋の中には、見たこともない色と輝きを放つ宝石が三つ。先日、裕福な男・松井隆一が旅に出る際、川田の上着の裏地に縫い込んでいったものだった。
「こいつ……こんなもんを、俺に……?」
隆一が帰る気配もないまま一月が過ぎ、川田は覚悟を決めた。宝石を持ち、場末の質屋に向かった。店主は眉をひそめつつも、鑑定士を呼び出し、やがて口を開いた。
「これは……相当な代物ですな。三つで十万、どうです?」
川田は頷いた。十万。人生で触れたことのない額だ。
その足で川田は、古びた屋台を中古で手に入れた。五万円。残りは初期仕入れのバナナ代と、保健所と市役所への手続きに使った。晴れて「移動バナナ販売業」として開業したのは、四月の風がまだ冷たい頃だった。
川田の屋台は、駅前の人通りの多い通りに出現した。彼は腹の底から声を出し、かつて落ちぶれた生活で鍛えた肺で叫んだ。
「はいよー!バナナだよ!一本百円、二本で百五十円!お姉さん、どうだい!」
最初のうちは、誰も振り向かなかった。だが、次第に笑顔と大声と、丁寧な接客が功を奏し、主婦や学生が屋台に列をなすようになった。
三ヶ月後、川田は利益の中から、日給五千円でアルバイトを雇った。若い青年で、最初は無愛想だったが、次第に屋台のリズムに馴染んでいった。
「社長、今度はトッピングつけたらどうっすか?チョコとか、アイスとか」
「社長って呼ぶな。俺は川田だ。でも、それ、やってみるか」
季節は夏。チョコバナナや冷凍バナナが人気を呼び、川田の売り上げは急上昇した。一年が過ぎるころには、移動屋台は三台に増え、川田はアルバイトを三人、社員を一人抱えるようになっていた。
彼はプレハブ小屋を借り、初の「事務所」を構えた。看板には『川田バナナ商会』の文字。床は傾いており、トイレは外だが、彼にとっては夢の宮殿だった。
それから五年。川田の商会は次第に注目を集め始めた。健康志向の高まりと、果物離れを逆手に取り、「手軽で栄養満点なバナナ生活」をスローガンに、バナナ定期便サービス、学校給食への納入、SNSでのPR展開など、次々と戦略を打ち出していった。
プレハブの次は、小さな空き店舗。そしてさらに三年後には、表通りの一等地に『バナナ専門店 KAWADA』が堂々開店。品種別のバナナ、生産地直送のオーガニックバナナ、スムージー、スイーツ、さらには「バナナ茶」なる謎のドリンクまで。メディアは彼を“バナナ王”と呼び始めた。
その頃には、川田は本社として市内の集合ビルの一室を借りていた。社員は二十名を超え、物流部、企画部、カスタマーサービス部などが整備され、「果物業界の異端児」として、業界誌にも取り上げられた。
「川田さん、いよいよ海外進出も現実味を帯びてきましたね」
「海外より先に、まずは北海道だ。雪の中でも売れるバナナを考えねぇとな」
──かつて、ボロ布一枚で寒さに震えていた男が、いまや日本有数のバナナ業者として名をはせていた。
だが、川田は誰にも語らなかった。あの宝石の出どころを。あの恩人の名を。
それは、心の奥深くに縫い込まれたままの、大切な始まりだった。