Aサイド:バナナの帝王
Aサイド:バナナの帝王
春の風がまだ肌寒いある朝、アスファルトの隙間に芽吹いた草を踏まぬように歩く男がいた。松井隆一、齢五十五。先祖代々の資産を管理しつつ、自らも投資と慈善で名を馳せる「都会の仙人」の異名を持つ男だった。
彼の散歩道の途中に、薄汚れたブランケットの中で身を縮める男がいた。乞食である。だが隆一はこの男に毎朝、パンとスープを届けていた。初めは通り過ぎるだけだったが、ある日、ぼそりと礼を言われてから、彼の中で何かが変わった。名前は「川田」と名乗った。
ある日、隆一は川田にこう告げた。
「しばらく海外に行くことになった。ひとつ、頼みがある」
そして隆一は、宝石を小袋に詰めて川田に差し出した。
「起きている間にこれを縫い込んでくれないか。安全に持ち出すためだ」
川田は驚きながらも引き受け、慎重にジャケットの裏地に宝石を縫い込んだ。隆一はそのジャケットを着て旅立った。
半年後、隆一が帰国すると、かつての乞食川田はもうどこにもいなかった。いや、正確には"乞食の姿"ではなくなっていた。代わりに、日本最大のバナナ流通業者「川田フルーツ」の社長としてテレビに映る彼がいた。
インタビューの中で、川田は静かに語った。
「ある人が、私に未来を縫い込んでくれたんです。恩は、果実で返します」
隆一は笑った。どこかで見ているように感じた。人は変われる。そして、バナナには夢が詰まっている。
Bサイド:縫い込まれたもの
松井隆一は裕福な男だった。だが、その心は飾らず、日々を簡素に暮らしていた。ある日、彼は路地裏でよれよれの毛布にくるまる男を見つけた。名前は川田というらしかった。
「腹は減ってないか」
初めて声をかけた日から、隆一は毎日、川田に衣服と食事を届けた。言葉少なだった川田も、徐々に礼を言うようになっていた。
ある日、隆一は仕事で海外へ行くことになった。帰国は未定。ふとある思いつきがよぎった。
「川田、君の上着を貸してくれ」
「なんで?」
「君が寝ている間に、ちょっとした細工をしておくんだ」
夜、川田が寝静まったころ、隆一はジャケットの裏地に小さな宝石を縫い込んだ。万が一の備えに。いつか彼がこれを見つけ、新たな人生を始められるように。
そして彼は旅立った。
数か月後、隆一が帰ってくると、川田はまだそこにいた。同じ路地裏、同じ毛布。
「川田……まだここに?」
「……あんた、またパン持ってきたのか。旅はどうだった?」
「その……ジャケットは?」
「え?ああ、寒いときだけ着てるけど、穴空いててな。そろそろ捨てようかと」
隆一は愕然とした。恐る恐る裏地をめくってみると、宝石はそのまま縫い込まれていた。彼は何も知らなかったのだ。
川田はぽりぽりと頭を掻いた。
「なあ、あんた、なんか縫ってたのか?冗談抜きで知らなかったぞ」
隆一は苦笑いを浮かべた。
「いや……ちょっとした夢をな」
人は与えられても気づかなければ、何も始まらない。夢を縫い込んでも、それに気づく目がなければ、ただの重みでしかない。