5. 番衝動
どうしよう。たぶん番衝動が徐々に解放されるとして、まず私の嗅覚が戻る。カイが私の匂いに気づくのはその後だろう。瓶が割れて、青ざめた顔していると、カイも何かに察したのか。声をかけてきた。
「瓶を割ったのはすまん。安くないもののはずだ。……でも、どうしてこんなものを毎日飲んでいるのだ?お前はその番のことが嫌いなのか?」
いつかの夜会で言われたことが反芻される。
『番が運命だなんて、ばかばかしい。あんなのは、心の繋がりを無視した、性欲まみれの本能的行動さ。仮にも“番”なんて言って、犬獣人でも現れたら反吐が出るね。』
今まで両親に憧れ、一生懸命『番』を探していたあの時の自分には衝撃的すぎた。
カイのことをどう思っているか――もちろん、上官としてバディとして、彼のことを好ましいとは思っている。だがそれ以上でもそれ以下でもない。番に憧れを抱いていた頃のあの無垢な感情はもうとっくに封じたのだ。
「……番が運命だなんて、ばからしいですから。」
ただ短くそう告げた。彼も黙ってしまった。ただでさえ静かな地下層に沈黙が流れた。
ふと、いつもは鈍いはずの私の鼻が"甘ったるい匂い"を感じ取った。胸が高鳴り、しっぽがピンと立った。まずい……これは番衝動だ。
「はぁ、はぁ、……私から…離れてください。」
うつむいたまま伝える。もう頭の中がカイのことでいっぱいだ。これ以上彼の匂いを嗅いだら、確実におかしくなる。
「急にどうした?具合でも悪いのか?」
さっきまでより強く抱き寄せられて、顔を近づけてくる。もう限界。
「やめて…ください…。おかしくなりそう。」
私の首筋に、カイが鼻をあてこする。
「……ああ、いい匂いだ。これが……番の匂いか。ミルカ……お前は、俺のことが嫌なのか?」
縋るように抱き寄せられ、切なそうなオッドアイに見つめられる。彼も、あれだけ馬鹿にしていた獣人の番衝動に侵されているのだろう。いい気味だ。
「……だって、番が運命だなんて、ばかばかしいんでしょ?あなたの言葉よ。あなたが帰国して初めての王宮の夜会で言っていた言葉。」
「隣国の人間社会では恋愛結婚が主流だった。だから心のつながりのある結婚がすばらしいと思ったんだ。……君のことは前から好ましいと思っていた。だから、今回の任務も君のことを指名したんだ。たまたま君が番だったというだけだ。」
「犬獣人も嫌いだって!」
「幼いころに狼獣人にかみつかれたのは確かにトラウマだ。でも君が尻尾を振って、古代の魔術理論の本を読み漁っているのをみて誰よりもかわいらしいと思った。……君が好きだ。愛している。」
そういうと、唇と唇が触れ合った。ああ、ずるい。もうこの状態じゃ受け入れるしかない。そのまま、口の中に舌が入ってきて、深い口づけを交わした。
「ミルカ…目がうっとりしている。かわいい。」
もう、カイのことしか考えられない。
「カイ………私も好き。大好き。」
そこから、何度もキスをして、そのまま一線を越えた。今まで感じたことがない幸福感に包まれた。