「オタク」を批判するという視野の狭さ
「オタクは百合アニメを享受してるのに同性愛を冷笑してる……」みたいな言説がちょっとバズってまして。
狭い視野と浅い見識だけで何かを語ると炎上気味にバズるのは世の常ですね。
結論から言ってこの理屈は荒唐無稽です。文脈のない「オタク」という言葉が内包する物の大きさを考えていません。ああ、アニオタとか原文で言ってたのにオタクって呼んでたことにして印象操作とかはしていませんよ。
皆さん、オタクですよね?
オタク、概ね一つのものにのめり込む人たちの総称ですよね。アニオタ、ドルオタ、ミリオタ……などなど。
さて、今回やり玉に上げた文言はアニオタを批判の対象としているので、オタクという文言は内包している物が多すぎるので不適格ですね。
じゃあアニオタと呼べば正しいのかというとそんなことはなく。アニメは死ぬほど多様で、その中で同性愛要素がある作品は一握りです。
つまり、正しい主張は「百合や薔薇を楽しむなら同性婚とかにも賛成してね」というもの。
これは一見正しいようにも思える主張です。「キャプテン翼を見てサッカー選手になった」みたいないい話は多々あるからね。
だが、それは大きな間違いなのです。
アニメを見て何かをしようと思い立つには、憧れの主体が未来の自分でありうる必要があるのです。
分かりにくいね!
キャプテン翼を見た子供はいずれサッカー選手になって活躍できるかもしれないから憧れるんだ。それは、彼らがアニメに求めていたものを現実にするという行動原理に基づいている。
一方、いわゆる同性愛の描写があるアニメの場合、視聴者は彼ら彼女らになろうとはしない。また、現実で彼らになろうともしない。視聴者が同性愛を推し進めたところでアニメが現実になるわけでないし、視聴者がそれらのアニメに求めている者は、百合や薔薇を蚊帳の外から眺めることだからだ。
視聴者に同性愛政策に賛成する理由はない。
「同性愛を百合や薔薇として消費してるんだから責任持て!」
何が減ったんだその消費とやらで。
「コンクラーベという大切なものを映画「教皇選挙」という娯楽で消費してるんだから、教皇選挙を見た奴はみんなカトリックになれ」って近くの映画館で叫んできてほしいわ。