ネオ④
イラッとした。
利き手の直近に水の入ったコップがあった。
手に取り、思い切り投げつけた。
「ぎゃっ!」
カキッと乾いた音を立て、コップは無能なる部下の肩口に直撃した。
「貴様は馘首だ! 出ていけ!!」
公爵領の減収を報告した会計担当の若い男に、わしは怒りを炸裂させた。
静まり返った会議室に、わしの膝震動の音だけが響く。
「へ……?」
そいつは肩を押さえながら、阿呆みたいな声を上げて驚く。
「わ、私は先月の収支報告をしただけなのですが」
「関係ない。おまえはわしの機嫌を損ねた。それがすべてだ」
「そんな……!」
縋りつこうとでもしたのか、席を立ってわしに近づこうとしたそいつの道を、家令のヨモトが塞ぐ。
「どいてくれ!」
そいつは叫んだ。
「つまみ出せ」
そいつは名前すら知らない雇われの従業員、一方わしは雇用主にしてこの国の大貴族、ネオ・ドラナーク公爵である。ヨモトがどちらの言葉を聞くかなど、火を見るより明らかだった。
「ごめんよ」
ヨモトは細身の、一見すると女と見紛うほどの優男だが、その格闘能力は領内屈指だ。軽く腹に拳を当てただけで、そいつはあっさりと気を失った。
「よっと」
そいつを肩に担いで、ヨモトが会議室を出ていく。
「で、我が領の減収問題だったっけか」
残った連中に話題を振り直してやったが、発言する者はいなかった。
これまでドラナーク領が減収となったことはない。
そもそもキィーフという国自体が転移スクロールを独占している状況であり、貴族の持つ領地を含め赤字になることなど滅多にないのだ。
あるとすればそれは血統魔法──時空魔法の使い手がいないハズレ領地に他ならない。キィーフ貴族にとってこれ以上の恥などあるだろうか?
当然わしはもとより我が娘ラトゥージュも、時空魔法の使い手であることは言うまでもない。ドラナークはミカド陛下の血を迎え入れた、最古参にして最優の血統なのだ。
「フン! 各々で建て直しの案を明日までに提出しろ」
「明日までに?」
「もう少し期日を……」
「泣きごとを言うでないわ! おまえらはさっきの盆暗とは違い、古参のドラナーク臣下だ。それくらいやってみせろ!」
発破をかけてやると、再び静寂が会議室を包む。
まったく、ろくなヤツがいない。
公爵領が赤字など、メーギッドやテラスエンドに知られたら何を言われるか分かったものではない。
家臣が支えるべきなのだ。鮮やかな知恵、冴えた着想を出してな!
わしは会議を切り上げると、護衛役にヨモトを連れて娼館に転移した。
公爵領最強は騎士団長のソレイペッタではあるが、ヤツは堅物すぎてわしの娼館通いに渋い顔をする。わしに仕える身でありながらだ。は? である。もはや気に障るどころではなかったが、ヤツは貴重な戦力であり、無能無用のティアージュのように、おいそれと放逐するわけにもいかなかった。何ということか。わしでなければこの歯痒さには堪えられなかったであろう。
そんなわけで、落としどころとしてのヨモトだ。
こいつは空気が読める。主を立てることを忘れない忠犬なのだ。加えて余計なことを言わないのが実にいい。
「来たぞぉ~!」
娼館に入ったわしはまず、即座に下半身を脱ぎ、女どもに未だ衰え知らずのそれを見せつけてやった。さあ、今日はどいつを抱いてやろうか。
いつもどおりの日程を刻んでいる。なのに、妙に眠りが浅くなった。
いや違う。重苦しい、まるで責め苛むような圧迫感が毎夜わしを襲い、快眠を得られていないのだ。
病ではない。わしは至って健康な筈だ。では何なのか。その正体に皆目見当がつかない。何しろそれは決まってわしが眠りに落ちた後でやって来るからだ。
「…………」
──若いメスを抱き、満ち足りた性活を謳歌している。部下に説教し、怒鳴り、宣告一つで生活を滅茶苦茶にしてやれる立場を愉しんでもいる。そして何より、家に帰れば愛する娘の丁重な出迎えがわしを待っているのだ。
男として、何不自由のない人生であろう。
敵はいる。いまにも合従連衡して来そうな、公爵の地位を狙い暗躍する不届きな輩どもが。しかし、しかしだ。所詮は新参に等しい伯爵、子爵でしかない。大貴族たるドラナーク公爵家と比べれば、大樹を前にしてわめき散らす若芽が如しだ。恐るるに足らんのだ。
〖オロカ……〗
夢の中に現れるそれは、顔の見えない老婆の姿をしていた。影のような黒い相貌に、唯一爛々と光る眼だけがわしを睨めつけていた。
こやつはどうやらわしに落ち度があると思っているらしく、それを詰るかのように怨みがましい視線で見下ろしているのだ。
──馬鹿な。わしに瑕疵などあるわけがない。
飛び起きて寝室から逃げ出したかったのに、身体が金縛りにあったみたいに動かない。一体なんなのだこれは!?
その老婆は、枕元から徐々にゆらゆらと移動していき、やがて事もあろうにわしの胸の上に立ちおった。
苦しい。
〖オロカ……〗
実体のない幻影のように、その像は揺らめいている。わしを踏みつけながら見下ろしている。見下しているのか、このわしを……!
〖オロカスギル……ミカドサマノクニヲ……マモルタメノセイジョヲ……オロカ……オロカ……〗
老婆は鬼の形相で、動けないわしの胸を踏みつけ続けた。
やめろ、苦しい、やめんか!
ドス、ドス、ドス、ドス。
陽炎に等しき分際で、どういうわけか老婆の踏みつけには重みがあった。
一踏みごとに心臓が悲鳴を上げるような恐怖。
それが、朝まで続いた。
「……旦那様、旦那様っ」
わしを揺らす使用人の声で目が醒めた。
全身が、脂汗でびしょ濡れだった。
「ええい、早く起こさぬから!」
苛立ち紛れに使用人に平手打ちをかましてやった。
まただ。
また、原因を掴めなかった。
起きるとすっかり忘れている。何かがあったのだ、何かが。
「おのれ……おのれおのれおのれーッ!」
──わしは薬の量を増やした。




