冒険譚に夢中な侯爵令嬢は婚約破棄をされ、まだ見ぬヒーローに恋をする!?
こんな惨めなことってあるかしら。
終業の鐘が鳴った後、学園の図書館で見てはいけないものを目撃してしまった。
よりにもよって、私の婚約者であるオーランド伯爵様のご子息フェリクス様が、級友のダイアナと仲睦まじく抱きしめ合っているだなんて。
放課後、学生がほとんど訪れることのない図書館が、私はお気に入りだった。ここには、古い魔術書や歴史書だけでなく、最新の冒険譚や恋愛小説までそろっている。在籍している学生なら、一部の禁書を除いて借りることも出来る。
だから、今日も疲れた心を満たしてくれる物語を探しに来ただけなのに。──どうして、こんな場面に出くわしたの?
フェリクス様とダイアナは、私が図書館に通っているって知っているはずなのに!
とっさに隠れた本棚の陰から、そっと奥を見る。
もしかしたら見間違いだったんじゃないかって期待をした。だけど、視界に飛び込んだのは、唇を合わせる二人の姿。
いつから、二人はキスをしているの。二人は、いつからそういう仲なの。いつから、私に隠れて逢瀬を重ねているの。
口に出せない疑問が、ぐるぐると体の中を巡っていく。それが渦となり、目の前が歪む。
まるで、黒い靄が広がっていくようだった。
見ていられない。この場にいたくない。
本棚にかけた指が本を倒し、小さな音を立てた。だけど、そのことに気付く余裕などなく、私は踵を返して逃げ出していた。
だから、ダイアナが勝ち誇ったような笑みを浮かべていたことに、一切気付いていなかった。
秘密の恋は、物語の中だけだと思っていた。
こんなにも身近にあるものなのね。だけど、自分の婚約者が誰かと恋仲になるなんて誰が想像するというの。これがまだ、他人の逢瀬に出くわしたというなら平和だったのだろう。いつか私も、フェリクス様と……って、頬を染めたかもしれない。
フェリクス様が、私じゃない令嬢とキスをする場面なんて、見たくなかった!
私が悪いのかしら。図書館になど来なければ、こんな場面に出会わなかった?
それとも、恋をするのは結婚をしてからだとばかり思っていた私が、いけないのかしら。でも、恋をする暇なんてなかったのよ。淑女教育に魔法の鍛錬に。
私はどうすれば、結婚前にフェリクス様と恋をすることが出来たの。どうすれば、ダイアナを見つめるのように、私を見つめてくれたのですか?
あぁ、涙が止まらない。
こんな顔を見たら、周りからどう思われるのかしら。
涙をハンカチで押さえながら、木陰のベンチで自問自答を繰り返していると、よく磨かれた革靴の先が視界に入った。
「リリーステラ様、こちらにおられましたか」
「……アルフレッド?」
顔を上げると、青みがかった銀の髪を揺らした私の従者が優しく微笑んでいた。
彼はアルフレッド・バークレー、私のお父様ウォード侯爵に仕える家令バークレー子爵の長男で、年齢は私の五つ上になる。幼い頃から一緒に育ってきた兄のようで幼馴染のような存の人だ。だから、彼を見たとたんに気が緩んでしまった。
拭ったばかりの頬を、再び涙が伝い落ちた。止まることを忘れ、まるでダムが決壊したように涙は溢れる。
「どこか、痛むのですか?」
服が汚れるのも構わず、私の前に跪いたアルフレッドは「失礼します」と言って、私の手を取った。
白い手袋に覆われた指先が優しく気遣いながら触れる。
アルフレッドはいつだって、私に優しく触れてくれる。それが今は、いつも以上に心地よくて、弱りきった心に染みるようだった。
私、婚約者を奪われたの。愛されなかったの。
魅力がないのかしら。毎晩お手入れも欠かさなかった自慢の赤毛だけど、フェリクス様は、ブロンド髪の方がお好きだったのかしら。
お父様に似たアメジスト色の瞳は、冷たく見えるのかもしれないわ。もしも、青空のような明るい瞳だったら、フェリクス様は私を見つめて下さったの?
私は魅力的じゃないから、愛してもらえないの?
そう聞いたら、アルフレッドは何て答えるんだろう
「脈が少し早いですね」
黙りこんで俯く私の首筋、頬、額と大きな手が優しく触れていく。
「微熱もあるようです。体調の変化に気付けず申し訳ありませんでした」
「……アルフレッド……あのね……」
私の婚約者には、好きな人がいるみたい。
言いかけたけど、すぐに口を閉じた。だって、そんなこと話したところで、アルフレッドを困らせるだけだもの。
「はい、リリーステラ様」
「……屋敷に、戻ります」
「かしこまりました」
こんな顔、誰にも見られたくない。
「失礼します、お嬢様」
「……え?」
突然、地面が遠ざかった。
気付けば、私はアルフレッドの腕に抱え上げられていた。
「こうすれば、皆様にお顔を見られることもないでしょう。居心地が悪いとは思いますが、馬車までご辛抱下さい」
優しい声音に、涙が止まらなくなる。
アルフレッドの胸を濡らしながら、私は小さく頷き、嗚咽を堪えて「ありがとう」と呟いた。
大きな手に包まれる安心感で、散り散りになっていた私の心を、どうにか繋ぎ止めることが出来た。それでも、悲しいことに変わりなく、涙が止まることはなかった。
◇
フェリクス様とダイアナの逢瀬を初めて見てからというもの、次第に、二人は周囲の目を気にすることがなくなった。
仲の良い姿を見せるようになり、私に同情した学友から心配する声がかかるようになった。同時に、フェリクス様やダイアナを悪くいう声も届いた。
婚約者を悪くいわないで下さいね。お二人は研究班が一緒ですし、お話が合うこともあるのでしょう。──フェリクス様を庇えば庇うほど、同情の眼差しが私に向けられ、それはいつしか、憐みへと変わっていった。
私は、階級が下の婚約者の手綱を握ることも出来ない、気の弱い侯爵令嬢だと思われるようになった。
あれなら結婚してから浮気三昧できそうだな。見た目だけの令嬢だ。そう陰で笑われるようにもなった。
ああ、そうなのかもしれないわ。
怖かったのよ。ダイアナを悪く言って、フェリクス様に嫌われるのが。
それに、この婚約がダメになってしまったら、お父様がお怒りになるんじゃないかって不安だった。
だって、フェリクス様の家は大きな騎士団を持つオーランド伯爵家で、お父様はその繋がりを大層喜ばれていたんですもの。
お母様だって、私が泣いてるなんて知ったら、きっと悲しまれるわ。だから、浮気を見て見ぬふりをするのが、平和的解決なんじゃないか──私は意気地のない、駄目な令嬢なんです。
どうにか納得する道を探しても、心はどんどん落ち込むばかりだった。
そんな気持ちを和らげてくれたのは、物語だった。
文字を追ってページをめれば、別世界へと飛び込めるような気持になれたわ。
◇
ある日、元気がのない私を心配したスカーレットお姉様がお茶に誘ってくれた。
ロスリーヴ侯爵様に嫁がれてから、女主として忙しい日々を過ごすお姉様は、私の憧れの存在だ。
我が家は学園のある王都から離れた地方にある。本来なら学園の寄宿舎で過ごすところだけど、スカーレットお姉様の旦那様である侯爵様のご厚意のおかげで、お屋敷に住み学園まで通っている。
お休みの日は、お姉様とティータイムをすごすのが私の楽しみでもあった。
だけど、この日ばかりは気分が優れなかった。
いつも私のことを案じてくださっているお姉様に心配をかけてはいけない。そう思うと、心はますます苦しくなっていく。
「リリーは最近、どんな物語を読んでいるの?」
「物語ですか?」
「えぇ。アルフレッドから聞いたのよ。リリーが勉強よりも読書に夢中らしいって」
「……勉強もしています」
「ふふっ、良いのよ。今までいっぱい頑張ってきたんだもの。卒業までもう半年でしょ? 少しくらいサボっても怒られないわ」
「そう、でしょうか」
「そうよ。リリーは真面目過ぎるのよ。それで、どんな物語が好きなの?」
カップを受け皿に降ろしたお姉様は、興味津々な顔で尋ねてきた。
どうしよう。お姉様が好きそうな物語って、恋愛とかお姫様が出てくるような物語よね。私が好きな世界とは少し違うわ。がっかりさせやしないかしら。
「真面目なリリーは神話や古典文学を読みそうね。思い切って、新しい世界の物を読むのも良いわよ」
「新しい世界……」
その言葉にドキリとして、お姉様を見た。
「……お姉様は、どんな物語がお好きなんですか?」
「そうね。恋愛を描いたものが好きだけど……最近は、冒険に出るお話も読むわ。先日、お友達から借りたのは、結婚から逃げ出して、新しい人生を手に入れる男装令嬢の恋物語だったのよ」
「結婚から逃げる? そんなことをしたら、大変なことになります! それも、男装だなんて」
「物語だから良いのよ。男として生きることを選んだ令嬢が、背中を預けた冒険者と落ちる恋。素敵でしょ?」
私より十歳も年上とは思えない。まるで乙女のように目を輝かせるお姉様は「今度貸してあげるわ」と言ってカップを持ち上げた。
カップを傾ける姿はとても優雅で、完璧な淑女に見えるのに、意外な一面を見た気がした。
物語は、自由で良い。
現実の恋はそうもいかないもの。だけど、恋物語にばかり憧れたら、恋が出来なくなりそうね。
恋ってどうしたら、物語のように上手くいくのかしら。
「……お姉様は、お義兄様に恋をされましたか?」
私の質問に、少しだけ頬を染めたお姉様はカップを受け皿へと降ろした。
「旦那様とは政略結婚だけど、出会ってすぐに恋をしたわ……ふふっ、言葉にするのって恥ずかしいわね」
恥ずかしそうに答えて下さったお姉様は、とてもキラキラとして可愛らしかった。
あぁ、幸せなんだなと思うと、胸の奥がじんわりと温かくなる。恋をすると、周りを幸せな気持ちにするのかもしれない。
だけど、私の胸の内には、そんな温かい気持ちが届かない昏い部分がある。
「どうしたの、リリー?」
押し黙った私を心配したのか、私が座るソファーの横、空いている箇所に腰を下ろしたお姉様が、私の手にそっと触れた。
「その……最近、お友達に恋愛小説を借りました。でも、恋というのがよく分からなくて」
「まぁ、そういうことね!」
「恋をしたこともないから……」
「お勉強ばかりじゃなくて、リリーもたくさん恋をしたらいいわ。恋の話を聞くよりも、体験した方が分かるものよ」
「たくさん? 恋をする相手は、一人ではないのですか?」
「一人だなんて、もったいない。結婚相手は一人だけど、恋の相手は物語に出てくるヒーローでも良いのよ」
「物語のヒーロー?」
「そうよ。恋物語に出てくるヒーローに恋をしても、誰も怒らないわ」
「……冒険譚のヒーローでも良いのでしょうか?」
そっと目を閉じれば、未踏遺跡を攻略しようと進む主人公が、仲間と敵に立ち向かう姿が鮮やかに思い浮かぶ。
彼が背を預けるのはちょっと手加減を知らない魔術師で、たまに魔法を失敗もするけど、いくつもの危機を助けるの。どんな困難にも立ち向かい、強敵にもひるまずに駆け抜ける姿は、ヒーローの名にふさわしいわ。
「冒険で活躍する主人公は生き生きとしていて、とても素敵で憧れます」
「ふふっ、ちゃんと恋をしてるじゃない」
お姉様の声にハッとして、私は現実に引き戻された。
「その憧れる気持ちも、恋よ」
「……憧れる気持ち……」
「まぁ、恋といっても色々あるのよ。胸を焦がす苦しいものもあれば、ワクワクしたり、楽しくなるものもあって……そんな、感情を揺さぶる人と一緒になれたら、素敵な人生よね」
この憧れる気持ちが恋だというなら、私はフェリクス様に恋をしていただろうか。ダイアナは、彼に憧れていたのだろうか。それに、フェリクス様は……。
「お義兄様も、お姉様に恋をされたんですよね?」
「どうかしら。愛してるとは言われても、恋してるなんて言われたことないわね」
「……愛してる」
「ふふっ。私も旦那様を愛しているわよ。そして、リリー、貴女のことも」
私を温かい胸に引き寄せたお姉様は、その白魚のような指で私の赤毛をそっと撫でてくれた。
それから、二人で好きな物語のことを語り合っていると、ドアがノックされた。
入ってきたのはアルフレッドだ。いつも感情を露にしない彼だけど、今日は少しだけ様子が違う気がするわ。緊張しているような、いいえ、怒っている……?
「どうしたのですか、アルフレッド?」
「スカーレット様、お客様がお待ちです」
「客? 今日は午後に予定はなかったと思うのだけど」
お姉様は少し不機嫌な顔をされ、控えていた侍女にお茶を新しくするよう言いつけた。私といるときだけ、こうして子どもっぽい態度を見せることがあるのよね。
その顔は、子どもっぽく不満そうで、お客様に会いたくないって言ってるみたい。
「緊急でないのなら、日を改めてもらって。私は今、可愛いリリーとの時間を楽しんでるの」
お姉様が私を抱きしめながらいうと、アルフレッドは困った顔をして私をちらりと見た。
私に何か関係してる方の来客──もしかしてと思った時、彼は静かな口調で話を続けた。
「お待ちになっているのはフェリクス様です」
想像通りの名前だった。でも、その名を耳にしただけで、私の肩は強張ってしまった。お姉様に違和感を伝えるほどに。
お姉様が小さく「リリー?」と私を呼ぶ声がする。
だけど、私は応えるどころか、視線すらお姉様に向けられなかった。だって、お姉様にフェリクス様が浮気をされていることを知られたら、きっと、大変なことになるもの。
「リリーの婚約者殿が、私に会いに来たのですか?」
「はい。それと、ご学友のダイアナ嬢をお連れです」
「……ダイアナが、どうして?」
その名に思わず反応した私は、声を震わせていた。
脳裏に二人の逢瀬がまざまざと蘇り、嫌な予感に胸の内が重くなっていく。
「リリー、大丈夫? 顔色が悪いわよ。……やはり、礼儀がなっていないのですから、日を改めてもらいましょう」
心配そうに私の顔を覗き込んだお姉様は、アルフレッドにそう告げた。だけど、その直後に廊下が騒がしくなり、お姉様の視線が閉ざされたドアへと動いた。
「……今、旦那様のお声が聞こえた気がするけど。お帰りになったの?」
「先ほど、フェリクス様とご一緒に、お戻りになりました」
「旦那様がリリーの婚約者殿と?」
「今、ご対応をされています」
理解しがたいと言わんばかりに、お姉様は笑顔を消された。そうして、少し思案する面持ちになると私の手を握りしめた。
お姉様は勘がいい。きっと、ただ事ではないと気付いているわ。
「リリー、貴女は部屋で休んでいなさい」
「で、ですが、お姉様……」
「アルフレッド。至急、お父様とお母様にこちらへ来るよう連絡を」
「……お姉様、あの」
私も同席した方が良いのではと思い、立ち上がろうとした。だけど、どうしてか足に力が入らず、腰を上げることは叶わなかった。
そんな様子を見て、お姉様は私を安心させるように微笑んだ。
「リリー、何も心配することはないわ。アルフレッド、まずはリリーを部屋に連れて行くように」
「かしこまりました」
立ち上がったお姉様の表情からは、優しい笑みが消えていた。
つい今しがた、恋と物語の話題で顔をほころばせていたとは思えない、毅然としたロスリーヴ侯爵夫人がそこにいた。
◇
部屋に戻った私は、重たい身体をソファーに横たえて天井を眺めてただ時間を過ごした。
ここから応接間は遠い。お姉様たちの会話が聞こえるはずもなく、何が話されているのかと不安に思っても、待つことしか出来ない。
数時間後、馬車が動く音が聞こえてきた。
窓辺にそっと立てば、屋敷から去る馬車の姿を見ることが出来た。その車体にはオーランド伯爵家の紋章が入っている。
あぁ、あれにはフェリクス様とダイアナが乗っているのね。
二人は何を話しているのだろう。また、あの日のように仲睦まじく見つめ合っていいるのだろうか。
頬を熱い雫が落ちてゆき、窓に手を突いた私はずるずるとその場にしゃがみ込んだ。
喩え、卒業後に婚礼が成されるとしても、フェリクス様のお心はダイアナのもののままなのでしょう。
ダイアナを愛しているだろう彼を、私は慈しむことができるのだろうか。それに、彼が私を愛してくれるなんてことは、きっと──私の恋は始まることも知らずに打ち砕かれたのね。
いくら恋に疎い私でも、それくらい分かるわ。だけど、始まってもいない恋を終わらせることは、どうしようもなく難しい。
私は家のために嫁ぐのが役目の侯爵令嬢。
ウォード侯爵家は、オーランド伯爵家との繋がりを求めているんだもの。それに、従うしかないじゃない。
散り散りになる心を繋ぎ止めようと、私は、ベッドに駆け込んで本を開いた。
私を別の世界に連れていってと、祈りを込めて。
◇
夕食の後、白磁のカップに紅茶が注ぎ入れられる。
お姉様の旦那様ロスリーヴ侯爵様はアルフレッドを残して他の使用人を全て下がらせた。
大切なお話があるのだわ。それも、私の身にかかわる何かで、恐らく昼間に屋敷を訪れたフェリクス様とダイアナにも関係していて──考えると、胸の奥がギュッと苦しくなった。
眉根を寄せた侯爵様は、精一杯の優しいお声で私を呼んだ。
「リリーステラ。ご両親に、こちらへ来ていただくよう連絡をしたことは聞いたかい?」
「はい。聞いています」
「きっと、五日後には到着されるだろう」
「五日!?」
私は、驚きに声をあげてしまった。だけど、誰一人それを咎めもせず、静かに頷くだけだ。
ウォード侯爵領から王都まで、高速魔道列車を使えば二日で到着する。とはいえ、数日領地を離れるのであれば、それなりに用意をしなければならないだろう。予定の仕事だって、代わりを立てる手筈が必要だわ。
それなのに、たった五日でこちらに到着するなんて。
「リリー、それほどのことが起きているということよ」
「これから話すことは、受け止めるには辛いだろうが、大切なことだ。最後まで冷静に聴きなさい」
そう言って、深く息を吸った侯爵様は私をもう一度呼ぶ。
きっと、私の顔は蒼白だったに違いない。だって、侯爵様が何を話そうとしているのか、想像がついていたんだもの。
「リリーステラ……フェリクス・オーランドから婚約解消の申し入れがあった。そなたではなく、ダイアナ・アプトンを妻に迎えたいとのことだ」
静かな声が告げたことは、私の想像していた言葉と一言一句違わなかった。
震えそうになる指を膝の上で握りしめ、どう返事をすれば侯爵様を困らせないのか、正解なのだろうか考えるも、言葉は出てこない。
俯くと、握りしめた拳の上に熱い雫がぽたぽたと落ちた。
「リリー、どうしますか。貴女が望むのであれば、同意をしても良いでしょう。でも、報復を与えることも出来るのですよ」
「……報復?」
お姉様の言葉を、震える声で繰り返した。
私が至らないばかりに、フェリクス様との関係が壊れてしまった。そうただ嘆いていた私はことの重大さに気付いて、なおのこと震えた。
「あの二人は、お父様のウォード家だけでなく、我がロスリーヴ家に泥を塗ったのも同然なのです。婚約解消をするため、旦那様に口添えをしてもらおうとしたのですから」
いつも穏やかに話してくださるお姉様とは思えないほど、語気を強くされた。
「何て浅はかなのでしょう! 何よりも、お互い愛し合っているからなどと、子どもの理由が許されるわけありませんわ。リリーが可哀想すぎます!」
「スカーレット、落ち着きなさい。……まぁ、報復というのは些か厳しいが、これは婚約解消ではなく、あくまで、フェリクスの一方的な婚約破棄だと考えた方がいい。それなりの責任を負ってもらおう」
「あんな不誠実な輩のとこに、お嫁に行く必要はないわ、リリー」
お嫁に行かない。そんな選択肢があるなんて思いもしなかった。
私とフェリクス様の婚約は八年前に結ばれたもので、私が学園を卒業したらすぐに婚礼を行う約束になっていた。彼がダイアナと恋に落ちてしまったとしても、家と家の契約に影響はないものだと。
それに、フェリクス様のお父様はどう思われるかしら。不誠実な行為で婚約破棄をするなんて、オーランド伯爵家としても悪い噂が立つに決まっているわ。
でも、もしも両家が許さなくて、フェリクス様と結婚したら、私は彼と恋をすることが出来るのかしら。フェリクス様は私を愛してくださる?
ダイアナが彼を見つめる顔が、まざまざと蘇り、胸の奥が昏くなっていく。
「……オーランド伯爵様は、ご承知なのでしょうか?」
「これから承諾を得に行くと言っていた。フェリクスは私を後ろ盾にして、説得するつもりだったのだろう」
「旦那様、甘く見られたものですわ!」
「そうだな。私も、少々腹を立てているよ。しかし、オーランド伯爵には同情するな。あれが跡継ぎとは」
「リリー、そんなところに嫁ぐ必要はありませんよ!」
怒り冷めやらぬ様子のお姉様は、少し冷めた紅茶で喉を潤した。すると、控えていたアルフレッドが、カップに新しいお茶を静かに注いだ。
どんな時も冷静で無駄のない動きをする彼は、本当に完璧な従者だわ。
「そもそも、リリーにはもっと相応しい男性がいるではありませんか」
「……私に、相応しい?」
「スカーレット。そんなことを言い出したら、リリーが困るだろう」
「あら、旦那様も言ってらしたでしょ。あんな不誠実な男ではなく、アルフレッドに嫁がせるべきだって!」
突然の言葉に、理解が追い付かず、私は瞬きを繰り返しながらお姉様を見た。
息巻くお姉様は紅茶をもう一口飲むと、ふうっと息をついた後、私と控えているアルフレッドを順に見て微笑んだ。
「あ、あの……お姉様?」
「何を驚いているのですか。幼い頃から貴女を見守ってくれたアルフレッドでしたら、何の心配もいらないでしょ?」
「い、いえ、あの……アルフレッドは、私の従者ですし、その、兄といいますか幼馴染といいますか……」
そもそも、アルフレッドは子爵家の息子だから、お父様がそこに嫁ぐことを認めるとは思えない。
だって、大きな騎士団を持っていられるオーランド伯爵様だから、有益性を考えられて私を嫁がせようとしたのよ。バークレー子爵家は我が家と繋がりこそあれ、そういった有益性はないと判断しそうだわ。
唐突な話に驚いた私は、悲しみを吹き飛ばされ、涙が止まっていることに気づいた。
「リリー、貴女が選んでいいのですよ」
「……私が、選ぶ?」
「そうです。不誠実を働いたのはあちらなのですから、貴女には選ぶ権利があるわ。それに、私と旦那様は味方よ」
フェリクス様とダイアナのことを知り、嫁いでからの私の人生はどうなるのかと悲観していたけれど、嫁がないという選択肢があるだなんて。それに、アルフレッドに嫁ぐなんて、考えもしなかったわ。
「失礼します、お嬢様」
優しい声が降ってきた。見上げると白いハンカチを手にしたアルフレッドが、私の頬にそっと触れた。
そうだ。アルフレッドはいつだって私を見守ってくれていて、いつも、優しくて──あの日だって、泣き顔を周りに見られないように注意を払いながら、私を学園から連れ出してくれたわ。
そう考えると、傷ついた心に彼の存在はとても優しくて、まるで紅茶に溶ける甘い生クリームのように思えてきた。
「涙が止まられて良かったです」
「アルフレッド……あ、あのね……」
「ですが、私との結婚は少々考えられた方がよろしいかと思います」
「……え?」
浮上していた私の気持ちが、すとんと落ちる。
「お嬢様にはまだご報告していませんでしたが、私は、お嬢様が学園を卒業する時期に合わせ、祖母の元へ行くことが決まっています」
「お祖母様……クラレンス辺境伯夫人?」
「はい。祖母は早くにご子息を亡くされています。そのため、以前より養子になることが決まっていました」
「で、でも、アルフレッドはバークレー子爵の長男……お家はどうなるの?」
「弟がいますので、問題ありません……このような時に、バークレー家のことはお考えにならずとも良いのですよ、お嬢様」
アルフレッドは、私の手にハンカチを握らせると優しく微笑んだ。
待って。
つまり、私がフェリクス様に嫁いでも、そうじゃなくても、アルフレッドがいなくなるってこと?
「クラレンス辺境伯……跡継ぎとなるなら爵位は申し分なくなるが、確かに、嫁ぐのは少し考えた方が良さそうだな」
「そうね。クラレンス領では……」
さっきまで、アルフレッドと結婚すればいいと推していたお姉様は、突然言葉を濁した。
しばし沈黙が流れた後、すっかり温くなった紅茶を飲み干した侯爵様は私の名を呼んだ。
「リリーステラ、そなたに相応しい相手を私も探そう。無理をして、オーランド家に嫁ぐことはない。義父上にも私からそうお話ししよう」
「……ありがとうございます、お義兄様」
こうして、私とフェリクス様の婚約が解消されることは、ほぼ確定した。
フェリクス様のご両親は誠実な方なようで、ことと次第を知った翌日に訪れて謝罪を申し入れた。
でも、私が謝罪を受け入れたことにされては問題だと、お義兄様が仰られ、お父様の到着まで、私は会うことを止められた。
毎日、毎日、馬車で訪れるオーランド伯爵様には申し訳ない気もしたわ。それでも、私は考えることに疲れ、お父様たちが到着した頃には窓の外を眺めることもなくなっていた。
ご縁がなかったのと考えれば良いのかしら。
お姉様に借りた恋愛小説のページをめくりながら、ふと思う。
この本に書かれていることが真であれば、世の中には縁というものがあるらしい。それは生まれる前からの繋がりであり、めぐりあわせと云うそうだわ。
どんなに困難があったとしても、縁があれば必ず結ばれる。そういうものだと書かれているけど、本当に、そんな運命的なものがあるのかしら。
本を閉じて膝に置き、ふうっと息をつくと、紅茶の優しい香りが漂ってきた。
「リリー、熱心ですね」
「……お母様」
「ノックをしても返事がなかったので、勝手に入ってしまったけど、随分と集中していたのね」
アルフレッドを従えて訪れたのは、お母様だった。
「お茶にしましょう」
「ありがとうございます……お父様は、まだお怒りでしょうか?」
「えぇ。今日もオーランド伯爵が謝罪に訪れましたが、まだ、納得されないご様子でしたよ」
「そうですか……お母様、申し訳ありません。私が、私が……」
私がフェリクス様に愛される淑女であったなら。そう言い出すことは出来ず、涙が零れ落ちた。
お母様は、ドレスが汚れるのも構わずに私を胸の中に引き寄せて下さった。こうして抱きしめられるのは、学園へと通うようになる前、十二の頃が最後だったかしら。
あれから三年すぎたけど、お母様の腕の中は変わらず温かかった。
目を閉じれば、穏やかな鼓動が聞こえてくる。こうして抱きしめられたのは、いつぶりかしら。
「貴女は何も悪くはありませんよ」
「でも、婚約は……」
「私たちは、貴女の幸せを願って婚約者を選びました。幼かった貴女は、初めてフェリクスに会った時、とても可愛らしく笑ったのよ。オーランド伯爵も誠実な方だし、きっと幸せにしてくれるだろうと信じて……」
「……お母様」
「信頼を裏切ったのです。それが意味することを、フェリクスは身をもって知らねばならないでしょう」
私の涙を拭ったお母様は、そっと手を引いて、お茶の用意がされたテーブルまで私を誘い出してくれた。
お母様は、それ以上、婚約の話に触れることはせず、ウォード家と領地で最近あった話を聞かせて下さった。お兄様が魔狼の幼体を拾ってきて、ちょっとした騒動になったとか、最近、花占いが流行っているだとか。
用意されたクッキーを頬張りながら、私は懐かし領地の風景を思い浮かべながら、お母様の話に耳を傾けて時を過ごした。
翌日、オーランド伯爵様がフェリクス様とダイアナを連れて訪れ、私は久々に対面することとなった。地獄の悪魔も震え上がりそうな、怒りに満ちたお父様と共に。
私の姿を見るなり、オーランド伯爵様は謝罪を口にした。
「リリーステラ様、この度は我が愚息がとんだ失礼を──」
「オーランド卿の誠実さを私も知っているが、ご子息は違うようだ。どうみても謝る態度ではありませんな」
伯爵様の言葉を遮ったお父様の厳しい視線は、フェリクス様に向けられた。
こともあろうことか、彼は横にいるダイアナと手を握って椅子に座ろうとしているのだ。御父上である伯爵様が頭を下げていらっしゃると言うのに。
フェリクス様は、こんなにも周囲が見えない浅はかな方だったかしら。出会った頃は、もっと聡明で、オーランド領をより豊かなものにするつもりだと語っていらっしゃったのに。
ダイアナは私を見ると、何故か勝ち誇った顔をしている。
何を考えているのか、さっぱり分からないわ。
「ウォード侯爵様、弁解のお時間をください!」
「……弁解?」
「フェリクス、話が違うだろう! きちんと謝罪をする約束だっただろう!」
「オーランド卿、少し黙っていてくれないか」
お父様の声が低く響いた。
お顔を正面から見ることは出来ないけど、この声は、間違いなく怒ってらっしゃるわ。
お可哀想に、伯爵様は顔を青ざめさせて頭を抱えてしまわれた。
不誠実なことを働いた人へ容赦のないことで、お父様は社交界で有名だもの。伯爵様としては、謝罪をしてフェリクス様とダイアナを引き離すことで、穏便に終わらせるつもりだったのでしょうね。
当人たちは、そんなつもりなかったようですが。
「お前は、婚約を破棄する理由が、その不貞以外にもあるというのか」
「はい。まず、ご理解いただきたいことはダイアナが選ばれた癒し手だという事実です。彼女はこの国になくてはならない存在! そのダイアナを、こともあろうことかリリーステラ嬢は虐げていたのです!」
突然、何を言い出すのだろうか。
身に覚えもないことを突きつけられ、私は一瞬、息をすることを忘れて動きを止めた。
「証人はいるのか?」
「おりません。ですが、五十年に一度と言われる癒し手のダイアナが、嘘をつくはずがありません!」
どうやら、五十年に一度の癒し手という肩書が、フェリクス様にとって重要なみたいね。
確かにダイアナはとても強い回復魔法を使える。
だけど、所詮は五十年に一度なのよ。それを、あたかも奇跡のように演出する姿を、一部のご令嬢は冷やかに見ていたわ。
思い出せば、彼女たちに何度か、お付き合いする方を選びなさいと助言をいただいたこともあった。だけど、私はフェリクス様の言葉を信じてしまったのよね。
ダイアナは誤解されやすいだけだなんて言葉を、私はどうして真に受けたのでしょう。
ご令嬢の皆さんの言葉を信じるべきだったんだわ。
フェリクス様は、ダイアナを信じ切って周りが見えていないようだけど、私も、同じように周りが見えていなかったのね。
五十年に一度という肩書をもって、格上のご令嬢と対等であるように振舞うダイアナの滑稽な姿を思い出し、思わず小さなため息をついてしまった。すると、お父様はわざとらしいほどの笑い声をあげた。
「五十年か! それはいい!」
「ウォード侯爵様! 私のことを信じてくださいますのね。人目に触れないところで、リリーステラは──」
「黙れ! お前ごとき小娘が、我が娘を気安く呼ぶなど、許されると思うな!」
大笑いから一転、お父様は地獄の悪魔も震えそうなほどの怒声を上げた。
ダイアナは本当に物事を見る目がないようね。
お父様は、貴女が癒し手であることを喜んで笑ったのではなく、その滑稽さに笑ったというのに。
「我が娘は、百年に一度の癒し手だ。癒し手が嘘をつかないというのが道理であれば、我が娘も嘘をつくことはない」
フェリクス様の顔が引きつり、青ざめたダイアナが私を見た。
昏い目をしたダイアナの赤い唇が、どうしてと問うように震える。
どうして癒し手であることを、私が秘密にしていたのかなんて簡単なことよ。
癒し手は崇められる存在じゃないわ。
王太子妃殿下は三百年に一度の癒し手で聖女と呼ばれていらっしゃるけど、それと比べたら私なんて足元にも及ばない。
五十年どころか、百年に一度の癒し手程度で偉そうな顔をするなんて、恥ずかしいことこの上ない。だから、学園では黙っていたのよ。
フェリクス様は私が癒し手であることを、どうして忘れられていたのかしら。
この力をもって生涯オーランド領に尽くすと誓ったのに。八年も前の婚約の日など、簡単に忘れてしまうものなのね。
ほんの少し寂しい気持ちでフェリクス様を見ていると、お父様が私に声をかけた。
「リリーステラ。お前は、ダイアナを虐めていたのか」
「全く、身に覚えがございません。家名に恥じぬよう、日々を過ごしておりました」
静かに答える私に、フェリクス様が縋るような眼差しを向けたけど、それに応えることはもう出来ないわ。
「そんなのは、口から出まかせよ! 私のことを、卑しい男爵家の娘だって言ってたわ!」
「身に覚えがありません。そもそも、私が貴女を虐げたという話に、証人はいないのですよね?」
「そ、それは……それなら、先月、フェリクス様以外の男性と買い物に行ったのはどう説明するの? あなたこそ、婚約者にあるまじき行為をされているんじゃなくて!?」
「……リリーステラ嬢、それは、本当なのか? 私に黙って、他の男と会っていたのか?」
「身に覚えがありません」
「言い逃れなんてしないで、潔く認めなさい!」
突然、話題を変えてきたダイアナは、どこか得意げな笑みを浮かべている。
上手いこと言い返したと思っているのでしょう。その横でフェリクス様はショックを受けているのも奇妙な話だわ。
不誠実なことをした二人が、私のありもしない不貞を咎めている。考えれば考えるほど、何て滑稽なのかしら。
黙っていると、私が回答に困って言い訳を考えているとでも思ったのか、ダイアナは余裕の笑みを向けてきた。
本当に、身に覚えがないのだもの、そう言うしかないじゃない。
「旦那様、お嬢様、よろしいでしょうか」
「アルフレッド?」
後ろに控えていたアルフレッドは、お父様に頭を下げた。
「何か、思い当たることがあるのか?」
「おそらく、花祭りの前日だと思います」
「そうよ! 銀髪の男と一緒に装飾店に入っていくのを見たわ!」
ほらねと言うように、自慢げな笑みを浮かべたダイアナだけど、アルフレッドは表情一つ変えずに話を続けた。
「スカーレット様へのお誕生日プレゼントを探しに街へ行かれた日です」
「お姉様の誕生日プレゼント……確かに、あの日はご一緒できるご令嬢の方がいなかったわ」
「はい。ですが、祭りの前日で人も多いので、私が同行させて頂きました。以上です」
淡々と報告を終えたアルフレッドは、青みがかった銀髪を揺らして頭を下げた。
つまり、ダイアナは私とアルフレッドを見て、勘違いをしたということね。顔を見なかったのかしら。
アルフレッドの報告にフェリクス様が小さくほっと息をつき、ダイアナの顔が真っ赤になった。
「お父様。私はウォード家の娘として、恥じるような振る舞いをしておりません」
「分かっておる。フェリクス、他に言うことはないか?」
論じるのもバカらしいとばかりに、お父様はフェリクス様に声をかけた。もう、ダイアナには興味すらないのでしょうね。
「わ、私は……ダイアナを愛しています。不貞を働いたことは認めます。ですが、真実の愛に目覚めたのです!」
「真実の愛か」
「リリーステラ嬢を悲しませることは承知でした。ですが、私はこの愛を貫きたいのです」
「私もです、フェリクス様!」
お父様の目が細められ、口元が僅かに上がった。これは、絶対に怒ってらっしゃるわ。だけど、フェリクス様とダイアナは見つめ合って、二人で頑張ろうなどと言い合っている。
それにしても、今まで私を責める言葉は何だったの。私は何を見せられているのだろう。
寒々しい気持ちになりながら、私は小さく息を吐いた。
そうだわ。今夜は温かい野菜スープを食べたいと、料理長にお願いをしましょう。それとも、眠る前に温かなハーブティーを飲むのがいいかしら。この冷えた気持ちを温めてくれるものは、何かしら。
もう、彼らの話を聞く気なんて、私にはなかった。
「オーランド卿。私はそなたとこれからも良い関係を築きたいと思っている」
「侯爵様! 勿論です。オーランド伯爵家は、今後もウォード侯爵家の盾となりましょう!」
顔を上げた伯爵様はお父様の目を見て、はっきりと告げた。
「これは、ご子息フェリクス・オーランドの一方的な婚約破棄で、相違はないな?」
「はい。リリーステラ様のお心を傷つけたことをお詫びいたします。何卒、寛大なお許しを賜りたく存じます」
「それでは、ご子息は貴族籍を抜けてもらおう。その上、相応の慰謝料を納めてもらうで、問題はないな」
「……分かりました」
一瞬息を飲んだ伯爵様は、深く頭を下げて承諾した。
つまり、お父様はオーランド家と今後も付き合いを続けたいが、フェリクス様の顔は二度と見たくないというこね。
「え? 待って下さい。貴族籍を抜けるって……」
「どうしてそんなに、酷いことを言われるの!?」
当の本人とダイアナは納得できないみたい。
ダイアナは、フェリクス様との関係が認められたら、伯爵夫人になれると思ってたのでしょうね。
「これは合意の元の婚約解消ではなく、フェリクスの一方的な婚約破棄だ。我がウォード家に泥を塗った責任を取るのは、当然であろう」
「しかし、貴族籍を抜けたら、私は……」
「真実の愛を貫くと言ったではないか。二人仲良く生きればよかろう」
「え……?」
「私はお前達の仲を認めると言ったのだ。平民となっても、愛は貫けるであろう?」
フェリクス様は、私に縋るような眼を向けてきた。
「フェリクス、ダイアナ……どうぞ、お幸せに」
私がお父様の決定に背くはずもないのに。あなたは何を求めたのかしらね。
もう、二度と関わることもないだろう二人に、おめでとうと、さようならの気持ちを込めて、私はにこりと微笑んだ。
◇
全てが片付いたその日の夜。
私はお気に入りの冒険譚のページをめくりながら、ハーブティーを飲んでいた。
ほんのり甘くてスパイシーな今夜のハーブティーは、未踏遺跡で主人公を惑わせる敵の魅惑の香りを彷彿とさせるわ。それを振り払うのは、仲間の風の魔法で──口角を上げて楽しんでいると、開けていた窓から夜風が入り込んだ。
ふと顔を上げると、アルフレッドが窓を閉めていた。
「アルフレッドは、未踏遺跡に行ったことがあるの?」
「何度かはあります」
「……クラレンス家の養子となったら、未踏遺跡へ調査に行くこともあるのかしら?」
「そうですね。領地を知るための視察で行くこともあると思います」
「そうなのね……ちょっと、羨ましいわ」
本を閉じてテーブルに置き、温かなカップを両手で包むようにして持ち上げた。
少し冷えていた指がじんわりと温かくなり、それを喉に流し込めば胸の内がほっこりと和らぐ。
「羨ましい、ですか?」
「だって、冒険が待っているんでしょ?」
指で本のタイトルをなぞり、別世界へと思いを馳せていると、アルフレッドの指がそっと重ねられた。
「お嬢様は、今、お心がとても傷ついていおられます」
「そうね」
「現実逃避をしたいお気持ちは分かりますが、現実は、物語のようにはいきません」
「……分かっているわ。それでも、ここじゃない場所に行けるアルフレッドが、羨ましいの」
フェリクスとダイアナは、二度と私の前に姿を現さないだろう。
変わるのはそれだけのことで、私は学園を卒業後、新たな婚約者が決まるまで、ウォード家で家業を教わりながら過ごすことになる。ほとんどが、今までと変わらない生活だろう。
時にはお茶会を開き、時には社交界で笑顔を振りまく。
「侯爵家の娘として、恥じることのないように生きていくつもりよ。でも……」
アルフレッドを見上げると、視界がぼやけた。
貴方もいなくなってしまうと知ってしまった。それがとても寂しいの。
「ここじゃない……別世界を見てみたいの」
冒険譚のように、背中を預けられる人と出会い、恋物語のように心を揺さぶる日々は、ここにはない。
それが、クラレンス辺境伯領にあるのかは分からないけど、でも──
「アルフレッド、あなたなら、私に新しい世界を見せてくれる。そんな気がするわ」
期待の眼差しで、アルフレッドを見上げた。
「私を、クラレンス辺境伯領に連れて行って」
私の手に触れていたアルフレッドの手が、ぴくりと動いた。ややあってから、何事もなかったように遠ざかる。
瞬き一つせず、私はアルフレッドの動きを目で追った。
指先まで覆っていた白い手袋が外され、ポケットへと押し込められる。アルフレッドの形の良い唇からため息がこぼれ、宝石のような瞳が、私を真っすぐと見つめる。
「良いのですか?」
「……なにが?」
初めて、肌を晒したアルフレッドの指が私の手に触れた。
手袋に隠れていた指は、思っていたよりもごつごつとしていて、血管も浮いている。でも、お父様の手みたいに皴はないし綺麗だわ。と、どうでも良いような感想を持ちながら、私は彼の指先を観察していた。
「貴女をクラレンス辺境伯領に連れて行くということは、私の妻にするということです」
そう告げられて初めて、私が彼に求婚していたのだと気づかされた。
アルフレッドと私が夫婦になるなんて、今まで考えもしなかった。だって、彼は私の従者で私の側にいるのが当たり前で、私を手伝ってくれて──あれ? 夫婦って肩書きが変わるだけで、今までとそう変わらないような気がしてきたわ。
違うと言えば、今度は私が夫を助ける立場になるってことぐらいよね。
アルフレッドは私から目を逸らさず、じっと返事を待ってくれている。
「良いわ。私を、アルフレッドのお嫁さんにして!」
「リリーステラ様……本気で仰られてますか?」
「えぇ。だって、アルフレッドなら私を別世界に連れて行ってくれるでしょ?」
一瞬の間を置いて、アルフレッドはため息をつきながら笑った。この顔は、私のわがままを聞いてくれる時の顔だわ。
「一つ、約束をしてくれますか?」
「何かしら?」
「クラレンス領には危険な場所もあります。私の目の届かないところへ、勝手に行かないで下さい」
「あら、そんなことで良いの? 約束するわ。だから、私を別世界へ連れていって!」
もっと難しいことを言い出されるのかと思って、少しだけドキドキしたけど、案外簡単なお願いね。
アルフレッドが私の前に跪いた。
「リリーステラ様……生涯、貴女を愛し守り抜くことをお許しください」
真剣な眼差しに、穏やかだった鼓動が飛び跳ねた。
アルフレッドの睫毛ってとても長いのね。さっきも思ったけど、瞳は宝石にも負けない綺麗な緑色をしているし、とても綺麗な顔立ちをしているわ。
でも、私の手を取る指は男の人のもので、背や肩だって私よりもずっと大きくて、がっしりとしている。彼が、騎士のような装備を身につけたら、どうなるのかしら。マントをなびかせて、その手に剣を持ち──
「私の妻に、なってください」
まるで物語に出てくるヒーローのようじゃない。
夢想した姿がアルフレッドに重なった瞬間、私は爪先から頭のてっ辺まで熱くなった。きっと、顔は薔薇の蕾にも負けないくらい赤く染まっていたと思うの。
消えそうな声で、はいと答えるのが精いっぱいだった。
こうして私は学園を卒業すると同時に、アルフレッドと共にクラレンス辺境伯領へと向かうことになった。
彼が、私のヒーローだったのだと知るのは、それからほどなくしてのこと。だけど、それはまた別のお話。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
リリーステラの恋は始まったばかり。
いつか続きを書きたいなと思っています。
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