第三十三話「荒城の月」
ビルガメシュはつい数年前――この世界の住民にとっては、数万年前――の出来事を思い出していた。
軌道エレベーターで、月から地球へと降下する直前のことだ。
床や壁、天井に至るまで、どれもが銀色に満ちており、時折、一直線に走る透明な筋の中を光の模様が泳いでいる。その光の一つ一つが高度な知性を持つ微生物であり、宇宙船の軌道やスペースデブリの位置を測定し、それの応じて軌道エレベーターの周囲に張り巡らされた反重力発生装置が作動することによって、異物が衝突するのを防止していた。
この若者はデータを集めたファイルを脇に抱えて、自分が行きたい路線へと向かう途中だった。
若者の隣には懐かしい少女がいた。亜麻色の髪で、色白の少女だ。
「また、会えなくなるの?」
「うん。当分の間はね」
少女の方も、決して暇ではないのにわざわざ大切な時間を空けてまで会いに来てくれるのだ。それがかけがえのない気配りであると気づくことにすら、あまりに長い時間がかかってしまった。
「ビルガメシュも論文の完成に忙しいもんね」
「また会ったら、レストランで一緒に食事しない?」
少女は積極的に声をかけてくれた。いつも明るくて、優しい声を崩さないとても素晴らしい人だった。それなのに、男の方はずっと少女の気持ちをないがしろにしていた。
決して悪意があったわけではない。
「忙しいんだ。今はとてもそんなことをしてる暇はない」
ビルガメシュは、いつもそうやってはぐらかしていた。怖かったのだ。彼に拒絶されるのが。
「そっか。残念だな」
エンヘドゥアンナは内心苛立っていたに違いない。ビルガメシュにとって、繊細な心の持ち主である彼に対して、どのように応対すればいいか分からない所があった。
ビルガメシュは、人間が前後からひっきりなしに現れ、その間隙を大小様々なロボットが縫うように行き交う通路を歩いた。
その時に聞こえる声、何気ない会話さえもが、今では思い出すだけでなつかしさがこみ上げる。
だがビルガメシュは、身が震えなかったし、目頭が熱くなることもなかった。もうそのような臓器がないのだ。
軌道エレベーターも、今は痕跡すら存在しない。それがあった場所には、王都ケルテスがあり、巨大な柱が天地を貫いていた位置は、今やこれといった見どころのない市街地となっている。
ビルガメシュは、慨嘆せざるをえない。
エンヘドゥアンナは、この変わり切った世界をどう受け止めたのだろう? とビルガメシュは推し量ってみた。しかしこれといった見当はつかなかった。
もう誰も超古代の人間のことを不正確な伝承でしか知らないし、そんな連中が実在したと信じる者すらいない。そんなものよりも、神の方が彼らにとってはずっと存在すると断言できるらしい。
魔物にとっても人間にとっても。
(教えてくれ、エンヘドゥアンナ。リクス・カレイドは僕が本当に頼るに足る人物なのか?)
ひたすら逃避行を続け、ビルガメシュはいつしかカスタ城塞の前に立っていた。つい数か月前に神聖帝国とルステラの間で激しい戦いが繰り広げられた場所だった。
遺体や血の跡はほとんど片付けられていたが、破損した城壁はほぼそのままの形で破棄され、ろくに修繕しようとした気配もない。
(私たちがいた時代は、こんな風に戦争をすることはなかったのだがなあ)
ビルガメシュがかつていた時代、人間同士が憎み合い、傷つけあう戦争など、もうとうの昔のおとぎ話でしかなかった。戦争するほど切羽詰まった環境にいなかったし、そんな
ずっとそういう時代の中で生を終えることを、ビルガメシュは疑っていなかった。星々が次々と消える、あの日が来るまでは。
(結局、人間はここまで落ちぶれてしまったのだなあ……) 古代人は慨嘆した。
もはや宇宙に行くなど想像もつかず、科学の研鑽が神々への信仰に取って代わられてしまった。
ビルガメシュはひたすらこの城跡を越えたくて仕方がなかった。
だが、長らくここに駐留している番兵が、城門の所にいた。
「何だ、お前は?」
ビルガメシュは、無論本当の目的を言うわけにはいかなかった。
「私は神聖帝国からの亡命を希望します」
「名前は?」
「ビルガメシュと申します」
「変な名前だな」
些細なことで正直になってしまったことにビルガメシュは冷や汗をかいたが、とにかくここを押し通らねばならない。
「ケルテスに向かうつもりです」
「見た限りたいして金があるようには見えんが。いくつも関所を通らねばならんぞ」
「それに関しては、心配ありません。私には長距離を移動する手段がありますので」
「おい、まだ話は終わっていないぞ」
あまり嘘をつきたくはなかったが、厄介なこの場を切り抜けるためには仕方がない。
「私は、天空人の遺産を発掘しておりまして、それを王都の市場で価値を知る方々に買い取ってもらうつもりです。そしてそれを……ルステラ王国による神聖帝国への抵抗のために活用したいと思うのです
「それは、本当か?」
だが、兵士たちは興味深そうな視線を持っても、決して信じ込む視線にならない。
「はい、本当ですとも。こちらの端末を使えば、長距離を走るための乗り物になるのです」
「そんな馬鹿な話があるか。お前、そもそもなぜ王都に向かう」
「リクス・カレイドという人間に会うためです」
「リクスだと? あんな扇動家に一体何のようだ?」
兵士たちはこんな人間を相手にするのも面倒くさいとばかりに、装置を取り上げようとしたが、
「おい、待て!!」
しかし、ビルガメシュは装置を起動させ、瞬く間に走り去り、城塞を後にした。
ケルテスにいるリクス・カレイドの元を尋ねねばならない。
無論この天空人にはリクスという人間がエンヘドゥアンナと親密であったことなど知る由もない。
だが、彼らがとにかくあの女性と行動を共にしていて、戦っていた事実について詳しく知りたかった。
月は欠けることなくつぶらに満ちていた。そろそろ暖かな風が吹いてもよさそうな時分だ。
ケルテスの郊外に広がる墓場をリクスは訪れた。一週間に一日は必ずそこに行くことにしていた。
その時決まって、リクスはアンナの墓の前にいた。
墓石をどかし、棺を開けると、あおむけになったアンナの姿が明らかになった。
アンナの遺骸はそのままの姿を保っている。機械に改造されているので、腐敗しないのだ。
リクスはアンナの顔を見つめた。死ぬ直前とは違い、安らかな表情をしている。整えられたのではなく、筋肉が硬直したからだ。
だからこそ、リクスは決してアンナの静かな顔だちを見ても心が安らぐことはない。彼の時間は、アレクシオに突き刺され、苦悶したままのあの光景でずっと静止し続けている。
「僕に教えてくれ。一体どうしたらいいか分からないんだ」
相手が生きている人間のように接した。
「やっぱり怖いんだ。僕はあの水の四天王に勝てると思えない……ボスカルボにだってどうやって勝算を見つければいいか、少しも検討がつかないんだ」
彼にしか言えないことが沢山あった。
「グレンドールに、アンナの同胞に会いに行けとは言われたけれど、そうした所で結局状況を打開するすべなんて見つけ出せるかどうか……」
突然、背後から声がした。
「結局、まだ過去に囚われたままなんだね~リクスさんは」
常に墓場に赴く時は一人きりだっただけに、つけられているとは夢にも思っていなかった。
その衝撃はちょっと身にこたえた。
「ライラ……」
「私、あんたと違って執着するほどの過去、ないからさ。いつまでも昔のこと引きずってないで、今を見て生きなきゃ」
「気楽だな、お前」 リクスはぶっきらぼうに。
「そりゃ、気楽な方が心地いいし」
「お前にだってアンナは忘れがたい奴だっただろ。色々思い出だって――」
「え、本当にそんなこと思ってたの? 私にとってはエンヘドゥアンナだってどうだっていい奴だよ」
リクスは、あえて何も言わなかった。この少女には常に情味が欠けている。たとえどれだけ暖かい思いやり、あるいは厳しい裁きを受けても決してその魂の色が塗り替えられることはないだろう。
「ライラはねー、生きてさえいればいいと思っているから死んだ奴なんて誰だって足蹴にしてやるよ。そうやって泣き言を言っておけば蘇るとでも思ってんの?」
明確に、ライラの瞳にはリクスを嘲笑するまなざしが浮かんでいた。
何も言わないわけにはいかなかった。
「うるさいな! 蘇るとかじゃない、僕はもっとこう、深い意味で悩んで――」
「アンナのことなんてどうでもいいからさー、ビルガメシュを見つけなきゃいけない。ケルテスに向かってるんでしょ? その男」
ライラの口調は一貫して軽い。彼にとっては自分の生存以外、全てが軽い。
「ああ、グレンドールが言ってくれたことだ」
「敵のことを信じすぎるのもどうかと思うけど、一回リクスさんを助けてる奴なら多分全くの嘘偽りってわけでもないんだろうね。でもよくそんな奴が四天王つとまってんな」
こいつは、いつでも痛い所を突いて来る。
そして、こちらから反論しても何の利益もない。
「ライラ……」
「ぶっちゃけルステラが勝とうが神聖帝国が勝とうがどうでもいいけど、神聖帝国は自由を奪うからね。ルステラも自由じゃないけど、神聖帝国はもっと自由じゃない。その点だけで私は神聖帝国の敵になってんの。分かる?」
ライラは、ただ自分の快楽のために
彼はまぎれもなく悪人だ。しかし、権力になびく衆生では決してない。
リクスは賭けることにした。
「ビルガメシュを探してくれないか? 僕はルベンさんと請け合って、何としてでも協力を仰ごうと思う」
親指を立て、にまにまするライラ。すでに足が冒険を求めて地面との間で足踏みしている。
「よしっ! そうでこそカスティナの英雄だよ!」
ビルガメシュがついた嘘は次第にルステラに広がっていった。
天空人の遺産を研究する者という風聞は、古代の歴史をかすかに知っている人々の興味を引いた。
数日後に、ビルガメシュは王都の城門にいた。
多くの人間でごった返していた。しかし、ここからどうやってリクスたちに会えばいいのだ?
途方に暮れながらも、通りかかる誰かがリクス・カレイドについての話をするのを耳にした。
「あいつは一体この先どうするつもりなんだろうな?」
「リクス・カレイドには一体どんな勝算があるんだ」
ビルガメシュは近づいて彼らに言った。
「そ、その男に会いたいんだ」
「物好きな奴だな! あんなのに俺たちを救う力があると思うのか?」
ビルガメシュは賭けるしかなかった。神聖帝国に追われている以上、何としてもかくまってもらわなければならない。
別にやみくもに庇護を求める気はこの天空人にはなかった。ボスカルボを倒す方法はある。もっとも、それを実現するための技術がこの時代の人間にあればだが。
「はい、だーれだ!」
突然後ろから両目を塞がれてビルガメシュは驚いた。
「あんたがビルガメシュかい?」
「だ、誰だ?」
「知らないの? 私がリクスのことを一番知っている正義の怪盗少女、ライラ・デンゼル。あんた、エンヘドゥアンナの知人だったそうだね?」
「な……なぜ、その名前を?」
声の主は回り込んで、ビルガメシュの正面に立つ。
「風が私にささやいたんだ。あんたがケルテスに向かう途中だって。これはきっと神様のおぼしめしに違いないね」
この時のライラは黒いローブではなく、周囲に溶け込むような地味な色合いの服を着ていた。
「何でもその風はあんたがボスカルボを倒すのに必要だって言ってた。それが本当かどうかは分からないけど、確かめないわけにはいかないと思って、ここまで来たの」
相手が誰かはよく知らないが、無論グレンドールのことについて話すわけにはいかないと考え、
「君はもしかしてあの……リクス・カレイドの知人なのか?」
ライラは苦笑いを浮かべながら、
「知人というか、仲間というか。たまたま一緒になって遊んでやってるだけの仲ではあるけれどね」
ライラは、ビルガメシュの困惑した顔をよそに、そのまま語り続ける。
「私は、そのリクスに会いたいんだ。君なら知っているんだろう?」
「ああ、知ってるよ。多分あいつならエンヘドゥアンナのことをよく知ってるかもね」
周囲の人間は少しもビルガメシュとライラに関心を払わない。
エンヘドゥアンナのことをよく知っている、という言葉でいささかビルガメシュが胸騒ぎを起こした。決して彼とは長い付き合いだったわけではないが、それでも親密に話し合ったことは一回や二回ではない。
「それくらいにリクスというのは彼と親しく付き合っていたのか?」
「さあ? でも、あいつを失ってからのリクスはだいぶ落ち込んでたね……それで一時戦う使命を忘れかけた時もあった」
「あれ? どした?」 ライラはビルガメシュがうつむいて、腕をわなわなと震えさせていることに気づき、首をかしげる。
「天空人の遺産っていうのは前から見つかってはいたけど、どれも現代の技術では解析ができない。何に使われているのか、皆目分からないものばかり。だからこれまではあまり価値を認められてこなかった。でも今は違う。あんたがいるなら、そういうのも役に立つように転用できるかもしれない」
「私がいた時代ですら、ほとんどの人間にとっては驚異だったさ」
アンナのことで浮足立っていたビルガメシュは、急に我に返って襟元を正す。
「ここで話すことじゃない。誰に聞かれるか分かったもんじゃないからな」
「とにかく、私は今誰も信頼できないんだ。君たちを頼るしかないが、君たちも僕にとって有益かどうかまだ分からないからね」
それを聞いて、突如として指を鳴らすライラ。
「分かったよ。じゃ、あなたをすぐにリクスんところに連れて行くから!」
グレンドールは、しかし自分の計画がうまく行くとは思っていなかった。
「ハイドリエンの邪魔をしたそうだな」
ガドールは一切腹を立てた様子はなかった。それどころか、腹心の予想外の行動に対して大変興味を示した様子だった。
「まことにございます」
グレンドールは決して臆さなかった。彼は、自分が起こした内紛に対する責任から少しも逃れるつもりはなかった。
「ハイドリエンはテレーゼとリクスを亡き者にしようとしていた。貴様はそれを妨害した。なぜそのようなことをした?」
「二人を神聖帝国に引き込むためです。彼らがこれから多くの経験を積み、強くなればなるほど、神聖帝国の理念に共鳴するようになるでしょう」
「彼らにそのような見込みがあるのか?」
「テレーゼ・マイニンゲンは精神の改造を受ける前に逃亡し、彼の改造に着手していた天空人も行方をくらましましたが、精神改造に必要な資料はすでに揃っております。そしてリクス・カレイドも戦意を取り戻し、より戦士にふさわしい者として生まれ変わったように見えます」
「それくらいがいいのだ」
ガドールは一切グレンドールを責める雰囲気は見えなかった。
「貴様にはいずれ私の後継者を継いでもらう。貴様の抜け目なさと……面白さは、国家を栄えさせるに十分だ」
だがアレクシオはそのような発言が訊き捨てならなかった。
「この者の言葉を信用しないでください、ガドール様。こいつは我々を滅ぼそうとしているのです!」
アレクシオにとっては、グレンドールの行動に深読みするだけの余裕はなかった。彼は単なる利敵行為を働いているだけでしかなかった。
「俺はただ、お前やハイドリエンを試そうとしているだけさ。最強の奴と戦いたいんだ」
「グレンドール、お前はもしかして神聖帝国に内紛を起こそうとしているのか?」
「組織というのは常に不和を抱えているものだ。何も問題のない、完全に安穏に満ちた組織など、一度乱れればすぐに崩壊するからな」
あっけにとられるアレクシオをよそに、ガドールはなおも落ち着き払った言葉で、
「グレンドール。貴様は神聖帝国の火の粉となれ。我が軍勢が驕らぬように、滅びぬように、火をたき続けろ」
「はっ」 手に胸を当て、頭を下げる人間。
アレクシオは不満と不信をつのらせたが、主君の前でことを荒立てるわけにもいかなかった。
(ふん、覚えてろよ。少しでも怪しい動きを見せたらすぐに始末してやる!)




