第三十話「復活の時」
やがてフレーベル王国に神聖帝国の軍が攻めよせてきた。
この時ばかりは、リクス・カレイドは鍛錬をしている場合ではなかった。これまでの修練で培った技術を実戦で使わなければならない。
ルクレールは、城門の所で他の兵士と共に、リクスが武具を整えているのを見て、心配そうな顔で近づき、
大丈夫でしょうか……リクスさん。と尋ねる。
だが相手は、決して重圧に気おされてはいなかった。
安心しろよ。俺は必ず帰って来るから。
リクスは珍しく、自信にあふれた顔をしていた。
リクスの顔を見て、ルクレールは非常に頼もしい気分になったものだ。
だが敵は強かった。
敵は、ルクレールが予想もしなかった方法で攻撃してきた。
フレーベル王国は滅びた。
ルクレールのいた街は荒波の殺到する海と化したのだ。
ルクレールは波の中をもがきながら進んだ。
あの女がいた。
ルクレールはただ戦慄して、立ち止まった。
生き残ったのは貴様だけのようだな。
水面から立ち上がった人がいる。それはリクスだった。しかし、ルクレールは安心などしなかった。
見ろ。貴様が尊敬していた人間は、理性を失ってもはや単なる傀儡となったぞ。
リクスの瞳にはもういかなる生気も宿っていなかった。
リクスはルクレールに襲いかかった。
ルクレールは逃げるしかなかった。
だが逃げ遅れた瞬間突然、リクスの動きが止まった。
リクスは崩れ落ち、そのまま水面の下に沈んだ。ルクレールは、ただ何もできずに立ち尽くすことしかできなかった。
単なる絶望だけがあった。
ハイドリエンは言った。
「もはや誰もお前のことを信じない。お前は嘘つきとして知られるようになるんだ」
その言葉が、ずっと少年の脳裏にこびりついて離れなかった。
ルクレールは荒涼とした大地にただ一人いた。枯葉や切り株、泥にまみれた砂利だけが無造作に敷かれていた。
ルクレールは前に向かって歩いた。見覚えのある物は何もなかった。リクス・カレイドが身に着けていた、二振りの棒だけが突き刺さり、残っていた。
それを手にすると、ルクレールは空に向かって叫んだ。だが、声は出なかった。
二振りの棍棒だけが、リクスという人間がいた証拠だった。
ルクレールは氏素性を隠して、諸国を渡り歩いた。
名前すら偽った。どうせ誰も信じてもらえないのだから。起きている限り、ハイドリエンの言葉が、一音節ごとに一気に頭を打ち鳴らすのだから。
ある時、マックスという名前の行商人の元に、住み込みで働いた。
雑用の傍ら文字を覚え、会計の仕事をやった。するとめきめきと技能を上達させ、雇い主からすぐに褒めてもらえた。
お前は実にできる子だ、エドガー!
マックスは言った。
もしかしたらお前なら俺の事業を継げるかもしれないな。
その言葉にルクレールは嬉しくなった。だが、結局嘘つきの悪い子供であるという負荷が常について回った。
ある時ルクレールは、主人の会話を盗み聞きしてしまった。
まだうなされるの、あなた?
当然だろう! あの日の光景を忘れられるかってんだ!
いつもの様子からは考えられない活舌の悪さ。酒を浴びるほど飲んでいるかのようだ。
それから悲しげな溜息をつき、
一体いつになったら俺たちは元の故郷に帰れるんだろう?
ルクレールは、震えた。頭を抱え、吐きそうになった。
その日ルクレールはマックスの元を、何も言わずに逃げ出したのだ。
その後もルクレールは騙し続けた。自分は何の変哲もない人間だと自分と他人に言い聞かせ続けた。
アルフレッドに会った時も、出自を偽った。自分が亡国の流民であるなどとは露も知られたくなかったから。
でも、それがあなたの全てじゃないでしょう?
突然、横から懐かしい声が聞こえた。
ごめん。これが僕の全てなんだ。
少年は言った。
謝るのは私の方よ。リクスに、そんな辛い過去があったなんて。ずっと、リクスは元気で、勇気がある奴でいいなって……そんな風にばかり思ってたから。
でもそれは全部嘘なんだ。僕はただ何にもなれなかった、臆病で惨めな奴だったんだよ。
少年の声は弱々しい。そして、相手は、その弱さを責めることなく、はっきり受け入れることにした。本当は受け止め切るのが怖い、という感情にも、少しずつ向き合いながら。
ねえ、もっと教えて。私とあなたが出会う直前に、一体何があったの?
やがてルクレールが神聖帝国の魔の手が忍び寄って来た。
ルクレールはいち早く逃げ出した。そしてその先に、一台の馬車が敵襲に会い、転倒するのを見た。
魔物が、人間を仕留めた。
そして、幌の中から娘ができてた。
ルクレールはそれを見て、逃げるわけにはいかなかった。だがルクレールは今や噓つきである。
たとえ助けたいと思う善意が偽物であっても、嘘をついて飛び出すしかなかった。
だがルクレールには勇気がなかった。到底、命がけの戦いに身を投じるだけの勇気などない。
だから嘘をついて、あの人の名前を、叫んだ。ずっと封印してきた、あこがれの人の名前は。
「僕の名前は、リクス・カレイド!」
ルクレールの世界に、突如として生きた感覚が蘇った。自分が存在している実感が再び戻って来た。あの遠い過去の中に
二人は
テレーゼは、リクスを正面から見据えて話し出す。
「さっきのは痛かったよね。でも、私はあの水に人格を乗っ取らせるわけにはいかなかった。……私はリクス、いや、ルクレールに辛い思いをさせてしまった。一体どうやって謝ればいいのか……」
「いいんだ。あの時テレーゼが噛みついてくれなきゃ、僕はリクスさんみたいに正気を失う所だった」
上から光が差し込み、大きな口をあけて彼らを解放するように見えた。
「ルクレール、動ける?」
「うん、大丈夫だ。ちょっと痛いけど……」 苦笑いを浮かべるルクレール。それがまた、かつての彼の姿そのもので、テレーゼはこの上ない安堵を覚えた。
「う~ん、加減はしたつもりだけど。実は、あいつらにちょっと強化されたの。この体」
「強化だって?」
ルクレールは、気になって仕方がなかった。
「細かいことは後で話すわ。でも、やっぱりルクレールって呼び慣れないな」
「そりゃそうだよ。その名前で呼ばれたことなんて、もう五年ぶりなんだから」
「あなたには悪いけど……」 テレーゼは葛藤に眉をひそめ、少しうつむいてから、
「今はまだリクスって呼ばせてくれないかな。申し訳ないけれど、まだ私たちにとってはあなたこそがリクス・カレイドなの」
リクスは溜息をついた。
「あ~あ、嘘なんてつくもんじゃないな……」
リクスは目を開けた。青から藍色に変わりゆく兆候を示し、空は穏やかな雲の模様を表している。
地面は少しばかり湿っていた。だが、もう海のような濁流はもうどこにもない。
急に揺さぶられ、リクスは驚いてしまう。
「テレーゼ?」
「良かった。もうあの女はいないみたい」
リクスの顔には、まだ恐怖が残っている。
テレーゼは彼を見て、しいて励まそうと思わない。だからこそ、今奴がいないこの瞬間に関心を集中させようと。
「私を見て。今は、私がいるから」
リクスは、テレーゼの顔を見つめた。
リクスは、最初の仲間がこうして一緒にいてくれることに深く胸をなでおろしたが、テレーゼもまた命の恩人が嘆きの海に沈まずいてくれるのを悟って、安心したようだった。
「さあ、行きましょ。みんなが待ってる」
マルセルの屋敷にまでやってきた時、ずっと前で待ち構えていたものがいた。
二人が来るのを、彼はずっと待っていたのだ。
「リクスさん!?」
レカフレドが慌てて駆け寄り、リクスの肩や脇を両手でゆさぶる。
「本当に、元気になったんですか?」
「いや、空元気だよ。ちょっとその……ましになっただけさ」
リクスは、レカフレドの欣喜雀躍しそうな顔を見て気恥ずかしくなり、思わず顔をそむけてしまう。
扉が開き、もう一人出てくる。
「うわーすごーい!! ライラ、リクスのそういう顔が見たかったの!」
ライラは何とかしてリクスの周りを走り、顔を正面からのぞきこもうと躍起になる。
「ちょっとしつこいわよ、ライラ……」 いらっとしたテレーゼは背後からライラの襟をつかむ。
ライラは涙を流した。
リクスは、ライラに少し同情したのか、それまでの憂えに満ちた顔にわずかな唇の震えを交える。
それまでハーゲンは周囲の空気を無言でうかがっていたが、リクスの顔が明るくなったように見えて、つい率直な感想を漏らす。
「……奇跡だ。あそこまで打ちのめされていたのに、立ち直るなんてな」
「た、立ち直ってなんかないさ。ただ、ちょっとだけ他のことを考える余裕ができただけだよ」
リクスは、みんなの様子を見て、少し目頭が熱くなった。
しかし、またもや別の憂えに感情が覚め、次第に明るくなりかけた顔に影を落としてしまう。
一番、いてほしい人がいない。ずっとひた隠しにしてきたあの苦しみをたった一人、察してくれた人がいない。
やはり、大切な人を失った衝撃からは立ち直れていない。
だからこそ、もう誰も失わないためにはどうすればいいかを考えることにした。
ベネディクトは、リクスの顔を見た時、どこか頼もしいというか、失ったものを取り戻した時のような安心感が自分の心の中に起きるのを認めないわけにはいかなかった。
まさか、自分にこういう一面があるとは夢にも思わなくて、ついまごついてしまう。傭兵ならば、他人の変化に一喜一憂すべきではないのに。
(いや、認めんぞ。俺は、こいつがこうなると最初から分かってたんだ)
彼は、場の空気を鎮めるように言った。
「お前たちが浮かれていたいのは分かるが、まだ倒すべき敵は残っているんだぞ」
その言葉に、すぐ一同は粛然とした。
「ボスカルボだ。まだあいつが猛威を振るっている。奴への対策を考えねばならん」
リクスは、ハイドリエンへの恐怖を圧殺すために、ボスカルボを倒すことだけを考えようとした。
一同は屋敷の中に入った。
「マルセル殿、リクス・カレイドが元気を取り戻しました」
「これはこれは。もう、以前のようなお元気ぶりですね」
「申し訳ありません。全て、僕が悪かったんです」
リクスは、そこにいた全ての人間に対して、自分の心の弱さを認めざるを得ない。
マルセルは、改めて彼らを仲間として留めて置いてよかったと安堵した。
彼らはホールに集まり、ここ数日あったことを話し合った。
「つまり、こいつはフレーベル王国の一庶民で……騎士団の見習いとかいうのは全部嘘ってわけ」
「まあ……うん。それを隠して生きていくしかなかった」
レカフレドは重々しい声で言った。
「ずっと言えずにいたんですね。いえ、僕たちにも責める資格はありません。もっとそれに気づいていれば……」
「言える」
ハイドリエンの引き起こした惨劇で、誰もが陰鬱な表情を浮かべる中、
「そっか~! だから私たちが王都に行くまでにも、あんなボケをかましてたんだね!」
「ちょっとライラ、いくらなんでも」 テレーゼがさすがに制止しようとするが、
「いや、いいんだ。それでいい」
リクスにとっては、むしろライラくらいに軽く受け答えしてくれる方が気分が楽だった。
リクスが自分の過去を話した後――誰もがそれを黙って、粛々と聞いていた――で、テレーゼの動向に話題が移る。
「それよりだ、テレーゼ。お前がケルテスに戻る前に何があった?」
テレーゼはその時もやはり、父や双子に関してはぼかして伝えた。
その途中、テレーゼは敵に捕らえらえた時のことが突然脳裏によみがえった。
「そうだった。あいつらの中に、天空人の技師ってアレクシオが呼んでた奴がいたのよね」
「天空人? 名前は知ってるのか?」
「ビルガメシュって名乗ってた。そして、アンナの名前にも反応したの。何か関係があるかもしれない」
「それは――」 リクスはどぎまぎした。
旅行中の会話で、アンナはかつて恋人がいたことを打ち明けていた。離れてからは疎遠になったというが。
もしかしたら、それは彼のことなのではないか。
はっとした時には、誰もがリクスに
ベネディクトはいたって真面目に、
「続けろ。何か心当たりがあるのか?」
「アンナの話にそれらしい奴が出ていた。何でもこの地上から遠く離れた星に行ったことがあるらしい。星を人間が住める環境にする研究をしていたそうだ」
「空に浮かぶ星を人が住めるように? 一体どうやってそんなことできるの?」 ライラはアンナが生きていたら詳しく聞きたい所だった。だが、アンナが死んでしまったことを思い出し、静かに肩を落とす。
「天空人の言葉はどれも信じがたいことばかりだが……リクスがいうなら多分嘘じゃないんだろう。アンナ以外に天空人がいて、神聖帝国は彼らを密かに仲間に引き入れているわけだ」
「エンヘドゥアンナにビルガメシュ、か。彼らの名前は言いにくいものばかりだな」
ハーゲンがぼやく。
「でもどうやってそのビルガメシュという人物を探し出すんですか? テレーゼさんがいた研究所は遠くにあるわけですし」
「さすがに私の力を以ってしてもあそこにまた行くなんてことは願い下げよ。なにせ一回あいつらの軍事演習場に迷い込んでしまったからね」
「なるほど、まさに九死に一生を得た逃避行だったわけだ」
ベネディクトは、テレーゼの心境を慮る。
「まあとにかく、俺たちがもう一度『カスティナの英雄たち』としての評判を取り戻さないからには、神聖帝国に戦って勝つ道筋も遠のいていくばかりだ」
ライラが明るい声で言う。
「ビルガメシュをボスカルボを倒す糸口も見つかるかもしれないしね!」
「それができたら苦労はしねぇよ……」 ハーゲンがぼやく。




