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第二十九話「過去を求めて」

 テレーゼとライラはケルテスにまでたどり着いた。幸いにも、さほど何かが変わった様子ではなかった。

 だがもう、二人を見ても特に嬉しそうな顔をする人もいなかった。明らかに、街中がよそよそしくなったような――そっけない雰囲気で二人を迎え入れていた。

 彼らはすぐにマルセルの屋敷を尋ねた。

 すぐにレカフレドが出てきて、二人を見て深く安心した。

「お二人ともご無事だったんですね! ああ……良かった!」

「ここに来るまでにテレーゼさん、すごい活躍してたんだよ! アレクシオに改造されたけど、すんでのところで――」

 ライラが自慢げに語り始めるが、テレーゼがきつくにらんで、制止させる。彼にとってはすぐにでも知らなければならないことがあった。

「そんなことより、リクスはどうしてる?」

「ああ。それがどうにもならん」

 レカフレドの横にハーゲンが現れる。

「アンナが死んですぐはただ単に意気消沈していたって感じではあるが、少し外出した後に突然まともに口がきけなくなったんだ。まるで怖ろしい物を見たようにな」

「どういうこと……? あのリクスが?」

 テレーゼは一気に不安になる。

 ライラですら、この時ばかりはふざけたりしなかった。

「まあ、実際に見た方が早い。お前らも途方に暮れちまうだろうからな」


「なにこれ……」

 テレーゼは、変わり果てたリクスの姿を見て呆然とするしかなかった。

 ライラですらも、リクスがベッドからかろうじて上体を起こし、前方を力の抜けた目で呆然と眺めることしかできない様子でいるのを、震えて見ることしかできなかった。

「ここ数日もうそういう状況だ。どうにもならん」

 ベネディクトは腕を組んで壁際に立っている。

 リクスは、ライラとテレーゼを見ても少しも心を動かされない。最初から、

「一体、リクスに何があったの?」 テレーゼは、目を細めて哀れむように言った。

「さあな。とにかく見つかった時にはもうまともに口がきけなかったんだ。よほど、苦しいことがあったのかもしれないが」

 ベネディクト

「心当たりはないか?」

「さあ……」

 ライラが顎に手のひらをのせながら、

「リクスって、割とその場しのぎの嘘をつくことが多かったから、もしかしたら色々抱え込んでたんじゃないかな」

「まあ、嘘はついていたよね。しょっちゅうくだらない嘘ついてた」

 ライラが話す。

「ずっとそういう奴だと思ってたけど……案外、嘘つくことで何とか踏みとどまっていたのかもしれない。じゃなかったら、こんな苦しい戦いの中で正気なんて保ってらんないもんねえ?」

「そりゃ、リクスにだってリクスの事情があったのは否定しないけど……」


 テレーゼは、リクスを見かね、何とかして気を引こうと手練手管を尽くした。

「ねえ、リクス、外に出ない?」

「私だって、もうだめかと思ってたのに、生きてここに帰れたのよ。嬉しいと思わないの?」

「……何だよ。お前らに俺の何が分かるんだよ」

「あのさ、もうちょっと自信出しなよ。あんたがいなかったら私は今更ここにいないんだから」

 テレーゼが無理して笑顔を作ると、リクスはまたもや両手で頭を抱え、聞き取れない声でまたもやぶつぶつつぶやき始める。

 手を焼いたテレーゼは野原にリクスを連れ出し、座らせた。リクスの体を無理やり折り曲げて、怪我させることのないように注意を払いながら。

「ねえ、あの日のことを思い出してよ。私の方がよっぽど今のリクスみたいになってたのよ。もう、どこにも助けなんてないと思い込んで、ずっとそんな風にうずくまることしかできてなかった」

「分かる……わけないだろ。お前なんかに」

 リクスの口調は、前とは違って弱々しく、卑屈さに満ちている。

 だが不思議と、それはリクス本人の声に聞こえた。

 それに比べれば、今までのリクスの自慢するような声色は、むしろ演技めいたものに思えた。

「分かろうとは思わないよ。無理して聞き出そうとも思わない。私にだって聞かれたくないことはある」

 それから少しだけ間を置いて、

「でも……あれから、本当に何もなかったの? アンナが亡くなって、一体何があった?」

 リクスの目は、虚ろなどというものでなかった。

 もはや彼は、今この瞬間に生きてはいないのだ。

 そして絶望は、不幸にもこの瞬間、今を二人と共有していた。

「そこにいたのか。テレーゼ・マイニンゲン」

 青白い肌、黒い瞳の女が立っていた。

「アレクシオの要請で貴様を探していたぞ。まさかそんな所にいたとはな」

 リクスの瞳が小さく、張り詰めている。

「や……やつだ……」

 ハイドリエンは、リクスにもはや興味などなかった。

「リクス! 一体あいつは――」

 テレーゼは、リクスが戦えない状態なのを悟るとすかさず力を起動した。

 一瞬の後には、すでに鋼鉄のように力のこもった腕を振り下ろしている。

 だがテレーゼの拳を、ハイドリエンはいともたやすく受け止める。

「なっ!?」

「この程度か、貴様の力は!」

 片手を突き出して、テレーゼを突き飛ばした。

 テレーゼは、草むらの上をしばらく跳躍して、土の上に倒れた。

「もはや誰にも貴様らの声は届かん。二人で寂しく海の藻屑にしてやろう」 冷たく指を鳴らすハイドリエン。

 草や石、土の間が湿り、どんどん濡れていく。水分を含んだ位置が広がり、どんどん泡立って、濁流がにじみ出てくる。

「……水……!」

 リクスの呼吸がどんどん荒くなっていった。

 テレーゼは焦った。

「溺れる!?」

「貴様らともども葬り去ってやろう。どうせ我々にはかなわないのだからな」

 ハイドリエンは冷たく言い放った。

「ちょっとリクス! 立ち上がりなさいよ!」 焦るテレーゼ。

「もう終わりだ……もう……」

 リクスは何ら、抵抗しようとする素振りを見せようとしない。

 気づくと、テレーゼはもう海に膝まで漬かっていた。灰色の空がかかり、容赦なく雨が注いで二人の体を冷やしていく。

 それでもなおリクスは、ほとんど焦点の合わない目でくらくらすることしかできない。

(どうしてそんな奴なわけ?! こういう時くらい嘘ついたっていいじゃない――)

 テレーゼはもはや他に手立てがなかった。腑抜けたリクスを叩き起こすには、もはやこれしかない。

 テレーゼは、リクスの肩にかみついた。リクスの目が痛みに震え、大きく開く。しかし、またもや力を失い、閉じて行こうとする。

 そして、そのまま二人は海に溺れて行った。

 ハイドリエンは二人を完全に溺死させるつもりだった。それは誰にも邪魔されずに達成できるはずだった。

 だが、突然、背後から高熱と共に衝撃を加えられ、ハイドリエンは思わず姿勢を崩しそうになる。振り向くと、黒髪の男がこちらに尖端の白い煙、黒光りする鉄の柱を向け、空中を回転しながら地面に着地。

 怒りに任せ叫ぶハイドリエン。

「グレンドール……何をする!?」

「貴様だけにいい顔はさせないのでな!」

 叫ぶ人間。

「俺にとっては他の四天王も敵だ。お前も倒し、ガドール様に次ぐ存在になってやるんだよ」

 再びグレンドールが鉄の棒から高熱を発する前に、ハイドリエンは液体になり、地面に吸い込まれて消えた。


 テレーゼは、意識が朦朧とし始めた。

 かろうじてリクスの肩に牙を突き立て、腕を強くつかんでいるが、それもいつまで持つか分からない。

 テレーゼは、自分がどんどん昏睡していくのではないかと危ぶんだ。

 しかし、その薄れゆく意識にしがみつく間にも、テレーゼはそれが単なる眠りへの誘惑などではないことに気づいた。

 テレーゼは、自分の記憶が抜け落ちていくのを感じた。ハイドリエンとの戦いも、ケルテスまでの長い道のりも、父との別れも、次第に遠い記憶のように思い出せなくなりそうなことに気づいた。

 その瞬間、激しい怒りが湧いた。

(冗談じゃない! 私が私でなくなって死ぬなんて……!)

 リクスの肩をはたく。拳ではっきり叩けば骨が砕けてしまうだろう。その辺にも気を遣わなければならないほど、彼の体は強化されていた。

 リクスの血が、よどんだ水と共にテレーゼの口の中に入って来た。

 テレーゼは、人の血を吸ってしまったことに嫌悪感を覚えた。

(人を食うただの魔物じゃない。こんなの)

 半獣にだって人間の心がある、と信じたいが、一方でだから半獣なのだ、というあきらめもあった。結局、

 わずかに感じる不快な感情を起点として、テレーゼは、自分がなぜここにいるのか必死で思い出そうとした。

 ハイドリエンが、リクスの心の傷に深く関わっていることをテレーゼは悟った。そしてこの水が、その心の傷ごと、ハイドリエンの生み出した海が洗い流そうとしていることを。

(思い出して。そして、教えてよ。どうして、あなたがここまで来たかを)

 リクスの肩に、顔をうずめる。テレーゼは、リクスの血を飲み込んだ。ハイドリエンの水を、なるべく気泡と一緒に吐き出しながら。

 すると、テレーゼの体の深くから別の誰かが這い上がろうとする感覚が起きた。それは記憶の断片として、テレーゼの脳裏をかすめていき、そして幅を持った束として、テレーゼの意識に組み込まれていった。


 ◇


 少年は、常に悩んでいた。

 ずっと前からある商店に奉公に出され、来る日も来る日も同じ作業に従事される毎日を送っていた。

 少年の名前はルクレールと言った。少し赤がかった茶髪で、目は丸みを帯びていた。

 フレーベル王国のベルンハイネという町で少年は育った。それほど大きくはないが人情のある町だと少年は思えた。

 磨き物をしていた時に、ふと先輩にこう切り出した。

 戦ってみたいんです。武芸を習って。

 彼はたちまち笑われた。

 お前なんかにそれ以外の仕事なんてつとまるわけないだろう? ずっと鍬とか斧しか持ってこなかった奴が剣もった奴に勝てるってのか?

 で、ですよね。

 肩を落としながらも笑って見せるルクレール。

 ルクレール少年は昔からそういう一面があった。基本的に場にうまく溶け込めないので、笑って適当にとりつくろうことしかできないのだ。

 それは少年が元から内気なのもあるが、早い時期に両親を亡くしたからでもある。

 物静かな人間だと思われていたかもしれない、と少年は考える。だがそれは違うのだ、と思いたかった。もっと辛いことにでくわさなければ、もうちょっと明るい奴に育ったかもしれないと。

 ルクレールは、自分の今の姿に対して無念な思いを抱いた。同じような、変わり映えのない日々を過ごしているとずっと惨めなままで終わってしまう。


 少年には、ささやかな楽しみがあった。

 近くで催される競技を見物することだ。

 ルクレールには特に気になっている人物がいた。二振りの棒で戦う青年の戦士である。彼は小柄だが力は強かった。

 その動かし方は素早く複雑で、とにかく非常に巧みな戦い方をしているのは分かった。

 青年の方も、ルクレールのことを知っていた。何しろルクレールはいつも試合が終わるたびに彼の所に挨拶にいって、苦闘をねぎらっていたからである。

 ルクレールは彼にあこがれていた。彼の戦いぶりを見様見真似で習っていた。だがいよいよ情熱を抑えきれなくなり、ついにいつものように青年の元を訪れていた。

 お前はいつも俺の元に来るな、ルクレール?

 青年は溜息をついたが、さほど嫌そうでもなかった。

 だってあこがれてますから……。持って来たんですよ。このぶどうパン。

 ん、恩に着るよ。

 青年はそれを受け取って、おもむろに食べ始めた。こういうやりとりが許されるのも、ずっと会話を続け、互いに親近感を覚えつつあったからでもある。

 だが、青年とはそろそろ会えなくなる時が近づいていた。青年は、遠い国に戦争に行かなければならないという。

 元から、ここにい続ける義理もないのだ。青年がベルンハイネに留まったのはあくまでも生活のためでしかない。

 ならば、青年についていってでもこの街を去ってやるまでだ。

 今しかない。

 次の日、ルクレールは立て膝を突いて、練兵場に入ろうとする青年に低い声で切り出した。

 俺をあなたの弟子にしていただけませんか? 今の生活だと、正直何の刺激もありませんから。

 おい、それは本気で言っているのか?

 ルクレールは腕をさすりながら、得意げに言う。

 はい、本気なんです。俺、腕っぷしには自信ありますから。

 ……よしてくれよ。戦いは試合じゃないんだ。

 青年はルクレールの両肩に手を置いて、深刻そうに声をひそめる。

 お前には絶対俺のような運命を背負わせたくないんだ。お前にはここで平和に暮らしてもらわないといけない。

 まだルクレールには、青年の苦悩が理解しかねた。まだ、少年は何も知らなかったからだ。

 青年の顔には迷いがない。迷えば、命を失う危険な所でずっと戦っていたからだ。

 青年につっぱねられた日の夜、藁にくるまりながら、ルクレールは思案にくれた。

 ずっとここで暮らしているわけにいくかよ。ここにいても、俺は何も得られない。

 そもそも俺は流れるように生きて来たんだ。ずっと大人たちの言う通りに生きるしかなかった。

 でもあの人は、誰の意志にも屈さずに、自分の意志で生きているじゃないか。俺は、あの人みたいに生きたい。

 少年は、諦めきれなかった。

 気づくと、鶏の鳴き声が土の壁、光の差し込む溝の向こうから聞こえて来た。その時にはもう、少年の決意は固まっていた。

 もう一度、リクスさんに会って話をしよう。俺の願いが生半可なものじゃないってことを教えてあげなきゃいけない。

 青年の名前はリクス・カレイドと言った。

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