第二十七話「忘れえぬあの日」
目覚めた時、テレーゼの目に入って来たのは鍾乳洞を思わせる、灰色の天井だった。
テレーゼは、腕がざらざらした縄でくくりつけられているのを感じた。
「ここは……どこ」
今すぐ、戻らなければならない。
テレーゼは思い切り腕を振ったが、思った以上に縄は固かった。
必死で、ここに至るまでに何があったか思い出す。
(あの時、アレクシオにアンナを殺されて私は平静を失った。そしてアレクシオに電撃を流されて、リクスたちを敵だと思い込んだ。私は、みんなを裏切ってしまった)
「はっはっはっ! お目覚めのようだねぇ、半獣くん!!」
手を叩きながら、野卑な声を揚げて入って来るものがいる。
再びに怒りに駆られ、テレーゼの体に思い切り力が入る。しかし、やはり縄を破ることはできない。
顔を奴に向け、思い切りにらみつけるのがやっとだった。
「アレクシオ……!」
金の鎧は肩をすくめて、
「おいおい、俺はあんたをあの戦場から救ってやったんだぜ? 神聖帝国もルステラもやぶれかぶれに戦ってたからな、お前もうっかり死ぬんじゃないかとこちとら冷や冷やしてたんだ」
テレーゼには、そんなことは
「なぜ、アンナを殺した!」
「あの天空人はもう人間じゃなくなっていた。お前と同じだ。生き物ですらない奴が壊れたに過ぎない。だから、悲しむことじゃねえんだ」
アレクシオの顔から嘲笑や侮蔑の表情が次第に消えていった。
この男は、完全にテレーゼを人間だとは見なしていない。テレーゼのあるべき姿を、感情を持った人間だとは思っていない。
「俺はあんたを出来損ないの人間もどきから完全な兵器にしたてあげてやるんだよ。それがあんたの存在理由であるはずだ」
「どうしてそんなことが言える」 テレーゼは怒り心頭だった。こんな卑劣漢の言葉など耳を傾ける必要もないと思っていた。
だが、アレクシオの声はすでにテレーゼに対する同情のようなものすら帯びていた。テレーゼを、このままではいけないと案じるかのように彼は言葉を続けた。
「獣人は知性がない。感情を知らないんだ。だから戦う上で誰かを信じたり、誰かに忠誠を違うこともない。その欠点を補うために製造されたのが半獣だ。しかしお前は正規の方法で製造されていない。きちんとした改造手術を受けられず、生半可に人間の心を持つようになってしまった。それは、お前にとって不幸なことなんじゃないのか?」
「違う、私は!」
テレーゼに、あの獣人の姿が思い浮かぶ。
「あいつらは私を人間として受け入れてくれたんだ。あんたみたいに、道具として扱う奴とは違う!」
「そんなものは噓っぱちだ!!」
アレクシオは何が何でもテレーゼの心をへし折りたかった。
「今は人間の時代だ。人間の論理が絶対とされ、俺のような魔物には尊厳すら与えられない。そういう糞みたいな時代の中でずっと俺たちは這いずり回ってたんだよ。だがそこにあのお方が救いを与えてくれた。俺たちみたいな爪弾き者に、生きていく道を備えてくれ。だからお前にも、立派な魔物として生きる道を準備してやるんだ。ここでな」
アレクシオはにやっと笑って、
「今から脳細胞に手を加える。お前の心を完全に消してやるよ。入れ」
部屋に白い装束を着たゴブリンの医者が続々と入って来た。皆、口元を隠し、細い目だけが被り物からわずかにのぞいている。
その冷たい眼差しに、テレーゼは思わず気おされた
アレクシオは得意げになり、唇の端をゆがめた。
「アンナとかいったな? 実はそいつの同胞をこっちも手に入れて来たんだ。」
「ビルガメシュ!」
アンナとやや顔立ちが似ているように感じた。
「こいつの頭を改造してくれるな?」
「はい」 ビルガメシュと呼ばれた男は、低い声で応じる。
それから再びアレクシオはテレーゼを見下ろし、
「ああ、そうそう、言い忘れていたが、実はもうお前の体にはこいつの手術の成果が現れているんだ。それ以前とは比較にならないくらいの腕力と耐久力が身についてんのよ。確かめてみるかい?」
「もういい。お前らの顔なんて――」
突然彼を縛る縄から電撃が走り、アンナは大声を上げた。
あまりに痛く、熱く、自我が吹き飛ぶほどの苦痛が十秒ほど続いた。テレーゼは呼吸を荒くした。
アレクシオは告げた。徐々に早口になりながら、
「ただの人間なら一瞬で死ぬほどの電撃を流した。以前のお前なら死んでいただろうが……見ての通り、お前は無事だ。そして、自我を保持する力も強化したんだ。お前は十秒間だけ獣人としての本能を発揮できるが、その間はほとんど理性が飛んでろくに思考することができない。俺はその仕様を改善して、ハイドリエンの水を浴びても自我を失わないくらいにな」
アレクシオは自慢げに告げる。
「ハイドリエンが……え?」
再び電流が走り、テレーゼは汗を流す。
「おっと、虜囚の分際で聞き返そうなんて思うなよ。もうすぐ口をきけないようにしてやる」
とにかく、ここから脱出しなければならない。リクスたちに奴らに何をしようとしているか、教えなければ。
そして、ビルガメシュ。
もしかしたら、彼がアンナのことについて知っているかもしれない。
テレーゼは叫んだ。
「エンヘドゥアンナを知らないの?」
「ち、うるさい女だ!」 いよいよアレクシオが憤りを隠さなくなってくる。
「……待て」
ビルガメシュが小さな声で告げる。
「奴は戦うことを望んでいない。人格を改造したとしても、それ以前の影響は持続するぞ」
「何を言う。こいつは鹵獲品だ。俺たちが好きに扱っていい道具なんだよ。俺が――」
だがアレクシオは言葉を最期まで続けることができなかった。
獣人が乱入してくる。
横に広く突き出た腕でゴブリンを蹴散らしながら、
「サムエル!!」
獣人は腕を払って縄を切り裂いた。そしてテレーゼをむりやり抱きかかえ、檻を破ると通路に向かって走り出していった。
アレクシオは叫んだ。
「あの半獣は生かせ! 獣人は殺せ!」
(あれを逃しちまえば、俺はガドール様に見放されちまう!)
ビルガメシュが目を細めながらその姿を眺めていた。
獣人は半獣を連れ、通路から窓を破って外に出た。
テレーゼは最初、何が起きているのかさっぱり分からなかった。
だが、アレクシオが叫んだ名前に関してははっきりと覚えていた。
この太い毛に満ちた、茶色い腕。そして屈強な肉体。忘れるはずもない。
これは嘘だと思いたかった。だが、否定するわけにはいかなかった。テレーゼは、口を開くのを何度もためらった。
「どうして、あんたが生きているの?」
あたりの冷たい空気と容赦なく吹きすさぶ風で息が苦しかった。胸をふたぐ激情によっても。
「私とママを見捨てたくせに……!」
「許さなくていい。最初から許されるつもりなどなかったのだから」
サムエルはその恐ろしい体格とは間反対の穏やかな声で言った。
「仲間と違って、私は戦うことが嫌いだった。だが奴らは残酷だった。私は、お前と妻を解放するためにこの呪いを受け入れねばならなかった。たとえ永遠に憎まれようともな」
テレーゼの母は人間の女だった。
なぜ母がこのような怖ろしい怪物と暮らしていたのか、テレーゼには皆目わからなかった。
テレーゼの頭についた異形の耳は、彼が本来この世に存在してはならない生物であることを示していた。
すでに貴族たちの合意で、獣人がそれ以外の生物と生殖することを禁じる法律が出ていたが、テレーゼはそれがすでに施行された後に生まれた。ゆえに一家は人里から隠れて住んでいたのだ。魔物にも人間にも見つかってはならなかった。
サムエルは狩りで動物や虫を捕まえてはテレーゼに食べさせていた。
だが、サムエルはある日二人に別れを告げた。
「しばらく会えなくなるよ」
「そんな……」 母はかなり引き留めようとしている
ずっと労働でもしているのだろうとばかり、娘は思っていた。
ずっと母の世話をしながら
母は、父のことについて多くを語らなかった。
だんだんテレーゼは、父を憎むようになった。
そんな時に、半獣を探し求める強盗がやって来た。半獣が教会や貴族により抹殺の対象になり、どんどん数を減らしている時に、奴らはその稀少性に目を付けたのだ。
母は椅子を暴漢に投げつけて、その額にナイフを差し込んだ。
「やめなさい! この子の命はこの子のものよ!!」
だが、敵は後ろに何人もいた。
テレーゼが後頭部を殴りつけられ、意識を失う前に目にした最後の光景が母が刺される瞬間だった。
その後に経験したあれこれを、テレーゼは思い返したくもない。彼の体に宿るあの本能がついに覚醒したのだ。
気づくとテレーゼは、血まみれになっていた。人間の指や内臓の欠片が顔や首筋にこびりついていた。
なまぐさい臭いで、吐き気がした。それで吐こうとすると、地面にも傷を負った屍が横たわっていて、我慢する。
「素晴らしい。この子がこれをやったのか……? 一人で」
「どうやらその通りだそうですね」
「半獣は初めて見るが、まさかこれほどの力があるとはなぁ」
テレーゼには、なぜこんなに自分が辛い気分になっているのに、人が死んでいるのに、彼らが笑っていられるのか分からなかった。
「、あの力が使えるらしいな」
「これはいい! 戦争で使えるぞ!」 大人たちが楽しげに話しているのを、黙って聞くことしかできなかった。
(なんで? なんでみんな、そんなことが言えるの?)
テレーゼは、その言葉が最初理解できなかった。まずそれは、虫の鳴き声だった。ノイズでしかなかったものが、だんだん人間の声の形をとってきた。
(違う。こいつらは人間の声をしてる。人間の顔をしてる。これが人間なんだ)
リクスに会う時まで、テレーゼにとって人間とはそういう生き物だった。
オークの軍団が左右に展開して、二人を待ち構えていた。杖を片手に構え、ベルトに何枚もの護符を下げながら。
「サムエル!」
アレクシオは相当切れていた。
「娘を解放しろ。そうすりゃ、命ばかりは助けてやる」
「だめだ。俺がどうなっても娘に何があってもいけない」
「お前はあと六回、魔物との戦いに勝利すりゃ出られるってのに、それを全部台無しにしたんだぞ。分かっているのか?」
(獣人がなぜここまで子供の命に執着する!?)
「俺は、ずっとテレーゼのために何もしてやれなかった。いや、テレーゼが幸せに生きていれば俺の命などどうでもよかった。だが貴様らがそれを脅かすなら、俺は」
その言葉を聞いている内に、テレーゼは父に対して違う思いを抱くようになっていた。
(どうして私は、これまでずっと戦えていたんだろう)
あの瞬間を一度だって忘れたことはないのに。あの血の匂いと、談笑を、はっきり覚えているのに。
それなのに、あの力をずっと使っていた。リクスとライラのためにと、あの日の傷をごまかしてずっと。
ずっと、誰かを守るため、と言い聞かせて。でもそんなの間違ってる。たとえ目的が何であろうが、力は所詮力じゃない。
テレーゼは怖くなった。自分の存在が再び疎ましくなった。
この力を持っている限り、私は絶対に誰とも分かり合えないし、共存なんてできない。
それにあいつらは、私をもっと人でなしにしてしまった。
あいつらなら、いつく場所があるだろう。でもそこに、私なんかいなくていい。
サムエルは駆けだした。
「撃て!!」 アレクシオの命令。
オークが護符を杖に垂らし、呪文を言い聞かせる。
サムエルの体が揺れた。
「逃げろ! テレーゼ!!」 振り向かずに叫ぶサムエル。
「父さん!」
テレーゼは絶叫した。
サムエルの脇腹に穴があいた。
テレーゼはそこから逃げた。
誰もが、生きていてほしいと思っていたのだ。
なら、ここで私のすることは戦うことなんかじゃない。大切にしてくれる人のために、逃げることだ。明日を生きるために。それ以外のことは、今考えることじゃない。
涙が止まらなかった。
サムエルのうめきも、アレクシオの怒号も聞こえなかった。
テレーゼは後で気づいたことだが、あの時もやはり力を使ってしまっていたのだ。だが、戦うためだけに逃げるために。
いつの間にか気づくと、テレーゼの心が軽くなった感じがした。もう涙を出し切ってしまった。
自分が今どこにいるのか、テレーゼには見当もつかなかった。
本来ならまだ危機的状況なのだが、あれほどの激しい感情の揺れを経験した今では、道に迷ってしまったのは仕方がないと自然に受け入れていた。テレーゼは、とりあえず知ったばかりの情報を整理する。
ビルガメシュという男が、テレーゼは気にかかった。
アンナの名前を聞いた途端、やや動揺した雰囲気があったが。
父はあの場所でずっと戦い続けていたらしい。そして、もうすぐあそこから生きて出られる様子だった。なのに、娘を逃して、自分の命を引き換えにした。
私のことなんて、とうの昔に忘れてると思ってたのに。
それから、テレーゼは、自分がいる場所を確かめる。
空が白い。そしてあたりを覆う樹木はケルテスとは違いごつごつしていて、まっすぐ突きたち、槍のようにとげとげしい
北の方なのだろうか。
用心深く四方を見回すテレーゼ。
(少なくとも、私は道を曲がったりはしてない。だからあそこから離れてきたってのは分かる。それに私が進む方角は――)
木立の向こうから、子供の声を聞こえる。
「なあ、ヘクトル、ルステラへの道ってこれで合ってるのか?」
「知るかよ。とにかく、僕たちが南に向かってるってのはこの磁石の針からして確かなんだけどなあ」
二人いるようだ。
「ヴィクトルこそ、もしもの時のために護符から手を離すなよ」
テレーゼは、フードを外した状態なのにようやく気付いた。
獣耳が露出した状態だ。だが、そんなことを気にする暇すらなかった。
「ええと、こんにちは」
「わっ!」 彼らは驚きの声を出す。
それでようやく、テレーゼは子供たちの姿を知った。
二人は、互いにうり二つの容貌をしており、服の色の違いがなければほとんど見分けがつかない。
だが、片方は、すこし垂れ目で優しげな感じがして、もう片方はきりっとして気の短い雰囲気。
だが――悪い子たちではないようだ。
そして、二人の方も、テレーゼに不審な目を見せたのは一瞬だった。
誰か分からないが、ひどく疲れた感じの表情なのが分かった。そして、悪い人ではない。
テレーゼは、何を言うべきか迷い、しばらく黙ってしまった。リクスたち以外の人間にあまり接したことがないし、気を許してもいなかったから。
「ど、どなたですか?」
(しまった。普通の人間が半獣に心を開くわけ――)
テレーゼが過ちを悔いたのもつかのま、
「ああ、こういう時はこっちから自己紹介するべきだろ! 俺はヘクトルと言います。それで、こちらはヴィクトル! 姐さんの名前は?」
「テレーゼ・マイニンゲン」
「え……本当に? あの、テレーゼ? 『カスティナの英雄』の?」
「うん。訳あって、こんなところにいるんだけど」
ヘクトルとヴィクトルは顔を見合わせた。
ヴィクトルが、口を開いた。
「あの……僕たちを助けてくれませんか? 実は僕たちも、追われている所でして……」
二人の懇願する瞳に、テレーゼは、
テレーゼは、この感情をどう表現すればいいか分からなかった。
疲れが取れるようでもあるし、未知のものにまごつくようでもある。リクスたち以外の人間に頼りにされたのは初めてだから。しかしテレーゼは、不思議と嫌な感じはしなかった。
「ええ、もちろん」
リクスならそう言うと信じた言葉を、テレーゼ。




