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第二十六話「父よ娘よ」

 もうすぐだ。

 もうすぐここから出られる日が来る。だから、この戦いに勝ち続けねばならない。

 グレンドールがこの施設を出て、もうどれくらい経つか分からない。ここでは、一日が一年のように感じられる。あるいは一年が一日のように過ぎていくこともある。あまりに変わり映えのしない光景が続くので、時間の感覚など忘れてしまうのだ。

 だが、サムエルは

 あの半獣の少女に会いに行くのだ。遠くルステラへと。

「人間の分際で!!」

 怒号が聞こえる。ここでは、弱者がさらなる弱者を虐げるなど当然のことだ。

 熱湯で汚れた体を洗っていると、横に人間の戦士がいた。

 エドウィンという名前だ。

 ずっと、文字通り泥水をすすって生き残って来た強者。

「獣人。てめえ、もうすぐお役御免とのことらしいな」

「そろそろ獣人の戦士としては退役する年齢だからな」

 よく見ると、エドウィンの腕が銀色の膜に覆われている。

「ビルガメシュに改造してもらったんだよ。見るか、この威力を?」

 サムエルは何も言わなかった。

 どうやらそれを、エドウィンは侮辱と受け取った。

「これでも食らいやがれ!」

 エドウィンは殴りかかった。

 手のひらで、それを受け止めるサムエル。

「お前は腕が鈍ったようだな」

 エドウィンの拳がめりこみ、サムエルはつんのめった。

「さすが獣人といえど何十年も戦ってたらさすがにがたが来るようだな」

 エドウィンはサムエルの足裏を蹴ると、そこからすごすごと去って行った。

 戦うことは、そもそもサムエルにとっては望んでいることではなかった。戦わなくて済むなら、それで一番なのだ。

 だが不幸にもサムエルの最も得意なものは、戦いなのだ。

 サムエルにとっては、もう戦わなくていいというのは大きな朗報だった。この外の世界に出たいというただそれだけの理由で、これまで嫌で

嫌で仕方ない暴力の世界と無理やり向き合ってきたのだ。

 金の鎧と仮面に身を包んだ男が立っていた。

 アレクシオがいた。

「サムエルだな」

「幽霊族が俺に何の用だ?」

 サムエルには、アレクシオが実態のない存在であることがよく分かっていた。

 この姿にはいかなる真実もない。ひたすら

「ちょっと要件があってだな。他の誰にも話せないことだ」

「要件だと?」 ますます、サムエルには相手の話の目的が何か突き止めかねた。

「お前さんの娘が見つかったそうだ」

「それは本当なのか!?」

「本当だ」

 アレクシオは嘘をつかなかった。

「実はここに運び込まれてだな……」

 小声でささやく。だがそれは、サムエルにとっては何よりもけたたましく響いた。

「な、何をするつもりだ! 言え!!」

「改造手術だよ。獣人の遺伝子を取り込んで、あいつの体の欠陥を補うための手術を行うんだ」

 サムエルは、落ち着いて話すのがやっとだった。

「娘から……人間としての感情を奪うつもりか?」

「まさか、そんなひどいことはしねえよ。冷酷なだけじゃ四天王にはなれねえからな」

 アレクシオは不敵な笑みを浮かべながら、

「あいつの改造には、近しい者の遺伝子が必要なんだ。そして、あいつと近い遺伝子を持つ奴はお前だ。だから、あいつに遺伝子を取り込むための触媒として、あんたの協力がいる」

「テレーゼにそんなことをして、どうするつもりだ?」

「あいつは半獣だろう? 昔は獣人の力と人間の知能を兼ね備えた半獣こそが優れた戦士としての資質を持つとされていたが、実際に生まれたのは戦うことも考えることも中途半端な役立たずどもだ。だからあいつを完全な存在にしてやるんだ」

 サムエルは逡巡した。この幽霊の言うことが真実だとは思えなかったが、かといって娘を見殺しにするわけにもいかない。

「条件がある」

 その言葉を聞いた時、アレクシオの仮面がわずかに揺れた。人間でいえば、顔がひきつったのだ。人間にそうさせる感情が、アレクシオをこうせいする霊体にも似た変化をもたらしたのだ。

(この野郎、四天王様に条件を突きつけるとはいい度胸だ)

 アレクシオはわずかに憤った。だが、その憤りはもはや喜びに変わっていた。

 この男を陥れることができる喜びへと。

(構わないさ。あとで永遠に残る心の傷を)「……聴こう」

「なら、あいつを自由にしてやってくれ。何にも利用とするな」

「分かった。約束するよ」

 指を鳴らすアレクシオ。

「じゃあ、今から数時間後に呼ぶからな」

 アレクシオは静かに甲冑を揺らしながらそこから立ち去った。

 サムエルは、時間の流れがどんどん早くなっていくのを感じた。今すぐにでも娘の姿を見たくて仕方がなかった。

 この外に出たらもうそのまま何もせず朽ち果てられるとすら思っていたのに、まさかテレーゼが生きていたとは。

 本当は声を揚げて喜びたかったのだ。だが無論こんな場所で感情をさらけ出すわけにはいかなかった。


 サムエルは、なぜ自分がここに来て戦うことになったのかを思い出し始めた。

 サムエルは、ある集落の出身だった。

 獣人はずっと前から数を減らしていたが、彼の住む村は人里離れた場所にあるおかげで迫害を免れていた。

 獣人は

 ある日突然、ルステラ王国の軍隊がやってきた。

「今日からここは人間の土地だ!」

 こちらのことなど、お構いなしに人間は叫んだ。

「ここから去るか、あるいは戦うか、選べ!!」

 獣人たちの間では無論、侃々諤々の議論が繰り広げられた。

「人間ごときが味な真似を……! 返り討ちにしてやる!」 虎頭が言い、

「そうだ! 奴らを根絶やしにすべきだ!」 牛の頭が同調する。

 彼らは皆、獣人の力に驕っていた。

「そう思わないのか、サムエル?」

 サムエルは、決して人間たちに対して詳しいわけではなかったが、それでも事態の異様さについては薄々感づいていた。

 そもそも人間は獣人を恐れているのではなかったか。人間の方から獣人に立ち向かうようになったということは、彼らにそれなりの対抗手段があるということだ。

「人間たちは手ごわいぞ。いつも仲間同士で殺し合っているから、殺しの技術も昔より発展させているに違いない」

「まさか。俺たちの腕力をもってすれば大した敵じゃない」


 獣人の腕力をもってすれば、人間をひねりつぶすなど造作もなかった。だが彼らも無策ではなかった。

 護符の威力はすさまじく、あたり一面が火に包まれた。田畑や小屋が次々と灰になり、消滅していった。

 獣人は魔法には疎く、遠くから攻撃してくる人間たちになすすべもなかった。

 サムエルはただ逃げることしかできなかった。背後にいくつもの傷を負いながら。


 気づくと、サムエルは知らない家の中にいた。家具も机も、何もかもが小さく作られている部屋で。

 人間の女に救ってもらったのだ。

 肌の白い、か弱い女だったが、薬を塗ったり、粥を飲ませたりして必死に世話をしてくれた。

 サムエルは、自分を恐れない彼を不思議に思った。

「なぜ俺を助けてくれたんだ?」

 カーバンクルなどの魔物がなついた。本来なら、人間に対して敵意を持ち、決して寄り付かないはずなのだが。

「だって、困っていたら助けるのが当たり前じゃない」

「君はテイマーか?」

「その家系には当たるわね。もっとも、今では没落してしまったんだけど」

 女はソフィア・マイニンゲンと名乗った。先祖代々山奥に住んで、もう何年になるか分からないという。

「じゃあ君が彼らを手名付けているのも、人間が鍛え上げた技術というわけか」

 そこに広がる光景がのどかであるからこそ、むしろサムエルはまずぞっとしてしまった。

 人間の暴力を振るうことでも、友情を築くことでも卓越している。それをサムエルは疎ましく思った。

「人間は恐ろしいな」

 サムエルは、消極的な言い方しかできなかった。本当のことを言えば、人間を憎む心が芽生えてくるのを否定できなかった。

 しかしソフィアの優しい顔を見るとそんな気持ちを暴露できるわけがなかった。

「確かに、恐ろしいかもしれない。けど、恐ろしいことだけが人間じゃないの。どうか、信じてほしい」

 ソフィアの治療を受けると、サムエルの怪我は速やかに治っていった。サムエルは恩義を感じたソフィアのために何でもした。きつい野良仕事を行って、人間の女のために野菜を

 二人の間にやがて女の子が生まれた。容貌は人間の方に似ていたが、それでもサムエルのような耳と、牙を持っていた。

 サムエルは、彼に古い伝説に登場する女性の名前を与えることにした。

「君の名前は、テレーゼだ。半獣の聖女の名前だ」

 テレーゼは狭い部屋の中を走り回り、笑い声も泣き声も実に大きく、ソフィアもサムエルも接するのに実に苦労したが、それでもどこかで楽しい感じがした。


 そういう日々がいつまでも続けばいいと思った。だが、幸福とはそう長く続かないものである。

 物を交換しに付き合っている他の獣人から、ガドールという魔物の噂を聞いた。ある時から北国で頭角を現した彼の元に、人間の迫害を逃れて魔物が続々と集まっているという。

 どの領主からもさして注目されていなかったサムエルの暮らす場所も、じきに神聖帝国の支配下に入った。そしてサムエルの存在も神聖帝国の手先の知る所となった。

「君は人間を憎んでいる。どうか、私たちの力にならないか?」

 サムエルの元にやって来たのは、四肢の生えた樹木の魔物だ。この頃ガドールのもとで手柄を立て、出世を重ねているとこの樹木――ベルディオと名乗っていた――は自慢げに語る。

「獣人は一際人間に虐げられたと聴く。ならば、私たち神聖帝国の出番だ」

 ベルディオはにこやかに笑った。しかし目は笑っていなかった。

 この樹木の魔物は、まるで相手の気持ちに寄り添うように見えて、実際には言葉巧みに誘導している。

 だが、サムエルは断りきることはできなかった。奴らは明らかに娘も狙っているからだ。

 サムエルは、家族を危険に晒すことはできなかった。

 後ろで寝ているテレーゼの寝顔を見ると、自分がテレーゼの代わりに行かなければいけないと思った。

 最後にベルディオは落ち着いた声で言った。

「返答を楽しみにしているよ」

 それが単なる脅しでしかないことは明白だった。彼らにとっては同胞である魔物も、ガドールの野望を達成するための道具でしかない。

(いつでも、奴らは俺を連れ去れるわけだ)

 サムエルは、苦悩した。

 そして、ついに妻にこのことを打ち明けた。

「そんな……あなたは本当に行くつもりなの!?」

 ソフィアは懇願するように言った。

 しかし、サムエルの決意は固かった。

「テレーゼの命には変えられん。それに、ここに安住の地などないからな。俺はもう、あいつらに従うしか道がないんだ」

 恨まれても構わなかった。最後に見たソフィアの顔は、悲しみの中に失望が混じっていたような気がする。

 あの冬の闘技場の中、殺伐した日々が始まって間もない頃、ソフィアが亡くなったのを知った。

 その時からサムエルはただ目前に立つ敵を倒すだけの機械だった。生きる目的が何もかも消えたのだから。ずっと、命の灯が消えるのを待つだけだと覚悟していた。

 カスティナで、ベルディオが倒された話を聞いた時、最初は溜飲が下がる思いだった。

 だが、テレーゼ・マイニンゲンの名前が出てきた時には自分の耳を疑った。もう二度と知ることはできないと思っていた娘の消息を知ることができたのだから。人間のグレンドールが魔物を倒し、四天王になったことなど、それに比べれば些末な出来事に過ぎない。

 サムエルは、テレーゼに一目でも会いたいと願った。


 サムエルは、横たわるテレーゼを見て少し震えた。

 彼らの約束を信用しきれないのは確かにあった。だがそれ以上に、娘の体がいじくられるのは耐えがたい苦しみだった。何にも支配されない生き方をして欲しかったのだ。

 だが人間たちに半獣がどう扱われてきたか知っているサムエルにとっては、テレーゼに対するこの扱いはまだ温情がある方だと言えた。


「では今から、手術を開始する!」

 サムエルは何枚もの腕輪をはめられ、そこから電撃が流された。

 サムエルは体から力が抜けていく感触に必死で耐えた。二分くらいだろうか。

 顔じゅうから汗をかきながら、獣人はかろうじて立ち上がり、紐でつながっているテレーゼの顔を見やった。まだ、先ほどと何が変わったのかよく分からなかった。

 だがテレーゼが無事であることすら分かれば、それで十分だった。それ以外のことを気にする心の余裕も体力もすでにサムエルには残っていなかった。

「これで、娘を解放してくれるな?」

「はぁ?」

 アレクシオは顔をゆがめて、全力で不快感を表現した。

「俺がいつそんなことを履行するっつった? 獣人風情に守る約束なんてねえよ」

 電撃が衝突し、サムエルは部屋の片隅に吹き飛ばされた。

「今からこいつの脳改造だ。それが完了したらこいつはもうてめえのことなんてこれっぽちも忘れちまうさ。その時になったらお前に会わせてやるよ」

 サムエルは魔族の兵士に無理やり部屋から連れ出された。

 アレクシオは甲高い笑い声をあげながらサムエルにつばを吐いた。。

 サムエルは何とか、上半身を揚げて、冷たく閉ざされた扉をにらんだ。そして、思い切りまなじりを引き裂いた。

(テレーゼの顔が見れたんだ。もうこれ以上、何も思い残すことなどない)

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