第二十五話「消えない傷」
マルセルは悩んだ。
カスティナの英雄たちを庇護する大義名分がなくなったのだから。
大金をはたいて彼らを養っていたのもそれなりに利益があると見込んでいたからだ。だがその見込みも今はあてにならない。
リクスはそれからほとんどふさぎ込んでいた。
自分の部屋にこもりきりになったまま、もう誰とも話そうとしなかった。
レカフレドは何とか、リクスを勇気づけようとした。
「あの、どうです……?」
「すみません。もう今は、何もしたくないんです」
リクスは冷えて固まった表情を少しも変えようとしない。
テレーゼたちが、どれだけリクスの心の支えになっていたか、レカフレドたちは痛感した。
「あいつらがいないだけでここまで青菜に塩とはな。女におだてられ過ぎたんじゃないのか?」
ハーゲンは厳しい。
「そんなことはありませんよ。彼らはみんなリクスさんに勇気づけられて来たんですよ。ライラさんはどうか知りませんけど……」
「あれ以降、上からの音沙汰は何もないしな」
レカフレドは、深刻そうなハーゲンの言葉に対してただただうなだれるばかりだった。
「俺たちは単なる一兵卒としてこき使われることになるだろう……」
ベネディクトは無理にリクスを慰めようとはしなかった。そうすればするほど、リクスはかえって自分の殻の中に閉じこもうとするばかりだ。
あの三人はこれまでの戦いで何回も活躍してくれた。カスタ城塞の時も、ビストロの軍団が襲って来た時でも。
彼らがいたからこそ『カスティナの英雄たち』はその名前を立てることができたのだ。だが今や、もはやその面々は遠くに行ってしまった。
アンナは殺され、ライラは自分から離脱した。そしてあの半獣も連れ去られた。
あの憎いアレクシオのせいだ。
(テレーゼをよくも乗っ取りやがったな……)
ハーゲンは、いつの間にかテレーゼに対する偏見が消えていたことに気づいた。激動の日々があまりにも続いたせいで、彼の元々の出自に関して考えることもなくなっていたのだ。
アレクシオを倒さなければならない。だがテレーゼたちがいない今、どうやって四天王に戦いを挑んで勝てばいいのだ。
ハーゲンがさらに逡巡を深めていたさなかに、レカフレドが入っていた。
「おいどうした、レカフレド?」
見るからに、慌てた顔をしている。
「リクスさんがいません」
レカフレドが言った。
リクスは、川辺に立っていた。雨が冷たく感じられたにも関わらず、リクスはそこから少しも離れずにじっと水面を眺めていた。
(僕は、あの時何をしようとしていたんだ……)
思い出せなかった。
(そもそも、なぜ僕は戦ってきたんだ? どうして、こんなことを無視して、今までのうのうと生き永らえて来た……?)
リクスの過去に横たわるのは巨大な空白だった。
その空白があること自体を激しく忌み嫌って、無意識的に避けてきたのだ。だがリクスはそろそろその過ちを直視しなければならない時に来ていた。
過去に広がる虚無に目を向けた時、リクスの全身に震えが走った。
(ここは、僕にいる場所じゃない!)
そうだ。あの時が始まりだったのだ。あの時から、リクスという人間の虚構が始まったのだ。
リクスは、ここから逃げ出そうとした。だが、その声が聞こえた時、全てを思い出した。
「あの時、私が言ったことを忘れたのか?」
リクスは、彼のことを忘れていた。
完全に忘れたはずだった。にも拘わらず、目の前にすると忘れていることなどできるはずがない。
リクスの奥底から、封じ込めたはずのあの傷が湧き上がり、そびえ立った。悲鳴も、憎しみも、全てが鮮やかに思い出せた。
もうあの時以前に戻れない。しかし、そこから立って進むこともできない、無力な少年の記憶がリクスを握りつぶした。
「こ……来ないでください!!」
リクスは、つたない足取りで逃げた。
しかし、振り向いてしまった。
彼の顔は、あの日と少しも変わっていない。
「君の言うことを誰も信じないと言ったはずだ。今もお前の言うことなど誰も信じちゃいないさ」
リクスの呼吸が荒くなる。
「や……やめ」
「私の名前を忘れたのは、嘘だろう?」
「はい、嘘です。それは本当なんです……」
リクスは彼を正視できなかった。
淡い、半透明の姿をした細い女性。尖った口元で、目元にはしわが水の流れのようにゆらいでいる。
忘れていたつもりだった。ずっと無意識に追いやって、思い出せないつもりでいた。
だがこの瞬間を、忘れられるはずがない。これは、もうすでに経験したことのある光景なのだから。
リクスの精神はもうこの時点で、あの日、あの瞬間に巻き戻っていた。
水の四天王ハイドリエン。
神聖帝国が発足した当時から幹部を務め、フレーベルを滅ぼした張本人。
リクスはあの時、ハイドリエンを見たことがある。
その時、リクス以外には誰もいなかった。リクスを守ってくれた人なんていなかった。
あるのは、水だった。そこに広がっている
ハイドリエンは、リクスに近づいた。リクスは後ずさった。
ハイドリエンは、いかなる感情も、印象も、リクスには抱いていないように見えた。
「どっちなんだ。本当なのか、嘘なのか、言え」
ただひたすらに、無関心。リクスをこうやって追いつめるのも、さして楽しみでやっているわけではない。ハイドリエンがあの時から何も変わっていない彼への軽蔑だけだった。
リクスは頭を抱えて、絶叫した。
そこにいるのはもはやリクスではなかった。
恐怖と絶望で、彼の思考や存在理由を構成していた主な様子は消し飛んだのだ。
ハイドリエンは頭を挙げ、何かを考えている様子でいたが、一瞬身を震わすと水のように溶け、草叢の中へと消えていった。
ベネディクトは、座り込んでいるリクスを見つけた。
「おい、リクス、どうした?」
しかし、リクスは石像のように一切身じろぎしなかった。
傭兵はリクスの頭を無理やり上げて、顔をのぞきこんだ。
「リクス、お前……」
「俺は嘘つきです……。もう、リクスじゃないんです……」
リクスはこちらを向いていない。誰かに対して言っているようだが、明らかに近くにいる誰かに対してではない。
すると、恐怖に満ちた瞳でベネディクトをにらみつけた。
「や、やめろ! 近づくな!」
リクスはベネディクトを拒絶しているのではなかった。彼は完全に、この世界その物に対して立つ気力を失ったのだ。
もはや彼は戦えないどころではなかった。
もはやリクスはリクスではなく、ただの無力な少年に過ぎなかった。
ベネディクトは、もはや何もできずに立ち尽くしていた。
リクスは叫んだ。ただ何かに怯えているかのようだが、それが何なのかは分からない。
単に疲労しているだけではない。この瞳や眉の動き方からして、明らかに異常をきたしていた。
ベネディクトはマルセルに事情を説明した。
レカフレドは何とかしてリクスを正気に戻そうとしたが、
「ベネディクト殿。以前、リクスという名前の戦士がいたことについて話してくれましたね」
「ああ。フレーベル王国は水に沈んだ。そしてあの男がいたのもフレーベル王国だ」
「フレーベル王国のことについて話そうとした時、彼がはぐらかした」
別に、同じ名前の人間がいること自体は別におかしくもなんともないのだ。
リクスの行動はずっと不審だった。
ケルテスに向かう途中でも、フレーベル王国に関しての話を聞いた時、明らかにリクスははぐらかしていた。
水など怖くないと言い張っていた。
あの時は、ただの戯れだと思っていた。だが今は、冗談で流している場合ではない。
自己紹介をした時も、最後のあたりで言い淀んでいた。誰かに武術を習っていたと言っていたが。
無論、ベネディクトは自分の推論に確信があるわけではない。
リクスが自分から話してくれないからには、何も分からない。そして当のリクスは恐怖にやられてしまい、話を聞きだせる様子ではない。
「なら……こいつは何なんだ?」
ベネディクトはつぶやいた。
「一体、こいつは今まで何を考えていたんだ? 何の料簡で俺たちについてきた?」
「なあ、リクス。一体何のために戦ってきたんだ。教えろよ」
リクスは、何も答えない。ただ、すすり泣くような声で、布団にすがりつき、聞き取れない言葉を発するばかりだ。
マルセルは、リクスの様子を外から眺めていた。
あの少年は、あまりに多くの苦しみを経験し過ぎたのだろう。
どれだけの我慢をして、これまでの苦しみを隠してきたのだろうか。
彼が戦えないとなると、マルセルはさすがに自分の行く末を案じざるを得なくなる。仕方ないが、この少年をこれ以上留め置く訳にはいかない。療養という名目で、どこかに追放してしまった方が身のため。
マルセルは、誰かの心配しかしないだけの高潔な人物にはなれなかった。
ベネディクトたちの悲嘆など知る由もないライラは、その頃莫大な解放感を得ていた。
一人でいることは確かに危険ではあるが、それでも誰かに文句を言われないという点では実に気分が楽。
「自由だーっ!!」 大きく腕を伸ばして、ジャンプする。
振り向くと、ケルテスの街が小さく見えた。
まさかあそこに戻るとは数か月前は予想もしていなかったが、もう二度と王都を見ることはないだろう。
「もうここにリクスはいない。リクスがいないってことは……悪いことしたい放題じゃん! やったぜ」
しかし、戸惑いも感じる。
(あ~でも、悪いことするっつってもいきなり思いつけるもんでもないな。アンナやテレーゼに見張られていた時の方が色々悪事、思いつけたのにな)
ライラはどんどん、良くない方向に将来の指針を定める。
(いっそ神聖帝国の味方に……いや待てよ!?)
ライラは一瞬迷った。ベルディオが無辜の人々を捕え強制的に働かせていたことを彼は無論強く覚えていた。
その時ライラは、人々が無理やり束縛されているのが許せなくてベルディオに牙をむいたのだったが、神聖帝国はまさにそういうことをする奴らの巣窟ではないか。
だが何より、リクスたちとは逆のことをしたくてたまらなかった。とにかく、リクスをこけにしたかった。
あんな馬脚をさらした奴を蔑むためには、何でも
(でも、ルステラに自由を奪う奴らはいるじゃん! 神聖帝国の中にも、そうやって人々を支配することを良しとしない人はいるだろうし……そういう所を改めていけばいい)
即決。ライラは拳を揚げて叫ぶ。
「よし、ぐれよう! ぐれて神聖帝国の味方になってやるー!!」
◇
遠いカスティナの街では、リクスたちの敗北のことはまだ伝わっていなかった。
リクスたちが訪れた酒場で、男たちが世間話に興じている。
その中には、リクスにまるで見知った人物であるかのように声をかけた人物もいた。
マックスという名前で、倉庫の管理人として商品の品目とひたすらにらめっこしながら過ごす傍、この酒屋に寄って友人と会話するのが唯一の生きがいとなっていた。
エドガーという奉公に出された少年のことをマックスはいつでも忘れたことはない。
ある日エドガーは暇を出して、それから全く姿を目にしたことはなかった。
もうずっと会えないとばかり思っていたのだが、あの時マックスは
目をつぶっても、あの日の惨劇から目を塞ぐことなどできない。
神聖帝国との戦闘が北の方に移った結果、カスティナは比較的平和だった。
だから呑気に戦争の話ができた。王都で起きた死者の軍団との戦いも、彼らにとっては遠い国の話でしかなかった。
「リクス・カレイドは強い奴だそうだな」 薬屋のカルロが口を開く。
「四天王の一人と戦って生きて帰ってきたんだろう。そりゃあ強いに決まってるさ。絶対にいい知らせを持って帰って来てくれるに違いないさ。な、マックス?」 床屋のレオンが口を開いた。
「あれはやっぱりエドガーじゃないかと思うんだ」
「またか、マックス?」 レオンたちはその言葉を飽きるほど聞いていた。
「エドガーだよ。俺にはあれが人違いだとは思えない」
マックスは樽を揺らしながら答える。
「でも、あいつは否認したんだろう?」
「エドガーにだって時折しょうもない嘘をつく癖はあったさ。あれだって照れ隠しに言ったかもしれないんだ」
レオンは冷ややかな目を浮かべて、
「だがそれを今更確かめようがないだろう? 王都に行ったって会えるわけもない」
マックスは強くうなずく。
「ああ、それが心残りだよ。嫌でもあいつに聞きだすべきだった」
「『カスティナの英雄たち』について話すのもいいが、とにかく奴らにめちゃめちゃにされた故郷をとにかく復興しなけりゃならん」
カルロにとっては、そんな戦いはささいなことだった。彼が大事なのは、日常の生活であり、そしてかつての幸せな過去だった。
「フレーベル王国に戻れるなら戻りたいもんだ。あいつらが神聖帝国を打倒して、俺たちの故郷を元に戻してくれたらいいんだが」
「全くだ」
マックスは樽を置いた。しばらくして、酒の水面が平らになった。マックスたちは、みなかつてフレーベル王国の民だった。




