第二十四話「エンヘドゥアンナ!」
雪の吹きすさぶ奥で何が起きているか、はっきりとは分からないが、誰もが確実だと知っていることがある。
まずい。
レカフレドは、明らかに戦況が悪いことに気が付いていた。
本当なら彼らを助けたくてならない所だ。しかし、今助けに行った所で多勢に無勢。足手まといにしかならない。
ハーゲンは、これが負け戦だと勘で分かった。しかし、だからといって退くことなどできはしなかった。
敵に少しでも背後を見せれば、それだけで相手の快進撃を許してしまう。
そんなことは絶対に避けなければならない。
アンナだけは、今にも飛び出しそうな、鬼気迫った顔で立ち尽くしている。
負け戦にはさせまいと奮っているからではない。明らかに、何か覚悟を決めたような悲痛の面持ちでいる。この戦いよりももっと重大な何かに対して。
「どうしたんですか、エンヘドゥアンナさん?」
レカフレドは明らかにアンナの様子がおかしいことに気づいていた。単に焦っているという感じではない。もっと明白に、彼の瞳に異様な光る輪が浮かんでいるのだ。
(あと……数時間……)
アンナが立ち上がり、敵地に向けて走ろうとする。うろたえるレカフレド。
「ちょっとどこに行くんですか!? 僕たちは後方の支援に徹せと命じられているでしょう!?」
「そんなこと分かっていますよ!? でも、もう待てないんです」
「待てない? 何が!」
「私の寿命は、もうないんですよ!?」
アンナの瞳に赤い不吉な光が点滅している。そのまぶしさに、レカフレドは一瞬視線をそむけた。
「この充電が切れれば……私はもう、二度と復活することはできない」
アルフレッドはひたすら命令を下し、投石機で攻撃させ続けている。呪文を聞いて起動した護符が高く透明な障壁を発生させ、こちらまで被害が及ぶのを防ぎ続けているが、それもいつまで続くか分からない。
「エンヘドゥアンナさんは、人間ではなかった……とのことですよね」
「かつては人間でしたよ。でももう今は人間ではない何かになって、もうその何かでもなくなります」
レカフレドは、最悪の可能性を察した。そしてもはや、目を細め、下に視線をそらしながら、
「リクスさんがそんなことを喜ぶと思いますか?」
アンナも、レカフレドと同じくらい辛く、痛い表情を浮かべている。もはや上からの指示がどうということは、彼の眼中にはない。
「私は、リクスに生きてほしいんです。リクスが生きられるなら私は――」
「命令に違反するつもりですか」
レカフレドは、気色ばんだ。ただ、そうとしか言えない自分の思慮の乏しさが、もどかしかった。
ハーゲンが制止する。
「いや、行かせておけ。あいつはもう、これ以上生きようとしていないんだ」
アンナは冷たい風に煽られる中を必死に走った。敵の攻撃にさらされることなど恐れてはいなかった。ただ、この過酷な現実を目の前にして尻込みする自分が怖ろしかった。
リクスが必死になって敵の攻撃を避けていた。棍棒を絡みつかせて敵を転倒させ、もう一本で眉間を打ち砕くのが背一杯だった。
魔物の群れはまだ後ろに隠れている。
アンナの切り札である、十秒間だけ全力を発動する能力もここではまともに意味がない。ライラだけは、いつものようにふざけながらナイフを躍らせ、かつ笛をかきならして敵を寄せ付けない。
ベネディクトは叫んだ。
「散会しろ! 敵の攻撃を受け流すんだ!」
兵士たちが戸惑いつつも、その形に集まった。
「奴らとてここで長く持ちこたえることはできん! だから後ろに下がろうと思うな! ひたすら進め!!」
コルネリオが勢いよく剣をふりかざし、敵の首をはねた。
ルベンは左右まで広く覆う火の幕によって敵の弾丸を寄せ付けなかった。この城塞を取り戻せるかどうかなどもはや問題ではない。
その中を、誰にも知られずにアンナは進む。誰もが生き延びることに必死で、この血生臭い現実に一人で闖入する彼の姿に気づかない。白い雪が金属音と悲鳴と共に、赤く敷かれていく。
兵士たちは一人一人盾をかかげ、かろうじてアレクシオの電撃を防ぐ。
城壁からその様子を眺めながら、
「やれやれ、さっさと屈服すればいいのによぉ。……ん?」
入り混じる敵味方の中に、リクスの姿を認めた。
「あいつか。ケルテスで俺たちの計画の邪魔をしたってやつは」
雷の四天王は憤る。そして、憎い敵を虐げる喜びに囚われ、ほくそ笑む。
決心すると彼の決心は早かった。
アレクシオは、城壁から空高く跳躍し、リクスの頭上に飛び降りた。
リクスは敵の電光石火の動きに、対処すべくもなかった。
「クソガキがぁ!!」
アレクシオが腕を振り下ろした。
私は、この時代にやって来て、たったごくわずかな時間を生きたに過ぎない。けれど、ここでの思い出は数えきれないくらいある。
私が、あなたと一緒に生きられたのは決して無駄じゃなかった。だから――
アンナはリクスの目の前に立った。そして、アレクシオの手刀を腹に受けた。
「あぁん!?」 アレクシオは一瞬、何が起きたか分からなかった。
リクスの命を取れたとばかり思っていたせいで、たった今の状況が把握できなかったのだ。
そして、予想外の出来事が起きたと理解した時、激怒した。
「こんの……雌豚!!」
手刀がアンナの腹を刺し貫いた。血は出なかった。その代わりに、ネジや基盤が油がこぼれた。
次に、銀メッキの施された腸を覆う、欠片が飛び散った。
アンナは、アレクシオの攻撃でのけぞり、リクスのすぐ側で、しりもちをついた。
「……何?」
リクスは呆然としていた。アンナは、あごが垂れ下がって開いた口をろくに動かせず、リクスを悲しげに見つめた。
何かを話そうとするように上唇がかすかに揺れるが、もはや声すら聞こえない。
「どうしてだ!」
リクスはアンナに両肩をつかみ、激しくゆさぶる。
「こんな所に来ちゃいけないって! あんなに言われてたのに!!」
リクスはそれから、目がうまく開けないことに気づいた。全てがにじんで、まともな輪郭すら見えない。アンナがどういう表情をしているかすら、もうろくに確認できない。コルネリオはリクスとアンナには目もくれず、敵が飛ばすかつての味方でできた弾丸を焼き払い続けている。
だが、アンナの全身から力が抜けていた。リクスには、アンナの体がどんどん、人間ではなく石や金属の塊になっていく感覚が否定したくても、否定しきれなかった。
「エンヘドゥアンナ!!」 リクスは叫んだ。
テレーゼもまた、アンナのその姿を目の当たりにしていた。
「許さない」
躊躇せずに、あの力を発動した。〇・四秒で、右腕を引き、アレクシオに渾身の一撃を――
「待ってましたぁ!」
つかまれた。アレクシオにとっては、それは好機だった。
アレクシオはテレーゼを掴んだ腕から電流を流し、テレーゼの身体を走る電気信号に介入した。
テレーゼのアレクシオに対する憎悪を、リクスたちに対する憎悪にすりかえたのだ。
「よし、テレーゼ。そいつらを始末しろ」
テレーゼの目は、半獣としての力に完全に支配され、完全に、人間の理性を消し去られてしまった。
アレクシオは、テレーゼの首に腕を回し、なれなれしく顔を近づける。いつものテレーゼならそれを拒絶するはずだが、単なるくぐつとなった今のテレーゼは微動だにせずアレクシオの腕を受け入れている。
四天王はリクスに向き直ると、けたけたと笑い、
「じゃ、目的は達成したし、俺たちはここで失礼させてもらうぜ」
もし彼が人の顔をしていたなら、きっと歯を見せて笑っているだろうと思えるような、下卑た別れのあいさつ。
「待て、テレーゼ!」
リクスは叫んだ。
ライラが、その後ろから、
「おーっと、そうはさせないよ?」
笛をかきならす。魔物に対してだけ有効な調べを四天王と半獣に向けて奏であげる。
テレーゼは悲鳴をあげ、顔をゆがめるアレクシオ。
だがすぐに気を取り直し、舌打ちして、
「ちっ、今日はここまでか。欲しかったものは手に入れたし……恩に着るぞ。カスティナの英雄たちよ」
アレクシオは空虚な瞳を背負ったテレーゼと共に、背後に現れた闇の中に消えていった。
「ちょっと、待ってよ――」 ライラは走り去ろうとした時に、闇はもう収縮して消えていった。
あとにはただ、単なる機械と肉の混合物となったアンナの体だけが冷えた地面の上。
ベネディクトは、アンナには目もくれなかった。
ただ、敵の攻撃が弱まって来たことに、安心と慨嘆を感じた。
最初からこれが目的だったのだ。彼らは、テレーゼ・マイニンゲンの鹵獲のためにルステラ軍を待ち伏せしていたのだ。
こんな朽ち果てた城に固執するはずがない事実からして、最初からそれを知っておけば良かった。
ベネディクトは久々に、自分の誤算を悔いた。
敵が城塞を放棄して、どんどん遠ざかっていく。追撃を防ぐため、魔法の火球を投げ飛ばすことも忘れずに。
「敵が退いていく……」
しかし、誰一人として喜ぶ者はいなかった。
アルフレッドが憤りに満ちた声で、
「追撃しましょう! こんなことですごすごと引き返せますか!」
「だめです!」
リクスが叫ぶ。
コルネリオの馬の元まで走り寄り、
「テレーゼとアンナを失いました。これ以上の追撃は悪手です」
「テレーゼがいなくなっただと……?」
コルネリオは動揺した。あの半獣は有用だと思っていただけに、奪われたことが何より衝撃だった。
「戦死したのか?」
リクスにとって、単なる事実を告げるのがどれだけ過酷だったか。
「アレクシオが彼を連れ去ったんです……」
それに――アンナが死んだ。
そんなことを告げるわけにはいかない。それは、あまりにも個人的な感情になってしまうから。
ライラがリクスの肩を叩きながら、
「リクスさん、こんな風になっちゃって……。」
「カスティナの英雄たちがそれほどのものだったとは知らなかったぞ」
コルネリオはさして軽蔑も込めずに言った。
怒りをこめて失望されるより、むしろリクスの心にひびを入れた。そしてライラも、リクスと貴族たちに深い幻滅を抱くに至った。
(結局、私たちの価値なんてこんなものか。やってられっか)
ボスカルボに寄生された者たちはミイラのようになり、雪の中にうずもれつつあった。
城塞の中にはわずかな物資だけが残されていた。
ルステラ軍は城塞を破壊することにした。もう二度と彼らに利用されないためだ。
城壁の向こうから火の手があがり、すすけた煙がむなしく空にのぞく。誰一人、それを振り向いて見上げる者はなかった。
(飽きちゃったな) ライラは、もうすでに次の楽しいことを探して知恵熱を上げている。
(半獣も、リクスに媚びてたあの雌豚もいなくなったし、もう私の邪魔をする奴はいない。きりのいい所でとんずらかましますかぁ)
ライラは横へとそれた。
「ライラ、どこに行くんだ」 ベネディクトは興味もなさげに。
ライラはベネディクトに向き直ると肩をすくめて、苦笑を浮かべる。
「飽きちゃったよ。私、みんながいたからこれまで言うこと聞いてたけど、アンナさんが死んでテレーゼさんもいなくなったらもう、あんたらに付き従う意味ないからね」
「ま、待って――」 レカフレドが言い終わる前に、
「あばよ!」
ライラは雑に手を振りながら、どこかへと歩き出していった。
いつものリクスなら無理やりにでも連れ戻す所だが、かつての仲間がいなくなった今ではもはや歩き出す力もない。
ライラはどんどん隊列から遠ざかっていった。そして、大半の兵士はそれに目もくれなかった。
ベネディクトは、ライラに対して特に何も思わなかった。
これまでの戦いに彼が加わってくれたのは偶然の積み重ねでしかない。
「止めないんですか?」
レカフレドはベネディクトに問うた。
「あいつはそういう奴だ。最初から大義のために動く奴じゃない」
ハーゲンは、か細い声でぼやく。
「俺たちはこの先、一体どうしていけばいいんだ……」
リクスの目の前の世界がぐらついて見えた。
アンナが、
こんなことがあっていいのか。
仲間を失って、この先どうやって生きて行けばいいのか。
軍勢の先頭をに立って、コルネリオは、静かに問いかけた。
「ルベン。あれがカスティナの英雄たちなのか?」
老騎士は唇を固く結んだまま、何も答えられなかった。
「リクス・カレイドのあの弱々しい姿は何だ?」
「彼には、あまりにも過酷なことがあり過ぎたのです」
コルネリオはもう彼らを見放していた。
「いずれにしろカスティナの英雄たちはもう用済みだ。あれに頼り続けるわけにはいかない」
アルフレッドはそれを苦々しい表情で黙って見ていることしかできなかった。
コルネリオは依然として、テレーゼを単なる道具としてしか見ていない。だがそれは、他の多くの兵士にも共通する感情だ。




