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第十六話「使命に召されて」

 白い建物の上、黒い服に身を包んだ男が静かに立っている。

「今日こそは逃がさんぞ、ライラ・デンゼル」

 くすんだ肌に、異様に縮み、黒ずんだ瞳が浮かんでいる。

「会いたかったよ、ユースタス……」

 口を横に広げ、苦しそうな笑みを浮かべながら

 ライラは短刀を抜いた。

「私はあの時、あんたを殺せたと思ったのに、生きてたんだ……残念だな」

「よくも私を騙したな。決して許さん」

 ユースタスは、かつてライラが行動を共にしたことがある人間だった。

 親愛の情など何もなかった。ただ盗みによって金と飯にありつけるという利害の一致の元に互いを利用して、悪事の限りを尽くしたものだ。

 だが、ユースタスは強かった。ライラはいつしか、彼の力が自分の脅威になることを次第に強く感じるようになった。

 だからある日、ユースタスが背後を見せた隙を見計らってライラは彼を崖の上から突き落としたのだ。

 だがその程度のことは悪行と数えるまでもない。

「あの剣には、冥界の精霊が宿っていることを知らないのか?」

 鉤爪は、凄んだ声でライラに語りかける。

「扉を通じて、この世に魔物がなだれ込む……。それが分からんのか?」

 だが、ライラは何ら怯える顔を見せなかった。それどころか、ますます鉤爪の男に対してあざけるような笑みを浮かべ、

「え? まさかユースタス、あんたそんなことに興味があったんだ~、知らなかった~!」

「この笛の威力を、思い知るがいい」

 クロエのあの表情を再び思い出しては、消し去る。

 あの神殿は、深く閉ざされていた。

 僻地にあり、滅多に人の訪れない場所だったが、だからこそユースタスは目をつけた。閉ざされた奥の部屋に、あの笛は御神体として置かれていた。この笛の使い方は、神殿の精霊が教えてくれた。ライラは、自分を祭祀を司る巫女だといって精霊を騙したのである。

 笛をどちらが所有するか相談した時は、お前が持っていろ、とユースタスは告げた。

 それは単に、捕まるのを恐れただけでしかないが。

「あの時は門番を殺して奪ったけど、どうでもいいや!」

 ライラは吹きならした。混沌の調を。

 だが、鉤爪の紋章の男は一切動じない。それどころか不気味な笑いを浮かべて、

「貴様の奏でる音色など無意味だ。この俺の装束には、特殊効果を全て跳ね返す効果がある」

 ライラは後ずさった。こんな時にリクスがいてくれれば、命の危険を感じる必要なんてないのに。

 鉤爪の紋章の男の手から、実際に鉤爪が生えた。

 きっとそれも、ライラの笛と同じように、どこかで手に入れた力に違いない。

 男は一切物音を立てずに鉤爪をなぎはらった。ライラの髪の毛を数本切り去った。

 ライラは間一髪でユースタスの斬撃を回避する。

 そして、短刀を再び構え、敵の急所を突く機会をうかがう。

 ユースタスは、前よりもずっと不健康に見えた。姿勢が悪くなり、小柄に見える。崖から突き落として殺しかけたことにはきちんと意味があった。

 ライラは楽しくなる。今からこの男に制裁を加えてやるのだ。

(幸い、今の私には背負うべきものがある)

 相手の太刀筋が見える。

(今度はきちんと、殺してやるよ)

 敵の鉤爪にも、重さがある。

 それがしなり、無力になった瞬間をライラは狙う。

 再び、ユースタスは鉤爪をふりかざす。

 鎌のように鋭く、細い鉤爪が視界の端に見える。だがもうライラは怖気づかない。

 ライラの短刀が相手の死角に入っていたからだ。そしてそれに相手が一瞬、気づいていないと分かった時にはもう勝ち筋が見えた。

「おらぁ!」

 ライラはユースタスの腹を切り裂いた。

 そしてユースタスの股を蹴り上げ、地面に打倒す。

「よくものこのこライラの元に現れたよねぇ? 今のライラは、正義の味方なのに」

 ユースタスを何度も踏みつけた。

「カスティナの英雄なんだよ、ライラは。お前みたいな極悪人と違って」

 ライラはどんどん愉快になり、激しくユースタスを打ちすえる。

 正義の名の元に廃者を虐げるのがこれほど幸せだとは!

「クズが……」 あまりに愉快すぎて、もはやライラにはユースタスを罵倒するのに巧みな言葉も出てこない。

 ユースタスは命乞いなどしなかった。大きく目を見開いて、ただただ鉤爪のような眼窩の中に胡麻粒の瞳で、ライラの体に穴をあけようとしていた。

 ライラはそのままユースタスを何度も蹴り上げ、川へと流した。

 そう、これは正義ではない。正義へ至る試行錯誤の、ほんの横道。

 ユースタスの体が遠く離れ、消えていくのを面白そうに眺めた時、

「ライラ! そこにいたのか!」

 そこにリクスが駆けつけて来た。レカフレドとテレーゼも。

 ライラは、短刀を収め、両手をあげてリクスの元へ。

「リクスぅ~! ライラ、会いたかったよぉ~!!」

 涙を流しながら、

「ごめん! ライラ、もう二度とリクスのそばを離れないから!!」

 利口な子供を演じる。

「本当、心配かけさせて……」

 テレーゼが溜息をつく。リクスは、ライラの「良かった~」とすすり泣く表情を見て、ただ純粋に安堵していた。

 リクスは、ライラの泣く顔をかわいらしいと思った。さぞかし道に迷って、大げさに悲嘆に暮れていたのだろうとばかり思っていた。

「ライラ、実は僕たちに大変な依頼が舞い込んだんだ」

 すぐに顔色を変え、

「い、依頼? ライラ、リクスのいうことなら何でも聞くよ!」

「うん……猫を探すというのを任されることになったんだけど」

「貴族の護衛~? なんで私なんかがそんなことしなくちゃいけないのさ」

 ライラは不機嫌そうに言った。間違いない。あんないたいけな娘ではなく、肥え太った男の見守りをしなければいけなくなる。

「『カスティナの英雄』だからね、信頼を受けるためにはそういうことだってしなくちゃいけないのさ」

 リクスはこともなげに。

「違うでしょ、そんなちゃちいことじゃない。だいたい、今日は――」


 ◇


 老人は戦慄した。自分の所業に。

 目の前に広がる惨劇に。

「おお、何と怖ろしい……」

 数体の死体が転がっている。

 暗がりのため、はっきりとその姿は見えないが、

 相手が絶望をはっきり知っていた。

「ですが……神はこれも赦してくださる……」

 老人は天を仰ぎ、そこに誰かがいるかのように語りかける。

「おお、神よ、感謝いたします……」

 それは祈りというには、あまりにも自己満足に過ぎた。

 老人は死んだ魚のような目をしていた。か細くかれた声のせいで、本気でそれを言っているのかどうかすら、分からなかった。少なくとも元気な様子には見えない。

 どちらにしても、老人は自分の行動に明らかに酔っていた。

 そのまま老人は動かなかった。自分の行動に対する恐怖と、それに対する神の許しへの喜びで、茫然自失としていた。

「ただ赦すのみならず、私の痛みを理解してくださるのですから――」

「よぉ、なかなか派手にやりやがったな。人間の分際で」

 老人の肩をつかむ者がいた。

 黄銅の籠手。さびついた兜。

 老人は驚いて、目を見開いた。

「ど……どなたですか……?」

「てめえの才能を買いたいんだよ、俺達は。お前、人間の割にはだいぶ殺しの才能があるらしいな?」

 四天王のアレクシオだ。

 彼は模範的な魔物として、人間を見下していた。

「存じ上げません」

 気の短いアレクシオは一気に不愉快な顔になり、老人に詰め寄る。

「ふざけた口叩くんじゃねえや。俺はあんたを評価してんだよ。あんたの殺しを、俺たちの役に立つようにしてやるんだよ」

 そして、腹を立てて胸倉をつかむ。

 だが老人はかすれた声で哀願するばかりだった。

「おお神様、お助けください……」

 アレクシオは叫んだ。

「ビストロ! いつまでそちら側にいるつもりだ」

 彼はこの老人の名前を知っていた。

 ルステラ各地で殺しを繰り返す凶悪犯。全国から恐怖の的となっているが、いまだに足取りがつかめていない。

 そんな男が、今目の前にいる。アレクシオは苦労してこの男を見つけ出したのだ。今更引き下がるわけにはいかない。

「てめえを探すのにえらい苦労したんだぜ。犯行の後にすぐに雲隠れしちまうからな。数百人の密偵を使ってようやくつきとめたんだ。ここで解き放つわけにいくかよ」

 また、ビストロはすすり泣いて訳の分からない小声を漏らすばかり。

 アレクシオは、おどすように言った。どうすれば相手の心を折ることができるか、知恵をしぼりながら。

「てめえが許しを乞うのは神じゃない。俺達だ。今までてめえほどの逸材を求めていながら、これまで才能を得られずにいた俺達にな」

「私があなた方と何の関係があるのです……ならず者どもに屈するつもりはございません!」

「あんたはとてつもなく悪いことをしている。人のためではなく自分の私利私欲のために殺してるんだからな。その力を神聖帝国によこせ。そうすりゃ、神なんているかどうか分からない物じゃなくて、俺たちのご主人様に償いを果たすことができるんだからな。とてもいい機会だと思わないか?」

「おお、神を否定なさるとは」

 ビストロは嘆いた。

「こちとら功績が欲しいんだ。リーダーに認められるための功績がな。お前には、俺がその功績を得るために役に立ってほしいんだ。それがお前の救いになる」

「人が人を救えますか?」

「お互いに頑張ろうや」

 ビストロは、ナイフを振りかざした。

 ビストロの腕から肩にかけて鋭い電流を感じ、倒れ込んだ。

 数秒後、ビストロは苦しそうに目を開けた。

「私はこれでも命を落としていない。神の奇跡だ」

 アレクシオは、ビストロに対してただただあきれるばかりだった。

 なるほど、こいつにとっては神が全ての支柱なわけだ。神を深く帰依しているからこそ、自分自身の内部の悪に対して嫌悪感を抱き、善良であろうとしている。

 人の命を傷つけることの恐ろしさを知り、実際それに戦慄しているにも拘わらず、この男は人を殺めることをやめられない。その恐怖が一周して快楽となってしまっているのだ。

 この男は狂っている。アレクシオは理解した。

 いや、だからこそ面白いと思うべきだ。うまく操れば、どんな風にでも使える。

「ああ、神の奇跡だ。俺も驚くよ」

 アレクシオはビストロの手を掴んだ。

「お前は唯一の神を信じているようだが、俺は雷の神ペルーンとその眷属を信じる。信仰においては決して俺たちは一致しない。だが少なくとも、同じ知性を持った生き物には変わりねえわけだ。だから俺は、あんたの改悛を手助けしてやろうってわけよ」

 ビストロは顔をしかめた。

「改悛の手助けですと? 不信心者にそのようなことができるわけが」

「できようができまいが、そういう風にしむけてやるさ。もちろんこれは良心なんかじゃない。俺自身の利益のためさ」

 ビストロは内心、ひどく悲嘆に暮れていた。

 ああ……この方は手に負えない。神聖帝国という恐ろしいならず者たちに加担しながら、その罪を悔い改めようともしないし、神に許しを乞おうともしない。だが逆らえば私は神への贖罪を遂げることなく死ぬだろう。神のために死ぬことは名誉だが、私の罪はまだまだ深い。

 ならば、私はこの者に神の慈悲を願おう。この者の命を絶つことで、この者の悪行を止め、その魂を天国に送ろう。

「少なくとも俺たちに手を付けられた時点で、てめえに拒否権なんてねえんだ。俺がてめえを利用するだけ利用してやる。だからてめえは好きなだけ俺を利用するがいいさ」

 アレクシオには、ビストロの思惑など分からなかった。分かりたくもなかった。

「では……しばらくの間だけあなた方に協力するとしましょう。私自身の願いのために」

「おう、俺たちは短い間だけ同志だ。な?」

 アレクシオは握手を交わした。無論、この手を決して放すまいと誓った。一瞬でも放せば即座に襲われるだろう。

 だが手を繋いでいる限りアレクシオはビストロの生殺与奪をにぎることができる。ビストロの目は、

(いつ殺すか……それが問題だ)

(あなたのために罪を償わせてさしあげますから)


 ◇


 この世界は、私が人間だった時よりかなり衰えてしまっている――日々が経てば経つほど、エンヘドゥアンナはそう感じざるを得ない。

 無論、文明を比較することの無意味さを理解しているし、そんなことを言いたくはないから黙っているのだが、人々の科学や歴史に関する無知には驚くものがあった。数千年前に存在した都市の遺構や天地を闊歩した機械がもう、何一つ残っていないのだ。

 いや、時折その面影を見ることもある。機械の残骸が、伝説の中で説かれる悪魔や巨人の骨として注目されることもある。

 この王都も、かつてはアンナが名前だけは知っていた都市の上に建っている。無論、ここの住民がアンナの時代に住んでいた人々の子孫であるはずもない。

 マルセルの屋敷には様々な本があり、アンナは彼の許可を受けて蔵書を読んでいた。

 レカフレドは、アンナの静かに、しかし絶えずページをめくり続ける様子に感心することしきりだった。

 武芸の方は積んできた一方、文字にあまり縁のないレカフレドにとって、アンナの理知的な姿はどことなく心ひかれるのだった。

「今は何をお読みなのですか?」 横から問いかけてみた。

「歴史資料ですよ。あの後一体この世界に何が起きたのか知ろうと思ったのです」

 本のページからレカフレドの瞳に視線を移して、

「でも、私が求める記録はほとんどありません。数千年間、巨大な空白の時代があるのです」

 アンナは、実に真剣な面持ちをしていた。きっと、彼にとっては切実な問題なのだ。

「数千年……ですか? 私にとっては、数千年前とはそれこそまだ人間がこの世にいなかった時代の話なのですが」

「いいえ。数千年どころか、数百万年前から人間はいたのですよ」

 レカフレドは、驚いた。アンナは真面目そのもので、とうてい嘘をついている様子には見えない。

 だが実際アンナの語ることは奇想天外で、彼以外が話せばほらにしか聞こえないことばかりだった。猿が世代を降るたびに次第に体に変化が生じ、人間になっていったという話も、アンナ自身にとっては単なる事実らしいが、それを聞いたハーゲンもテレーゼも大笑いしたものだ。

 単に話すことだけでなく、外見の異様さもアンナの特徴だった。

 レカフレドは、アンナの目をよく見ると時折ぞっとする。それは、人間の目というにはあまりに生気のない、作り物のように整い過ぎた目をしているからだ。それこそがきっと、半分人間でなくなったことの証拠なのだ。

 ふとテレーゼが入って来た。腕を組んで、

「あんた、まだ読んでるんだ。よく飽きないわね」

「飽きるわけがないでしょう。ここにある本を、まだ私は半分しか読み終えていないのですから」

 ここにある知識の全てが、アンナにとっては既知のものだったわけではない。『自然環境』『動物』といったことは、むしろこの時代の人間の方が精通しているくらいだ。アンナにとっては、そういうものは人里から遠く離れた所にしか存在しないものだったから。アンナが住んでいる場所は、あらゆるものが人間の作り出したもので満たされ、それ以外は極めて排除されていた。

 だが、テレーゼにとってはアンナの関心に興味を示している場合ではなかった。

「ライラが帰って来たし、そろそろ国王の親戚であるコルネリオ公爵……様をお出迎えする準備をしなくちゃ」

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