第一話「英雄誕生」
かつてそこに、王国があった。王国は栄えていた。様々な戦乱を経ながらも、そのつど復興し、ながらく命脈を保ってきた。
無論無数の腐敗があり、無数の栄光があったが、王国はその矛盾を飲み込みながらも、浮沈を繰り返して今日に至った。
その今日、王国は滅亡の危機に瀕していた。避けられない破局が、目前に迫っていた。
「おい獣人、お前は金になるんだ。ここで逃げ出されちゃ困るぜ」
白いフードをかぶった少女が腕に鎖をつけられ、床に刺さった杭につながれている。
少女は、生気のない目をしていた。もう何も希望がない。生きていく甲斐もない、そう目と口元で主張しているのが明らかだった。
「あいつらに取られるくらいなら今やっちまった方がいいだろう。何せ稀少な絶滅危惧種なんだからよ」
その側に、だみ声を上げながらしゃべり合う商人。
「やってどうするんだ。まだいい買い取り先が見つかるまでは、簡単に手放すわけにはいかないだろうが」
薄暗い殺風景な部屋の外では、馬の駆ける音が絶え間なく響き渡る。
「まずいですぜ……」 御者が低い声で、しかし恐怖を感じたようにしわがれた声をつぶやく。
緑色の肌をした魔物が、馬にまたがって追いかけてくる。
「神聖帝国の奴らか!」
「金目のものを奪いに来るつもりだ」
馬車に色々と積み込んでいるようでは、すぐに奴らに追いつかれる――商人は、とっさに判断した。
「捨てるものを!」
「仕方がないか!」
二人は壺やら袋やらをほうり捨てた。だが魔物たちはそんな物には目もくれない。
魔物は石をくくりつけた縄を振り回し、勢いよく馬車めがけて投げつけた。
石は車輪を打ちすえ、またたく間にくだいてしまった。
少女は揺れて床に倒れ込んだ。
「おい! やばいぞ、どうする!」
商人は馬も少女も置いて、外に出た。
「くそっ、動けねえ!」
魔物がいた。緑色の肌で、筋骨隆々とした体格、厚い装甲を施した鎧を着ている。
「奴隷商人か。人間の風下にもおけん」
「お、お助けを!」
二人の商人の命乞いを、魔物は聞かなかった。二人はたちまち、魔物が剣で刺す所となった。
魔物はそのまま屍を通り過ぎて、馬車の中をのぞいた。
「こいつは亜人だな?」
フードを降ろすと、少女の頭頂部からには三角形の耳が生えていた。人間の耳もあるにはあるが、それはただ突起状の肉に過ぎず、
「獣人兵器だ。人間と魔獣の融合体……今では製造そのものが禁じられているはずだ」
魔物の一人が少女の腕をつかんで、外に引きずり出した。
「いや、獣人じゃないぞ。獣人ならもう少し人間ではない顔をしているはずだ」
「やめて! もう、構わないでよ!」
少女は、叫んだ。
二人の片方が制止する。
「待て、我々は君を求めているんだ。こいつらに、人間に復讐したいんだろう?」
「そんなのどうだっていい!」
少女は、二人をねめすえて、恨みの声をあげる
「何よ! どうせ……誰も私を助けてくれない……」
白いフードをかぶっていた。涙を流していた。
「いや。ここにいるさ。君を助ける人が」
フードの少女は、突然幌の上に誰かが立っているのを見た。
緑色のコートを着た、銅のようにあせた赤色、あるいは褐色の髪。
どこかあどけない顔色が残っているが――その中に、りりしい雰囲気がひそんでいる。
「リクス・カレイド、ここに参上!」
赤毛の少年は、魔物に向かって高らかに告げる。
脚をかがめて、いかにもかっこつけるように。
「何だこいつは?」
「やっちまえ!」
魔物は口々に叫んで走り出した。
リクスと名乗った少年は、二つの武器を繋いで、一つの棍棒のように振り回した。
その裁き方は実に軽く、だが敵に振るわれる時には実に重々しくのしかかった。
棍棒は敵の急所を的確に打ち砕き、士気をくじいた。
「これでも食らえ!」 魔物は足を思いきり踏み鳴らす。
一瞬、リクスの体が宙に浮く。だが、それでも動じない。
リクスは、敵の顔を思い切り蹴り上げた。
そのまま数メートル後ろに優美な弧を描きながら着地。
魔物は、さほど傷を負ってはいないようだが、少年の強さに面食らったらしい。
「ちっ、覚えていろ!」 捨て台詞を吐きながら、逃げ出していく。
「ふーっ、何とか追い返せたか」
リクスと名乗った少年は、額の汗をぬぐい、息を降ろしながら馬車に向かう。
少女は唇から血を流していたが、さいわい命に別状はない様子だった。震えながら、
「リクスって言ったの?」
「き、聞こえてたんだ」
リクスは、うっかりした、とでも言いたげなばつの悪い表情。
それでも少女が気がかりでならない様子でさらに近づくと、
「やめて! 来ないで!!」
少女は叫んだ。血まみれになった二つの遺体を指さし、
「あんたもこいつらと同じなんでしょ……? 私をだましてあいつらに売り飛ばすつまりなんでしょ?」
その瞳には憎しみをこめている。もはややり場を失った感情は、どこにも吐き出すあてがなく、彼の心の中で無意味に荒波をもよおし、化膿していくばかり。
「そう思ってたならごめん。僕は無理して助けるつもりなんてなかったよ」
「……は?」
少女の中で、何かが弾けそうだった。
「嘘だよ。助けるつもりだったよ。助けるしかないだろ。あんな瞬間に出くわしたら助けない道なんかない」
白いフード。何かが盛り上がっているようだ。だが、リクスはしいて少女に対してそれを訊くつもりはなかった。多様な種族が往来するこの大陸で、相手の容貌を云々するなどもってのほか。
「喉、かわいてない? ここに水があるよ」
少女は、リクスを信じかねた。
相手の言葉にいかなる意図が隠されているか、把握できない。
だが――悪意がない。これだけは確信できる。
もはや他人に絶望し、助けを求めることなど期待できなかった。なのに向こうから助けてもらった。
少女はその際、どう行動すれば良いか分からなかった。
リクスは、目の前で水筒の水を飲んで見せた。
「ほら、毒なんて入ってない。安心して飲んでいいよ」
テレーゼは喉の渇きに耐えかねてさすがにリクスの水筒を受け取らずにはいられなかった。その水は実においしかった。
「君はさっき、『売り飛ばす』って言ってなかったっけ?」
「その……このあたりは、人さらいが横行しているから、どこかに売り飛ばす奴がいくらでもいる。あいつらだってその一味さ」
リクスは、確かめるように。
「なら、君はこいつらに連れて行かれるつもりだったんだね?」
テレーゼは、黙っていた。
「じゃあ君は、どこにも行くあてがないってことじゃないか」
リクスはいかにも関心の薄い表情で。半獣は、憮然とした。
「……うん。私にはもう、どうすることもできない」
だからって、こいつを信用するっての?
「実は僕もそうなんだ。あいつらと同じような敵に追われて、たまたま君がいた場所に居合わせた」
「……そうなんだ」
テレーゼはリクスを見た。
リクスは、危険がある人間ではない。むしろ、私を助けようとしてくれている。
だが何のために? それが分からないことに、ぼんやりとした嫌悪感がする。
それでもリクスは、テレーゼに手を伸ばして、
「まだ、危険が去ったわけじゃない。僕がいた方がまだ安全なはずだよ」 思いやるような表情で。
「もう、いいじゃない。私は奴隷にされた時からずっと慰み者にされるだけ。もうどうしようもないの」
彼は、リクスにこれ以上構っていられなかった。助けられたからといってどうなるのだろう。また、行き倒れるまでの時間が伸びるだけのことだ。
それに、自分は奴らが言ったように戦争の産物でしかない。人間と共に生きることなど、かなわない夢でしかない。
だが、目の前の少年に、そんな後ろめたいことの数々を言えるわけもない。
テレーゼは葛藤した末に、
「テレーゼ・マイニンゲン」
「テレーゼ……?」
少女は、力なくうなずいた。
「うん。それが私の名前」
「テレーゼか。いい名前だね」
「良い名前?」
一瞬まごつく少女。
それから、少し間を置いて、
「あなたの顔から視線を外せないのか、自分でも不思議でならない」
「ぼ、僕も不思議だったんだ」
おそるおそる口を開いてから、
「まだお互いのことについて何も聞いてないよね。僕はリクス・カレイド。騎士団で鍛えて来たんだ」
少年はやけに早口でしゃべり出した。先ほどのそっけない口調とはうって変わって、まるで口説くように、テレーゼは、リクスの饒舌な説明に疑念を覚えた。
「そんな遠い所から騎士団は、平民身分の入団を許可していないはずだけど」
「……それよりは、怪我は大丈夫? 唇に傷があるみたいだけど」
「これくらい平気だよ。あいつらの私に対する扱いはそんなもんだし」
リクスはそれを聞くなり気色ばんだ。
「冗談じゃない。そんなの、慣れなくていい」
リクスの瞳は、確かに嘘をついていない。リクスは、彼らに対して明確に怒っていた。
「人間が人間を道具扱いしていいわけないだろ。誰もが人間として扱われる」
テレーゼは反応に困って、ただただ微妙な表情を浮かべるばかりだった。
「変な人。人間には、それ相応の扱い方ってのがあるでしょ」
「でもあいつらは容赦なく、人間を平等にごみみたいに扱うさ」
リクスの表情が、深刻さを増す。
「あいつらがこの平原一帯に押し寄せてくるかもしれない。ちょうど僕も、そこから逃げて来たところなんだ」
「逃げて来た?」
リクスは、腰に提げた二振りの武器――棍棒に短い突起がついている他、いくつかつなぎ合わせられるくぼみが表面をうがっている――に目を落として、
「ああ。僕は故郷を追われたんだ。必死で戦ったけどだめだった。僕には大切な子分みたいなのがいてね、もう一度会うって約束したけれど、それも果たせなかった」
目をうつむかせる。
「あの奴隷商人たちも同じだったんだろうな。彼らのやっていることには一切同情の余地はないけれどね」
テレーゼは冷ややかに笑った。
「あんな奴ら、同情なんてしなくていい」
リクスは、それを聞くと静かに目を閉じた。
テレーゼにはリクスが何を考えているのか、分からなかった。
この男は、一体どこから来たのか。しかし、この飄々とした、得体のしれない様子からすると今それを聞いても答えてくれそうにない。
それよりは、まだ喉の渇きが残っている。
「ねえ、どこかに行くあてがないって言ったけど、それは嘘なんだ。まだ、行くべき場所は残ってる」
「どこに?」
テレーゼは、ほとんど投げやりに尋ねた。
私は人間ではない。私の境遇を分かってくれる人間なんて、この世のどこにもいない。
兵器として創造された魔物の血を引く、こんな汚らわしい生き物のことなんて。
この男もまた、私の正体を知れば私のことを忌み嫌うに決まってる。テレーゼはそう決めつけることにした。そして、自分の正体を何が何でも秘密にしなければならないと誓った。
リクスは、彼の心を知ってか知らずか、素早く返事をした。
「西の渓谷に行こう。神聖帝国から逃げるにはあそこから出るのが一番早い」
二人は人気のありそうな町が見える方向に向かって歩いた。
幸い、正午までにはたどりつけそうな距離だ。
「テレーゼさんは、ここは初めてなのか?」
「私はずっと東の方にいたから、あまりよく知らなくて」
「ニヴルヘイム平原は元からどの国も手出ししない所だった。周囲が険阻で一旦逃げ込めば誰も手を出すことなんかできない。だから国家権力から逃れる人が多くてさ。あそこに見えるのがルステラ王国の境界石だよ」
このあたりに今まで来たことがないテレーゼにとっては、知らないことばかりだった。
リクスはそれから肩をすくめて、
「まあ、ここはどこの領主もあまり手を出さない避難地帯みたいなものだから、たいして効力はないんだけれど」
「へえ、意外と詳しいのね」
「色んな国を渡り歩いてきたからね! この大陸の地理に関しては詳しいのさ」 ウインクしながら語ってみせる。
しばらくして、露店が立ち並ぶ集落へとたどりついた。幸い、ここまで
ここから先には危険な道が続くので、旅人相手に武器や防具を売る人が集まっているのだ。
どこもかしこも年齢も身なりも様々な人間でごったがえしている。テレーゼにとっては新鮮なものだった。だが、リクスがそれほど目を奪われていない様子からすると彼にとっては通いなれた場所らしい。
「それで、どうするの? 何か買うつもり?」
「ちょっとしたパンを買うつもりだよ。色々見て行かないといけないし」
いつまでもこんな得体のしれない若者と行動を共にしていいのか。
しかし半獣としての卓越した嗅覚は、リクスが一応すぐに害をもたらす存在ではないことを彼に告げていた。
テレーゼは色々考えた後で、こう告げた。
「……私、この平原を抜けるまではあんたと行動を共にするよ。まだ信じたわけじゃないけど、少なくとも騙して身ぐるみ持って行くような奴じゃないってのは分かるから」
「そうか。じゃあ、しばらくの間の付き合いだね」
二人があれこれと話していると、突然、親しげな声が横の小屋から。
「あら、そこのお二人、お似合いみたいですね?」
暗い色の衣装に身を包んだ若い女性がいた。
それを見るとリクスは、突然テレーゼの腕に抱きつき、なれなれしく話し始める。
「うん。数年来の長い付き合いなんだ!」
「な、長い付き合い!?」
困惑するテレーゼ。
「冗談じゃない。さっき会ったばかりじゃない」
もうすでに、テレーゼはこの人間と別れたかった。あの奴隷商人たちも非常に忌まわしい存在だったが、このリクスという少年も実に嫌らしい。何としてでも、この渓谷を出て、こんなとんでもない奴から離れなければならない。
「あははっ、仲いいんですねー!」
「そう、仲いいんだ、僕たちは。なにせ僕が助けてやったんだからね」
テレーゼは憤懣やる方なかったが、彼以外に頼む人間がいない状況で黙ってこらえるしかない。
「……で、僕たちはここから東の方に出たいんだ。どうか、知ってない?」
「ええ、案内してさしあげますよ。冒険者を相手に色々役立つ情報を提供する情報屋なんで。そうそう、名前をまだ申し上げてませんでしたね。私の名前はライラ・デンゼルと申します。ここは初めてなんですか?」
「うん、そうなんだ。何せ最近ここにやってきたばかりだからね。南の方からこっちに来て間もないから」
テレーゼは、ちょくちょく変わるリクスの発言に困惑しながらも、他者の容喙をそう簡単に許さない彼の姿勢に対しては傍観を決め込むしかなかった。
ライラは得意げに切り出した。
「なら、この洞窟の抜け道を案内いたしましょうか? 私、最短距離でこの山を越える道を知ってるんです」
テレーゼには、ライラがどうにも信用できない空気をまとっていたのが何となく匂いで分かった。
リクスも、ライラも、共に完全にはたのみきれない。だから、さっさと離れて、もう別れたい。
「リクス、この人を信じていいの?」
だが、とにかく敵の追手から逃げるのが先だった。リクスというこの得体のしれない若者をどうにか利用して、あの神聖帝国から逃げねばならない。それから先のことなど悩んでいる場合ではない。
その時、二人とも、ライラの唇が弓なりに曲がっていることに気づかなかった。