男爵令息様が留学しちゃう?
驚くルイーズとは対照的に、ヘンリーの表情は落ち着いていた。
「お前とは........もう少しこういうことが必要だったかもしれない」
「…………わ、私は、もう失礼致します!リリアン様も待ちくたびれているでしょうから」
逃げるように部屋の外に出た。はしたないと分かっていても廊下を駆ける。
(早く、早く………)
馬車に飛び乗るように乗り込むと、ハンカチを取り出して口を拭った。
「なんて不潔な………!」
ヘンリーにされた突然のキスはイヤだった。だって、リリアンとキスした唇だ。リリアンからされたキスと言えども、彼女とヘンリーを共有しているようで気持ち悪くなる。
(しかも、“お前とはもう少しこういうことが必要だったかもしれない”ですって?)
これからキス以上のことを求められる可能性があるかもしれないと思ったら、イヤでたまらなくなった。
(触れられたくない。私は………殿下を愛していないというのがハッキリと分かったわ)
リリアンにキスされているヘンリーの姿を見て傷ついたし、涙を流したのだから少しは愛を感じていたのかもしれないと思っていたが、こう迫られるとハッキリとイヤだという気持ちが新たに芽生えているのが分かった。
もう、全ては終わったのだ、殿下を二度と男性として受け入れたくないのだ、という気持ちを確認することになってしまった。
ヘンリーは自分に気持ちを向けるのが当然だと思っているから、あんな横暴なことを平気でしたのだろう。ルイーズにとっては暴力に等しい。
楽団に所属するのを認める代わりに婚約は継続するという条件を飲んでしまったが、イヤだと思ってしまった以上、婚約を続けたくはなかった。
屋敷に戻ると、楽団の練習場へと出発する準備を始める。
「お嬢様、しばらく楽団の方には顔を出さないということになっていたのではないですか?」
「ええ。だけど、屋敷で大人しくしていられないほど気が狂いそうなことが起きたの」
「な、なんですかそれは?」
「殿下にキスされたわ。リリアン様とキスした口で。もっと求められたらと思うと耐えられない!」
「お嬢様、落ち着いて下さい!……練習へ行かれるのは承知致しましたから」
ジーナがおろおろとしたように言う。
急いで商会まで馬車で向かうと、そこで着替えをする。バイオリンを持って練習場へ向かった。
「あれ、オリビアがどうしてここに………」
練習場に着くと、昨日、しばらくは屋敷で練習をしようと話したばかりのレイニーが目を丸くしている。
「私、どうしても!どうしても今日は楽団の皆と練習しなくちゃいけないの!」
「なにかあったの?」
「殿下に..........」
詳しい説明をする気にはなれなかった。レイニーはルイーズの目が赤いのを見ると、なにも言わずに練習場の鍵を渡してくれた。
「事情があるのは分かったよ。..........オレはこれから出かけなくてはならない。皆はまだ仕事中だから鍵を閉めて練習しているといいよ。レウルスがもう少ししたら来ると思うから、あいつが来たら開けてやって」
「分かったわ。ありがとう」
そう言うと、レイニーは出かけて行った。
バイオリンを取り出すと、おもむろに弾き始める。カノンを弾いた。
ドアをノックする音がしてルイーズが確認しに行くとレウルスであった。ドアを開けると仏頂面のレウルスが立っている。
「何も考えずに弾くな。余計な音が出ていたぞ」
「分かってる」
「なにかあったのか?」
ルイーズがあまり話さず黙ったままなので、おかしいと感じたようだった。
「なにも……」
「言いたくないならば言わなくてもいいが、練習はきちんとやれ」
レウルスらしい言い方をすると、彼もそれ以上は聞かずに練習を始めた。
その後、楽団員がだんだんと集まってきていつも通りの練習風景となる。やって来た皆に練習に来れて良かったね、と声をかけられて嬉しかった。
練習がそろそろ終わるという頃にレイニーが戻って来た。なんだか慌てていた。
「レウルス、ちょっとこっちに来い」
レウルスを呼ぶと2人して事務室にこもる。レイニーの慌てる様子に皆も気になった。ミアが事務室のドアに耳をくっつける。
「えっ!」
ミアが小さく叫んで口を慌てて塞いだ。戻って来たミアの様子がおかしい。
「なにか聞こえたのか?」
ブラッドに聞かれたミアが言った。
「レウルス兄が留学するって」
「えっ!?」
皆が驚いた顔をする。
(今、留学と言った?)
「ミア、今、留学って言った?」
「そうよ。レウルス兄が留学するって話してた」
「どうしてそんな突然……」
事務室からレイニーとレウルスが出て来た。
「皆に話がある。 突然だが、レウルスは音楽留学することになった」
「なんで突然、音楽留学なんてするんだよ?次の公演もあるだろ?」
モーリスが聞く。
「この前の王宮での演奏が注目されたようだ。ヘンリー王子直々の命で留学することになった」
レイニーが出掛けた先は王宮だったのだ。まさかこのような命令が下されるとは思わず驚いた。
(殿下はなぜ................)
「急じゃないか?」
クリフが言う。
「確かにそうだが、前向きに受け取っている」
レウルスは淡々として答えた。
「突然の話ではあるが、‟価値観を広げて演奏に活かせ”という殿下の言葉を有難く思っている」
驚いていた楽団員たちだったが、音楽家にとって他国に音楽留学することは憧れでもあった。だから、自然と応援する雰囲気になっている。
一人複雑な気持ちでいるルイーズだった。
突然、留学を命じられたレウルスはとても前向きですが、ルイーズは大ショック!
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