5-8 彷徨える死者の魂
「正直に申そう。今、サーラ夫人の立場が危ういものとなっている。今は冥界にその魂を置いてはいるが、それも時間の問題。このままで地獄にまで行きかねんぞ」
無くなった愛する者が地獄行き。
ヴェルナー様にはこれ以上に無い衝撃的なお話でしょうね。
もちろん、そんなことは嘘であります。
魔女と言えども、死者の魂の赴く先など知りはしませんから。
嘘やデタラメも、相手がそれを信じてしまえば、証明できない事象である以上、それは真実となりえるのですからね。
相手の誤解を招き、真実だと錯覚させる事を“謀”と言うのでございますよ
「サーラが地獄行きだと!? な、なぜそんなことに!?」
当然ながら、反応は絶句。
衝撃のあまり、後に続く言葉もありません。
まあ、愛する人がいきなり地獄行きなどと告げられては、平静を装うこともできますまいて……。
さて、ドンドン攻め込んで参りましょうか。
「知っての通り、人は死ぬとその魂は肉体を離れて主の下へと導かれる。そして、生前の行いによって、天上の世界へ旅立つか、あるいは重ねた罪過の分だけ地獄で責めを受けるか、道が分かたれることとなる」
「そ、その通りでございます。天使殿、サーラは罪人などではございませぬ! 教会には足繫く通い、祈りを捧げて参りました。誰にでも優しく接し、貞淑な妻であり、聡明な母でもありました。それが地獄行きなど、あんまりでございます!」
ヴェルナー様の弁解も当然の反応です。
問題行動を起こしていないのに地獄行きならば、査定に必要な書類にでも不備があったとか、あるいは別人に間違われたとか、そんな辺りでございましょうか。
もっとも、偉大なる主がそのような間違いを起こすとは思いませんが。
あくまで、性悪な魔女の戯言でございますよ。
「そう、サーラ夫人は“生前”は地獄に落とされるような罪過は犯しておらん。問題は、“死後”のことなのだ」
「なんですと!? サーラがあの世とやらで何かしでかしました!?」
「率直に言うと、主の慈悲を拒んでいる。審判の受諾拒否、それが罪状だ」
死後、人間は神の審判を受け、それによっていくつもの道に分かれるのですが、最終的には全員がその導きにより、天上の世界へと行けるのです。
地獄へ落とされる者も、その罪過を地獄の責め苦にて清め、その罪を悔い改めた後に天上へと召されるのです。
皆が皆、神に対して祈りと共に感謝を捧げる。
それこそ、愛に満ちた理想の世界。
たとえ、大罪を犯せし者であれ、神に対して反逆した悪魔や堕天使とて悔い改め、神の御許へと戻って来る日が来ることを、神は望まれているのです。
なにしろ、私のような悪辣な魔女ですら、贖宥状をお渡しになり、天上の世界の席次まで用意してくださったのです。その懐の深さ、愛と慈悲の広大なること、人智の及ぶところではございません。
(でもまあ、贖宥状は教会で買ったもので、主神より直接受け取ったと言うわけではございませんけどね)
あんなものはただの紙切れ。
それもお婆様の契約書のように、“絶対”の魔力が付与された物とも違う、本当にただの紙切れ。
いかに“雲上人”出身の法王の直筆とはいえ、“絶対”の文言を刻まれていない以上、何の価値もありません。
従順な子羊を装うための小道具、それ以上の価値はなし。
教会とは“表向き”は、仲良くしておく必要がありますのでね。
「よいかな、伯爵。拒絶は主が最も望まれぬ事だ。自由な意思によって罪を犯したならば、自由な意思によって悔い改め、正道に立ち戻ることができる。しかし、主の言葉に耳を塞ぎ、いかなる意思を示さぬ拒絶はその限りでない。審判の拒絶は天上への階段を崩し、地獄へ落ちる所業だ。いや、それすら通り越して、地獄すら行けぬ消滅に至るやもしれぬ」
「そんな……!」
地獄への道にすら、神は救いの道を残しておられます。
神は世界を御創りになった際、人に自由なる意思をお与えになりました。善行のみならず、悪行ですら神の御心の内にあり、人は自らに意思によってそれらを選ぶことができるのです。
たとえ悪行を犯し、神に反逆しようとも、悔い改めて正道に立ち戻る者には、神は手を差し伸べられます。
懺悔と祈り、皆揃って神に祈ることこそ、喜びに満ちた世界。
審判を拒むということは、地獄行きすら拒む行為であり、いずれは消え去る救いなき道でございます。
「理由は他でもない。伯爵、お前のせいだ」
「私の……、ですか!?」
「肉体は死して魂と分かたれ、地上から天上へと至る。しかし、お前は死者の魂を夫婦の絆によって拘束し、本来は天上世界へと召されるその魂を縛っている。サーラ夫人の魂はお主の今の姿を見て、このままでは旅立てぬとジッと待っておるのだ。主の言葉に耳を塞ぎ、天使の先導を拒んでな」
もちろん、こんな話は嘘でございます。なにしろ、私は天上の世界も審判の待合室も覗いたことがございませぬゆえ、どういう状況なのか言葉にすることなどできないからです。
適当に吐いた作り話。ですが、これは“効く”はずです。
自分のせいで妻が最も過酷な罰を受けると聞かされれば、心は揺さぶられる。
隙間の生じた心の中に入り込むなど、私にとっては娼婦としても魔女としても“いつもの”ことなのですから。
間隙を突く事こそ、離間の策を成す基本的な手法。
さあ、ヴェルナー様、奥様の事を断ち切るのでございますよ。
魔女の舌先でその絡み付いた“絆”という名の荒縄、解して差し上げましょう。