10-9 酒の席の話 (3)
「修道院……、か。そういえば生前、カトリーナ様がそんな事を言っておったな~」
ジュリエッタが発した“修道院”という言葉に反応してか、ヴィットーリオ叔父様が懐かしそうに語り始めました。
「まあ、私もな、元は伯爵家の次男坊だ。イノテア家に婿養子として入った以上、色々とやり方と言うものが変わる。まして、娼館の経営ともなると、それこそ人生初体験だ」
「でしょうね。それで、修道院とお婆様、どう結び付くと?」
修道院とは、世間より隔離された修行の場であり、男女問わず世を捨て、神との対話を試みる者はここに入ります。
修行を積み、人ならざる神や天使に導かれる日を待つ者の住処。
ある者はい一生をそこで捧げ、更なる修業を積み、またある者は神職に転じて、他の人々も導こうとする。
ヴェルナー司祭様は後者の立場ですね。
神との対話を求めて爵位を息子に譲り、修道院に入られた後、司祭へと転じたのですから。
「そしてな、カトリーナ様がこう言ったのだ。『完成された娼婦とは、それすなわち“修道女”である』と。言われた当初はよく分からなかったがな。今では無論、意味は理解しておるぞ」
「なるほど、娼婦を修道女に見立てますか」
これは面白いと、素直に感心致しました。
娼婦と修道女、まさに真逆の存在ともいえる両者を等号で結ぶとは!
まして、理想の娼婦を修道女と言い切るとは!
さすがはお婆様ですね。目の付け所が違います。
「えぇ~、カテリーナ婆様がそんなこと言ってたの? 意外って言うか、無理って言うか……、とにかく、賛同しかねる意見だわ」
「そうか? 理由が分かれば納得ものだぞ」
「じゃ、それ、教えてくださ~い」
そして、ぐびっと酒を飲み干し、また注ぎ直す。
ピッチ上がってきましたわね、ジュリエッタ。
まあ、たまには酒で理性を失うのもよいでしょう。
「いいか? “娼婦”と“修道女”、比べてみれば、これほど差異の大きい存在というのもない。 贅沢と享楽に身を落とす娼婦、節制と勤勉によって幸福を見出す修道女、まさに真逆と呼べるほどの方向性」
「そうそう、そんなの説明されるまでもなく分かる。問題は、カトリーナ婆様がなんでまた、理想の娼婦が修道女だと断じたかって話」
「娼婦の視点で見れば、疑問に思うであろうな。しかし、“娼館の経営者”からすれば、まさに修道女こそ娼婦の完成形なのだ」
「経営者の視点……。ああ、なるほど! 経営者にとって、勤勉で従順な娼婦なんて、それこそ都合の良い女! 理想とするのも納得ね!」
酒が入っていても、理解力は衰えを見せない。
さすがはジュリエッタですね。
そして、ジュリエッタの意見には大賛成です。
「確かに、これは視点の問題ですわね」
「指摘されてみると、至極当然であろう?」
「ですわね。我々、娼婦の側からしたら、修道女になれって言われても、反発や忌避感しか生み出しませんからね。ですが、視点を叔父様のような管理者側に移すと、修道女ほど優れた娼婦はいませんわ」
「そう。勤勉でよく働く女! 命令には絶対に逆らわない従順なる女! それでいて理性を保ち享楽を求めない女! 管理する側にとって、これほど“完成された”娼婦はいないということだ」
とことん都合のいい女、というわけですね。
これほど管理しやすく、利益をもたらす女もおりますまい。
これに“容姿”まで加われば、まさに完璧なる娼婦。
真逆の存在を掛け合わせて、究極を作り出すとはなんという皮肉か。
そういう意味では、お婆様の言は的を射ています。
娼婦のごとき修道女がいるのは困りますが、修道女のごとき娼婦となると、経営者側からすれば是非とも欲しいと思うものです。
ただし、おそらくは“自分以外の”という言葉が頭に付くでありましょうが。
自身が完成されたと宣った修道女、お婆様の生き方を照らし合わせても、これほど真逆なのもありますまい。
欲望と奸智の権化、それでいて家族想い。私の手本でありますから。
「まあ、お前らには無理だがな」
ここでズバッと支配人からの一言。
私とジュリエッタは、勤勉ではない、命令に従わない、あげくに享楽を求めるふしだらな女だと、上司がはっきりと言ってしまったのです。
ですが、私もジュリエッタも気にはしません。なぜなら、完成された存在になど、なりたくはなかったからです。
(そう、真っ平御免というやつですわね)
カトリーナお婆様がそうであったように、自分が修道女のごとき振る舞いをするつもりなど、一切ないのです。
例えどれほど完成された存在であろうともね。




