9-35 大公女からの勧誘
私から受け取った手拭いを受け取り、ダキア様は涙を拭う。
それは今まで溜め込んでいた感情が、形となりしもの。
百年の間、目の前の少女はずっと一人で戦い続けてきた。
ただ単に人ならざる者を侍らせ、悦に浸っていたわけではありません。
父の尊厳を取り戻すため、母より渡された温もりを感じ取るため、ただ一人で神に抗い続けてきた。
「……落ち着かれましたか?」
「ごめん、なんか、泣けてきちゃって」
「感情は溜め込むほどに、心が澱むものですわ。時折発散させねば、それこそ“呪”に捉われてしまう事でしょう」
「……時々さ、なんか何もかも壊してしまいたくなるの。我慢しているんだけど、人を襲って、これを食らいたくなるの」
不意に見せる笑みは、攻撃性の証でもあります。
御馳走を目の前にして、白い柔肌にかぶり付きたくなってきたのでしょう。
感情の解放とは、欲望のままに振る舞う事でもあります。
今のこの状況、肉食獣の前に、肉をぶら下げているような状態ですからね。
そして、ポイッと涙を拭いた手拭いを放り出しますと、椅子の上に立たれました。
割と長身な私と、小柄なダキア様の身長は、これで僅かに逆転。
ほんの少し見下ろしながら、私を物色するような眼は、愛らしくもあり、同時に不気味でもありますわね。
「ねえ、魔女ヌイヴェル、客人としてではなく、臣下としてあたしに仕えない?」
「勧誘、という事でしょうか?」
「ええ、そうよ。あたしは神に、世界に見捨てられた人達を拾って、ここに住まわせている。でも、あなたは特別。助けるのではなく、助けて欲しいの」
「王を輔弼する、つまり、宰相のような立場ですか」
「そうなるわね。まあ、都市国家とすら言えない小さな屋敷の中だけの国だけど、いずれあなたの言うように“外”に飛び出す機会が巡ってきたら、あたし一人ではどうしようもないから」
「力によるゴリ押しではなく、まずは交渉、話し合いですか」
「そんなところ。まあ、“雲上人”は問答無用で仕掛けて来るかもしれないけどね」
勇ましくもあり、不安にも思えるダキア様の誘いに、私も少しばかり心が揺れました。
今でこそ私は娼婦を生業とし、時に魔女として暗躍、あるいは男爵夫人として華やかな社交の場に躍り出る。
そんな都合の良い生活をしております。
しかし、齢重ねてそろそろ娼婦稼業も終わりが見えておりますし、ここ最近はジェノヴェーゼ大公国も謀略の渦中にあって、なかなか物騒な日々が続いています。
命がいくつあっても、これでは足りませんね。
男爵夫人の方も、従妹が立派になってくれましたし、ディカブリオの尻を引っぱたいてどうにかしてくれるでしょう。
(そして、ここへ来て“大公女”からの正式な仕官要請。と言っても、ラキアート大公位はすでにコルヴィッツの血筋が受け継いでおりますので、領地領民と呼べるのはこの屋敷の塀の中だけ)
王佐の才を認めてくださるのは、正直なところ嬉しいものです。
私自身、女王を気取るつもりはないですので、あくまで参謀、相談役として権力者に寄生する、都合の良い魔女だと思っております。
さながら、花から花へ飛び移る蝶のごとく。
しかも、私自身が王者の才覚ありと見出した、目の前の小さな暴君にお仕えするのですから、なかなかに腕が鳴るところです。
(でも、これを受けるわけにはいかないのよね)
なにしろ、今の状況で私が幽世に属する存在になりましたら、困ってしまう人が沢山おりますので。
娼館の方はオクタヴィア叔母様がおりますし、その後釜としてジュリエッタも控えておりますから問題はないでしょう。
イノテア家の本筋であるファルス男爵も、ディカブリオやラケスもしっかり成長しておりますから、こちらも問題はなし。
しかし、リミアの事があります。
フェルディナンド陛下よりお預かりした養女であり、世話係を任されておりますからね。
途中で仕事を放り投げるなど、私の信条が許しません。
カトリーナお婆様からよくよく言われていた事、すなわち!
「契約は“絶対”です」
一度交わした約束を反故にする事は、この教えに反する事ですからね。
“商人”としての気質が、約束を違える事に断固拒否を訴えかけてきます。
「ダキア様、申し訳ありませんが、勧誘を受けるわけには参りません」
「あら、あたしじゃ主君として魅力に欠けるかしら?」
「帰って、子守をしなければなりませんので」
「子持ちだったの!?」
「大公陛下より、御息女の後見役を任されておりますので。あなた様と違って、とても手のかかる“大公女”なのでございますよ」
なにしろ、目の前の小さな暴君と違って、“自制”という言葉が頭の中より欠落しておりますからね。
しかも、頭が回って、行動力もある分、余計に面倒。
早めに礼儀作法と“猫の被り方”を教えておかねば、うかうか社交の場にも出せませんわ。
(今日は狩猟の場でしたから、軽い挨拶程度で済みましたが、以前のような祝宴だとそうはいきませんからね。距離が近い分、ボロは出ますし、自制しない分、正面から喧嘩を吹っかけてしまう場合も考えられます)
ヴィニス様に対してもそうでしたからね。
まあ、あれはリミアがヴィニス様の本心を探りつつ、私に今後の事を決めろと迫る意味合いもありましたが、相手が“平民の上流階級”であるからこそ許された芸当。
仕掛ける相手が“貴族の上流階級”だと、騒動の火種にしかなりません。
いくら“大公女”という最上位のお嬢様であったとしても、養子という立場が危うさを醸す場合が考えられますからね。
そんな手のかかるお嬢様を、放っておくわけには参りません。
(それに今頃、みんなが私を探して回っている事でしょうしね)
猪に驚いて、私の乗馬が森の中に突っ込んだのは、リミアが目撃しておりますし、捜索隊が出ていても不思議ではありません。
まあ、その自己のおかげで思わぬ出会いがありましたが、それを甘んじて受けてしまう程、“現世”に未練がないというわけではありませんので。
「ダキア様、あなた様は父母より血と魂を受け継がれ、立派な君主に成長されました。しかし、私は父母の顔すら知らず、どころか名前すら知らないのです」
「捨て子、だったの?」
「いいえ。祖母の話では、生まれた直後に母が“雲上人”に連れて行かれたのでございます。いわゆる“天の嫁取り”というやつで」
「なるほど、ラキアートの動乱なんかの“雲上人”に関する造詣が深かったのは、なにも“魔女”であっただけではないのね」
「母は娼婦でありましたし、どこぞから御胤が腹の中に入ったのでしょうが、それゆえに父の名すら知りません」
「そうなると、アラアラート山の上にある天宮にまで赴くか、もしくは事情通で話の通じる“雲上人”を見つけるしかないわね。そんなのがいれば、だけど」
まあ、一番の関係者にはすでに接触済みですけどね。
教会の現法王、その話を信じるのであれば、私の“義兄”のようですが。
赤ん坊の頃の私と会っており、さらに母は胤違いの弟まで生んでいるという情報も得ております。
もう少し詳しく調べたかったのですが、それ相応の対価が無ければ話してくれません。
ああ、ケチなお兄様ですわ。
(なにより、そのお兄様に嫁取り宣言されている。期限はあと二年。法王の任期が終わるその時までが、私にとっての自由時間。それ以降は雲の上に連れて行かれ、見知らぬ世界に閉じこめられてしまう事でしょう)
なにしろ、雲の上まで旅立って、戻ってきた記録はほぼ無いに等しいですからね。
アラアラート山の上り下りができるのは、実質“雲上人”だけ。
地上の人間にとっては、上りの一方通行のみ。
これに逆らったのは、カトリーナお婆様だけですからね。
(だからこそ、カトリーナお婆様の“異常性”が際立つ。一体どうやって“天の嫁取り”以外の方法で雲の上へと旅立ち、そして、何をどう交渉して地上まで戻って来たのか? その過程がすっぽり抜けています)
世界の支配者たる“雲上人”すら無視できない存在、それが大魔女カトリーナ。
墓まで持って行ってしまったその謎を解くまでは、まだダキア様のお誘いに乗るわけにはいきませんからね。
「まあ、そういう事なら、あなたへの勧誘は“保留”にしておくわ」
「保留、でございますか」
「すべてが片付いたら、一緒に神様にお祈りしましょう。それがあたしとあなたに交わす約束として」
「はい。それは誓わせていただきます」
これにて、私は“生”を確約されました。
もっとも、目の前のお嬢様のお世話を仰せつかるという交換条件で。
いやはや、どうにも私は“年下の女の子”にモテる性質なようで。
ああ、そう言えば、目の前のダキア様は百歳を超えていましたわね。
見た目が少女なので、うっかり失念していましたわ。




