偽りのアマテラス 2話
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山向こうから来て、助けを求めてより後に息絶えた男を、ヤマヨの農へと埋葬する。
土をかける前に衣服に灰をまぶす。動物の牙を使った細工品を首から提げていたので、農の塚へとそっと置いた。魚の骨や木の実の皮、貝殻や欠けた土器などは土塚へと集めて祈りと共に自然へと還すのが習わしだった。
相手の農とは作法が違うかもしれないことに僅かばかりの疚しさを感じ。勾玉を包む手は、その気持ちの分だけ、いつもより強く握られていた。
「どうか、安らかに……」
聞いた話を長に伝え、山向こうの農の様子を見にいくために数人の男手とヤマヨが向かうことになった。日が昇ると同時に発てば沈む前には着ける距離ではあるが、山を越えるならば獣への対策も必要となる。
朝靄の遠く、天はまだ暗く。東の山際が薄い紫を広げる頃に、ヤマヨと男たちは農を出た。彼女と年齢の近い少年が問い掛ける。
「ヤマヨ。きみはムラで待っててもいいのに」
「だって私が行かなきゃあっちのムラの神様とお話できないもの。アマテラスさまもついてきてくれるって!」
「それなら安心か。でも、気をつけるんだぞ」
「チグ、いつもそうやって心配ばかりするんだから」
くすくすと笑うヤマヨから視線を外し、鼻の頭を掻くチグ。男衆から出立の声がかかる。
「おう、行くぞチグ坊! 荷は多いから頼りにしとるぞ。向こうムラに分ける食料もあるからな」
「分かった!!」
大池を越えて山に近づくにつれ、道は狭く険しくなってくる。路際の土を割って茅が伸びている辺り、人の往来が耐えていることが窺えた。大人たちが幾ばくかの獣を退けながら進んでいく。
山の中腹、拓けた場所で休憩をとる。みな、麻服をばたばたと払って荷を下ろし、傍を流れる川、その沢を覗き顔をしかめた。
「なんだこりゃあ。随分と濁っとる」
「ここに来るまでの獣がやけに気が立っておったのも何か関係があるかも知れんぞ」
ヤマヨもひょいと顔を出す。水面は泥が混ざったように濁っていた。ここで水を補給しようとしていた一行はままならないと彼女を見た。それに応じてこくりと頷き、夜紺色の勾玉を手の中に包み目を閉じる。
「アマテラスさま、お願い」
――承知した。穢れを祓えばよいのだな。
風が静かに巻く。身の丈、男衆の倍を越える、輪郭だけの巨躯。周囲の景色を透かせばゆらりと木々の葉が揺らいで見える。ヤマヨにだけ見える雨纏う母のその姿は、人々の信仰を集めるほどにその大きさを、その身に秘めた祈りを疂ね、人に近くなっていった。かつて平野一帯を覆うほどであった体躯は年月と祈りを積み、今に至る。
静かに優しく、透明な手で沢から水を掬う。
「あ、チグ、器出して器!」
「わわわ、水が浮いて……えっと、これでいいか?」
荷物の中から少年は木の器を慌てて地面に置く。濁った沢の水が、注がれる途中で澄んでいく。水塊が浮いて、透明を取り戻して器に注がれる。幾度かそれが繰り返された。みな、口々に雨纏う母への感謝を口にした。
「ありがとう、アマテラスさま」
水は人の命を繋ぐ。雨纏う母の権能は、水を清め、また恵みとしての水を与えるもの。人々の祈りから、そう在れかしと願いを享けて得たそれは農を大きく発展させた。
〇
山を越え、日は傾いで夕刻。一行がたどり着いた農にはしかし、人の気配がない。
引き込んでいる水路の傍には、穂を僅かばかり実らせた痩せた稲が稲首を垂れることなく散立していた。大人の一人が口を開く。
「櫓に誰も立っとらん。稲も世話不足らしい。誰かに話を聞けるとええが……わずかに腐臭もするな。獣の肉でも捨ててあるんか」
「ねえ、あれ!」
ヤマヨが指差すのは、農の中央に鎮座する巨岩とそこを中心に広がる広間だった。人の姿は見えないが、無数の土偶、その残骸が散らばっている。
土塊で象られたそれは古くよりの呪いの道具であり、怪我除けや病祓いを願って損壊させることで願いに代えて使用される。土偶には、願いを込めた者の病苦不浄を引き受ける力があった。
その土偶が、これほどまでに散雑している。みな、ただ事ではないと息を呑んだ。
男衆は荷を巨岩のある広間に置き、誰か残っている者がいないかとあちらこちらに探しに出た。
「ヤマヨ。ぼくも周りを見てくる」
「分かった。わたしは神様とお話してみるね」
「このムラでは、この大岩が神様なんだよな」
「うん。イワトさま。前に来た時に話したことがあるから」
「何かあったら呼ぶんだぞ」
「チグも気を付けてね」
深く頷いて、少年は駆けていった。ヤマヨは首から提げている勾玉を握り込み。静かに目を閉じた。大岩に呼びかけてみるが、返事がない。より深く意識を大岩に沈めていく。微かだが、磐屋の戸の揺らぎを感じる。だが、意思を交わせるほどの存在の強さではなかった。雨纏う母がヤマヨに告げる。
――在り方が薄らいでいるようだ。信仰が絶えてしまっている。
「そんな。じゃあムラの人はもう誰も――?」
――おそらく残っていない。イワトに私の力を分けよう。消えゆく前の看取り程度ならばできるであろうよ。
巨岩とほぼ同じ大きさ。輪郭だけの姿で顕現した雨纏う母は、そっとその透明な手で触れる。
ぬらり、岩から泥が染み出し、巨岩すべてを覆う顔を形作った。
――朽ち惜しや、朽ち惜しや。我が民、我が地。絶えてしまう。絶えて、しまう。
「イワトさま!!」
――土が腐り、水が穢れ、我が加護ついぞ民に届かず。一人、また一人と斃れてゆく。ああ、民よ、我が民よ。
泥の顔がずるりと形を崩していく。ヤマヨの言葉は届いていないようだった。
――せめて、民よ。不浄の土の中で眠らぬよう。民よ、我が民よ。ああ、朽ち惜しや……
「イワトさま……」
暮れの空の端から紺が滲んでいく。磐屋の戸の姿が消え、気配の残滓だけが残る。完全に消えてしまうまで、さほどの時間もないだろうと分かった。
辺りを見て戻ってきた他の皆は、誰も生き残りがいないことを告げた。置き去りになったままの崩れかけた遺体もあると言う。ヤマヨは消えゆく神の言葉を伝えた。
「なるほど、穢れか。そう言えば先には山の水も濁っておった。不浄には篝火だが……もう日も暮れとる。明けるまで待つ方がええ」
「ううん、イワトさまが消えちゃう前にここのムラのみんなを弔ってあげないと」
大人を説得しようとするヤマヨ。
その時、凛とした女性の声が広間の外から投げかけられた。
「もし、このムラの方々でしょうか」
「……何者か」
近づいてくるその女性に、大人たちは警戒で以て応える。
麻布を主とした彼らの衣服とは違い、誰も見た事のない衣、白染のそれは袖口を朱の糸で飾ってあった。
「神託を享け川向こう、単身、平野を越えて参りました。名、ヒヲミなれば。その身、禰女にございます」
警戒は解けない。女一人で平野を抜けるなどできるはずがないのだ。山を越えるのに男手数人が必要であるというのに、彼女は荷らしい荷も持っていないのだから。
だがその女性、ヒヲミの背後にゆらりと揺らめく神の存在をヤマヨは見た。
「神様がいる! あなたも神様が見えるの!?」
「ヤマヨ。もしかしてこの人も……」
小声で問い掛けるチグに、ヤマヨはこくこくと何度も頷く。
その様子を見て、神と共にあるならばさもありなんと大人たちは少しばかり緊張を緩め、ヒヲミは逆に目を丸くする。
「己以外の禰女など、初めてお見受けいたします。愛らしいそこの娘さま、名は?」
「わたし、ヤマヨ! ねえ、ムラを助けにきてくれたの?」
「いかにも、神託のままに。清め火にて不浄を祓いに参りました」
静かに頭を下げる。長く伸びた彼女の髪がさらりと前に垂れる。朱の袖口を合わせてばさりと髪を振り上げる。両腕を広げ、夜天を見つめて詠う。
『ワ トパエ カグナエ オリテテチ ケネリエ イ』
ヒヲミの背後に揺らぐ神の姿がはっきりと浮かぶ。彼女と重なる程度の大きさの、つまり人の願いをそれだけ身に宿した神の姿。ふわりと神が腕を払えば巨岩の前に火の床が生まれ。
『ア テノヲテリナエ ククチナエ トアマナエ イ』
神の言葉を奉じ、神の権能を行使する。それが禰女と呼ばれる者の在り方だったが、ヤマヨは初めて見るその存在に圧倒されていた。
巨岩の前には焔舞台が出来上がり、軽やかに炎の中をヒヲミが舞う。対して神は舞の中心で静かに立っていた。神が右手を掲げると同時に、神とヒヲミを巻き込み大きく火柱が立つ。熱波吹き荒れる炎の中から、ヒヲミが降り出て頭を下げた。白染めの衣は微塵も燃えていない。
「清めの焔火、ここに成り。ムラの者の遺体をここに奉じよとの告げを享けましてございます」
誰も。ヤマヨもチグも、大人たちも。ただ神秘に圧倒されて言の葉を失って立ちすくんでいた。ややもすれば魅入られることもありなん、しかして最初に気を取り戻したのはヤマヨだった。
「こ、この火柱でムラの人を弔えばいいの?」
「さようにて」
ヤマヨに続いて他の者もはたと身を震わせて、互いに声を掛け合って三々五々、農に散ってゆく。
火柱の前に弔う者を置けば、火柱と化した神がごうと炎を伸ばしてそれを抱き。炎は朱から白橙へと輝きを増し、日の光と見まごうほどの明るさが辺りを包む。
人々を弔い終える頃には、真円の月明かりが天頂にあった。地には太陽、宙に月。ヤマヨは勾玉を抱き巨岩に触れる。消えゆく磐屋の戸の神の気配は、すっかり無くなっていた。
「イワトさま、見ててくれたかな」
――信仰をなくせば、我らは元の空に戻る。意識も、権能も何もなく。だが、ヤマヨ。感じ取れぬだけで、空はそこに在り続けるのだ。
「そっか」
胸のつかえがとれ、微かに笑ってヤマヨは振り返る。大岩の前では、火柱が変わらず燃え立っていた。これだけの事象を成し得てしまう神と、白染の衣を着た禰女であるヒヲミに強く気を引かれる。今まで、神と関わりを持てるのは自分だけだった。農では他の誰も、神への信仰はあれど対話など叶わなかったのだから。
それはヒヲミにしても同じだったようで、二人は火柱から少し離れた明るい場所に腰を下ろした。
「ヤマヨ。あなたも禰女なのですか?」
「わたしは違うよ。あんなおっきな火なんか出せないし。姿を見たり、お話できるだけ」
「まあ! 神と意思が交わせるのですか」
「それだけだもん。ヒヲミの方がすごいよ。さっきの言葉は何?」
「古き神代の言葉だと、伝わっているのです。禰女だけが代々、継いでいると」
「すごく不思議な言葉だった。意味は分からなかったけど、気持ちは感じたよ!」
「なれば、ヤマヨにも禰女の素質があるのでしょう」
ヒヲミは詠唱で神の権能を引き出すことはできても、姿は見えずこちらの意志は伝えられないと言った。ヤマヨは感嘆の声を漏らす。聞くことすべて、知らなかったことだらけだ。二人は和やかな顔で火柱の立ち昇る先、月の光を見る。
「わたしたち、できることが違うね。でも仲良くしてね、ヒヲミ」
「ええ、もちろん。とても嬉しく思います」
「あとでチグも呼ぶね。ムラで一緒に育ったんだ! ねえ、あなたの神さま、御名は?」
初めての友人にヒヲミは頬を紅潮させながら、静かに火柱を指さす。同じ境遇の者に出会えた喜びからか、少し声は弾んでいた。
「炎で己共を導いてくださるもの。天を照らす陽の光そのもの。天照ずる神。それが己共の神の名です」
ヤマヨの目が丸々と見開かれる。火柱の立てる、ごうとした風が二人の間を抜けた。
「わたしのムラの神さまも、アマテラスさま!」
起源こそ、神としての興りこそ違えど、同じ音を戴く雨纏う母と、天照ずる神。
ヒヲミも息を呑み、そしてヤマヨと二人、どちらからともなく笑い合った。数奇な偶然がお互いを引き合わせて。彼女らは初めて互いを分かり合える友と出会った。
そして。
そして、これより二人は引き裂かれる。
焔、ひときわ強くうねり、天照ずる神がその身をヒヲミに重ねる。髪の先が、少しばかり火を宿す。
「こ、これは神託の予兆? 享けたる清めの儀は終わったはずでは――」
糸が切れたようにがくりと首を垂れるヒヲミ。彼女の長い髪が、白染の衣が揺らぎ、ちりちりと火の粉を纏う。おもむろに顔を上げた彼女の眼は、人ならざる朱黒に染まっていた。
人の纏う気配ではないことがひしとヤマヨにも伝わり、思わず提げている勾玉を握る。
『吾こそ、アマテラス。吾のみが、アマテラス。信仰は名に寄辺を示すもの。故に、同じ名は二つと要らぬ』
「――えっ」
火柱が形を変え、燃え立つ狼へと変じる。大岩の如き大きさのままで口から炎弾を吐き住居を灼きはじめる。弔いを終えて、居を借りて休もうとしていた男衆が何事かと外に転げ出た。
低い唸りとも焔の轟音ともとれぬ声を低く響かせて、大狼はヤマヨと視線を交わした。そこに炎を撃つと意志を乗せて。
予想だにしていなかった目の前の光景。ヤマヨは当惑に呑まれて指ひとつ動かせずにただ浅く息を繰り返した。
雨纏う母が風を巻き、その大きな手でヤマヨを包み持ち上げる。聊かも経たず炎がそこへ落ちる。
「……アマテラスさま」
――ヤマヨ。私の民よ。あの神は私たちを燃やすつもりであるらしい。
「どうして……!」
ヒヲミに憑いた天照ずる神が大狼の顔まで浮上し髪をざわりと逆立てる。
『民は信仰。信仰のみが神をつくる。神を崩すには民を消せばよい』
炎の大狼が吼える。
農を炎が包む。
外に出ていた者は炎弾に燃え、焼け落ちた居に敷き潰された者もいた。ヤマヨと共に来た男衆は皆、落命した。
一人、少年が岩陰から広間に走り寄る。
「ヤマヨ!」
「チグ!」
雨纏う母に抱かれ、見下ろす形でヤマヨは手を伸ばす。炎は、少女の眼前でチグを灼いた。灰燼の一片も残さず。
「あ――……」
声とも息とも取れぬ短い音が漏れる。
のち、叫喚の声が響く。
――私の民を、奪うな。同じ鳴の神よ。
『戯言を放くな。偽神め。吾がアマテラスなるぞ』
雨纏う母に向けて放たれた大狼の火炎はしかし、届かずかき消える。いつの間にか月が隠れるほどの暗雲を喚び寄せていた。宙より雨を落とす。燃え盛る農の火は徐々に燻り、大狼も身を縮める。
天照ずる神は宿主であるヒヲミを使って憎々しげに顔を歪めた。
『姑息なり偽神。偽りのアマテラスめ』
――私は、私の名にかけ民を守る。私をアマテラスと呼ぶ民を守る。
『禰女の力だけでは雨を燃やすには足りぬ。ここでの儀は成した故に今は退くが、次は定めた。近く偽神のムラの信仰は根絶やしにしてくれる』
濡れそぼった髪をそのままに、天照ずる神はヒヲミを浮かせたまま宙を滑り夜の闇の中へ消えていった。
雨纏う母の手より降ろされ、ヤマヨはその場で膝をつく。一人残された巨岩の広間でチグが燃えた場所の土に触れた。溢れた涙は雨と共に地へ伝う。
気も疲れ果て、意識を手放してしばらく。
目覚めはぬかるんだ地面と炭の匂いの中、独りの夜明け。
「みんな。大人たちも、チグも、みんな。燃えちゃった……。ああ、うあぁぁぁ――」
薄明に染まりゆく雲が、射す日輪が。少女の、ヤマヨの胸を刺した。