うろくづのまなご 2話
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講習後に設けられた即売会で、斉木は鹿肉のジャーキーを購入した。「マナを待つ会」の農場で獲ったジビエだという。作物を荒らす害獣だから仕留めたのであって、無駄な殺生ではない、という理屈らしい。
彼は今、自宅でビール缶片手にパソコンに向かっている。
「マナを待つ会」について文章にできたのは、今のところはホームページに公開されているていどの情報だけだ。
設立は、世紀の変わり目前後。創立者は宇賀神茉菜なる女性だ。学校の先生を思わせる優しげな容貌をしている。
会の名は、創立者の名前からの連想だろうか。時期的には、ノストラダムスの大予言で終末を意識したのかもしれない。
ネットで検索しても、ヒットするのはセミナーや合宿の案内や、会員のブログばかり。カルトにありがちな洗脳だとかお布施だとか拉致監禁といったトラブルは見当たらない。
だが──まだ噴出していないだけ、という可能性もある。
話題になり始めてからでは、遅い。
世間を騒がせるカルト集団の第一人者になれるなら、記者の端くれとして望外の幸せだ。そのためなら、多少の誇張だっていとわない。
興奮に駆り立てられて、斉木はキーボードを音高く鳴らして記事の下書きを打ち込んだ。ビールの減りも早い。ジャーキーは今ひとつ塩気が薄い気もしたが、野趣あふれる凝縮した肉の旨味はほろ酔いの心地良さを惹き立てる。
(肉を食べるのが罪だなんて、変なこと言う団体だよなあ)
現代の生活の陰で、無数の動植物の命が消えているのは自明のこと、いちいち気にするものではない。誰もが知らぬ振りをしているのだろうに、カルトに嵌る連中は繊細だ。
殺された獣の肉を堪能しながら、斉木は浮かれた気分でブラウザを立ち上げた。
次の取材目標はもう決めてある。「マナを待つ会」が幾つか所有している農場の中でも、もっとも早い時期からあるもの。
「雨谷村、か」
奇遇にも母方の祖父母の出身地と同じ、東北某県の片田舎だ。よって、移動に要する時間も経路もイメージしやすい。
新幹線に在来線を乗り継いで、レンタカーも駆使すれば、都内からでも半日とかからず「カルト村」のふもとに辿り着けるだろう。
(宿は──まあ、どうにでもなるさ)
旅程を練るのに夢中の斉木は、気付いていない。
どうしてこうも「マナを待つ会」が気になるのか。いつ、何を切っ掛けにしてこの「カルト」を知ったのか。まったく覚えていないということに。
§
不思議な格好の少女の手を借りて、颯真はどうにか立ち上がった。
「──なんで?」
颯真の不審の眼差しを、少女は首を傾げて笑うだけで流した。
「なんでだろうね?」
夕日の最後の光が、少女の目に宿って小さな灯のようだった。闇の帳が落ちつつある中で、その光は妙にきらめいて颯真の胸を騒がせる。
でも、いくら瞳の輝きに魅せられたからといって、誤魔化されない。
(さっきのは──呪文? 暗示? 何だったんだ……?)
滑落して起き上がることができないまま、丸一日絶食していたのだ。
立ち上がれるものならとうに立ち上がっていたし、助けを呼んでいたはず。それができないから、死を覚悟しかけたところだったのだ。
(何も、食べていないのに)
何も、殺さなかった。命を奪わなかった。他者の死を踏み台にせずに──生きられた。
生きることは食べること。食べることは罪を犯すこと。そう教えられてきた。
(マナは降らない。だから、人間は自らを律しなければいけない)
足もとがぐらつく気がするのは、空腹の影響だけではないだろう。教えを覆すような業を見せられて、冷静でいられるはずがない。
「だって。今──」
口を開いては閉じてを繰り返す颯真に、少女はまた肩を竦めた。
「なんて言うか……規則みたいのが、あるんでしょ? 上の、施設? って」
《楽園》は真摯に生きるための実践の場であって。颯真たちはその理念に心から賛同しているのであって。決して、規則で縛られている訳ではない。でも──少女のもの言いに、思い当たることはあった。
(外の人たちは俺たちとは違う。《楽園》には入れない……)
人は、異質な存在を疎むもの。迂闊に外部と接触すれば、《楽園》への迫害を招きかねない。そう教えられてきた。颯真が発見されなかったのも、大々的な捜索はしづらかった面もあるはずだ。
(この子と長く話しちゃ、いけないんだ)
胸の痛みと共に、颯真はその理解を胸に抱えこんだ。彼のあらゆる言動が、少女にとっては奇異なものに映るのだろう。怪しい奴だと思われるのは──嫌で、怖い。悲しい。
けれど一方で、問われたことには、頷かざるを得ない。颯真は掠れた声で曖昧に呟いた。
「言われていることは、ある、けど」
「だよね」
さやさやという衣擦れの音がして、少女は一歩、颯真から距離を取る。白い着物が、まだ夕焼けの赤を滲ませた薄闇に紛れて翳る。
「で、それは下でも同じ。関わるなって言われてるの。たぶんそっちもだと思うけど。黙ってて、ってそういうこと。倒れてるのに気付いちゃったから、手を貸したけど──なかったことにした方が良いよね、お互い?」
少女は、疑問を示すためではなく同意を求めて語尾を上げたようだった。そんな口調の機微は上でも下でも変わらないらしい。ささやかな発見ではあった。
「う、うん……」
強引に頷かされたのか、控えめに異議を申し立てようとしたのか──颯真自身にも分からなかったけれど。少女は前者だと解釈したらしい。
「じゃ。気をつけてね」
薄闇に、ちらりと煌めきが走った。
少女が身体を翻して、長く艶やかな髪を宙に躍らせたのだ。颯真がそう認識するのに要したのは、瞬きが一回やそこらのはず。
でも、そのほんの一瞬の間に、少女は刻一刻と濃くなりつつある闇に消えていた。
§
枝を揺らす風の音や獣の気配に怯えながら、颯真は手探りで斜面を登った。深まる夜と闇から逃げるように。
(動けないって思い込んでただけなのか? まさか……!)
地についた手の甲を、何かの虫が這っていった。肌が粟立つのは、虫の細い脚のおぞましさだけが理由ではない。動けてしまうこともまた、彼を慄かせていた。
かけまくもおそろしきあまやのみやまのいわくらの
みおやおおかみにうろくづのまなごの
みけみきくさぐさのよきにへそなえまつる
彼女の声が、意味も分からないまま、颯真の耳元でいつまでも響いている。ぐるぐると、ずるずると。
彼の頭蓋の中で蛇がとぐろを巻くように、這い回っている。そうして、彼を駆り立てる。
あの少女は、彼に何をしたのだろう。
科学や常識では説明できないことをされてしまった。
まるで──奇跡のような。
(奇跡は起きない……マナは降らない。人は、罪を犯さなければ生きていけない)
身体を動かすと走る痛みは、胸を刺す罪の意識でもあった。罪──教えに疑問を抱いてしまうことへの。
あり得ない奇跡、いるはずのない神を信じるのは愚かなこと。《楽園》の教えに誤謬があるかも、なんて。考えてはいけないのだ。
心を無にして必死に手足を動かしていたから、道のりが平坦になっても、颯真はしばらくの間四つん這いで駆けていた。獣のような格好を自覚したのは、人工の灯りの温もりが目に入った時だった。
「あ──」
電灯の白い光が、自然にはあり得ない直線的な建造物を浮き上がらせている。よく見知った彼の家、故郷。《楽園》に、帰ってきたのだ。
外に暮らす会員を合宿などで受け入れるための研修棟。茉菜先生が授業を行う講義棟。先生や事務の人たちが詰める管理棟。
独特の臭気が漂う鶏舎は、夜になると静まり返っている。その傍らに人影が幾つか見えるのは、狐かイタチの被害を受けての見回りだろうか──と、颯斗はのろのろと立ち上がりながら考えた。
(いたい……)
あの少女の業の効力が切れつつあるのか、身体全体が軋むように痛かった。それでいて、頭も感覚もどこかぼんやりとしている。疲れもあるのだろうか、あと数歩、足を進めるのが億劫でならなかった。
それに──今の彼は《楽園》に足を踏み入れて良いのだろうか、という思いもある。
殺してでも食べたい、と思ってしまった。あの少女の不可思議な業を見て、《楽園》の教えを疑ってしまった。
(良いの、かな……?)
辺りはすでに真っ暗になっている。
光が浮かび上がらせる建物の中には、颯真の私室を擁する宿舎もある。先生や友人や、一日ぶりのベッドが、この上なく恋しいはずなのに。
闇を照らす光は、彼を拒むようだった。そもそも、人は生きているだけで罪深い存在ではあるのだけれど──今の颯真はいっそう後ろめたく後ろ暗く、皆の輪に戻ってはいけない気がした。
だから、颯真は両手についた土を払い落し、その湿った匂いを感じながらぼうっと立ち尽くしていた。
「──誰だ!?」
と、一条の光が颯真の目を灼いた。鶏舎の見回りの一団が、携えていた懐中電灯を彼に向けたのだ。
最初のひと声こそ、不安と警戒が滲んだ険しいものだった。けれど、眩しさに手を顔にかざしてもなお、颯真の姿に彼らは気付いたらしい。彼らは──家族だから。
すぐに慌ただしい足音がして、颯真はその一団に囲まれていた。
「颯真じゃないか」
「おい、探したんだぞ」
「こんな泥だらけで──大丈夫か」
「先生呼んで来い。早く!」
懐中電灯の光に貫かれると、石の下から引っ張り出された虫のような気分になった。顔を手で覆ったまま、ろくに答えることができない颯真は、抱え込まれるようにして《楽園》の敷地の中に入った。迎えられて良いのか、分からないまま。
§
いつもは《楽園》の住人が揃う食堂に、今は颯真と茉菜先生だけが向かい合っていた。
長いテーブルも、大部分は座る者がいないから、照明が灯っているのは食堂のほんの一角だけ。広い空間に満ちる闇がじわじわとにじり寄ってくるように感じられる。
食堂の暗さとは裏腹に、先生の声は常と変わらず朗らかだった。
「見つかって良かった……! 暗いからね、無駄だろうとは思ったんだけど。でも、いてもたってもいられなくて。無理を言ってまた出てもらおうとしていたのよ」
あの懐中電灯の一団は、颯真の捜索隊だったのだ。《楽園》の住人は決して多くないいっぽうで、毎日の作業は山積している。彼は、皆に余計な負担を増やしたのだ。
「心配かけて、すみませんでした」
それだけでも、申し訳なさで胸がいっぱいになる。でも、目を伏せて謝った後も、喉を締められるような息苦しさが去ってくれない。空腹の中で幻視した蛇が、首に巻きついているかのように。
「あの。畑に行く途中で、鹿かなんかが飛び出したのかな? ……それで、足を滑らせて。意識を失っていたんだと、思います。えっと。目を覚ましたから、何とか這い上がって……」
颯真の喉を締め上げるのは、嘘を吐くことへの後ろめたさだ。
あの少女と出会ったこと、話したこと──奇跡のような体験をしたこと。
きっと、打ち明けたほうが良い。その上で、否定してもらうべきなのだ。初めて会った外の子に神秘を感じてしまったのは間違いだと。彼は、人間は罪深い存在で、《楽園》以外に救済はないのだと。
「良いのよ。颯真が帰って来てくれたなら、それだけで」
でも──茉菜先生の優しい笑顔を見ると。そっと手を握られる温もりを感じると。言い出すことはできなかった。違う。先生の心中を慮って言い出さないなら、まだ良い。
颯真が口を閉ざすのは、また別の理由があるから質が悪かった。
『私のことは黙っていてくれると嬉しいんだけど』
あの少女の笑みを思い出すと、颯真の舌は上手く動かなくなるのだ。夕日に映えて、とても眩しかった。
(どうして。なんで、あいつのために……?)
頼みをきいてあげなければ、なんて思うのだろう。先生や《楽園》に隠し事をしてしまうのだろう。
「……《集会》までに見つからなかったら、大変だったから」
自分の心の奥底を覗き込もうとするのに忙しかったから──茉菜先生がふと漏らした低い声に、颯真は身体をぴくりと跳ねさせた。
「そうですね……」
《楽園》の外からも教えを同じくする人たちが集う《集会》は、目前に迫っている。《集会》は、もろもろの事情で《楽園》に住むことはできない人たちに、教えを実践してもらう貴重な機会だ。
《楽園》の教え──つまり、自ら殺したものでないと食してはいけない、という。
加工されたものばかりを食べていては、生きること食べることの罪は実感できない。とはいえ殺すことへの抵抗や、心の負担はもちろん多大なものだから、《楽園》育ちの颯真たちが手伝ってあげるのだ。
そうだ、そのためにも彼はあの谷底で死んではいけなかった。
颯真は、生還した安堵を改めて噛み締めて深く息を吐いた。それを見計らったかのように、茉菜先生は彼のほうへ湯気を立てる器を押しやった。
「お腹が空いたでしょう。消化に良いお粥と──たんぱく質も必要でしょうから、お肉も入れたから」
「ありがとうございます。いただきます」
良い香りの湯気に刺激されて、颯真の胃が収縮した。米の甘い香りと──肉の脂。細かく解した鶏肉が、粥に散らされている。乾いた口内に、自然と唾液が湧き出てくる。
ごくりと喉を鳴らした颯真に、茉菜先生のにこやかな笑みが、ぐいと迫る。
「あなたが捌いた鶏の肉よ。あなたが殺したの」
「……はい」
「どうやったか、覚えてるわね?」
電気の灯りはふたりを照らしている。でも、颯真には周囲の闇がじわりと迫った気がした。そうして、罪人を押し潰すのだ。
「首を折って……頭蓋骨と頸椎を分離させる。首を刎ねて血抜きをする」
「そうね。残酷なことよ」
「……はい」
命を摘み取った時の感触を思い出して、スプーンを握った颯真の手が揺れた。スプーンの先が器に触れて、がらんとした食堂に硬い音を響かせる。
(生きてたのに。可哀想に)
颯真の呼吸が早まったのを見て取ってか、茉菜先生の笑みが深まった。
「あなたは、ひどい子。でも、良い子でもある。罪を自覚して、向き合うことができるんだから」
「……ありがとうございます」
茉菜先生の糾弾は颯真の胸を抉り、称賛はその傷を癒してくれる。颯真の足元を固めて、安心させてくれる。
人間は、生きているだけで罪深い。さして強くもない癖に、生態系の頂点であるかのように驕り高ぶっている。
だから──人間だって食われるべきなのだ。食ったものはいずれは食われ、殺したものはいずれは殺される。それが自然の摂理というものだ。
(あそこで死んでたら──ちゃんと殺してもらえなかった)
「《集会》が、楽しみね?」
食べてもらえることは、大いなる喜び。望んで命を投げ出す彼らは、《集会》の参加者の血肉と希望になる。それによって、颯真たちはこれまで重ねた罪をようやく償うことができるのだ。
「はい。本当に」
だから颯真は迷いなく頷いた。だから──あの少女のことは、もう考えてはいけないのだ。その、はずなのに。
粥を啜りながら、颯真は殺した鶏ではなくあの少女の面影を思い浮かべていた。
なんて、罪深いことだろう。