はぐれた僕らのカンパーニュ 2話
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「南條課長! 応接室にハルキヤマグチの絵が飾られてました!」
広報部二課のドアが乱暴に開いた。ハッピーターンをつまむ南條が、椅子を回転させて振り向く。一週間ほどかけて、瞳子が本社内に眠る怪しい高級品を探し回ってくれていた。
「すっごく大きい絵ですよ! これくらい!」
長身の瞳子が大きく手を広げる。子供一人分の身長くらいはありそうだ。
「でかいねぇ。盗むの厳しそう」
やや鼻声の南條が興味深そうに頷いた。
「でも、いつかは盗まないといけませんよ!」
「偽物とすり替えたら良いじゃん。桝田君、模写できるでしょ、ハルキムラカミ」
平然と犯罪まがいの案を出したのは、やはり南條だ。
「……ハルキヤマグチっすよ」
「村上春樹じゃないの?」
ハッピーターンの欠片を口から飛ばしながら、南條がくしゃみをする。朝からずっとこの調子だ。
「画家っす。結構有名で、絵も一枚三百万くらいします」
桝田がペンを走らせる手を止めて答えた。
「あー、絵画なら現金決済でも怪しまれないのか。絵はいいね、単価が高いし、中古でも価値落ちないし」
「絵に中古とかいう概念ないっす」
「そなの?」
「それと、単価の高い絵はごく一部っす」
「桝田君の領収書はいくらなの?」
南條が桝田の手元を指す。桝田は二課で堂々と領収書を書き進めている。ばつが悪くなった桝田は、机上でインクを乾かしていた領収書をそっと手元に寄せた。
「一万っすけど」
「やっす!」
「ハルキヤマグチと比べないで下さいよ」
「違いますよっ! 高等技術に一万円しか出さない、向こうがケチなんですっ! もっと請求すべきです!」
割り込んできた瞳子が机を叩く。勢いで机上の領収書が五万円分ほど宙を舞った。
「今までにどれくらい書いたの?」
「百枚くらいっすね。貴重な小遣いっす」
桝田はクロッキーに記録した過去の依頼を見せる。金額や但し書きを変えるといった多様な依頼に対応するため、記録は細かく取ってある。
「百万は確かに大金だねぇ」
言いながら、南條は連続でくしゃみをした。
「風邪っすか?」
「言ったじゃん、暇アレルギーだって」
辛そうな鼻声で返す合間にも、南條はくしゃみを繰り返している。
「暇アレルギーって、そういうガチなやつなんすか⁉」
「他にも症状あるけど、今日はくしゃみの日だね」
丸まったちり紙が南條の机で山を作っている。花粉症持ちの桝田には、見ているだけで辛くなる光景だ。
「病院行って下さい」
「病院行って治ると思う? 暇になると蕁麻疹とくしゃみが出るんですって言ってさ。今日は割と充実してるつもりだったんだけどな。ちょっと暇を潰してくる」
鼻をすすった南條は、ふらふらと二課を出て行ってしまった。
「南條さんって体質もイカれてるんですねっ!」
明るい口調なら暴言も許されると思っている瞳子と、領収書を書く桝田が二人で残されて、二課が急に静まり返った。
「暇潰しって、何すんだろ」
「絶対に碌なことしませんよ! 猫とか拾ってくるかも!」
雑談をしていると、騒々しい音と共に二課のドアが開いた。南條である。
「早かったっすね」
挨拶を返そうとした桝田は、喧噪にもう一つ声が混じっているのに気が付いて顔を上げた。
南條は見知らぬ男を一人、引きずり込むように連れてきていた。
誰何する間もなく、桝田は慌てて机上の領収書を引き出しに突っ込む。
「その人誰ですか⁉」
瞳子の声にも、かなり警戒心が籠っている。人を拾ってきたのだから当然だ。猫の方がマシである。
三つ揃えの背広に七三分け、銀縁の眼鏡。真面目な人の具現化のような青年が、ドアを背後に立っている。
「この人はね、東大卒の東君! 東大専用みたいな苗字で、超覚えやすくない?」
「……来月一日より総務部から広報部二課に転属になります。東と申します」
東は渋い表情だった。これ以上不愉快な紹介もあるまい。
「廊下で暇潰しを探してたら、二課の場所を訊かれてさ」
「ご愁傷様ですっ!」
瞳子は東に手を合わせた。よりによって南條に声を掛けてしまったとは、気の毒に。
「二課に転属ってことは、そういうことっすか?」
「そうそう。だから僕たちの同類ってわけ」
南條のくしゃみは完全になくなっていた。暇を潰せて何よりだ。
「その人こそ、本社のスパイの可能性……」
「もしスパイなら、僕と桝田君の今のこの会話を黙って見てるわけなくない?」
「……」
南條の説明は丁寧で優しい。だからこそ、桝田は少し切ない気分になる。
「じゃ、三十億円は四人で山分けですね! 取り分は減っちゃいますけど」
「……取り分?」
瞳子が馴れ馴れしく東の手を取って握手をする。三十億円を手に入れる計画を説明する瞳子の話を、東は怪訝そうに聞いていた。
「僕は結構です。横領犯の摘発にも興味はありませんし、三十億は皆さんで分けてください」
「横領犯を探そうとしたから二課に来たんじゃないんですかっ⁉」
「僕は一人で探したいんですよ……」
「お金に興味ないんですかっ⁉」
瞳子が目を剝いた。味方を求めて振り向いた瞳子の視界には、誰かと電話で話す南條がいる。
「南條課長ぉ! 電話なんかしてる場合ですか!」
瞳子が南條の電話を奪おうとする。南條は瞳子を足で追い払おうとする。
しかし桝田と違い、瞳子は諦めが悪い。
「駄目だよ瞳子ちゃん。僕は今、こないだの子と大事な話してるの」
「退職代行の話してる場合ですかっ!」
「人の人生が掛かった話だもん!」
二課の一番悪いところを、堂々と東に見せている気がする。不安になった桝田が東の顔を伺うと、案の定、東は乏しい表情を完全に凍らせていた。
「あれはいったい何ですか?」
東のもっともな疑問に、桝田は苦笑しながら経緯を話した。自社の退職代行を三万円で請け負うバカの話をするのは情けないが、説明せざるを得ない。
「ああ、森君ですね。同じ本社総務部所属の新人でした。なるほど、森君が南條さんに退職代行ですか……」
東の冷めた声色で、南條への好感度が分かる。地の底だ。
「僕、こんなところに左遷されたんですか?」
こんなに正当な質問も他にない。
「すみません。こんな課で……」
東の絶望を察した桝田は、いたたまれない気持ちでそう返すしかなかった。
「本当ですよ……。挨拶に来たつもりが、三十億だとか、退職代行だとか……」
「三十億は、本気出せば取れますっ!」
まだ南條と格闘する瞳子が、口だけ話に割り込んでくる。聞こえていたらしい。
「明らかな矛盾があるのに?」
東の口調は、嫌味でも煽りでもない。極めて冷静な指摘だった。
「どうして金や宝石ではなく、置時計や絵画のような、比較的安価で変な品ばかりなのか分かりますか? 犯罪収益移転防止法が邪魔だからです」
暴力団の資金洗浄等を防止するために作られた犯罪収益移転防止法は、指定の取引において本人確認を義務付けている。身元を明らかにせずに高価な商品を購入して、社内に置くことは不可能だ。
「百二十億円を定価二百万円ぽっちのアトモスに換えたとすると、六千個になりますよ。それを全部回収するんですか?」
机上の空論が、桝田の頭の中で音を立てて崩れ去る。桝田も瞳子も、そして南條も、そこまで辿り着いていなかった。
「百二十億円の横領も、高価な物が不自然に社内にあるのも本当ですっ! 矛盾じゃありません!」
反論する瞳子を、南條が優しく制した。
「東君が言いたいのは、百二十億円の大半は別ルートでマネーロンダリングされているってことだろ。物品に交換されているのは一部だから、それだけ集めても仕方がない。それはたぶん事実だよ。僕らの考えは甘かった」
南條はあっさり折れた。目に見えてしゅんとする南條の背中は、割合小柄なこともあって、やけに小さく見える。かける声が見つからない。
「僕は皆さんをいじめたいわけではありません。本当のロンダリングルートを探りたいだけです」
「それを上司に相談して、二課に飛ばされたんすか?」
「僕は誰にも相談なんてしていません。一人で調べていたのを見られて、この部署に飛ばされただけです。誘って下さったのに恐縮ですが、二課の皆さんは各自でどうぞ」
東は丁寧に頭を下げる。礼儀には一分の隙もなく、嫌味なところも全くない。東に腹を立てるべきでないのは、桝田も瞳子も分かっている。
「そもそも東君は、なんでロンダルートに興味があるの?」
しかし東のそういう潔癖な態度がお気に召さない、下世話な男がいる。南條だ。
「プライベートな話をするのはちょっと」
「ふぅん、プライベートな動機なんだ」
にやにや笑う南條の邪推に、淡々としていた東の眉根が動く。
「慎重な君が断言するあたり、君はロンダリングルートが実在することくらいは掴んでるはずだ。大金をロンダリングするには、別の会社が必要になるけど、瞳子ちゃんが気付いていないあたり、その会社は支社じゃない。恐らく子会社だ。領収書の偽造に素人の桝田君を使うあたり、ロンダリング業者でもない。他社や子会社の場合、本社勤めの君が経理情報にアクセスする術はない。協力者がいるんだろ。単独行動にこだわる君の協力者って誰だろ。恋人かな」
早口で問い詰める南條に、誰も反論ができない。桝田は理解すら危うい。
「……誤魔化してもしつこそうなので言います。僕の姉が、子会社で大きな損失を出したという冤罪をかけられたんです。でも僕は、姉は誰かのマネーロンダリングに巻き込まれたんだと考え、独自に調べています」
「シスコンなんだね」
家族への純粋な感情を下卑た四文字でまとめられ、東は苛立ちに下唇を噛む。
「それにしてもすごい情報だよね。僕らにも、その詳細教えてくれない?」
「……僕は一人でやりたいんですけど」
「そうですよ。無理に東さんを誘わなくても。私の取り分も減りますし!」
瞳子はとことん金が行動原理の全てである。
「横領犯から金を奪えなきゃ、僕らの取り分はゼロだ。それよりは東くんを加えて取り分が減る方が得だよ」
南條は畳みかけるが、東の決意は堅い。東から二課への好感度はマイナスなのだから無理もない。
「まず、僕らに横領がバレた時点で、横領犯側は窮地のはずなんだ。僕らを二課に閉じ込めておけば終わる話じゃない。横領の情報をそれなりに持った僕らが、国税局や警察に駆けこんだら面倒だろ」
「……じゃあなんで二課に閉じ込めたんですか?」
瞳子が尋ねる。支社から本社へ、そして左遷部署へ。無理に飛ばすにはかなりの権力が必要で、目的なくできる人事ではない。
「横領について深堀されないようにでしょう?」
東の眼鏡の下には、意外とつぶらな瞳が見えた。
「そういうこと。それと、僕らを二課に放置しても横領の全貌を知られない確信があったんだろうね。でも状況は変わった」
「まさか、僕が単独行動だったから?」
東は南條の意図を理解できたようだが、桝田と瞳子は話についていけずに顔を見合わせた。
「東君は誰にも相談せずにここに飛ばされた。つまり、横領犯は東君の持つ情報の全貌を知らないんだ」
「なるほど……」
分かったような、分からないような。
「向こうは僕らを放置できなくなった。向こうにとって、僕らを脅威でなくす方法はただ一つ、僕らに誤った情報を掴ませて、偽りの真実を握らせることだ。そして東君。君は真っ先に狙われる」
「……僕ですか?」
「君、無断欠勤してる森君と知り合いなんだってね」
「彼がどうしたんですか?」
目を細めた南條のあくどい笑顔には、蛇が獲物を前に舌なめずりしているような印象があった。
「自分で人事に電話を入れられる人間は、退職代行なんか使わない」
あ、と桝田が声を上げる。瞳子も目を数度またたいた。東も気づいていなかったらしく、手をぐっと握った。
「森君は本当に会社を辞めたいのかな?」
南條の投げた問いは、明らかに答えが一意に定まっていた。
「森君こそが本物の横領犯側の人間だよ。入社一年目だし、誰かの駒だろうけど。僕らにとって、森君は横領犯に繋がる唯一の糸だ。そして君は森君の知り合いである以上、偽の情報を一番多く掴まされるのは君だよ。それでいいの?」
二課に入ってから、東は殆ど動いていない。
「……森君の情報を教えて下さって感謝しています。でも、皆さんと組むのは遠慮します。僕が組んでいる相手は、姉ちゃんですから。冤罪を掛けられて、窓から飛び降りて。助かったものの、後遺症が残ってもう会話はできない。僕はそんな姉の専属でありたいんです」
冷静ながら熱く語る東を説得できる要素が他にあるとは、桝田にも瞳子にも思えなかった
「や、だからお姉さんとも組めばいいし、僕らとも組めばいいんじゃないの?」
「僕は極めて感情的かつ個人的な事情で動いています。皆さんを僕の事情に巻き込んで、僕の復讐に付き合わせるべきではありません。皆さんの活動に水を差したくもないですし。だから放っておいてほしい。それだけです」
東にとっては極めて理に適った要求にもかかわらず、それが一向に通らない。東が少々苛立っているのが桝田には見て取れた。
「放っておくと僕が困るの。僕は僕の事情でしか動きたくない。僕は桝田君の感性がたぶん一生理解できないし、瞳子ちゃんほど金に執着もない。僕らは別に仲良しじゃないよ。でも目的が一致したから手を組んだ。その方が勝つ確率が高いからね」
南條は桝田を押しのけて、無理やり桝田の机の引き出しに手を突っ込んだ。
「あ、それ俺の書いた領収書!」
止めに入る桝田を追い払った南條は、不気味な笑みをたたえて、東に領収書をピラピラと振る。ハッピーターンの粉の付いた指ではないか、という指摘はこの際些事だ。
「この領収書の情報を、僕らはあと百枚持ってる。現金決済で済む高級品の領収書を書き換える必要はないから、この領収書は君の求めるロンダルートに関与する領収書だと思うよ。ねえ、これ欲しくない?」
東は答えない。だが領収書を思わず目で追っているのは分かる。
「とりあえず、その領収書は東君にあげる。残りはゆくゆく決めてよ」
「勝手に渡さないで下さいよ、俺の三万!」
南條に抗議する桝田だが、東の表情が領収書を前に少し緩んだのを見ると、東から奪い返すのは躊躇われる。ハッピーターンの粉もついているので、桝田は領収書を諦めた。
「次は何しようかな、森君に電話しようかな」
「……さっき電話したのに、またですか?」
怪訝そうに瞳子が尋ねる。南條についていけないのは、東だけではない。
「だってさ、相手の目的も動きもたぶん読めたんだよ。今度はこっちが動く番じゃん。せっかく森君がいるんだから、森君を使って何か一つ出し抜いてやりたいって思うのが人情じゃないの?」
否定はない。だが誰の肯定もない。南條は途端につまらなさそうな顔をした。
「みんな冷ややかだねぇ。これ、みんなが思ってるよりも、かなり大事な電話だからね? 電話を切る頃には、東君は泣いて仲間にしてくれって言うよ。ハッピーターン賭ける」
「か、勝手に決めないで下さい!」
焦る東をわざと無視して、南條は電話に手を伸ばした。