北限より来たりし物 2話
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厳冬期になると、いつも家は雪に包まれた。
そんなときの狩りは命がけになるから、スウェルは家にいて、毛皮を鞣したり、皮革を仕立てるために家にこもっていることがほとんどだ。
だからティセは吹雪が嫌いではなかった。
愛するやさしい兄が、ずっとそばにいてくれるのだから。
丸太を豪快にそのまま放り込んだ暖炉の前で、スウェルは鞣した革をナイフで切り、ベルトを作っている。
迷いも淀みもない慣れた手付きは、一種見世物のような見事さで、ティセは見ていて少しも飽きない。
炎に照らされて橙色になった顔で、スウェルが話をしてくれる。
「――街にはな、すごく美味しいものがあるんだぞ。小麦粉をふわふわの黄金色に焼いたお菓子に、たっぷりとハチミツとベリーのジャムをかけて食べるんだ」
「えー! おいしそうっ! ティセも、ティセもたべたい!」
「そうだよな。冬が明けていつか街に出ることがあったら、一緒に食べよう」
「やくそく! やくそくだからね!」
「ああ。約束だ」
たくさんの約束をした。
一緒に遊ぶ約束、買い物をする約束。
出かける約束、そして、無事でいる約束。
親指と親指を合わせて、お互いの信頼と名誉のために守りますと誓うのだ。
――すべては嘘になった。
まばゆいばかりの光が差し込む教会だった。
天井は天を衝くほどに高く、広々として長椅子が多く並んでいる。
貴重な大理石を山と積んで、独特な淡い白色に満たされている。
掃き清められた聖堂の中で、一人の少女が光を背にして、書を手に立っている。
顔は影になっていて見えないが、まだ成人していない、年端も行かぬ年頃であることは間違いなかった。
その前に膝をついて並ぶ十二人の屈強な男たちは、一様に顔を伏せて、石張りの床を見つめていた。
鎧に身をまとう男たちは、一端の雰囲気を漂わせる戦士たちだ。
観客はいない。
神聖な儀式は、少女と戦士たちだけで行われる。
静寂に包まれた空間には、静謐な空気が流れている。
しわぶき一つ立たず、その時を待っていた。
少女が小さな声で言った。
「はじめてください」
「はっ!」
ひときわ体格の良い先頭に並ぶ男が、声を上げた。
「捧げ剣!」
「「応っ!」」
一斉に男たちが剣を抜くと、その切っ先を床へと向け直す。
ジャランという重々しい金属音が、教会に響いた。
美しい少女――ティセが薄目を開けて、書の一節を諳んじた。
朗々とした語りは迷いはなく、教会に見た目よりも大人びた美しい声が響き渡る。
「禍々しき北より来る奪いし者より、守護する力をあなた方に預けます。正義は剣に、勇気は心に。悪を討ち、匈れを払いなさい。仲間を助けなさい、家族を愛しなさい、人々を護りなさい、民を慈しみなさい。――誓いなさい」
「誓います!」
「「誓います!」」
「ここに宣誓はなされた。祓いし者が、奪いし者に抗う力を授けます」
誰かがゴクリと唾を飲んだ。
ティセの手に持つ書から光が溢れ、その光が砂が流れるようにしてサラサラと、居並ぶ男たちに降り注ぎ、体の中へと入っていく。
聖堂の中は明るく輝きに満たされ、影一つ無くなった。
少女の、男たちの、体が輝く。
書より漏れ出た光がなくなった時、男たちの体がわずかに震えた。
感動しているのだ。
儀式は一人前の戦士となり、奪いし者たちに対抗するための力を得るためのものだ。
厳しい、厳しすぎる選抜と訓練をくぐり抜けてきた男たちは今、一人前と認められたのだ。
その感動がどれほどのものか、ティセにはわからない。
でも、きっと大切なものなのだと思った。
「聖女様、洗礼をいただきありがとうございました」
「わたしはそんな大それた者ではありませんよ。よければティセ、と呼んでください」
「畏れ多いことです。祓いし者である方にそのような失礼なことはできません」
「そうですか」
ティセは残念そうにうなずいた。
いつものことであるが、畏れ敬う者はいても、心の近しい人は誰もいない。
彼女の身に宿った力が、それを人々に許さなかった。
祓いし者とは、そういう存在だ。
唯一の例外は家族ぐらいものだろう。
「我々は誓いを護り、全力で奪いし者たちと戦います」
「どうかご無事で。……あなた方の未来に、祈ります」
「ありがとうございます。聖女様の祈りがあれば、怖いものはありません」
おそらくはリーダーであろう男に、ティセは手を組んで瞑目した。
奪いし者たちの侵攻は、年をまたぐごとに厳しくなっている。
かつてティセが住んでいた小さな家は、いまでは奪いし者たちの領土になっていた。
街に住む人々は不安を抱え、領主は外敵から守るのに必死になっている。
今こうして新たな戦士となった者たちも、いつまで無事でいることだろうか。
戦いは熾烈で、力持つ者たちでさえ長く生き残り続けることが難しい。
特に歴戦と呼ばれる個体たちは、冠する名の通り、人の力を奪ってしまう。
ティセは愛する兄の顔と優しい声が思い浮かんで、胸が痛んだ。
「……うそつき」
「なにか仰りましたか?」
「いいえ。出ましょう」
ティセと戦士たちはひとかたまりとなって、教会を出る。
荘厳な彫刻が施された分厚い金属扉を出ると、途端に眩しい太陽の光に照らされた。
ひんやりとした風が吹きつけて、ティセの服がバタバタと音を立ててはためく。
目を眇めて周りを見れば、青々とした芝生が広がり、その奥に城都と囲む城壁が見えた。
そして、教会の前には多くの人が詰めかけていた。
ワーワーと歓声が起き、ラッパが吹き鳴らされた。
新たな戦士の出現は、北限の地に住まう者たちにとって、希望の象徴だ。
頼むぞ、頑張ってくれ、戦士様!
たくさんの応援の声が上がって、戦士たちの顔が上気していく。
これから目の前の民たちを守るために、戦いに身を投じるのだが、今ばかりはその栄誉と使命を強く噛み締めていた。
「聖女様、見事な祝福でございました」
「ありがとうございます……」
教会の扉から遅れてひっそりと出てきたのは、教会の見届人にして、ティセの補助人だ。
まだ年若い彼女の様々な補佐をするために付けられていた。
補助人には、祝福を与える力を持たない。
いや、持てなかった。
だからこそ、特別な力を持つティセを心から敬い、賞賛していたが、その言葉がティセの心を弾ませることはなかった。
この力は、兄のスウェルが姿を消した時にはじめて認識した、遅すぎる出現だったのだから。
あと一日でも、半日でも早く力があれば。
幼く純心だったティセは、何度も遅れてやってきた力を悔やみ、悩んだ。
都会に来ていると伝え聞いていた両親が、祓いし者として戦い、命を散らしたことも知っている。
拍手や指笛、ラッパや太鼓の音に紛れながら、ティセは補助人に問いかけた。
「兄さんは、まだ見つかりませんか?」
「申し訳ありません。現在も捜索しているのですが……」
「そうですか……」
「足取りが掴めなくなって数年。聖女様のお兄様は今もいらっしゃるのでしょうか?」
「兄はいます。わたしには、分かるのです。あの人は今もどこかで生きて、抗っている……」
ティセの声には迷いがなかった。
確信があった。
そこにいたのは、あどけない、ただ家族の愛だけを知る少女の姿ではなかった。
書を扱う《祓いし者》たちは、常人には計り知れない特別な力を持つ。
祝福をはじめ、それぞれ祓いし者たちが固有で持つ、神通力としか思えない特殊な能力だ。
補助人が畏れるように深く頭を下げると、全力で捜索を続けると震える声で告げた。
ティセの力持つ瞳の直視を避けるような伏せ方だった。
この人も、わたしをティセではなく聖女としてしか考えていない。
ティセの瞳の中が、比喩ではなく炎を宿していた。
教会に併設された治療院には、多くの患者が詰め込まれていた。
医療技術はまだまだ未熟で、防災の知識も浸透していないため、大怪我を負う者も少なくない。
手足を失ったもの、病が進行してしまったものなど、重症患者が少なくない。
そういった一般的な傷病とは別に、特定の患者だけが集められる一角がある。
キヒヒ……。
小さな思わず顔をしかめたくなる笑い声が部屋に響いていた。
ティセと補助人は、部屋の前で少しの間、足を止めた。
扉を開けると、中は薄暗かった。
患者たちが強い光を嫌がるために、最低限の採光しかされていないのだ。
部屋には八つのベッドが並んでいた。
半数は寝ており、もう半数は座っている。
ティセが書を手に療養ベッドの一つに近づいた。
ゆっくりと患者を見る。
「せ、せいじょ、さま……」
茫洋とした目でティセを見つめる患者の男は、顔の半分がなかった。
実際には物理的に顔を失ったわけではない。
《奪いし者》の被害にあったものは、他者から認識されなくなってしまう。
この男は顔の半分を奪われた状態で助かったために、身元がわかった。
救助が遅ければ、誰からも分からない《奪われた者》として処理されただろう。
兄も、スウェルももしかしたら、奪われてしまったのだろうか。
力を持つティセには存在を知覚できても、誰にも何者か分からずに、流離っているのだろうか。
そうでなければ、なぜあの兄が生きていて、会いに来てくれないのか、ティセには理解できなかった。
ティセは患者を前に、揺らぐことなく相対する。
書を掲げ、力を引き出す。
書は奪われし者と相反する力を備えている。
すなわち、奪われたものを補うことができた。
「彼の者の奪われたものを、満たし給え」
「お……おお……!! おおおお……っ!」
男が恍惚とした表情を浮かべた。
欠けたものが、失われたものが満たされていく充足感を感じていた。
ティセは顔に苦悶の表情を浮かべ、真剣極まりない態度で、書の力を制御していた。
書の力は、奇跡の力は、たやすく扱えるわけもない。
半分ほど失われていた境界線が、少しずつ、じわり、じわりと満ちていく。
その動きは非常に緩やかではあるが、改善しているのは間違いない。
まだ若い少女が額に汗を浮かべ、息を荒げた。
ふう、と力を抜く。
「今日は、ここまでです」
「ありがと、うござい、ます」
先程よりもわずかに力のある礼の言葉だった。
ティセはそんな治療を八人に施した。
後半の四人は状態もかなりよく、話したり動いたりも十分にできる。
それぞれが深く礼をして、ティセに感謝を述べた。
書の力を引き出すには、強い精神力を必要とする。
ひどいだるさに襲われ、ティセはふらつきながら、病室を出た。
そして、治療院の入口に小さな騒ぎが起きていることに気付いた。
治療院のこの奥まで入ってこようとする者がいるらしい。
軽い押し問答になっているのが分かった。
「家族と会いに来たんだ。通して欲しい」
――――兄の声だ。
その立ち姿を、佇み方を、その声をどれほど待っていただろうか。
長い月日が流れても、すぐに誰か分かった。
間違えようがない。
「通して!」
ティセの声に気付いた治療院の関係者が、驚いて身を退いた。
「兄さん……!!」
「……ティセ。ただいま。戻ってくるのが、遅くなってすまなかった」
補助人が見知らぬ男がティセの兄だと知って驚いている間に、ティセは全力で駆けて近寄った。
この日をどれだけ待ちわびただろうか。
きっと会えるはずだと。
兄は約束を破る人ではないと、信じながら、どれほど長い間、独りで、不安と恐怖に耐えてきただろうか。
激突する勢いでスウェルに抱きついたが、猟師として鍛えられたスウェルは、優しく受け止めた。
「に、にいさ、ん……にいさんっ!」
「長い間、心配をかけたな。独りにしてすまなかった」
「ほんとうだよ。わたし、どれだけさびしくて、怖かったか!」
「よくがんばった。また温かいシチューを一緒に食べよう」
くしゃりと頭を撫でる不器用でおずおずとした触り方。
間違いなく兄だ!
抱きついた兄の暖かさを感じて、ティセは涙に頬を濡らしながら、再会の喜びに浸った。
キヒヒヒ……。
どこかで笑い声が響いていた。




