きっとその日には
ワタルさんはバケツに入った野菜をカピバラにあげながら、こいつら面白いなと言って喜んでいた。なんでって聞くと、だって俺の餌がほしくて間抜け面してるんだぜと言っていた。わたしは、性格悪いねと言いながらも、なんだか彼を憎めずにいた。
ワタルさんは、わたしのはじめての彼氏だった。大学二年生の夏の終わりにはじめた居酒屋のバイト先で会った人だった。ワタルさんはそこで十年以上バイトリーダーとして働いていて、わたしの面倒を見てくれた。ある日ギターケースを持ってバイトに来ていて、なんですかって聞いたら、音楽やってるんだ。ときらきらした目で自慢してきた。ギターかベースだろうと思っていたら、出てきたのはヴァイオリンだったからすごく意外だった。だって、ひげが生えていて髪の毛もあまり手入れしていない感じだったから、きっとバンド系の人なんだろうって思っていたから。ワタルさんも、俺ってクラシックやってそうにないよねと自虐していた。音楽活動は大変みたいで、バイトしながらコンクールに出場したり、小さなアマチュア楽団に顔を出しては演奏をしているみたいな感じらしかった。興味を持ってしまったわたしは演奏会を見に行き、髪を整えてタキシードに身を包んだワタルさんを見ては不覚にもときめいていた。いつの日からか、寝る前にベッドの上でワタルさん、とつぶやくようになっていた。月明かりの差す灰色の天井にワタルさんを思い浮かべながら、わたしは会いたいな、と思っていた。
わたしたちは十二個も年齢が違うけど、精神的には同い年って感じで、干支は一緒だし、好きな場所とか、趣味とかも似通っていた。大学にいる男の子なんかよりもずっと面白くて、わたしの好奇心をいつもくすぐってきた。わたしって変なのかなって聞いたら、変だろうねえ、だって俺と付き合っちゃうんだから、と空気を吐きながら言っていた。
ワタルさんは餌やりに満足すると、そろそろ帰るかと立ち上がった。彼はいつもマイペースで、帰りたいと思ったら帰るし、遊びたかったらいつまでも遊んでいた。わたしはその無邪気さが面白くて、ちょこちょこと後をついていっていた。車はいつも安全運転で、トロトロと走っていた。高速道路が苦手みたいで、わたしは夜の高速が好きなのに、いつまで経ってもつれていってくれなかった。だって、車に乗るって殺人者になってるのと同じなんだぜ。しかもナイフなんかよりよっぽど危ない。俺は命を最優先にしたいんだ。それが彼の言い分だった。はじめのうちは面白かった下道もだんだん飽きてきちゃって、帰りの車は寝るのがいつものことになっていた。
動物園からわたしの家に着くと起こしてくれて、荷物を部屋まで持っていってくれようとした。わたしは、生理来てそうだから、と言って、名残惜しそうにしている彼を帰してひとりで荷物を持って帰った。上京して一人暮らしをしているから、こうしてデートした後はだいたい一緒にわたしの家に来てセックスをしていた。はじめてしたときは、ふうんこんなものなんだと思ったし、いまでもあんまり気持ちの良いものじゃなかったけど、彼はわたしを大事に扱ってくれていたみたいだし、愛を感じられるから別にしたくないわけじゃなかった。玄関には、一緒に奈良に行ったときに買ってくれたよく分からない風鈴がついていて、ドアの動きに合わせてそれがりんりんと鳴っていた。
最近どうなのってアヤが聞いてきた。アヤは大学で会った友だちで、すごくきれいな人だった。なのに彼氏はほしくないって言い張っていて、もったいないなってわたしはずっと思っている。どうって、べつにふつうだよ。ふつうってなに。ふつうはふつうだよ。あっそ、まあなんだっていいんだけどさ。アヤは、恋愛には興味がないと言っておきながらことあるごとにわたしたちのことを聞いてきた。ワタルさんは、きっと俺みたいなやつと付き合ってるのが心配なんだろ。と言っていた。わたしは、好きだから一緒にいるんじゃダメなの、じゃあハンバーグを好きな人がそれを美味しいからって食べてたら心配なの、って聞いてみた。でも、それとこれとはちょっと違うと思うって言われてしまった。わたしはそんなたとえをしたせいでハンバーグが食べたくなって、その日は一緒に手作りハンバーグを作った。つめたい合い挽き肉を一緒にこねて、形を作って、焼いたら良い匂いがしてきた。できあがったハンバーグは、変なかたちのもあったけどはじめてにしてはいい感じですごく美味しかった。ワタルさんは美味しいものを食べると目をぎゅうっと閉じる癖があった。そのことを言ったら、カラヤンみたいでしょって言ってきた。なに、からやんって。ヘルベルト・フォン・カラヤン。すごい有名な指揮者だよ。もう死んじゃってるけど。めをつむりながら指揮するんだよ。へえ、なんでつむるの。たぶん、音楽を堪能してるんだよ。じゃあ、ワタルさんもハンバーグを堪能してるの。それは、そうだと思う。わたしたちはおなかいっぱい食べ、そのあとは一緒にテレビを見た。
付き合ってから一年半くらいになったころ、ワタルさんは大きな楽団に入ることになった。それでも安月給らしいけど、ひとつ夢が叶ったと興奮していた。しばらくはヴィオラ、という楽器を担当すると言っていた。わたしもずっと応援していたからうれしかったけど、どこか遠くへ行っちゃうようなさみしい気持ちがあった。それからは楽団での練習も忙しくなり、バイトでたまに会うか、休日一緒にデートへ行くくらいになっていた。わたしはさみしくて、毎日のように誕生日に買ってもらった赤いポットでお湯を沸かしながら、ワタルさんに会いたいなぁって思ってた。
アシカが見たかったわたしは、水族館に連れてきてもらった。ワタルさんは、魚についてのぜんぶの説明文を事細かに読んでいた。なんでそんなことするの、面倒くさい。と言ってみたら、せっかく来たんだからもったいないだろ、と言われた。最初は真似してわたしも目を通してたんだけど、飽きちゃって、先にぐるぐる何周もして、ひとりでアシカのショーを見に行った。ワタルさんとアシカって、なんか似てる。目がまんまるくてひげが生えてるところとかが、似ている。帰り道、ワタルさんは水族館で仕入れた情報をいっぱい教えてくれた。
ワタルさんは音楽やるのに忙しくなっちゃったから、わたしは、時間があればなるべく演奏会に行っていた。高くもなくて低くもないヴィオラの音はどこかに混ざっちゃって見失いがちで難しかったけれど、事前にどんな音を出しているのか演奏して教えてくれてたから、その記憶を頼りにワタルさんを追いかけた。ヴィオラはサンドイッチで言ったら具の部分だから、俺が全体の響きを支えてるんだと言っていた。わたしは音楽に詳しくないからよく分からなかったけど、演奏を聞きに来ているうちに、言っていることが分かってきたような気がした。縦軸の、たくさんの音が混ざる瞬間。気持ちの良い響きや、ちょっと濁った響き、ふしぎな響きなど、いろんな重なりがあった。ホールに反響して数秒間残る音が次の音とも重なり、また新しい響きを作っていた。演奏が終わるとわたしはとぼとぼ帰り、昨日の残りの野菜炒めを食べ、ポットでお湯を沸かし、またひとりで天井を眺めながら眠りにつくのだった。
居酒屋をやめ、あとちょっとで大学も卒業する頃に、ワタルさんから、他に好きな人がいて、妊娠もさせてるからわたしとは別れたいって言ってきた。同じ楽団でチェロを演奏している人らしい。わたしはどうしたらいいか分からず、ぼうっとしながらなんとか家に帰り、ベッドに潜り込んでひたすら泣いていた。ワタルさんとのこれからはぜんぶないのだと思うと、苦しくてしかたなかった。アヤは、ろくでもない男だね。だから恋愛なんてするもんじゃないんだよと語気を強めていた。なにがいけなかったのかな。わたしは聞いてみた。別に悪いことはないでしょ。他にいい男見つければどうせ忘れるよ。これを踏み台にしてまた頑張ればいいじゃん、と、アヤなりに励ましてくれた。でも、いまのわたしにはどうやってもワタルさんのことを忘れる方法が見当たらなかった。わたしはワタルさんが好きなのに、ワタルさんはわたしのことがもう好きじゃないのがすごく辛かった。好きな気持ちって、わたしだけが持っていても意味なくて、ワタルさんがいないとだめなのに。まあ、いまは分からないだろうけどね。時間が解決するよ。アヤはそう続けた。
わたしは地元の企業に就職が決まっていたので一人暮らしも今日で終わりだった。ワタルさんがくれたポットとか、一緒に撮った写真とか、お出かけ先のお土産とかはぜんぶ捨てた。でも、頭の中に残っているワタルさんのことはそんなふうには捨てられなかった。それでもいつか忘れちゃうのかな。
わたしは四年前と変わらない荷物で新幹線に乗り、家族のもとへと帰っていった。




