月への旅2
貨物室に横たわる何者かは、タールのようなべとべととした液体にまみれながら床をこつこつとたたいていた。何のためにそんなことをしているのかは全く分からなかったが、床にこぼれたタールのような液体が地獄から来た悪魔を想起させ、より一層不気味さをひきたてていた。その生き物が床をたたく音はまさにさっき聞いた扉越しの音だったのですぐにこいつが音を出しているのだということが分かったのだ。
何より不気味なのはその黒い液体と生き物がどこから現れたのかが全く分からないという点だった。貨物室に生物は積み込めない決まりとなっているので離岸時には確実に乗っているはずがないものであった。考えられるのはあの”嵐があった日”に”船内に乗り込んだ”という可能性である。乗客が貨物室へのがれたのかもしれないが、どうも人間のシルエットではないようだ。
「あ゛……」
奇妙な生き物がこちらに気づいて声を発した。その生き物はどうやら起き上がり、歩行することが出来るようだ。人間とは明らかに別種の、しかし人間のような動きをする生き物に対して、一気に警戒ボルテージが上がっていく。
「お、おまえは……なんなんだ!?」
その生き物が二本足で立ち上がると、やたらとぶよぶよしている腹がポッコリ突き出していた。顔も随分人間とは違うようで、芋虫のように伸びた首の先にカエルのようにくっついている二つの目玉がきょろきょろあたりを見回していた。
「動くな! 動くなよ! なぜおまえはここに……いや、言葉が通じるわけがないか」
月への旅行が一般的になったとはいえ、宇宙人は今まで一度も見たことが無いし発見されたという話も聞いたことが無い。こいつは完全に未知の生命体だっ!
一体どうしたらいいのかわからずマゴマゴしている間にもそいつは不気味な細長い手足を動かしている。関節や生体器官はどうやら人間と同じようなものらしい。妙に人間臭い動きで自分についたタールのようなものを落とそうとしているようだ。もしかしたら放射能を浴びた動物か何かが紛れ込んだのかもしれない。
「……暴れる様子はないみたいだな。ちょっと待ってろ」
俺は貨物室を出ると光輝丸に扉のロックを命じて桶とタオルを取りに走った。本当は拘束して検めたいところだが、この船に乗っている武器はせいぜい信号弾くらいのものだ。見たところ弱っているようだし、手荒なことをしなくても何とかなるかもしれない。
バスタオルと水、それに桶を持って戻ると、その生物は同じ場所にうずくまりグッタリとしていた。
俺は慎重にその生物に近づいたが、そいつは意識を失っているようでピクリともしなかった。わざわざ防護服を着てきたのだがどうやら大丈夫そうだ。貨物室に備え付けてある清掃用のロッカーからモップを取り出して黒い液体をつついてみたが、こちらも危険はないようだ。
おそらく弱っているであろうその生物(仮に宇宙人と呼ぶことにする)を黒い液体からつつき出し、水をはじっこにかけてみる。どうやら地球人と同じくこの宇宙人にとっても、水はそこまで危険なものではないらしい。宇宙人は大きな犬くらいの大きさだったので、持ってきたバスタオルで全身をぬぐい、特に汚れている所は水拭きをして黒い液体を完全に取り去ることに成功した。
宇宙人を清拭しながら観察したところ、どうやらただ汚れていただけでけがはないようだ。つまりこの黒い液体は宇宙人の体液ではないようだということが分かった。顔面は小さく脳が発達しているようには見えないが二足歩行するということはそれなりに知能を持っているのかもしれない。
よくわからない生き物を観察するための設備などは客船についているわけも無いので、ひとまず客室の中の一室へ宇宙人を運んでベッドの上に寝かせ様子を見ることとした。
「そういえば光輝丸。この生き物?から生体反応を確認できるか?」
『はい。この生き物からは生体反応を確認しました。しかしこの生き物がどんな生き物であるのかは全くの不明です。DNAを採取すれば基本データベースから照会ができます』
「では、照会してくれ」
生き物の口らしきものの中に綿棒を突っ込んで口腔内組織を擦り取ればDNAの採取は問題ないだろう。ついでにあの黒い液体も一緒に調べてもらおう。
「それと光輝丸。あの宇宙人が目を覚ましたら俺を起こしてくれ」
『わかりました。宇宙人が起きた時点でアラームを鳴らしお知らせいたします』
今日は色々な事があったが、掃除や世話をしていたらあっという間に夜中に差し掛かっていた。昼に食べようと思っていたホットサンドは冷たくなっていたが腹を満たす分には問題ないだろう。
シャワーを浴びて、ワインを飲みながら今日は休むことにした。
それにしても今どき親の世話だってほとんどロボットにさせる時代だ。地球人相手でもやらないのに、宇宙人の身体を隅々まで拭くような経験はある意味貴重と言えるだろう。もしかしたら俺には未知のものを恐れないという意味では研究員の素養があるかもしれないな。
たいして面白くもない冗談で一人くすりと笑ったあと、俺は本当に少しだけ柳田の事が恋しくなりながら眠りについた。
消え去る前のあいつの事は許してないが話し相手がいないのはやはり惨めな気持ちになるものだ。




