月への旅
コーヒーを飲みながら優雅に昼の時間を過ごすのは本当に久しぶりだ。優雅さを感じるのは心の余裕があるかないか、ただそれだけなのだろうがそれだけで世界の見え方が違う。窓の外を見るともう船は大気圏外まで浮かんでいた。本当はこのままネオ長崎港へ飛んで行って、大人しく帰港することもできるのだ。
朝に感じた奇妙な高揚はだいぶおちつき、俺は正気に戻りつつあった。
自分のやるべきことに忠実でないといけないという思いはもちろんあったが、朝に聞いたラジオで、子供たちが乗った船が月でトラブルを起こし、戻ってこられなくなっているというニュースを聞いたのだ。多少正気に戻った俺は考えた。月へ行くには大体往復6日かかる。宇宙船に乗っている食料などの物資は一週間分程度だろう。必要以上の重さのを積むのはコストがかかるからだ。
月にはレジャー施設等あるようだが、まだ開発初期段階でどの程度のものがあるのかはわからない。しかしまだまだ物資の輸送にはコストがかかるので食事などは宇宙船で持ち込んだもののみとなるだろう。宇宙船は基本的に小型化された原子炉を動力にしているので燃料問題は解決しているのだが、救助に行くなら遭難してすぐでないと食料や水が尽きる可能性もある。
子供たちが月のどのあたりに落ちたのかはおおよそ検討が付いているようだったが、居住区にはまだたどり着けていないようだ。せっかくの足を手に入れたのだしこのチャンスに月へ旅行し、もしかしたら人助けもできるかもしれない。改めて考えると心が躍るような思い付きだった。
大気圏外まではもう出てしまっているが、ここから3日かけて月に行くのなら改めて覚悟を決めなくてはいけない。この船には食料や水は豊富に積んであるので、遭難した6人の子供たちも難なく帰還出来る事だろう。やることは決まった。
かつてないほどのやる気と活力がわいてくるのを感じる。誰にも指図されず、誰の意図も介入しない決定権は現代社会では貴重なものであるのだ。心は満たされたが腹のほうは減っている。昨日の夜から何も口にしていないからだ。俺はいよいよ空腹を感じて倉庫へ食料の確認に行くことにした。
倉庫は貨物室の隣に存在しているが、いつもはほとんど料理人しか出入りしない。勤務したての頃に一通り回ったときに一度見ただけだったが、場所はしっかりと覚えていた。食事を作っていた料理人たちも消えてしまったので食事は自分で用意するしかない。簡単なホットサンドを作って昼飯にしようと材料を取り出した。
ハムは香草をタップリ入れたパストラミポークを使おう。薄切りにした少し硬いチーズをのせたバゲットをオーブンに入れた時に壁の向こうから聞こえてくる物音に気が付いた。
この物音はずっと聞こえていたのだろうか。船には俺しかいないと思っていたので急に汗が噴き出してくる。
「お、おい光輝丸!」
『はい、お呼びでしょうか。船長』
「船内の生体反応はいくつだ?」
何度も確認した生体反応をもう一度確認しようと思ったのは不安のせいだった。現に今もずっと壁越しに小刻みな音が聞こえてきている。壁の向こうは貨物室のはずだ。
『船内の生体反応は船長以外にありません』
「では貨物室は? 生体反応があるか」
『貨物室にはセンサーはございません。貨物室が開かれるのは離岸前と着岸後の、積み荷を扱う時のみなので、原則として生体センサーは必要ありません』
これは完全な盲点だった。原則として生体センサー必要ない、つまり生物の存在は想定されていないという事。もし気になることがあれば目視で確認するほかないということだ。
「なぁ光輝丸。この音の正体がわかるか?」
『……貨物の中に異音の出そうな積荷があるか照合した結果、”メトロノーム”、”アンティーク時計”の2点が合致しました。』
「しかしこの音は、そんな規則的なものではない。なり続けているが誰かが床をたたいているような音じゃないか?」
『そうかもしれませんね。確かに誰かが床をたたいているような音かもしれませんが、生体反応を確認するすべがありません。直接確認してみることをお勧めします。』
やはり光輝丸にはわからなかったようだ。もしいなくなった船員や乗客がすべて貨物室に存在しているとしたらと考えると複雑な気持ちになったが、とにかく確認するほかないだろう。
グダグダと考えていても不安になるだけだ。速やかに確認しよう。
「光輝丸。貨物室のロックを解除してくれ」
『はい船長。貨物室のロックを解除しました』
鍵の外れる音がして貨物室の扉が開く。おそるおそる中を覗いてみると、そこには黒い水たまりのようなものの中に横たわっている何者かがいた。




